明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

クリスマスメドレー

2016年11月30日 18時49分08秒 | サックス
サックスのレッスン

季節柄、クリスマスメドレーを吹いてみろと。

ただ吹くならいいんだけど、先生のアレンジしたアンサンブルで。
結構シャープ、フラットが混じり

3人がキチンと揃えば綺麗なんだろうが、それが意外と.,

ちゃっちゃっと演ってしまわないと年が明ける!




サックス オクターブキーが効かなくなって..

2016年11月29日 15時29分34秒 | サックス
サックスの練習をしていたら突然オクターブキーが効かなくなった。
キーを押しても全くオクターブ上がらない。


一瞬パニック!
冷静に冷静にと、本体をこちょこちょ触りながら、どの部位がどこに効いているのかを調べていったら、とある板バネ?が外れているのを発見。


それを強引に押し込んだら治った。
あ〜あ、びっくりした。


それにしても、なんでこんなものが外れたのか....









奈良 興福寺 阿修羅像 修復ミス?

2016年11月28日 18時06分16秒 | つれづれ
興福寺 阿修羅像 修復ミス?


不届きな者が貴重なる文化財に液体をかけて今話題の奈良興福寺。
ここの阿修羅像が好きだ。

古代インドの神が仏教に取り入れられたものとされ、仏法の保護者 八部衆のひとつ。

日本語では、激しい戦いの絶えない状況を「修羅場」と呼ぶ。

伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続け、帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。


そんなことより、「阿修羅像」というのは、身体の正面で手を合わせて合掌している姿と思っていた。

しかし、明治維新当初、廃仏毀釈運動の中で、仏像などもぞんざいな扱いを受けていた時代の写真を見る機会があった。

それを見ていると、興福寺の阿修羅像も腕が折れた無残な姿。

そして、その腕の様子を見ていると、どうしても手を合わせて合掌している角度には見えない。

どうやら、もともとは身体の前で花籠を抱えていたのではないか?とも言われているらしい。

残る手で花籠の花を蒔いていた姿を描いたものではなかったか? とも考えられているそうだ。


修復ミス?
国宝なんだが...





日本を今一度せんたくいたし申候 坂本龍馬@京都国立博物館

2016年11月27日 11時47分12秒 | つれづれ
坂本龍馬@京都国立博物館

龍馬が亡くなってほぼ150年。
直筆の手紙を中心に、家紋入りの紋服、血染の掛軸、屏風などの遺品など。






はるか昔、司馬遼太郎の『龍馬がいく』であっさりと龍馬先生のファンになって以来、数々の本を読み、高知を訪れたり。
気になりつつも、やっと最終日の朝一番に来た。


​龍馬の手紙は140通ほどが残っているらしいが、そのうちのコアなものが出展されていたんじゃないだろうか?

これまで何度も資料で見てきた乙女姉さんに宛てた「日本を今一度せんたくいたし申候」などの直筆の手紙が目の前にある!



​・文久三年の池内蔵太の母宛ての手紙では「母親や奥さんがメソメソ泣き出したりしては本当に蔵太を辱しめてしまいます」とおもしろく諭し


​・文久三年の乙女姉さん宛ての手紙はなんと5mにも及ぶもので、自身のこと、天下のことを書いており 「私、龍馬の方も、この頃はほほど頭角を表し、ひとつの大藩によくよく心中を認められて頼りにされています」と乗りに乗った感じであり、かの有名な「日本をせんたく」のフレーズが出てきている。 
それと、日本に「ニッポン」と振り仮名が振ってある。龍馬は女性への手紙では随所に漢字には振り仮名を振っている。


・元治元年の乙女姉さん宛て手紙では「天下にことをなそうという者は、腫れ物もよくよく膿んでしまわなければ、膿には針も刺さないように、その時期を見極めることが大切です」などと書いている。


・慶応二年の乙女姉さんに宛てたおりょうさんとの高千穂、霧島温泉への新婚旅行の手紙。
あの有名な図入りの手紙も資料のこれまで何度も見たけれども、実物を見れるとは。 生き生きとした文字、表現は見ていても楽しい。


・慶応二年の木戸孝充宛の手紙では「薩摩の五代才介に長州向けの火薬 一千両分ほどを頼んでおきました」と。なんとNHK朝ドラで一気に人気の出たあの五代さんの名前が出てきてびっくり。
薩摩と長州との間をとりもつために尽力していることが分かる。 
いつも思うが、龍馬という人は政治ということを理屈、理念だけではなく、経済、利というもので動かしていたと思う。


​・慶応三年二月の木戸孝充宛の手紙では「土佐藩が一新の方向へ舵を切った」と報告され、いよいよ薩長、土佐と役者が揃ってきた​


​・慶応三年九月二十日の​木戸孝充宛の手紙では「お手紙の中の大芝居の件、実に面白く、よく理解しました。いよいよ奮発すべき時かと思います」と、遂に大政奉還への動きが押し迫ったきた雰囲気を伺わせる。


​そして、慶応三年十月十四日、第十五代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌十五日に天皇が勅許し、長く続いた徳川幕府が幕を降ろした。
 ​

身内に宛てた面白くておかしい数々の手紙​を読んでいても、当初は「異国人の首を取って土佐へ帰ります」と吠えていたけれども、次第に​土佐一国から日本全体に目が向かい​、やがては​「一新改革して地球上に独立する之国本を建すべし」と奮闘する様が分かる。



​数多くの書簡、資料から、坂本龍馬という人のおおらかさ、大きさを感じとれる時間だった。


この国が大きく生まれ変わる時代に、それを結実させたのも人間味溢れる坂本龍馬という人間がいたからこそだと思う。
本当に凄い人だ。

​敵対していた長州、薩摩そして土佐藩らをまとめ、自らシナリオを描いた大政奉還がなった翌月、33歳の誕生日​のその日に​刺客に殺されてしまうとは...

​残念無念。​






土佐藩の足軽の野老山吾吉が、元治元年に遭遇した池田屋事件の全貌を語った書面があったが、その中で池田屋へ行く前に「居酒屋で飲んでいた」という記述が見えた。この頃から「居酒屋」って言っていたんだと発見。​




秋の京都を甘くみていた

2016年11月26日 19時05分21秒 | つれづれ
京都での坐禅の会


いつものように電車を降り、市バスを待ったがなかなか来ない。
まるまる一本遅れで、車内は満員で乗り降りも混雑、そして道路は渋滞。

結果、坐禅の会には間に合わず。

皆さんこの門の向こうで坐禅を組んでいるんだろうなと虚しく、また満員のバスに揺られて帰る。


秋の京都を甘くみていた...

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