映画「沈黙 サイレンス」
遠藤周作の原作「沈黙」をスコセッシ監督が映画化。
内容をそう簡単には言い表せないが...
江戸時代初期1630年代の九州
1614年家康により「禁教例」が出され、キリシタン弾圧が激しさを増してきた時代。
踏み絵を踏ませることでキリスト教の棄教を迫る奉行所
それでも棄教しない者は熱湯がけ、火あぶり、穴つりなどの拷問にも屈することなく殉教していく。
それを見つつも何も出来ないことに苛立ち、悩む若き宣教師ロドリゴ。
ロドリゴは、神に祈り、神に問い続けるが、神は沈黙を続ける。
勿論貧しい暮らし、底辺で暮らす名もない一般の信者自身もまた神に祈り、問い続けているのだろう。
でも神は沈黙を続ける。
そして最後には拷問され続ける元信者たちを救うため、ロドリゴは踏み絵を踏むことを決意する。
まさに踏み絵を踏もうとしたとき、「踏むがいい」という神の声が聞こえてくる。
「私はお前達に踏まれるために生まれてきた。」
「この世に生まれ、お前達の苦しみを分かつために十字架を背負ったのだ」
「私は沈黙していたわけではない。いつもお前の横にいて共に苦しんできた」との声が聞こえてくる。
ロドリゴは神が苦しい状況を変えてくれる存在ではなく、ご利益を与えてくれる存在でもなく、共に苦しんでくれる存在であったことを知る。
長崎奉行そして踏み絵を踏んで棄教したフェレイラ元司祭とロドリゴのやりとりはなかなか考えさせられた。
「日本の信者はキリスト教を理解していない」
「自分たちで独自に変容させて拝んでいるだけで、布教しようとしても無駄である」
「この国は沼地であり、根も腐り、根を張ること出来ない」
etc
アカデミー賞の前哨戦「ロサンゼルス映画批評家協会賞」で、長崎奉行役を演じたイッセー尾形が、助演男優で次点になった。
遠藤周作の原作「沈黙」をスコセッシ監督が映画化。
内容をそう簡単には言い表せないが...
江戸時代初期1630年代の九州
1614年家康により「禁教例」が出され、キリシタン弾圧が激しさを増してきた時代。
踏み絵を踏ませることでキリスト教の棄教を迫る奉行所
それでも棄教しない者は熱湯がけ、火あぶり、穴つりなどの拷問にも屈することなく殉教していく。
それを見つつも何も出来ないことに苛立ち、悩む若き宣教師ロドリゴ。
ロドリゴは、神に祈り、神に問い続けるが、神は沈黙を続ける。
勿論貧しい暮らし、底辺で暮らす名もない一般の信者自身もまた神に祈り、問い続けているのだろう。
でも神は沈黙を続ける。
そして最後には拷問され続ける元信者たちを救うため、ロドリゴは踏み絵を踏むことを決意する。
まさに踏み絵を踏もうとしたとき、「踏むがいい」という神の声が聞こえてくる。
「私はお前達に踏まれるために生まれてきた。」
「この世に生まれ、お前達の苦しみを分かつために十字架を背負ったのだ」
「私は沈黙していたわけではない。いつもお前の横にいて共に苦しんできた」との声が聞こえてくる。
ロドリゴは神が苦しい状況を変えてくれる存在ではなく、ご利益を与えてくれる存在でもなく、共に苦しんでくれる存在であったことを知る。
長崎奉行そして踏み絵を踏んで棄教したフェレイラ元司祭とロドリゴのやりとりはなかなか考えさせられた。
「日本の信者はキリスト教を理解していない」
「自分たちで独自に変容させて拝んでいるだけで、布教しようとしても無駄である」
「この国は沼地であり、根も腐り、根を張ること出来ない」
etc
アカデミー賞の前哨戦「ロサンゼルス映画批評家協会賞」で、長崎奉行役を演じたイッセー尾形が、助演男優で次点になった。