明日の風に吹かれて

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国宝の曜変天目茶碗 異例の同時期公開

2019年02月27日 16時05分00秒 | お茶

国宝に指定された曜変天目茶碗 3椀がこの春それぞれ公開されるとのこと。


大阪 藤田美術館蔵 :奈良国立博物館 4月13日~6月9日

東京 静嘉堂文庫美術館蔵 :同美術館 4月13日~6月2日

京都大徳寺 龍光院蔵 :MIHO MUSEUM 3月21日~5月19日

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(朝日新聞デジタル)
直径12センチほどの漆黒の肌に、無数の星がオーロラをまとって輝くように見えることから「小碗(わん)の中の大宇宙」とも言われ、優麗な華やかさを誇る「曜変天目(ようへんてんもく)茶碗」。

中国から日本に伝わり、国宝に指定された3碗がこの春、東京と滋賀、奈良で開かれる三つの展覧会で、ほぼ同時期に公開されることになった。通常非公開の作品も含まれ、専門家からは「最後の機会になるかも」という声が上がるなど注目されている。

曜変天目は12~13世紀、中国の南宋時代(1127~1279)に日本に伝わり、福建省の建窯(けんよう)でつくられたとされる。黒い茶碗だが、窯の中で火を受けるうちに美しい光彩が生まれた。

光があたると、地肌に広がる瑠璃色の斑文が、まるで宇宙に浮かぶ星のように美しく浮かび上がるのが特徴だ。こうした文様が現れる理由は完全には解明されておらず、再現は不可能とされる。日本では、室町時代から唐物(からもの)の天目茶碗の最高峰と位置づけられてきた。


国宝の3点は大阪市の藤田美術館、東京都の静嘉(せいか)堂文庫美術館、京都市の大徳寺龍光(りょうこう)院が所蔵。それぞれの碗で光彩の現れ方が異なっている。3~6月に開かれる別々の展覧会で公開されることが決まった。

藤田美術館の曜変天目は、徳川将軍家から譲り受けた水戸徳川家を経て、館蔵品となった。奈良市の奈良国立博物館で4月13日~6月9日に開かれる特別展「国宝の殿堂 藤田美術館展―曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき―」(同博物館、朝日新聞社など主催)で公開。

藤田美術館の藤田清館長は「この茶碗の神秘性を楽しんでほしい。今は照明の発達で光彩をはっきり見られるが、昔は今ほど明瞭でなかっただろう。かつて所有した権力者たちがどう見ていたのかも想像していただきたい」と話す。

静嘉堂文庫美術館の曜変天目茶碗は、徳川将軍家から淀藩の稲葉家などを経た来歴から、「稲葉天目」とも呼ばれる。3碗の中で最も光彩がはっきりしている。同美術館で4月13日~6月2日に開かれる企画展「日本刀の華 備前刀」で、会場の外にあるラウンジスペースで展示する。

学芸員の山田正樹さんは「窓から自然光が入る場所で、朝から夕方まで刻々変化する光による違いを楽しんでもらえるのでは」と話す。

もう一つの曜変天目を所蔵する大徳寺の塔頭(たっちゅう)である龍光院は、一般の拝観を受け付けていないため、この茶碗が公開される機会は他の2点より少ない。豊臣秀吉の茶頭の子で寺の開祖となった、江月宗玩(こうげつそうがん)〈1574~1643〉によって伝えられ、寺僧らが受け継いできた。滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMで、3月21日~5月19日に開かれる特別展「大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋(はそうあい)」で公開される。

「LED照明を工夫し、集中して光彩を見てもらえるよう努力したい」と畑中章良学芸部長。混雑が予想されるとして、この茶碗だけの展示室を設ける予定だ。
(編集委員・小滝ちひろ)

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 〈曜変天目茶碗〉 「天目」とは、中国沿海部の浙江省の天目山で修行した禅僧が日本にもたらした茶碗がルーツとされる。「曜変」は、光によって輝きが変化する姿から名づけられたとの説がある。室町時代にはそれぞれ別種の茶碗とされたが、のちに二つを合わせた名前になったと考えられている。

https://www.asahi.com/articles/ASM214PQBM21PLZU003.html


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1001体 勢揃いした三十三間堂

2019年02月05日 11時07分50秒 | つれづれ
京都 三十三間堂

中央の観音菩薩坐像と左右の千体の立像含めて千一体の観音菩薩。

普段は5体ほどが東京国立博物館他に貸し出されていたが、昨秋(2018年10月)に全て戻り、今の期間は26年振りに千一体揃ったということなので。

しかし、本当に凄いもんだ。
平安、鎌倉時代の仏師達の底力を感じる。

それにしても、誰が10や100の観音像ではなく、1000体にも及ぶ規模の観音菩薩像を指示したんだろう?
後白河上皇? 平清盛?

当時指示された人々も
「ええっ! 1000ですか?」
「いつまでかかることやら?」
「納めるお堂はどうするんですか?」
と、うろたえ驚いたことだろう。

それを「いや、1000だ!」と指示した人がいるわけだ。
凄いスケール感だ。

落慶した当時は人々も圧倒されたと思う。

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建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)で、その本堂が通称「三十三間堂」と言われる。

この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があったが、上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。

ただ、80年後の建長元年(1249年)には市内の火災で類焼で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれ。

「三十三間堂」とは、南北にの延びるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によるとのこと。

また「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しているともされる。

俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」とも言われるが、それは本尊と脇の観音立像千体、合わせて千1体がそれぞれ33に化身するからである。

しかし、本当に千体あるのか?と思うが実際にあるらしく、向かって右隅下の観音立像の足元には「1000」との札が置いてあった。

なお、千体のうち124体は創建された平安期のものであるが、残りは火災延焼後の鎌倉時代に16年をかけて再興されたもの。

約500体には作者名も残され、運慶、快慶などの名前も残るとのこと。

しかも驚くのはその耐震設計。
お堂の裏廊下に詳しく解説されていた。

当時も京都で地震は経験していたため、耐震設計には気を配っていたらしい。

基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する地盤とし、

堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ構造とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加したとのこと。

加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、一部敢えて隙間をもたせ、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む(羽目板)とするなどし、

お堂は波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたとのこと。

その結果、約800年間に亘り無事保存されてきている。


それと対比されるのが、この三十三間堂から北へ約800mに位置する「方広寺」

豊臣秀吉により奈良大仏に倣った大仏の建立が計画され、文禄4年(1595年)に方広寺大仏殿が完成し、高さ約19mの木製金漆塗大仏が安置された。

しかし、その翌年慶長元年(1596年)の慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。
哀れ秀吉。


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