明日の風に吹かれて

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ロレンス了斎  盲目の琵琶法師 日本人初のイエズス会修道士

2014年12月04日 16時37分38秒 | キリシタン
ロレンソ了斎 (1526年 - 1592年2月3日(天正19年12月20日))

1526年(大永6年)、肥前白石(現在の平戸市)にて生まれる。
生まれつき片目が見えずもう一つの目もぼんやりとしか見えず、琵琶法師として生計を立てていた。



1551年(天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエルに出会う。
街角で説教するザビエルに自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し洗礼を受けてロレンソという洗礼名を受けた。
ザビエルらが、何万キロも離れた外国から様々な危険や困難を冒して日本にやって来て、何一つ現世の利益を求めるでもなく、人々の霊魂の教化という唯一の目的のために働いていることに感動して、自分も神に仕えるため、教会のために全生涯を捧げる決心をした。

フランシスコ・ザビエルが日本で活動したのは、2年3ヶ月ほどだったが、その間に700名ほどの人に洗礼を授けた。その日本人の中で、その後の日本の宣教発展に大きな影響を与えた人物の一人がロレンソ了斎。

ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。

琵琶法師であったロレンソは学問は耳学問だけで文字も読めなかったが、抜群の記憶力を有し、またプロの琵琶法師として説得力に富み、言葉の操り方に長けていた。また、あちらこちらのお寺を巡り歩いていたので、あらゆる仏教宗派の教えに通じていた。

1559年(永禄2年)ザビエルからその後の日本のキリスト教宣教を任されたコスメ・デ・トーレス神父の命を受けたガスパル・ヴィレラ神父と共に京に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得た。

さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでは数日間激しい論争が続けられたが、ロレンソは理路整然と結城山城守と清原外記(げき:中国と日本の漢字の専門家で、天皇に教える教師)の攻撃を論破してその疑問にことごとく明快に答え切った。逆に二人は、ロレンソに完全に降参して、ついにキリスト教の洗礼を受けるに至る。 

そして、その場に居合わせた高山弾正はこれに感心し、自らの城に密かにロレンソを招いて教えを請い、息子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。その高山右近に導かれて後年黒田官兵衛もキリスト教の洗礼を受けることになる。

1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、日本人初の修道士(イルマン)となった。

1569年(永禄12年)に再び畿内へ戻った。
かつてキリスト教布教の保護者と頼んだ将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、当時京都地区の布教責任者であったルイス・フロイス神父はその後に将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長にキリスト教布教の許可を得るべく二条城の建設現場で織田信長と面会したが、その際にはロレンソは通訳として同席。なお、この面談は2時間にも及んだと言われている。

またロレンソは信長の面前で、反キリシタンの論客であった日蓮宗の僧・朝山日乗(日乗上人)とも議論を行った。このとき、議論では勝てぬ日乗が逆上して刀を持ち出したところを信長の家来に取り押さえられている。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へと移り、

1592年(文禄元年)に長崎で死去した。

フロイスの著述「フロイス日本史」(第12巻93章)に、ロレンソの最後が書かれている。
「長年の迫害と老齢で極めて衰弱し、骨と皮だけの残すばかりの身体となっていた。数日前から話をするのも困難になっていたが、いよいよ最後の時を悟ったのか室内にいた他の修道士達を室外に去らせ、絶えずつききりで世話をしてくれている下僕に「起き上がるのを手伝って欲しい」と頼み、下僕が両腕を抱えて起き上がらせようとした時、イエズスの名前を呼びながら下僕も気付かぬ短い時間の間に、安らぎのうちに息を引き取った。   」

琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きい。


なお、同じく日本人琵琶法師としてダミアンがいる。ダミアンは1587年山口で洗礼を受け、豊臣秀吉のバテレン追放令後、神父のいなくなった教会で神父の代わりとして生涯を神への奉仕に捧げ、1605年8月19日山口で四つ裂きにされて殉教した。 2007年6月1日、教皇ベネディクト16世の裁可で「ペトロ岐部と187殉教者」として列福されている。



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1 コメント

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Unknown (通りがかり)
2024-03-31 11:48:01
肥前白石は平戸市でなく、佐賀県杵島郡白石
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