明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

江戸 キリシタン坂

2018年05月13日 10時31分37秒 | キリシタン
切支丹坂

実は切支丹坂の場所については多数の意見があり、どの坂が真の切支丹坂か未だに諸説あるようだ。

① 現在の切支丹坂
② 新道(七軒屋敷新道)の坂(消滅)
③ 庚申坂
④ 新坂
⑤ 近江屋板江戸切絵図に掲載された切支丹坂
⑥ 尾張屋板江戸切絵図に掲載された切支丹
などなど...


■文京区公認の切支丹坂
文京区教育委員会(昭和30年)のいう切支丹坂は、小日向1丁目に位置し切支丹屋敷跡の碑から一番近い坂。







屋敷跡の碑から1ブロック南下した位置から東方向にある地下鉄丸ノ内線ガード下の隧道まで続く坂を切支丹坂としている。

ただしこの坂は、明治後半にできたとも言われており、江戸古地図にないようだ。

東京メトロを挟んで庚申坂と向かい合った形。すなわち、丸ノ内線のガードをくぐった先が庚申坂というわけ。


■江戸時代の古地図を見ると(古地図はネットから)

例えば、嘉永7年(1854)の古地図を見ると、現在の庚申坂(こうしんざか)が切支丹坂ではないかと思われる、との説もある。






というのは、嘉永七年の古地図で見る「大草大次郎」宅と書いてある辺りはその前は井上筑後守屋敷跡であり、まさに切支丹屋敷跡。

そして「キリシタンサカ」と書かれる場所はその「大草大次郎」からはやや離れた場所のように見え、現在の庚申坂辺りにも思える。




しかし、庚申坂の上には文京区教育委員会の案内板があり、そこには

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西に下る坂あり‥略‥この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名”庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり‥」『東京名所図会』庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこのさかの地下鉄ガードの向側の坂のことである。「‥両側の藪の間を上る坂あり‥これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』
とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂(金子薫園)
文京区教育委員会 昭和60年3月」

とある。




すなわち庚申坂をキリシタン坂とすることを否定する根拠は、『新撰東京名所図会』(第45編 小石川区之部其三 明治39年・1906 刊)のようだが...


□別の古地図では
未確認だが、『江戸切絵図の中に漢字で「切支丹坂」と記されており、その場所は小日向1丁目に位置する』という文京区教育委員会の説を後押しする説もあるようだ。






江戸 切支丹屋敷跡へ歩く

2018年05月12日 14時58分13秒 | キリシタン
江戸 切支丹屋敷跡(文京区小日向1-24-8)へ歩く

切支丹屋敷跡
正保3年(1646年)に大目付兼宗門改役井上筑後守政重の下屋敷内に建てられたもの。単にキリシタンや宣教師を収監するだけでなく、彼等を棄教させるべく拷問で責め、最後まで棄教(いわゆる転びキリシタン)することを拒む者は、ここで命を落とすこととなった。

具体的には、2008年11月24日 バチカンにより「福者」に認定された「ペトロ岐部と187人の殉教者」の「ペトロ岐部」が有名。(← ペトロ岐部の実際の殉教の地は異なるようだ。後段に続く)


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東京地下鉄 丸ノ内線 茗荷谷駅下車
春日方面改札口へ




改札口を出て左折
ほぼまっすぐに坂を下る





拓殖大学を右手に見て

丸ノ内線のガード下との交差点に
やや右手側へ
宗四郎稲荷大明神側へ






茗荷谷変電所と貞静学園との間の急な坂を登る




この坂は「蛙坂」って言うらしい
急な坂だけどほんの一瞬





静かな住宅街の中をまっすぐに



やがて
右手に茶色の低層マンション「パークハウス小日向」
左手に「映像新聞」の建物




映像新聞社の前に「切支丹屋敷跡」の碑
向かいのマンションを含めての場所が、切支丹屋敷跡。
屋敷創立当時は七千七百余坪といわれ、少なくとも六千坪は超えていたというから、かなり広かった。







ここまで茗荷谷駅から6、7分









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ペトロ岐部は、徳川幕府の禁教令の中、東北地方に潜伏して布教活動をしていたが、1639年春ついに捕まり、江戸へ護送された。

彼の尋問には将軍家光、柳生但馬守、沢庵和尚までも立ち会ったとされる。いかにペトロ岐部を重要人物と見ていたかということである。

なお、ここでいう沢庵和尚とは、先に穴吊るしの刑の拷問にあい、信仰を捨て棄教したフェレイラ神父である。

岐部はさまざまな拷問にも耐え、井上筑後守の命により「穴吊り」にされた。

「穴吊り」の刑とは、内臓が飛び出さないよう全身を縄できつく縛られ、汚物を入れた穴に逆さに吊るされるものである。更には、苦しみを長引かせるためにこめかみを切って少しづつ血を流させる。

地上からは「転ぶ」と言えば命も助かり、金銭を与えられるという、悪魔のささやきが繰り替えされる。

ペトロ岐部が穴吊るしにあった際、同じく穴吊るしにあったマルチノ式見神父、ポルロ神父はとうとう転び、棄教している。

これを見て、ペトロ岐部と同じ穴に吊るされていた同宿二人が動揺したため、ペトロ岐部は彼等に殉教の尊さを説き、励ましたため、とうとう岐部を穴から引き揚げ、腹の上に薪を置いて火をつけた。

ペトロの臓腑は彼が死に至る前に、ほとんどが身体を飛び出してしまったとされる。 1639年7月4日。

井上筑後守が書き残した文章(契利基督記)には、有名な文書が残った。
『キベヘイトロは転び申さず候。吊し殺され候。是はその時分まで不功者にて、同宿二人キベと一つ穴に吊し申候故、同宿ども勧め候故、キベ殺し申し候由』



実際にペトロ岐部が穴吊りの刑を受け、最終的に殉教した地は、この切支丹屋敷跡の土地ではなく、浅草待乳山聖天公園近くのようである。

 ペトロ岐部は 寛永16年2月13日 (1639年3月17日) 仙台領水沢で捕まり、江戸伝馬町牢 (中央区日本橋小伝馬町二丁目5番地) に入れられた。

その後、寛永16年 (1639) 6月頃、 ペトロ岐部神父、ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父、 マルチノ式見神父の3人 龍ノ口にある 評定所 (中央区丸の内一丁目新住友ビル周辺) まで送られ、 老中松平信綱他の詮議を受けた。

更には同じ龍ノ口にある大老酒井讃岐守忠勝屋敷 (千代田区丸の内一丁目三井信託銀行周辺) で第三代将軍徳川家光による尋問が行なわれた。それでも転ばぬ3人の神父の詮議は、大目付井上政重に一任にされることになった。

大目付井上政重に尋問と受けたとされるので、この切支丹屋敷でだったかと思ったが、実際は伝馬町牢だったようである。

この伝馬町牢では木馬責め他の拷問を受け、遂にポレロ神父、式見神父が失神するものの、ペトロ岐部は最後まで転ぶことはなかった。

遂に穴吊りの刑を受けることになったが、その場所は現在の待乳山公園 (台東区浅草七丁目) の近く。今戸橋と山谷橋との間の南木戸の際、 少し高い場所にある明地 (長さ10間・幅2間) であったとされる。






そんな切支丹屋敷であるが、宝永5年(1708年)イタリア人宣教師 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが屋久島に上陸し、長崎を経て江戸に送られた際にもこの屋敷に収容され、新井白石の尋問を受けた。

シドッティが、正徳4年(1714年)に没した後は収容される者もいなくなり、切支丹屋敷は享保9年(1724年)に火災で焼失。その後は再建されることもなく、寛政4年(1792年)に宗門改役の廃止と同時に正式に廃された



東京都教育委員会の碑文
『東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡
所在地:文京区小日向1-24付近 標識:大正7年4月 指定:昭和30年3月28日

キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。

最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

平成24年3月建設 東京都教育委員会』



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で、そのシドッティ神父のものと思われる人骨がこの切支丹屋敷跡の裏で発見されたとのこと。


2014年、マンション建設に伴い、切支丹屋敷跡のある小日向町1丁目23番の埋蔵文化財発掘調査が行われていた。
そこで一体の人骨が発見された。

発見された人骨の1体は、国立科学博物館によるミトコンドリアDNA鑑定で、西洋系男性、現在のトスカーナ地方のイタリア人のDNAグループに入ることが判明、さらに人類学的分析で、中年男性、身長170センチ以上であることが判明した。

切支丹屋敷に収容されたイタリア人は、2人の宣教師しかいないことが明らかになっていて、キアラとシドッチだ。

この2人のうち、文献史料にある「47歳で死去、身長5尺8寸9分(175・5~178・5センチ)」というシドッチに関する記述が人骨の条件に当てはまったのだ。

この人骨がシドッチのものである可能性を高めるもう一つの根拠となったのが、その埋葬法だ。

今回発見されたイタリア人人骨の出土状況は、シドッチの埋葬についての記述と一致し、棺に体を伸ばしておさめる(右下側臥位半伸展葬)ほぼキリスト教の葬法に近い形で土葬されていたという。

一方、84歳で死去したキアラは、小石川無量院で火葬されたと記録に残っている。

この埋葬法の違いはなぜ?

2人は同じイタリア人宣教師でありながら、この2人が日本でたどった道は全く違うものであったからだ。

キアラは切支丹屋敷に禁獄中に転向(棄教)し、岡本三右衛門と名を改めて、幕府の禁教政策に協力、比較的優遇された生活を送った。その結果、当時の日本人として火葬され、埋葬されたと考えられる。

一方、シドッチは禁獄中にあっても伝道したために、悲惨な死を迎えた。そのため、キリスト教の葬法に近い形で土葬されたということである。
シドッチが体を伸ばして棺におさめられ土葬されたということは、彼がキリシタンとして死んだことを意味している。

シドッチ神父の墓跡の碑があると聞いていたが、残念ながら見つけられなかった。







千提寺 隠れキリシタンの里を訪ねて

2017年11月02日 14時40分24秒 | キリシタン
隠れキリシタンの里

大阪 高槻、茨木の奥、千提寺地区。
隠れキリシタンの里として有名であるが、そこのキリシタン資料館に東(ひがし)さん、そして近くの中谷光さん宅を訪問





まずキリシタン資料館での東さん。
キリシタン資料館は、以前に比べて随分すっきりした感じがあるが、複製ながらもこれまでに東家で見つかったキリシタン遺物を中心に整理して展示してある。

あの有名なフランシスコザビエル像図
マリア十五玄義図
聖母子十五玄義図
天使讃仰図
木像のキリスト磔刑像
これらを納めていたあけずの櫃
などなど

(資料館所蔵品の写真はネットから)









あけずの櫃は、役人に見つからないように天井裏大黒柱にくくりつけてあったというが、よくもこんな小さな容れ物にこれだけのものが入っていたかと感心する。

これはその昔に、近所の子供が代官所にこの家がキリシタンであることを密告し、取り調べが入ることへの対抗策だということ。




更には、これら大事なキリシタン遺物のを持っていることが広まらないように、一子相伝、家を継ぐ者だけにその存在を伝えていたこと。


メダイについては、見つかった状態の複製と作られた当初の複製を並べて展示。珍しい教皇グレゴリオ14世、教皇クレメンス2世のものなどあり。

保管されていたのものは確かに色合わせてはいるが、凹凸などは残っており、当時日常的に身につけていたものではなく、大事に保管していたことを思わせる。

禁教令取調べ厳しき時代に、うっかり見つかっては大変だったろうから。



江戸末期 天保8年、10年に生まれたご先祖である 中谷イトさん、中谷ミワさん、東イマさんなどの当時の話を聞く。

その当時にもまだ踏み絵があり、子供だった東イマさんなどは、わざわざ転んだ振りをして踏み絵を避けたとのこと。
明治直前にまで踏み絵があったことに、改めて驚く。

そんな彼女達すら一子相伝で伝わるキリシタン遺物のことは知らなかったとのこと。



続いで近くの中谷光さん宅をご訪問。
こちらで発見、保管されていたる「ロレータ聖母子像」の現物を見せて頂く。






「LORETA」との浮彫りがあるが、これはイタリアのロレートに建てられている教会堂を背景にした聖母子像。

聖母子は亜鉛板を裏から叩き出して作られたもので、それに日本で木製の枠と観音開きの扉をつけたもの。

これもやはり天井裏に保管されていたとのこと。大事な時には取り出し、拝んでいたようだとのこと。


また、こちらで発見された「ドチリナ•キリシタン」の複製本を見せて頂く。
これは九州加津佐で1591年に製本されたものとされ、日本で残る唯一のものと言っても良いもの。

師匠と弟子との問答形式でキリスト教の教えを説くこのような本で、当時の人達がキリスト教を学んでいたことになる。







更に「ギヤドベカトル」の複製本も見せて頂く。

これはドミニコ回司祭ルイス•デ•グラナダの原著(1555年)の抄訳で、裏表紙にあるように1599年(慶長4)に長崎で出版されたもの。

神の十戒を説き、救霊、修徳の指針としたものである。こんな本を今から400年の人達が読み、学んでいたかと思うと感慨深い。




中谷さんのご自宅前からの眺め。
向かって左がキリシタン墓の「上野マリア墓碑」が発見された「寺山」、その右手が「佐保カラヽ」が発見された「クルス山」
ここは、なんとか新名神高速道路の新設工事は免れた。





しかし、多くのキリシタン墓地が発見された「前山」などは新名神工事でなくなっていることが残念。




隠れキリシタンというと九州、長崎を思うが、地元高槻で受け継がれていたことに驚く。これも高山右近の働きの一つか?


それにしてもキリシタン遺物の数々は凄いとしても、江戸時代末期に子供までが踏み絵を拒んで信仰を守ろうとしたそのエネルギー、パワーがどうやって継承されたのか?と思う。






ラウレス「高山右近の生涯」 読了

2017年08月03日 17時27分30秒 | キリシタン
昨秋から研究会にて輪読してきたラウレス「高山右近の生涯」が、ようやく読了した。


今から400年前を生きる人々から、今を学ぶ貴重な機会になった。

単なる歴史的史実を追うだけではなく、戦国、豊臣、徳川への政権移行の中で、政治、経済を含めて俯瞰的に歴史を眺めるという視点を学んだ時間でもあった。

また日本に渡ってきた16世紀の外国人宣教師達のバックボーンはいったい何だったのか、その理解も不可欠であるとも思えた。


何より、右近の生き方を学ぶことで、迫害を受け、追い詰められ、そぎ落とされるごとに、貧しくなり、謙虚になり、むしろ豊かになっていくことを追体験する貴重な時間だった。


少し自分の生き方を変える機会になったようにも思う。

現代の霊性を生きるとは何か...





奈良 澤城跡を訪ねる

2017年05月29日 15時37分02秒 | キリシタン
奈良澤城は、芳野氏、秋山氏とともに宇陀三将の一人とされた沢氏が正平年間 (1346~1370)に本城として築いた城である。


天正8年(1580)に織田信長が大和郡山城主・筒井順慶に命じた大和城郭破却令によって廃城となったが、永禄3年(1560)から10年(1567)の8年間、高山右近の父・高山友照(たかやまともてる)は、松永久秀の配下としてこの沢城を居城としていた。


永禄6年(1563)にカトリックの洗礼を受けた高山友照は、翌永禄7年(1564)、日本人イエズス会員であり名説教家であるロレンソを澤城に招き、右近を始めとする一族、家臣らにキリスト教の教えを聞かせ、結果150名程が受洗した。

その澤城跡 高山右近受洗の地を訪ねる。

■近鉄 榛原駅
最寄り駅は近鉄大阪線榛原駅
JR大阪からは約1時間強




ここで奈良交通「菟田野」行きに乗り9つ目「比布」 バス停の数の割には要する時間は約10分
ただし、バスは1時間に1本







■バス停「比布」
バスを比布で降りて、すぐを左手へ歩き出す





伊那佐文化センター前を通り過ぎ、そのまままっすぐに。




目的地澤山(標高 524m)が見えてくる( ちょうど、ポールの先ぐらい)
左手の高い山は伊那佐山





澤城跡への道標もあるが、そのまま道なりに進む






■右近の受洗の碑と少年右近像
そのまま進んでいくと、やがて右近の受洗の碑に。






この案内板によれば、尾根に切った二重の堀切から大手口を抑える城郭まで南北700m、東西400mに及ぶものだったと。

ここに高山ダリオの妻子他、約300名の家臣が住んだという。
さあ、その澤城跡を目指して!





■澤城跡へ
いよいよ澤城跡へ

城跡へのルートは大きく2つ、「大月ルート」と「沢ルート」があるが、ルートの整備されている「大月ルート」からアプローチ。

右近の碑のすぐ手前(少し戻ったところ)を入る




「澤城跡まで2Km」とある。 
が、実際は山道を1時間ほど登ることになる。





大月公民館を過ぎ、右手「山口農園」側へ






どんどん歩いていく。
ここの分岐が一番注意する箇所!
ここを左手の山道側を行く




山道ながらもまずまずは整備されている





山の池、歩き出してからここまでで約40分。 もう一歩





ようやく大月ルートと沢ルートの合流点にやっと到着
途中の池から約20分でやっと到着。 右近の受洗の碑からは約1時間!





ここから矢印に従って一旦下り、また軽く登る感じで澤城跡へ向かう 
5分ほどで「出の丸跡」へ






右手の出の丸跡を登った一番奥のところに、広めの平らの土地がある。

ここが「長さ20m、幅7.7m」と記録されている教会の跡ではないかと推測される。いや、多分、絶対にそうだと思える。




本丸へは出丸跡の先、左手の急斜面を登る。 結構きつい。




■澤城の本丸跡!

本丸跡と言っても全く整備はされておらず、当時の面影は全くない。

それにしても、ここで高山ダリオ、右近達はロレンソの話を聞いたのか?と感慨深いものがある。








■帰路
先ほどの「大月ルート」、「沢ルート」との合流点に戻り、沢ルートを下る。

ただこれは大失敗。
本来なら登ってきた「大月ルート」を引き返すべきだった。




沢ルート側はまったく整備されておらず、本来なら利用しないほうが良いと思われる。 道に迷う可能性も大。





​  ​
大月ルートと同じく約1時間かけて麓に戻る。

沢ルートの出発点に当たる史跡
下城(しもんじょ)と馬場遺跡跡








最終的には「右近の碑」の横に出てくる




大月ルート、沢ルート、いづれも出発点は「右近の受洗の碑」ということになる。

「右近受洗の碑」に向かって、左側から入れば「大月ルート」に、右側から入れば「沢ルート」になる。





来た道を戻り、伊那佐文化センターの前を通り、バス停「比布」へ 約20分

奈良交通のバスは1時間に1本 (事前に確認しておく方が良い)





近鉄榛原駅までは約10分。



右近が奈良澤城にて洗礼を受けたのが1563年、12歳の頃。
おおらかにこの地で過ごした右近。
やがて摂津の高槻城主等となるも、1587年秀吉からの棄教命令にも断固たる姿勢を示し、即座に改易、国内追放となった。

風に吹かれながら遠い記憶をたどる半日





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