明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

利休の切腹、織部の切腹

2015年02月28日 13時01分28秒 | お茶
利休の切腹、織部の切腹

旧暦天正15年(1591)2月大徳寺山門の利休木像に端を発し秀吉の逆鱗に触れた利休は、秀吉に詫びを入れることなく堺の自宅に下がる。

利休に世話になった諸将が秀吉に幅かって姿を見せないなか、堺に下る利休を淀の渡しで見送ったのが利休七哲の大名細川忠興と古田織部。


古田織部はやがて利休の後任として筆頭茶頭に登用され、秀吉に仕え、秀吉の命で利休好みの茶室や茶庭を作ったりしている。

やがて秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。

織部の茶はこれまでの侘び、さびをベースに置きながらも数寄を極めていこうとする自由奔放な茶。

その織部が人気を集め始めると、家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになる。

そして大阪夏の陣の後に「織部は豊臣方と通じていた」との疑義をかけられ、切腹を命じられる。

旧暦慶長20年(1615)6月、大阪城落城後、利休同様一言も抗弁せずに切腹。






天正15年(1591)2月28日 利休 切腹

2015年02月28日 09時31分14秒 | お茶
天正15年(1591)2月28日 利休 切腹

2月25日には、事の発端となった大徳寺山門の利休の木像が京都聚楽大橋、一条戻り橋にさらされる。木像が磔の刑に!

利休は25日に堺の自宅にて遺偈記すと、翌26日上洛を命じられ、上杉勢三千の兵が取り囲む京都の自宅に戻り上使を待つ。

天正19(1591)年旧暦2月28日、検使として尼子三郎左衛門、安威攝津守、蒔田淡路守の三人が使わされ、京都葭屋(よしや)町の屋敷で切腹。『武辺咄聞書』によれば腹十字に掻き切った、とある。享年69歳。

秀吉は利休を切腹させたことを一生悔いていたとも言う。何を今更...

京都堀川 晴明神社脇の利休屋敷跡碑



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<伊達家家臣鈴木新兵衛が国元に送った手紙>

「右の宗易、その身の形を木像に作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下様より召し上げられ、聚楽の大門もどり橋と申す所に、張り付けにかけさせられ候。木像の八付(はりつけ)、誠にゝゝ前代未聞の由、京中において申す事に候。見物の貴賎際限無く候。右八付の脇に、色々の科(とが)ども遊ばるる御札を相立てられ候。おもしろき御文言、勝げて計うべからず候。」


<多聞院日記>

興福寺多聞院英俊の『多聞院日記』の天正19年2月28日の条に、「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」



<北野社家日記>

『北野社家日記』には、「廿八日、今日大雨降、カミなりなる、あられ、大あられ也・・・廿九日、宗ゑきと申者、天下一之茶之湯者ニて候つれ共、色々まいす仕候故御清はい(後成敗)有之也、大徳寺三門之こうりう仕、末代迄名を残と存木そうを我すかたニ作、セきたをはき、つゑをつき□有之、いわれ関白様へ申上候へハ、猶いよいよさいふかく成申候間、くひをきり、木そう(像)ともにしゆらく(聚楽)大橋にかけ置候也、大徳寺之長老衆も両三人はた物ニ御あけ候ハんと儀候つれ共、大政所様・大納言殿こうしつ(後室)、各上様へ御詫言により長老衆御たすけ分也、玄以法印・山呂玄羽御はな分也、木そうハ一日○よりかかり申候」


<武辺咄聞書>

『武辺咄聞書』には、「秀吉公冨田左近を以父利休に被仰出 鵙屋か後家を 聚楽へ御宮仕させ候へと頻りに被仰遣けれ共、利休は少も不肯 娘を商売物にして我 身を立ん事恥辱難遁と終に御請申上されけれは、秀吉公義理の筋目は御破難被成けれ 共、無わり御心入の叶はぬ事を残念に思召事人情なれは、御心底には深く挿結て、一両 年過て、利休運の尽にや、大徳寺 古溪和尚と相議して山門を再興し棟札を打、其上に利休木像を造り山門に安置せり。其木像は立像にしてつぶぎりの紋の小袖八徳を着せ、角頭巾を右へなけさせ、尻切を履せ、杖をつき、遠見仕たる体をそ作りける。其事世に無隠。秀吉公御耳に達し、内々悪しと思召折節なれは、讒言も指つとひ、利休近年茶具の目利にも親疎の人々により私有」由をそ申上る。父子の間さへ遠さくる讒言也。いかに況君臣の間をや。讒言度重りしかは、天正十九年二月廿八日利休御成敗に極り、被仰出けるは大徳寺の山門の上に己か木像に草鞋をはかせ置。此山門は天子も行幸、親王摂家も通り給ふに、其上に如此の不礼の木像を置事、絶言語次第也。又定茶具の品を定るにも依怙有由被聞召間、御成敗被遊候由にて、尼子三郎左衛門・奥山佐渡守・中村式部少輔検使にて利休か宿所に至る。利休は少も不騒、小座敷に茶の湯を仕かけ花を生茶を点し、弟子の宗厳にも常の如く万事を申付、扨茶湯終りて、阿弥陀堂の釜鉢開の茶碗 石燈篭をは細川越中守忠興方へ形見に遣し、又自分茶杓と織筋茶碗は弟子の宗厳にとらせ、利休は床の上に上り、腹十文字に掻切、七拾一歳にて終りぬ。宗厳、利休の首を直綴に包腰掛へ持出し、三人の上使に渡候。秀吉公則石田治郎少輔三成に被仰付、大徳寺山門に上け置たる木像を引出し、利休か首をかんなかけにのせ、木像を柱にくゝり付、利休か首を木像に踏せ、一条戻り橋に獄門に梟て被曝。毎日見る者市の如し。」


<見聞談叢>

『見聞談叢』に、「千宗易道号利休、泉州堺の庄今市町にて、もと千与四郎と云ふ(堺より名人多く出たりと云ふ。牡丹花肖柏、紹鴎、道陳両人とも茶人。宗椿みな堺より出たれば名人多し。)天下茶の宗匠と称し紹鴎、道陳などは、その時代に田舎宗匠と称すと。豊臣公へ利休召し出され、知行拝領大罪ありて、天正十九年二月二十八日堀河通一条の南側獄門にかけらる。存生の内自身の像を作り、紫野大徳寺の山門へ上げをき、その像に木履をはかせおけり。太閤それを御覧、貴人高家も通り玉ふ上に木履をはき居れること甚にくみ玉ひて、その像も山門の下に磔にせらると。自身にも讒言と思へると見へて末期に至りて娘の方へよみて送れる歌に、利休めはとかく果報の者ぞかし菅丞相になると思へば
死にのぞみて唱えたる偈又歌あり。
人世七十 力圍希咄 吾這寳劒 祖佛共殺 提ぐるわが得具足の一太つ刀、今この時そ天になげうつ 
一説に切腹被仰付、像斗を一条にはりつけと先子伝聞の咄もその通りなり。なにさま奥の偈と、をくの歌とを見れば切腹とみふ。」


<千利休由緒書>

『千利休由緒書』によると、「御尋 一 利休御誅伐ノ次第ハ如何様ノ事ニ候哉。○宗左御受に、大徳寺ノ山門ヲ再興仕り申候御とかめにて御座候。大徳寺山門は、応仁ノ乱ノ後、大破仕候テ、取立候人も無之候所、連歌師島田ノ宗長 飯尾宗祗カ弟子也 再興仕り候へ共、資料銀不足ニテ、門斗再興、上ノ閣ヲハ立不申候所ヲ、利休則チ門ノ上ニ閣ヲ建候テ、金毛閣ト名付申候。棟札ニモ、利休カ姓名を書記シ、金毛閣の額榜をもかけ、其身木像ヲ造リ置候ニ、頭巾ヲ冠らせ、尻切ヲはかせ候。利休天下ニ秀、出頭無双ヲソ子ミ、時々讒言仕候輩有之候ニ付、秀吉公機嫌損申候。龍宝山の山門ハ、主上も行幸被遊、院も行幸、摂家清家ノ尊貴皆被通候。其門の上ニ、己か木像ニ、草履ヲはかせ置候段、不礼不義、不可勝斗との御咎ニテ、天正十八年ノ霜月より御勘当、翌十九年正月十三日ニ堺へ被追下、閉門被仰付候。加賀大納言利家卿より御内緒ニテ大政所様北ノ政所様ヲ奉頼御詫事申上候ハヽ御免可被成と御申候。利休うけごい不申、天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、御女中方ヲ頼候てハ、無念に候。たとへ御誅伐に逢候とても、無是非候とて、承引不仕、二月二十六日ニ召ニテ京へ罷上り、葭屋町の宅へ着候所、弟子中の諸大名より利休ヲうはい助んとの沙汰御座候ニ付、秀吉公より上杉景勝へ被仰付、侍大将三人、足軽大将三人、已上六組三千斗ニテ、利休屋敷ヲ取まき、両日番仕候。同月廿八日ニ尼子三郎左衛門安威摂津守蒔田淡路守検史ニテ切腹仕候。辞世の偈、和歌御座候。前紙ニ書付宇佐美彦四郎ニ相渡シ申候。」、「御尋 一 利休生害ハ娘ゆへニて有之、左様ノ品も有事ニ候哉。○宗左御受ニ、世上ニテハ、左様ノ品も申伝ヘ候、しかと不存候。利休女子三人御座候。一人ハ千ノ紹仁が妻、一人は石橋良叱か妻、一人は万代屋宗安が妻ニテ御座候。世上にて申候ハ、宗安か後家ノ事ニテ御座候様ニ申候。私家ニハしかと不申伝候。」




映画「はじまりのうた」(Begin Again)

2015年02月26日 13時48分07秒 | つれづれ
映画「はじまりのうた」(Begin Again)



いい映画だった。
一緒に劇中のアルバムを作っていく気分になってしまうなど全編歌に包まれた映画。

何もかも失なった気分の中で出会う二人を中心に、音楽を紡ぎながら心を紡いでいく。最後は..

やっぱり音楽は魂やなぁ、
いや、魂のあるところに音楽があるのか。
ちょっと泣いた。