慶応2年(1866年)1月23日
前々日に薩長同盟の成立を確認した坂本龍馬は伏見の寺田屋に戻っていた。
深夜、同士三吉慎蔵と共に伏見奉行所の襲撃を受ける。(その際、風呂に入っていたおりょうが2階の龍馬達に急を告げたとのこと)
伏見奉行所もその辺りのならず者をかき集めた部隊だったようで、龍馬が一発ピストルをぶっ放すと結構おじつけついたとされる。それでも、狭い部屋での切り合いとなり、龍馬は指を切り落とす寸前の大けがをし、慎蔵と共に裏手からなんとか脱出。
途中、材木屋の屋根で夜を明かし、翌日薩摩藩に助かられたとのこと。
今回その逃走ルートを現地確認。
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最寄りは京阪電車 中書島駅北出口
改札口に「伏見」のことを記した看板と龍馬の写真あり。
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改札口すぐの道 通称「龍馬通り」を北へ。
駅前すぐにスナックとかが目につくが、この辺りは昔の新地。いわゆる遊郭街だった名残りか?
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蓬莱橋を渡って左手、すぐに「寺田屋」
この2階の部屋(こちら側)に宿泊していた龍馬達が襲撃された。
なお、当時の寺田屋そのものは伏見鳥羽の闘いの中で焼失しており、現在のものはその後再建されたもの。
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ここからの逃走ルートについては、まず龍馬が兄の権平などに宛てた手紙によると以下の通り。
「それから、船宿(寺田屋)の裏側の家の隙間をくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破って、その家の中に入ると、その家の者たちは先ほどからの大騒動に驚いて、寝ぼけたまま逃げ出したようで、布団などが引きっぱなしでした。....ようやく後ろの町に出てみれば、こちら側には捕り方は一人もいませんでした。....これ幸いとばかり五町(約500m)ばかり走って逃げました。 .... ついに横道にそれ込んで、土佐の新堀のような材木商の多い場所に行って、町の水門から這いこんで、その家の裏になる材木の上に登って寝て隠れたのですが、間の悪いことに犬が吠えて実に困りました。」
一方で、三吉慎蔵の日記によると
「裏口の物置を斬り抜け、二つの家の戸締りをしている扉を斬り破り、破壊のお詫びの挨拶をして小路に逃れ出て、しばらく二人とも息を休めたアロ、また走って逃げました。 途中に寺があり、囲いの塀を飛び越えようとしましたが、近くに多くの探索者がいる様子であり、道を転じて川端の材木の貯蔵所があるのを見つけて、その棚の上に登って隠れました。」
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ということで、まずは寺田屋の真後ろの家々の中を駆け抜けた模様
抜け出てきたところから寺田屋方面を望む風景。(この建物群の向こう側に寺田屋)
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ここからの向かう先としては 東200mに土佐藩邸、西200mに長州藩邸、北600mに土佐藩邸。
土佐藩邸は近いが場所が伏見奉行所と同方向にあると共に、脱藩の身の龍馬としては飛び込みにくい。
長州藩邸は1864年の禁門の変のあおりで焼失していたと思われ、龍馬達は最も遠い土佐藩邸を目指すしかなかったと思われる。
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この道を西に少しいくと竹田街道に出るので、街道を北へ直進。
すぐに駿河屋のある交差点に出る。
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現在は竹田街道はそのまま北へ続いているは、当時は街道はここで終わっていた。
そのため、右手(西岸寺)側へ行くか、あるいは左手(西教寺、興禅寺)側へ行くかになるが、恐らく伏見奉行所(東側)とは反対の左手に回ったのではないか?と思われる。
現在の西教寺。この寺の塀を上ろうとしたのか?
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ここから更に左手奥には濠川の船着き場があり、当時明け方前に船を待つ人々が集まっていたのではないか?と思われるが、それを龍馬達は多くの探索者と勘違いしたのではないだろか? そのため塀を上ることもあきらめ、元の道を竹田街道へ戻る。
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古地図によれば、行きどまりの竹田街道の先に農道のような細い道が一本、北に続いていたことが分かる。
よって、そのまま一気に北上。
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今でいう大手筋で「道を転じて」左手、西方面に。
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現在は大手筋の太い道路がまっすぐに西へ伸びているが、当時は伏見城への外敵を防ぐ意味から濠川で道は途切れていた。
そのため龍馬達は追い詰められるような形で一旦川まで降りるしかなく、そこから材木商に辿りついた。
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橋の北西角に「坂本龍馬避難の材木商後」という碑が立っているが、「是より南東約50m」というシールが貼ってある(笑)
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龍馬の傷は動脈まで達していたようであり、一晩中血が止まらなかったとある。
夜が明けてくるに及んで、龍馬は慎蔵に土佐藩邸に助けを求めてくれと頼む。
慎蔵は「ここで死のう」と迫るが、龍馬が説得し、慎蔵は商人姿で初めての町伏見で土佐藩邸を探すことに。
途中、通行人にも道を尋ねたようであるが、「大手筋」をそのまま戻り、更に北に向かったと思われる。
万が一、奉行所の者に見つかれば死罪であり、初めての伏見の町を夜明け急ぐ慎蔵の心のうちはいかばかりか?
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今でいう板橋児童館を左折。
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まっすぐに行き、濠川を渡ると薩摩藩邸!!
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当時の交通のメインは河川、海上交通であり、濠川に面した地に藩邸を持つ薩摩藩はいわば高速道路のインターチェンジに藩邸を置いている感じであり、高い戦略性を持っていたと思われる。
慎蔵からの知らせを受け、薩摩藩は藩旗を掲げた船を用意し、材木商の屋根に隠れる龍馬を助けに向かった。
前々日に薩長同盟の成立を確認した坂本龍馬は伏見の寺田屋に戻っていた。
深夜、同士三吉慎蔵と共に伏見奉行所の襲撃を受ける。(その際、風呂に入っていたおりょうが2階の龍馬達に急を告げたとのこと)
伏見奉行所もその辺りのならず者をかき集めた部隊だったようで、龍馬が一発ピストルをぶっ放すと結構おじつけついたとされる。それでも、狭い部屋での切り合いとなり、龍馬は指を切り落とす寸前の大けがをし、慎蔵と共に裏手からなんとか脱出。
途中、材木屋の屋根で夜を明かし、翌日薩摩藩に助かられたとのこと。
今回その逃走ルートを現地確認。
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最寄りは京阪電車 中書島駅北出口
改札口に「伏見」のことを記した看板と龍馬の写真あり。
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改札口すぐの道 通称「龍馬通り」を北へ。
駅前すぐにスナックとかが目につくが、この辺りは昔の新地。いわゆる遊郭街だった名残りか?
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蓬莱橋を渡って左手、すぐに「寺田屋」
この2階の部屋(こちら側)に宿泊していた龍馬達が襲撃された。
なお、当時の寺田屋そのものは伏見鳥羽の闘いの中で焼失しており、現在のものはその後再建されたもの。
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ここからの逃走ルートについては、まず龍馬が兄の権平などに宛てた手紙によると以下の通り。
「それから、船宿(寺田屋)の裏側の家の隙間をくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破って、その家の中に入ると、その家の者たちは先ほどからの大騒動に驚いて、寝ぼけたまま逃げ出したようで、布団などが引きっぱなしでした。....ようやく後ろの町に出てみれば、こちら側には捕り方は一人もいませんでした。....これ幸いとばかり五町(約500m)ばかり走って逃げました。 .... ついに横道にそれ込んで、土佐の新堀のような材木商の多い場所に行って、町の水門から這いこんで、その家の裏になる材木の上に登って寝て隠れたのですが、間の悪いことに犬が吠えて実に困りました。」
一方で、三吉慎蔵の日記によると
「裏口の物置を斬り抜け、二つの家の戸締りをしている扉を斬り破り、破壊のお詫びの挨拶をして小路に逃れ出て、しばらく二人とも息を休めたアロ、また走って逃げました。 途中に寺があり、囲いの塀を飛び越えようとしましたが、近くに多くの探索者がいる様子であり、道を転じて川端の材木の貯蔵所があるのを見つけて、その棚の上に登って隠れました。」
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ということで、まずは寺田屋の真後ろの家々の中を駆け抜けた模様
抜け出てきたところから寺田屋方面を望む風景。(この建物群の向こう側に寺田屋)
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ここからの向かう先としては 東200mに土佐藩邸、西200mに長州藩邸、北600mに土佐藩邸。
土佐藩邸は近いが場所が伏見奉行所と同方向にあると共に、脱藩の身の龍馬としては飛び込みにくい。
長州藩邸は1864年の禁門の変のあおりで焼失していたと思われ、龍馬達は最も遠い土佐藩邸を目指すしかなかったと思われる。
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この道を西に少しいくと竹田街道に出るので、街道を北へ直進。
すぐに駿河屋のある交差点に出る。
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現在は竹田街道はそのまま北へ続いているは、当時は街道はここで終わっていた。
そのため、右手(西岸寺)側へ行くか、あるいは左手(西教寺、興禅寺)側へ行くかになるが、恐らく伏見奉行所(東側)とは反対の左手に回ったのではないか?と思われる。
現在の西教寺。この寺の塀を上ろうとしたのか?
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ここから更に左手奥には濠川の船着き場があり、当時明け方前に船を待つ人々が集まっていたのではないか?と思われるが、それを龍馬達は多くの探索者と勘違いしたのではないだろか? そのため塀を上ることもあきらめ、元の道を竹田街道へ戻る。
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古地図によれば、行きどまりの竹田街道の先に農道のような細い道が一本、北に続いていたことが分かる。
よって、そのまま一気に北上。
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今でいう大手筋で「道を転じて」左手、西方面に。
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現在は大手筋の太い道路がまっすぐに西へ伸びているが、当時は伏見城への外敵を防ぐ意味から濠川で道は途切れていた。
そのため龍馬達は追い詰められるような形で一旦川まで降りるしかなく、そこから材木商に辿りついた。
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橋の北西角に「坂本龍馬避難の材木商後」という碑が立っているが、「是より南東約50m」というシールが貼ってある(笑)
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龍馬の傷は動脈まで達していたようであり、一晩中血が止まらなかったとある。
夜が明けてくるに及んで、龍馬は慎蔵に土佐藩邸に助けを求めてくれと頼む。
慎蔵は「ここで死のう」と迫るが、龍馬が説得し、慎蔵は商人姿で初めての町伏見で土佐藩邸を探すことに。
途中、通行人にも道を尋ねたようであるが、「大手筋」をそのまま戻り、更に北に向かったと思われる。
万が一、奉行所の者に見つかれば死罪であり、初めての伏見の町を夜明け急ぐ慎蔵の心のうちはいかばかりか?
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今でいう板橋児童館を左折。
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まっすぐに行き、濠川を渡ると薩摩藩邸!!
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当時の交通のメインは河川、海上交通であり、濠川に面した地に藩邸を持つ薩摩藩はいわば高速道路のインターチェンジに藩邸を置いている感じであり、高い戦略性を持っていたと思われる。
慎蔵からの知らせを受け、薩摩藩は藩旗を掲げた船を用意し、材木商の屋根に隠れる龍馬を助けに向かった。