明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

祇園祭が終わっていく

2023年07月31日 13時52分39秒 | つれづれ
疫神社夏越祭

1ケ月の長丁場の祇園祭も終わっていく。

言うまでもないが、メディア等々で注目を集める山鉾巡行は、本来は八坂神社の3基の神輿の通り道を清める役割。

17日の先祭の山鉾巡行は八坂神社の神輿を四条河原町の御旅所にお迎えする道を清め、渡ってきた神輿は1週間御旅所に鎮座し、神霊パワーを地域に振りまく。

1週間後の24日、後祭の山鉾巡行で清められた道を神輿が八坂神社へ帰っていく。

869年の疫病退散を願ったのが始まりとされるが、ほんとに凄いお祭りだ。


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坂本龍馬 寺田屋からの逃走ルート

2021年09月07日 13時53分04秒 | つれづれ
慶応2年(1866年)1月23日
前々日に薩長同盟の成立を確認した坂本龍馬は伏見の寺田屋に戻っていた。

深夜、同士三吉慎蔵と共に伏見奉行所の襲撃を受ける。(その際、風呂に入っていたおりょうが2階の龍馬達に急を告げたとのこと)

伏見奉行所もその辺りのならず者をかき集めた部隊だったようで、龍馬が一発ピストルをぶっ放すと結構おじつけついたとされる。それでも、狭い部屋での切り合いとなり、龍馬は指を切り落とす寸前の大けがをし、慎蔵と共に裏手からなんとか脱出。

途中、材木屋の屋根で夜を明かし、翌日薩摩藩に助かられたとのこと。

今回その逃走ルートを現地確認。

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最寄りは京阪電車 中書島駅北出口
改札口に「伏見」のことを記した看板と龍馬の写真あり。

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改札口すぐの道 通称「龍馬通り」を北へ。
駅前すぐにスナックとかが目につくが、この辺りは昔の新地。いわゆる遊郭街だった名残りか?
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蓬莱橋を渡って左手、すぐに「寺田屋」
この2階の部屋(こちら側)に宿泊していた龍馬達が襲撃された。
なお、当時の寺田屋そのものは伏見鳥羽の闘いの中で焼失しており、現在のものはその後再建されたもの。
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ここからの逃走ルートについては、まず龍馬が兄の権平などに宛てた手紙によると以下の通り。

「それから、船宿(寺田屋)の裏側の家の隙間をくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破って、その家の中に入ると、その家の者たちは先ほどからの大騒動に驚いて、寝ぼけたまま逃げ出したようで、布団などが引きっぱなしでした。....ようやく後ろの町に出てみれば、こちら側には捕り方は一人もいませんでした。....これ幸いとばかり五町(約500m)ばかり走って逃げました。 .... ついに横道にそれ込んで、土佐の新堀のような材木商の多い場所に行って、町の水門から這いこんで、その家の裏になる材木の上に登って寝て隠れたのですが、間の悪いことに犬が吠えて実に困りました。」

一方で、三吉慎蔵の日記によると
「裏口の物置を斬り抜け、二つの家の戸締りをしている扉を斬り破り、破壊のお詫びの挨拶をして小路に逃れ出て、しばらく二人とも息を休めたアロ、また走って逃げました。 途中に寺があり、囲いの塀を飛び越えようとしましたが、近くに多くの探索者がいる様子であり、道を転じて川端の材木の貯蔵所があるのを見つけて、その棚の上に登って隠れました。」

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ということで、まずは寺田屋の真後ろの家々の中を駆け抜けた模様

抜け出てきたところから寺田屋方面を望む風景。(この建物群の向こう側に寺田屋)
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ここからの向かう先としては 東200mに土佐藩邸、西200mに長州藩邸、北600mに土佐藩邸。
土佐藩邸は近いが場所が伏見奉行所と同方向にあると共に、脱藩の身の龍馬としては飛び込みにくい。
長州藩邸は1864年の禁門の変のあおりで焼失していたと思われ、龍馬達は最も遠い土佐藩邸を目指すしかなかったと思われる。
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この道を西に少しいくと竹田街道に出るので、街道を北へ直進。

すぐに駿河屋のある交差点に出る。
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現在は竹田街道はそのまま北へ続いているは、当時は街道はここで終わっていた。
そのため、右手(西岸寺)側へ行くか、あるいは左手(西教寺、興禅寺)側へ行くかになるが、恐らく伏見奉行所(東側)とは反対の左手に回ったのではないか?と思われる。

現在の西教寺。この寺の塀を上ろうとしたのか?
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ここから更に左手奥には濠川の船着き場があり、当時明け方前に船を待つ人々が集まっていたのではないか?と思われるが、それを龍馬達は多くの探索者と勘違いしたのではないだろか? そのため塀を上ることもあきらめ、元の道を竹田街道へ戻る。
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古地図によれば、行きどまりの竹田街道の先に農道のような細い道が一本、北に続いていたことが分かる。
よって、そのまま一気に北上。
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今でいう大手筋で「道を転じて」左手、西方面に。
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現在は大手筋の太い道路がまっすぐに西へ伸びているが、当時は伏見城への外敵を防ぐ意味から濠川で道は途切れていた。
そのため龍馬達は追い詰められるような形で一旦川まで降りるしかなく、そこから材木商に辿りついた。

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橋の北西角に「坂本龍馬避難の材木商後」という碑が立っているが、「是より南東約50m」というシールが貼ってある(笑)



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龍馬の傷は動脈まで達していたようであり、一晩中血が止まらなかったとある。

夜が明けてくるに及んで、龍馬は慎蔵に土佐藩邸に助けを求めてくれと頼む。
慎蔵は「ここで死のう」と迫るが、龍馬が説得し、慎蔵は商人姿で初めての町伏見で土佐藩邸を探すことに。

途中、通行人にも道を尋ねたようであるが、「大手筋」をそのまま戻り、更に北に向かったと思われる。

万が一、奉行所の者に見つかれば死罪であり、初めての伏見の町を夜明け急ぐ慎蔵の心のうちはいかばかりか?
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今でいう板橋児童館を左折。
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まっすぐに行き、濠川を渡ると薩摩藩邸!!
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当時の交通のメインは河川、海上交通であり、濠川に面した地に藩邸を持つ薩摩藩はいわば高速道路のインターチェンジに藩邸を置いている感じであり、高い戦略性を持っていたと思われる。

慎蔵からの知らせを受け、薩摩藩は藩旗を掲げた船を用意し、材木商の屋根に隠れる龍馬を助けに向かった。



1001体 勢揃いした三十三間堂

2019年02月05日 11時07分50秒 | つれづれ
京都 三十三間堂

中央の観音菩薩坐像と左右の千体の立像含めて千一体の観音菩薩。

普段は5体ほどが東京国立博物館他に貸し出されていたが、昨秋(2018年10月)に全て戻り、今の期間は26年振りに千一体揃ったということなので。

しかし、本当に凄いもんだ。
平安、鎌倉時代の仏師達の底力を感じる。

それにしても、誰が10や100の観音像ではなく、1000体にも及ぶ規模の観音菩薩像を指示したんだろう?
後白河上皇? 平清盛?

当時指示された人々も
「ええっ! 1000ですか?」
「いつまでかかることやら?」
「納めるお堂はどうするんですか?」
と、うろたえ驚いたことだろう。

それを「いや、1000だ!」と指示した人がいるわけだ。
凄いスケール感だ。

落慶した当時は人々も圧倒されたと思う。

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建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)で、その本堂が通称「三十三間堂」と言われる。

この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があったが、上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。

ただ、80年後の建長元年(1249年)には市内の火災で類焼で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれ。

「三十三間堂」とは、南北にの延びるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によるとのこと。

また「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しているともされる。

俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」とも言われるが、それは本尊と脇の観音立像千体、合わせて千1体がそれぞれ33に化身するからである。

しかし、本当に千体あるのか?と思うが実際にあるらしく、向かって右隅下の観音立像の足元には「1000」との札が置いてあった。

なお、千体のうち124体は創建された平安期のものであるが、残りは火災延焼後の鎌倉時代に16年をかけて再興されたもの。

約500体には作者名も残され、運慶、快慶などの名前も残るとのこと。

しかも驚くのはその耐震設計。
お堂の裏廊下に詳しく解説されていた。

当時も京都で地震は経験していたため、耐震設計には気を配っていたらしい。

基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する地盤とし、

堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ構造とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加したとのこと。

加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、一部敢えて隙間をもたせ、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む(羽目板)とするなどし、

お堂は波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたとのこと。

その結果、約800年間に亘り無事保存されてきている。


それと対比されるのが、この三十三間堂から北へ約800mに位置する「方広寺」

豊臣秀吉により奈良大仏に倣った大仏の建立が計画され、文禄4年(1595年)に方広寺大仏殿が完成し、高さ約19mの木製金漆塗大仏が安置された。

しかし、その翌年慶長元年(1596年)の慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。
哀れ秀吉。


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元禄7年3月2日 芭蕉 最後の花見

2018年03月02日 16時23分33秒 | つれづれ


元禄7年(1694年)3月2日、芭蕉は依水らと連れ立って上野に花見に行ったようだ。

明日の日をいかが暮らさん花の山

元禄2年から4年にかけて各地を巡った旅行記を自筆本「おくのほそみち」としてまとめたのが、どうやらこの年元禄7年の2月末ではないか?とのこと。

だとしたら、芭蕉は晴れ晴れとした気分だったろうが、どうしてこんな句を?

前年の夏には暑さで体調を崩すなどしていることから、50を迎えどこかで将来への不安、故郷伊賀への望郷の思いも強まっていたのかも知れない。

この年の秋、伊賀の兄を訪ね、10月に大阪 南御堂で亡くなっている。


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