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明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

島原の乱 松倉重政、勝家

2014年11月04日 13時49分41秒 | キリシタン
1637年8月頃から、飢饉と凶作、重税に苦しむ九州島原、天草では不穏が動きが出ていた。

顕著になったのは12月。妊婦を拷問死させたことへの憤慨、キリシタン聖画像を踏みにじった代官に対する激昂などから、領民は島原南部の村々の代官を襲撃。

12月12日には天草四郎を総大将に森岳城(島原城)に攻め入った。



最終的に島原城を落とせなかった領民約37000人は、廃城になっていた「原城」に立て篭もるが、88日間に及ぶ籠城の末、4月12日松平信綱率いる鎮圧陣により女性や子供に至るまで皆殺しとなって終わる。




時の島原藩主は松倉勝家。
かつてこの島原、天草は、キリシタン大名有馬晴信らに庇護されてきていた。

1616年新領主となったのが勝家の父松倉重政。当初はキリシタンにも比較的穏便に対応していたが、江戸に出府し、幕府からその手ぬるさを叱責されるや一転して厳しく取り締まりを開始。

雲仙地獄でキリシタンに熱湯をかけたり、逆さ吊りにしたりして殉教させたのもこの松倉重政。



重政は、幕府にいい顔をしたいがためか領内の石高を実際以上に大きく幕府に報告し、それに見合った年貢を計上するために領民に過剰なる年貢を強いた。



更には、身分不相応な新しい城(島原城)を建設し、領民に使役と重税を貸した。

通常の年貢では足りないので、子供が生まれたら「頭税」、家で棚を作ったら「棚税」などあらゆる口実を作って増税。

重政亡き後を継いだ息子松倉勝家も更に過酷路線を強行。

税を納められない領民に蓑を背負わせて火をつけ、熱さに逃げ惑う姿を「蓑踊り」と称して楽しんだという。



奴隷として生きるよりも自由な人間としつ生きたいと立ち上がった約37000人が皆殺しとは。

無人の原城が余りにも静か過ぎる.

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