隠れキリシタンの里
大阪 高槻、茨木の奥、千提寺地区。
隠れキリシタンの里として有名であるが、そこのキリシタン資料館に東(ひがし)さん、そして近くの中谷光さん宅を訪問
まずキリシタン資料館での東さん。
キリシタン資料館は、以前に比べて随分すっきりした感じがあるが、複製ながらもこれまでに東家で見つかったキリシタン遺物を中心に整理して展示してある。
あの有名なフランシスコザビエル像図
マリア十五玄義図
聖母子十五玄義図
天使讃仰図
木像のキリスト磔刑像
これらを納めていたあけずの櫃
などなど
(資料館所蔵品の写真はネットから)
あけずの櫃は、役人に見つからないように天井裏大黒柱にくくりつけてあったというが、よくもこんな小さな容れ物にこれだけのものが入っていたかと感心する。
これはその昔に、近所の子供が代官所にこの家がキリシタンであることを密告し、取り調べが入ることへの対抗策だということ。
更には、これら大事なキリシタン遺物のを持っていることが広まらないように、一子相伝、家を継ぐ者だけにその存在を伝えていたこと。
メダイについては、見つかった状態の複製と作られた当初の複製を並べて展示。珍しい教皇グレゴリオ14世、教皇クレメンス2世のものなどあり。
保管されていたのものは確かに色合わせてはいるが、凹凸などは残っており、当時日常的に身につけていたものではなく、大事に保管していたことを思わせる。
禁教令取調べ厳しき時代に、うっかり見つかっては大変だったろうから。
江戸末期 天保8年、10年に生まれたご先祖である 中谷イトさん、中谷ミワさん、東イマさんなどの当時の話を聞く。
その当時にもまだ踏み絵があり、子供だった東イマさんなどは、わざわざ転んだ振りをして踏み絵を避けたとのこと。
明治直前にまで踏み絵があったことに、改めて驚く。
そんな彼女達すら一子相伝で伝わるキリシタン遺物のことは知らなかったとのこと。
続いで近くの中谷光さん宅をご訪問。
こちらで発見、保管されていたる「ロレータ聖母子像」の現物を見せて頂く。
「LORETA」との浮彫りがあるが、これはイタリアのロレートに建てられている教会堂を背景にした聖母子像。
聖母子は亜鉛板を裏から叩き出して作られたもので、それに日本で木製の枠と観音開きの扉をつけたもの。
これもやはり天井裏に保管されていたとのこと。大事な時には取り出し、拝んでいたようだとのこと。
また、こちらで発見された「ドチリナ•キリシタン」の複製本を見せて頂く。
これは九州加津佐で1591年に製本されたものとされ、日本で残る唯一のものと言っても良いもの。
師匠と弟子との問答形式でキリスト教の教えを説くこのような本で、当時の人達がキリスト教を学んでいたことになる。
更に「ギヤドベカトル」の複製本も見せて頂く。
これはドミニコ回司祭ルイス•デ•グラナダの原著(1555年)の抄訳で、裏表紙にあるように1599年(慶長4)に長崎で出版されたもの。
神の十戒を説き、救霊、修徳の指針としたものである。こんな本を今から400年の人達が読み、学んでいたかと思うと感慨深い。
中谷さんのご自宅前からの眺め。
向かって左がキリシタン墓の「上野マリア墓碑」が発見された「寺山」、その右手が「佐保カラヽ」が発見された「クルス山」
ここは、なんとか新名神高速道路の新設工事は免れた。
しかし、多くのキリシタン墓地が発見された「前山」などは新名神工事でなくなっていることが残念。
隠れキリシタンというと九州、長崎を思うが、地元高槻で受け継がれていたことに驚く。これも高山右近の働きの一つか?
それにしてもキリシタン遺物の数々は凄いとしても、江戸時代末期に子供までが踏み絵を拒んで信仰を守ろうとしたそのエネルギー、パワーがどうやって継承されたのか?と思う。
大阪 高槻、茨木の奥、千提寺地区。
隠れキリシタンの里として有名であるが、そこのキリシタン資料館に東(ひがし)さん、そして近くの中谷光さん宅を訪問
まずキリシタン資料館での東さん。
キリシタン資料館は、以前に比べて随分すっきりした感じがあるが、複製ながらもこれまでに東家で見つかったキリシタン遺物を中心に整理して展示してある。
あの有名なフランシスコザビエル像図
マリア十五玄義図
聖母子十五玄義図
天使讃仰図
木像のキリスト磔刑像
これらを納めていたあけずの櫃
などなど
(資料館所蔵品の写真はネットから)
あけずの櫃は、役人に見つからないように天井裏大黒柱にくくりつけてあったというが、よくもこんな小さな容れ物にこれだけのものが入っていたかと感心する。
これはその昔に、近所の子供が代官所にこの家がキリシタンであることを密告し、取り調べが入ることへの対抗策だということ。
更には、これら大事なキリシタン遺物のを持っていることが広まらないように、一子相伝、家を継ぐ者だけにその存在を伝えていたこと。
メダイについては、見つかった状態の複製と作られた当初の複製を並べて展示。珍しい教皇グレゴリオ14世、教皇クレメンス2世のものなどあり。
保管されていたのものは確かに色合わせてはいるが、凹凸などは残っており、当時日常的に身につけていたものではなく、大事に保管していたことを思わせる。
禁教令取調べ厳しき時代に、うっかり見つかっては大変だったろうから。
江戸末期 天保8年、10年に生まれたご先祖である 中谷イトさん、中谷ミワさん、東イマさんなどの当時の話を聞く。
その当時にもまだ踏み絵があり、子供だった東イマさんなどは、わざわざ転んだ振りをして踏み絵を避けたとのこと。
明治直前にまで踏み絵があったことに、改めて驚く。
そんな彼女達すら一子相伝で伝わるキリシタン遺物のことは知らなかったとのこと。
続いで近くの中谷光さん宅をご訪問。
こちらで発見、保管されていたる「ロレータ聖母子像」の現物を見せて頂く。
「LORETA」との浮彫りがあるが、これはイタリアのロレートに建てられている教会堂を背景にした聖母子像。
聖母子は亜鉛板を裏から叩き出して作られたもので、それに日本で木製の枠と観音開きの扉をつけたもの。
これもやはり天井裏に保管されていたとのこと。大事な時には取り出し、拝んでいたようだとのこと。
また、こちらで発見された「ドチリナ•キリシタン」の複製本を見せて頂く。
これは九州加津佐で1591年に製本されたものとされ、日本で残る唯一のものと言っても良いもの。
師匠と弟子との問答形式でキリスト教の教えを説くこのような本で、当時の人達がキリスト教を学んでいたことになる。
更に「ギヤドベカトル」の複製本も見せて頂く。
これはドミニコ回司祭ルイス•デ•グラナダの原著(1555年)の抄訳で、裏表紙にあるように1599年(慶長4)に長崎で出版されたもの。
神の十戒を説き、救霊、修徳の指針としたものである。こんな本を今から400年の人達が読み、学んでいたかと思うと感慨深い。
中谷さんのご自宅前からの眺め。
向かって左がキリシタン墓の「上野マリア墓碑」が発見された「寺山」、その右手が「佐保カラヽ」が発見された「クルス山」
ここは、なんとか新名神高速道路の新設工事は免れた。
しかし、多くのキリシタン墓地が発見された「前山」などは新名神工事でなくなっていることが残念。
隠れキリシタンというと九州、長崎を思うが、地元高槻で受け継がれていたことに驚く。これも高山右近の働きの一つか?
それにしてもキリシタン遺物の数々は凄いとしても、江戸時代末期に子供までが踏み絵を拒んで信仰を守ろうとしたそのエネルギー、パワーがどうやって継承されたのか?と思う。
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