明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

奈良 澤城跡を訪ねる

2017年05月29日 15時37分02秒 | キリシタン
奈良澤城は、芳野氏、秋山氏とともに宇陀三将の一人とされた沢氏が正平年間 (1346~1370)に本城として築いた城である。


天正8年(1580)に織田信長が大和郡山城主・筒井順慶に命じた大和城郭破却令によって廃城となったが、永禄3年(1560)から10年(1567)の8年間、高山右近の父・高山友照(たかやまともてる)は、松永久秀の配下としてこの沢城を居城としていた。


永禄6年(1563)にカトリックの洗礼を受けた高山友照は、翌永禄7年(1564)、日本人イエズス会員であり名説教家であるロレンソを澤城に招き、右近を始めとする一族、家臣らにキリスト教の教えを聞かせ、結果150名程が受洗した。

その澤城跡 高山右近受洗の地を訪ねる。

■近鉄 榛原駅
最寄り駅は近鉄大阪線榛原駅
JR大阪からは約1時間強




ここで奈良交通「菟田野」行きに乗り9つ目「比布」 バス停の数の割には要する時間は約10分
ただし、バスは1時間に1本







■バス停「比布」
バスを比布で降りて、すぐを左手へ歩き出す





伊那佐文化センター前を通り過ぎ、そのまままっすぐに。




目的地澤山(標高 524m)が見えてくる( ちょうど、ポールの先ぐらい)
左手の高い山は伊那佐山





澤城跡への道標もあるが、そのまま道なりに進む






■右近の受洗の碑と少年右近像
そのまま進んでいくと、やがて右近の受洗の碑に。






この案内板によれば、尾根に切った二重の堀切から大手口を抑える城郭まで南北700m、東西400mに及ぶものだったと。

ここに高山ダリオの妻子他、約300名の家臣が住んだという。
さあ、その澤城跡を目指して!





■澤城跡へ
いよいよ澤城跡へ

城跡へのルートは大きく2つ、「大月ルート」と「沢ルート」があるが、ルートの整備されている「大月ルート」からアプローチ。

右近の碑のすぐ手前(少し戻ったところ)を入る




「澤城跡まで2Km」とある。 
が、実際は山道を1時間ほど登ることになる。





大月公民館を過ぎ、右手「山口農園」側へ






どんどん歩いていく。
ここの分岐が一番注意する箇所!
ここを左手の山道側を行く




山道ながらもまずまずは整備されている





山の池、歩き出してからここまでで約40分。 もう一歩





ようやく大月ルートと沢ルートの合流点にやっと到着
途中の池から約20分でやっと到着。 右近の受洗の碑からは約1時間!





ここから矢印に従って一旦下り、また軽く登る感じで澤城跡へ向かう 
5分ほどで「出の丸跡」へ






右手の出の丸跡を登った一番奥のところに、広めの平らの土地がある。

ここが「長さ20m、幅7.7m」と記録されている教会の跡ではないかと推測される。いや、多分、絶対にそうだと思える。




本丸へは出丸跡の先、左手の急斜面を登る。 結構きつい。




■澤城の本丸跡!

本丸跡と言っても全く整備はされておらず、当時の面影は全くない。

それにしても、ここで高山ダリオ、右近達はロレンソの話を聞いたのか?と感慨深いものがある。








■帰路
先ほどの「大月ルート」、「沢ルート」との合流点に戻り、沢ルートを下る。

ただこれは大失敗。
本来なら登ってきた「大月ルート」を引き返すべきだった。




沢ルート側はまったく整備されておらず、本来なら利用しないほうが良いと思われる。 道に迷う可能性も大。





​  ​
大月ルートと同じく約1時間かけて麓に戻る。

沢ルートの出発点に当たる史跡
下城(しもんじょ)と馬場遺跡跡








最終的には「右近の碑」の横に出てくる




大月ルート、沢ルート、いづれも出発点は「右近の受洗の碑」ということになる。

「右近受洗の碑」に向かって、左側から入れば「大月ルート」に、右側から入れば「沢ルート」になる。





来た道を戻り、伊那佐文化センターの前を通り、バス停「比布」へ 約20分

奈良交通のバスは1時間に1本 (事前に確認しておく方が良い)





近鉄榛原駅までは約10分。



右近が奈良澤城にて洗礼を受けたのが1563年、12歳の頃。
おおらかにこの地で過ごした右近。
やがて摂津の高槻城主等となるも、1587年秀吉からの棄教命令にも断固たる姿勢を示し、即座に改易、国内追放となった。

風に吹かれながら遠い記憶をたどる半日





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