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聖地日和 神々の場所 10

2009-06-14 00:04:18 | 活字の海(新聞記事編)
毎日新聞 2009年5月24日(日) 日曜くらぶ2面
神々の場所 10 京都・松尾大社
筆者:伊藤和史 写真:荒牧万佐行
サブタイトル:巨岩 平安京の基軸


休肝日を除けば、毎日(って、当たり前か)。
お世話になるアルコール。
#といっても、家で飲むときには350mlを1or2本
 程度なんだけれど。

その神様である松尾様の総本社である京都の松尾大社
京都のお寺は、折に触れてこれまで散策してきたが、
こちらにはまだ足を向けたことが無かったことを、
日ごろお世話になっているものとして、深くお詫びをせねば
なるまい。


その松尾大社を取り上げてくれたのが、今回の記事である。

その歴史は古く、遠く701年(大宝元年)にまで遡る。
平安京遷都が794年(延暦13年)であるから、この記事にも
あるとおり、遷都に当たって場所を特定する際に、松尾大社が
この地にあることが、重要な要素の一つとなったという記事の
記述とも時代的に符丁する。

実際、記事ではそこまで明確には書かれていないが、松尾大社が
都の南西の、いわゆる裏鬼門に当たる場所に配され、北東の
比叡山の表鬼門と対を成している。

これに、四神の守護を加えることで、平安京の霊的守護システムを
構築していることは、地図を俯瞰してみれば容易に見て取れる。

ちなみに、平安京におけるこうした風水上の配置の妙は、
こちら(KAZUさんの「西陣に住んでます」中の、
平安京の磐座バリアシステム』でとても丁寧に解説されているので、
興味のある方は是非ご覧ください。

簡単に四神と鬼門の防衛システムを紹介すると、以下のとおりとなる。

 北(玄武)   : 船岡山
 南(朱雀)   : 巨椋池 ※ 干拓事業により、既に無い。
 東(青龍)   : 鴨川
 西(白虎)   : 山陰道
 北東(表鬼門) : 延暦寺/日吉大社
 南西(裏鬼門) : 松尾大社


いずれにせよ…。
長岡京時代の荒廃した世情や天変地異、それに加えて早良親王の
怨念
が桓武天皇の心を相当に悩ませた結果、平安京への遷都が
決行されることとなる。

長岡京への遷都から僅か10年後のことである。

その際の遷都先候補の選定には、様々な議論も合ったろうが、
上述したように多重の風水上のバリア構築が可能なこと、
更に秦氏による丹波・山城の一大開拓事業により、この周辺が
首都を招致するまでに裕福な国情を示していたこと等が重複
して、この葛野(かどの)の地に都が設営されることなった。
#このあたりは、松尾大社のHPの中の「ご由緒」に詳述
 されている(ここで、初めて嵐山が元々は荒子山だった
 ことを知った。歴史は面白いなぁ。うん)

面白いのは、その霊的防御プランが、神と仏というレイヤの
異なるものを組み合わせることによって、多元的な防衛ラインを
引いた点である。

その際に、寺院については、元来仏教が伝来宗教でもある
ことから、遷都プラン構築時に設けることも出来た訳であるが、
神様についてはそうもいかない。


何せ、日本の神様については、神話の時代はともかくとして、
人治の世になった頃には既にその地に根付いていらっしゃる訳
である。

そこに人間が後からお邪魔して、テリトリーに住まわせてもらう
どころかお守り役まで引き受けて戴こうというのである。

山岸涼子の「日出処の天子」に描かれた厩戸皇子ならいざ知らず、
そうした役回りを承諾していただくには、きちんと礼節を守って
詣り奉る必要があったであろうことは、想像に難くない。

#もっとも、菅原道真のように、神には人が転じて成るものもある。
 更には、大坂城における秀頼と淀君のように、強い恨みを持つ
 魂を、人為的に鬼門に置くことで、鬼門の守りをやらせるという
 発想もある。


もっとも、この地を治めていた秦氏の一族も渡来系であり、
この地に根を下ろすに当たってその土地の守り神であった
大山咋神(おおやまくいのかみ)を自らも氏神とすることで、
土地への親和を図ったという話もあるので、こうした後から
乗り込んできたものが、その地のものを取り込んでいくという
アプトム張りの図式は、普遍的な手法なのだろう…。


そうした永きに渡る歴史を持つ松尾大社。
そうした神社の御神体(この場合は磐座)が、事前申し込みが
必要とはいえ、一般に開放されているというのは、かなり稀なの
ではないだろうか。

松尾大社の奥深く。
神殿背後の登拝口(磐座の参道に当たる)から山道を登っていった
先にあるご神体の磐座。

その名のとおり、相当に巨大なものらしいが、さすがにご神体だけ
あって松尾大社のHPにも写真等は掲載されていない。

楽をせず。
自分の足と目で感じなさい。といったところだろうか。

その磐座も、風化による崩壊が進んでいるとか。
万物流転が世の習いである以上、それもまた神の定めた摂理なの
だろうが、せめてなるべく早い機会に、自ら足を運んでみよう。
そう、決心した。

(この稿、了)

(付記)
この平安宮の霊的防衛システムにより、1000年もの長きの間、
京都が都であり続けたことは素直に凄いと思う。

しかしながら、朱雀(巨椋池)が喪われた今、その結界は破れて
しまった。

その干拓事業は昭和16年に完了したのであるが、そのことと
その後の日本の歴史が辿った道とは、相関するのだろうか…?



歴史は、縦横斜め、様々な角度から見なければならないんだよ
なあと、改めて思う一冊。
「風水」で読み解く日本史の謎―平安京遷都から江戸幕府の繁栄まで (PHP文庫)
李家 幽竹
PHP研究所

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言わずと知れた「信長の野望」の光栄が出している本。
平安京解体新書

光栄

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先ほど、歴史は多面的に見なければ、と書いたが、こうした観点も
あったんだなと、吃驚。
平安京のニオイ (歴史文化ライブラリー)
安田 政彦
吉川弘文館

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