活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

ベーシック・インカム

2008-02-19 00:04:27 | 活字の海(新聞記事編)
著者:ゲッツ・W・ヴェルナー(現代書館・2100円) 訳者:渡辺一男
毎日新聞 2月17日(日) 11面 今週の本棚より  評者:中村達也

副題:福祉国家の問題を示すラディカルな発想

ベーシック・インカム。
文字通り、基本的な収入とでも訳せばよいのだろうか。
論文等では、大抵がそのまま表記されるか、もしくはBIと略称で呼ばれることが
多いようである。

さて、そのBIであるが。
著者は、全ヨーロッパで約1500の店舗と21000人の従業員を擁し、年間売り上げは
31億ユーロにのぼる巨大ドラッグストアの創業者
である。

いわば資本主義の具現者のような、そのヴェルナーが提唱するBIとは一体
どのようなものであろうか?

日本でも、小沢修司等によるBI論が展開されている。
彼の説く説は、僕にはもっともよくBIの特徴を明示してくれているように
思える。

ヴェルナーや小沢氏によると、BIのもっとも大きな特徴は、労働と所得の
分離である。

本来人間は、様々な可能性を内在しているが、食わんがために働くことを
優先せざるを得ない社会環境にあって、職業選択の自由は形骸化し、
生活の安定を求めて、より高給な仕事へと指向していく。

そこには、労働の神聖性を見出すことは出来ないし、個々人の本来花開くべき
才覚の蕾も、日の目を見ることもなく埋もれてしまう結果になりがちである。

そこで、社会資本を整備し、十分な原資を用意した上でBIを実現出来れば、
生活レベルを保証された人々は、食うための労働から、自己実現のための
労働へと、労働の持つ意味をコペルニクス的に転換出来る。

これこそ、労働と所得の分離により実現するものである。

勿論、よりよい生活を希求するものは、その価値観に則って更に自らが選んだ
労働に従事する選択肢もある。

また、生活のための時間の切り売りから解放された人は、文学でも絵画でも
ボランティアでも、どのような方向にであれ自分の感性の赴くまま、とことん
まで追求することを許されるようになる。

これにより、これまで潰えてきた幾多の文化の萌芽が萌え出でることが可能
となるであろう。

こうした主張を、ヴェルナーや小沢は説くのである。

そして、BIを実現するための財源として、例えばヴェルナーは税率50%の
消費税に求めている。

所得税や法人税といった、労働の成果たる収入への課税は一切廃止し、あくまで
消費に対する課税とするといった主張は、確かに分かりやすい。
その伝でいけば、金持ち優遇策という謗りをBIが受けることはないように
思われる。

が、しかし…。

本当に、そうした社会は構築しうるのだろうか?
公共サービスに、生活の糧の全てを人が依拠したときに、その精神に真理を
追求する煌きは残りうるのだろうか?

どのようなジャンルにせよ、達成を渇望する魂があって、初めて人より一歩
前に歩みだすことが出来る。

が、飢えたことのない魂は、常に精神が弛緩状態となり、そうしたモチベーション
を維持することは、余程の才覚がある人で無いと不可能となってしまう。


そう考えるのは、余りにもペシミスティックな反応だろうか。
だが、僕にはそうとしか思えない。
捕獲され、動物園に送り込まれた一世の世代は、弛緩した生活の中にも、
時折空の彼方にかつて駆け巡った山野を思い出すときもあるかもしれない。

だが、二世は、ましてや三世は、そうした世界が存在することすら知らない。
知る由もない。
そして、飼いならされた生活の中、自らの存在をあくまで知覚しうる枠内に
押し込めて生きていくのだ。

その姿は、僕には光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」のゼンゼン・シティーにて、
現実逃避の繭=コンパートメントに篭って非現実の世界で安寧を貪るA級市民に
ダブって見てしまう。

今回、定量的な材料は一切無く、定性的な話のみに終始したため、根拠は?
と問われると、これが全く示せない。

ただ、そんな生活の中では、僕は生きられないのでは?という逼迫感が
僕にとっての自説の正当性を主張する証拠である。

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