毎日新聞 2008年10月14日(火)夕刊8面 文化欄より
筆者:苅部 直(東大教授(日本政治思想史))
サブタイトル:舞台裏を思わす言い回しに違和感
「目線」。
普段、何気なく使用しているこの言葉について、筆者は違和感を
感じると主張する。
確かに、「目線」は筆者が指摘するように、音読みと訓読みを
組み合わせた湯桶(ゆとう)読みである。
用法としては、漢字の由来を考えれば、和語と漢語が折衷されて
いる湯桶読みは、正しくないとされている。
ただ、漢語に由来する読み方のみが正しいとする考えが偏屈で
あることは自明である。
そもそも、漢字が日本に輸入された時点で、独自の読み(訓)を
付与され、やがて平仮名も派生していった経緯を考えれば、
むしろその発生は必然とも言える。
だから、湯桶読みだからという理由だけで、筆者が福田前首相の
記者会見等で「国民の目線に立って」という表現に違和感を
感じていたすれば、それはかなり偏狭と言えるだろう。
#しかも、その代わりに筆者により推奨されたのが、「視線」
だからなぁ。
もっとも、筆者も湯桶読みを全面的に眼の敵にしている訳ではない。
問題は、「目線に立って」という言葉に代表されるように、
本来は芝居やテレビ等の製作現場で用いられる独特の用語で
ある言葉が、何時の間にやら市民権を得てしまったことにある、
としている。
その流れを受けて、例えば「彼の立ち位置は…」という表現も
筆者は目の敵にする。
その舌鋒や辛らつで、「あなたはディレクターとして相手に
演技指導をしているつもりか」と切り捨てる。
そして、テレビ番組に安易な楽屋落ちが横行したことを受けて、
こうした言葉も流布するようになったのだろうと推察する。
この論旨を踏まえて、筆者は政治家が政治家たらんとするため
には、こうした軽佻浮薄な言葉遣いを用いることはふさわしく
ない。それはあたかも「舞台上で演技を見せながら、背景の
装置は実はベニヤ板でできているとほのめかすようなもの」と
いう主張を繰り広げるのだ。
以上、まとめはしたが、筆者の主張するところは盛り込んだ。
さて、これを読んで、あなたは筆者に同意するだろうか?
あるいは反発するだろうか?
僕はといえば、後者であった。
言葉は生き物。時代を色濃く反映したものである以上、
用法などはどんどんと変質と解体を繰り返していくことが、
むしろ当然である。
勿論、後世にきちんと残したい美しい日本語、という考えが
あることは認めるし、否定はしない。
だが、今という時を切り抜いて表現する際に、遠い昔の
借り物の言葉を用いなくとも、折角今のご時勢に広く
展開され、皆も同じ見解を有している言葉を用いることが、
それほどまでに軽々しい印象を与えるという感覚が、
僕の乏しい感性には無いために、筆者の主張は心の表層を
滑ってしまう。
むしろ、政治家特有の持って回った言い回しではなく、
「国民の目線に立った」わかりやすい言葉で実のある内容を
語ってもらう方が、どれだけいいことか。
政治家に求めるものは、何をおいても政治的手腕である。
どれほど理想に燃える心を持っていようが、それを実現する
手立てを有しない限りは素人の居酒屋での政治談議と変わらなく
なってしまう。
だが、その一方で。
自らが行おうとする政道をきちんと国民に説明し、理解を
得られるための弁舌もまた、必要である。
そこに、美辞麗句は必要無い。
有れば有ったで構わないが、講談を聴いている訳では無いのだ。
問題は、どれほど実と熱の篭った内容を、自らの言葉で発し、
それが聞き手である国民にきちんと届くのか。
そういうことだと思うのだが。
(この稿、了)
筆者:苅部 直(東大教授(日本政治思想史))
サブタイトル:舞台裏を思わす言い回しに違和感
「目線」。
普段、何気なく使用しているこの言葉について、筆者は違和感を
感じると主張する。
確かに、「目線」は筆者が指摘するように、音読みと訓読みを
組み合わせた湯桶(ゆとう)読みである。
用法としては、漢字の由来を考えれば、和語と漢語が折衷されて
いる湯桶読みは、正しくないとされている。
ただ、漢語に由来する読み方のみが正しいとする考えが偏屈で
あることは自明である。
そもそも、漢字が日本に輸入された時点で、独自の読み(訓)を
付与され、やがて平仮名も派生していった経緯を考えれば、
むしろその発生は必然とも言える。
だから、湯桶読みだからという理由だけで、筆者が福田前首相の
記者会見等で「国民の目線に立って」という表現に違和感を
感じていたすれば、それはかなり偏狭と言えるだろう。
#しかも、その代わりに筆者により推奨されたのが、「視線」
だからなぁ。
もっとも、筆者も湯桶読みを全面的に眼の敵にしている訳ではない。
問題は、「目線に立って」という言葉に代表されるように、
本来は芝居やテレビ等の製作現場で用いられる独特の用語で
ある言葉が、何時の間にやら市民権を得てしまったことにある、
としている。
その流れを受けて、例えば「彼の立ち位置は…」という表現も
筆者は目の敵にする。
その舌鋒や辛らつで、「あなたはディレクターとして相手に
演技指導をしているつもりか」と切り捨てる。
そして、テレビ番組に安易な楽屋落ちが横行したことを受けて、
こうした言葉も流布するようになったのだろうと推察する。
この論旨を踏まえて、筆者は政治家が政治家たらんとするため
には、こうした軽佻浮薄な言葉遣いを用いることはふさわしく
ない。それはあたかも「舞台上で演技を見せながら、背景の
装置は実はベニヤ板でできているとほのめかすようなもの」と
いう主張を繰り広げるのだ。
以上、まとめはしたが、筆者の主張するところは盛り込んだ。
さて、これを読んで、あなたは筆者に同意するだろうか?
あるいは反発するだろうか?
僕はといえば、後者であった。
言葉は生き物。時代を色濃く反映したものである以上、
用法などはどんどんと変質と解体を繰り返していくことが、
むしろ当然である。
勿論、後世にきちんと残したい美しい日本語、という考えが
あることは認めるし、否定はしない。
だが、今という時を切り抜いて表現する際に、遠い昔の
借り物の言葉を用いなくとも、折角今のご時勢に広く
展開され、皆も同じ見解を有している言葉を用いることが、
それほどまでに軽々しい印象を与えるという感覚が、
僕の乏しい感性には無いために、筆者の主張は心の表層を
滑ってしまう。
むしろ、政治家特有の持って回った言い回しではなく、
「国民の目線に立った」わかりやすい言葉で実のある内容を
語ってもらう方が、どれだけいいことか。
政治家に求めるものは、何をおいても政治的手腕である。
どれほど理想に燃える心を持っていようが、それを実現する
手立てを有しない限りは素人の居酒屋での政治談議と変わらなく
なってしまう。
だが、その一方で。
自らが行おうとする政道をきちんと国民に説明し、理解を
得られるための弁舌もまた、必要である。
そこに、美辞麗句は必要無い。
有れば有ったで構わないが、講談を聴いている訳では無いのだ。
問題は、どれほど実と熱の篭った内容を、自らの言葉で発し、
それが聞き手である国民にきちんと届くのか。
そういうことだと思うのだが。
(この稿、了)
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