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人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第11章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第11章

更なる試練とお正月

平成27年10月の秋祭り本番で、囃子や太鼓の音で賑わう最中、精密検査で予期せぬ悪夢が襲い掛かる。

何と肺に腫瘍が見つかったのである。

主治医の白波瀬先生の説明によると、「この腫瘍は転移とか再発では無く新規の腫瘍です」との診断結果であった。

病名は告げられなかったが「おそらく死亡率一位で、生存率の低い肺ガン」であろう事は容易に想像出来た。

ようやく新たな会社もスタートさせ、多少の不便さは有るものの落ち着きを取り戻し、穏やかな生活を送っていた矢先の告知であった。

人生の再出発に意欲を持ち、充実した日々を過ごしていた私にとっては、悪夢の他の何物でもなかった。

「踏んだり蹴ったり」とはこの事である。

しかし、新規に独立した会社の事もあり、この時点では諦める訳にもいかず、病名も確定した訳では無かったが、さすがにこの後に知らされる事になる病名に、落ち込みと苦悩の日々が続き、うつ病にも悩まされる事になる。

毎月行われるCT検査やMRI検査、京都ルネス病院でのガン専用のペットCT検査など、検査、検査の連続の日々が続いたが、それでも病名が確定されない。

   「京都ルネス病院」

この時点では、診療科も当初の泌尿器科から呼吸器内科、心臓血管外科へと引き継がれていた。

年が明け平成28年。

私には二歳年下の家内が1人居る。

家内が2人も3人も居ては少々厄介ではあるが、結婚して36回目の正月を迎えた。

同居している義母との3人家族だが、3人で新年の挨拶を交わすが、義母も私と同様に難聴で身体障害者である為に、少々耳が聞こえにくい。

 家内は若い時には、それなりに美人で明るく、優しい女性だと思って結婚したが、今となっては見る影もない姿、形になってしまったが、今も今後も続くと思われる闘病生活では、少なくともこれまで一度たりとも嫌な顔もせずに、一生懸命に世話をしてくれる、私にとっては唯一無二の親友であり、愛妻であり看護師の様な存在である。

 

    「家内と家内の母」 

毎年恒例になっている夫婦での私の実家(兄の自宅)への新年の挨拶や親睦会を楽しみつつ、今は亡き両親の仏壇に手を合わせ、思いを伝え報告した。

「ガンになった。」

 

    「実家での恒例の新年会」

お父ちゃん助けてくれ、お母ちゃん悲しいよ」と。もちろん無言だが「何時も見守っているよ」言ってくれている様な、両親の少し微笑む遺影に涙が頬を伝う。

翌2日には、これも恒例となっている子供達3家族との新年の親睦会を自宅で行い、賑やかに走り回る5人の孫達に囲まれ、これ以上に無い至福の時間が流れたが「来年は無いかも知れない」」と思うと目頭が熱くなった。

楽しい一時であったが、夜も更けお年玉を手渡しお開きとしたが、同じ思いをしていたのか隣に座っていた家内の目が、これから先に知らされる事になる悪夢を予感してか、少し潤んでいる様にも見えたが、同じ思いをして居たに違いない。

こんな穏やかで楽しい時間が止まってくれる事を願わずには居られなかった。

 

  「実家で兄貴と乾杯」

家内の実家は娘二人姉妹で、長女が私の家内の為に後継者が無く、家内の父親はガンで56歳の若さで他界し、母親は私達が引き取り同居している為に、墓の管理やお参りには行くが、新年の挨拶や里帰りは無い。これが義母との3人家族の理由である。

 

   「兄弟家族で乾杯」

 

    「弟と乾杯」

 

     「兄嫁の姉さんと家内」

 

   「㈱ユラク経営発表会」

  「創業記念祝賀会乾杯の音頭」

 「ほーゆー田中店長と」

 「ユラク経営発表会祝賀会」 

ご覧いただきありがとうございました。

次号第12~13章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第10章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第10章

身体障害者の認定

「光陰矢のごとし」と言うが、平成27年5月8日の退院以来、早40日が経過しようとしている。現在も検査と治療の為に、毎週通院は欠かせないが、再発や転移も見つからず会社にも出勤し、穏やかな日常生活を過ごしているが、2か月間で2回合計13時間に及ぶ大手術であった為に、身体障害者に認定された。

ちなみに私の障害名は、原文では「膀胱機能障害により社会での日常生活活動が著しく制限されるもの」とあり、身体障害等級4級、旅客鉄道運賃減額2級、年金等級3級であり、認定は兵庫県と日本年金機構となっている。

   「障害者手帳」 

私は膀胱、前立腺、尿道を全摘出しているので、義足ならぬ義チンで、尿の排出機能も生殖機能も無い。

自力で尿意を感じる事も排出する事も貯める事も出来ないので、腸を使った人工膀胱でお腹に付けた袋のような容器に尿を垂れ流して排出し、一杯になるとこれをトイレに流す。

外出する時は、必ずトイレに行き袋を空にして、出先では先ずトイレの場所を確認する。常に袋が外れないかを確認し、予備の袋を常に持ち歩かなくてはならない。

また、この袋は3日に一度取り換える必要も有り、約3000円(豊岡市は助成金有り)ほど掛かりる。

暖かくなると袋が張り付けて有るお腹が炎症を起こし、赤く腫れてかゆみが発生し、寝る時は、袋が満タンになってもこぼれない様に延長の管を使い、大きい容器に繋ぎ朝まで貯めるので、常にお腹には管が繋がっていて、寝返りを打つ事も容易ではない。

何故、私が恥を忍んで、何故こんな話をするかと言えば「絶対にガンにはなってほしくない」一念からだ。

私は今後も一生こんな生活を余儀なくされる。外出先で容器が外れ、尿がこぼれズボンやシャツを濡らした事も有る。寝ていて外れた管で、布団を溢した事も一度や二度では無い。

こうして書きながらも尿が容器に垂れ流しになっている。今後もガンの転移や再発の危険があり、検査が続く。

これが私の実態だ。こんな不自由な生活に慣れるのには、もう少し時間が掛かるが、これも運命だと思う様に努力している。

本当に不便だ。

4カ月前までは皆様と同じだったが悲しい。苦痛だ。悔し情けない。本当に慣れて割り切るのに3年掛かると言われているが、引きこもりになる人も3割程あると聞いている。

もう一度言う「絶対にガンにはならないように」する為には、早期の検診と早期の発見しかない。

女性の皆様も条件は同じで、入院中は多くの袋を付けた女性患者にも会った。

「絶対にガンにはならないように」早期検診、早期発見を心掛ける事だ。是非お願いしたい。

しかし、その後の私は、多少の不都合は有るにせよ、穏やかな日常生活に戻りつつあった。

そんな中の6月3日 お世話になった家族、兄弟、親族、田中店長等にユラクの経営する外食業の「夢邸」で、約30名に集まって頂き、家内のお礼の挨拶で始まり、快気の食事会を開催した。

甥や姪から似顔絵ケーキをプレゼントされるなど、一度に集まる機会は中々無く、初めて一同が会する楽しい一時となった。

   「快気祝いの食事会」

 

   「似顔絵ケーキのプレゼント」

 

     「素晴らしい!」

その後日には、同じく「夢邸」で「ほーゆー本店」の社員の人にも集まって頂き、快気の食事会を開催する事が出来た。

花の置物をプレゼントされ、感激に浸った瞬間であった。

 

ちなみに、このプレゼントは、現在も「ほーゆー本店」の私の専務室で大切に飾られている。

また一方では、高校時代の同級生が快気として、大勢集まってくれ飲食やカラオケなどで盛り上がり、楽しい夜の一時を過ごす事が出来た。

 

   「同級生の皆さんと」 

カラオケを勧められ私の十八番「高校三年生」を歌おうとするが、皆の失笑と涙で咽び美声が出せない。

こんなはずでは無かったのだが、よほど嬉しかったのだろう。「皆さんありがとう。」 

体調も回復に向かって、ほぼ日常生活を取り戻しつつあった数か月後、兄からクルージングの誘いを受けた。

海辺で育った環境からか、兄は大の海好きで、数年前には友人と2人で、自己所有するクルーザーで日本一周の快挙を成し遂げた体験を持つ。

 

  「係留中のYURAKUⅢ」

相生マリーナに停泊させているクルーザーで「気晴らしに瀬戸内海の船旅に行かないか」との誘いである。

長男と田中店長との4人で家島、小豆島、明石大橋、瀬戸大橋などを観光し、生きて居ることを実感する忘れられない一日となった。

 

   「播磨灘家島諸島にて」 

その後、長男夫婦より、一年遅れの満60歳の還暦祝いの旅行をプレゼントされ、夫婦で一泊の旅行も楽しむ事が出来た。

本当に感謝、感謝の楽しい一時を過ごす事が出来た。 

 

    「還暦祝い・湯村井づつやにて」 

ご覧いただきありがとうございました。

次号第11章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第9章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第9章

驚異的な回復

 そんなな矢先に少し無理が有ったのか、喉の渇きの苦痛から私が無理を言い、少しだけ水を舐める事が許された。

それでも「急がば回れ」の心境で気遣いながら舐めたつもりの水が、つなぎ合わせた腸に溜まってしまうと言うアクシデントが発生し、腸閉塞と診断され、これも中止になり出直す事となったが、久しぶりに舐めた水は「五臓六腑に沁み渡る」表現のしようのない位の嬉しさ喜び「生き水」であったが、再度の激痛に襲われ苦しんだ。

数日間で収まり僅かではあるが、水を口にする事が出来るようになり、兄の力添えにより歩行訓練も、少しずつではあるが、行える程に回復していった。

実際は、ほとんど兄に脇の下を抱えてもらい、すり足程度の歩行訓練であったが、膝が笑って歩けない。

さすがに兄は身長180センチ、体重90キロの巨体だが、力も強く安心して身をゆだねる事が出来た。

これも60年間の「戦友兄弟」の信頼関係からかも知れない。

時には兄弟喧嘩もして、張り合った事も有るが、久しぶりに幼少の頃の兄弟に戻る事に、それ程の時間は掛からなかった。ちなみに「兄弟船」は私達兄弟の十八番のカラオケソングである。

「健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復と言う楽しみが有る」とは誰かの名言だが、正にそれを実感した歩行訓練であった。その間も、大勢のお見舞いを受け、感謝の連続であった。

術後の12日目にして、ようやく大部屋に移る事が許され、見慣れた部屋だと思ったら偶然にも、当初入院した部屋の同じ窓際の病床であったが、前回と違い今回は手術が終わっての病床で、恐怖や不安など心の負担は大きく異なり重苦しさは無かった。

食事制限も徐々に解除され、点滴などの管も全て無くなり、自由に動く事も可能になったが、一つだけ当初の説明で、解消されていない不安が有った。

それは、リンパ節と骨への転移の可能性であった。手術時に細胞を採取し検査をすると聞いていたが、検査結果はまだ聞いていなかった。転移していると引き続き放射線治療や、化学療法の抗がん剤治療が待ち受けていて、同室の患者さんの治療を見ても苦悩が見て取れる。

退院どころではないと聞かされていたので「転移していたら、また一から出直しか」回復するに連れて、検査結果が気になっていた。

抜糸の行われたある日に、思い切って主治医に尋ねてみると、いとも簡単に「転移は無かったので、治療としては今回で終了です」と告げられ太鼓判を押された。本当に「終わった」のだと安堵し家内と顔を見合わせ、二人で喜びに浸った。

主治医や看護師もびっくりするくらいの回復力で、当初の予定を繰り上げ5月の連休中の退院予定となったが、前日に突然血圧が急降下し2日~3日延期になる事態が発生したが、少し不安も有ったので、一日でも早く退院したいとの思いは無かったが、8日の午後から無事に退院する事となった。

正に「さくら咲く」であるが、「花は桜木」と言う様に、本当の桜も満開で、私の退院を待ちわびて、祝福してくれているかのような花盛りであった事を思い出す。

「住めば都」と言うけれど、病院はやはり病院で、住みよい所では無く慣れる事はなかった。3月20日の入院以来、約2か月ぶりの社会復帰を果たすことが出来たが、現在も手術の後遺症からか少し痛みの残る個所もあるが、生死に関わる問題では無いので養生に努め「千里の山も一歩から」焦らずに社会復帰したいと思う。

改めて今回の悪夢かと思う程の大病を経験し、家族はもちろん、兄弟と言う心強い存在の大きさに感謝し、「何時か違う場所、場面で恩返しが出来れば」との思いを強くする闘病生活であった。

また、私と同じく闘病中の独立した会社「ほーゆー本店」の田中店長からは、毎日営業状況の報告を随時受けるなど、大変お世話になったが、皮肉な事に私が入院で留守の方が、業績も前年を大きく上回るという「水を得た魚」の様な大活躍で、仕事を気にせずに治療に専念出来た事は、早期の回復の大きな要因で有った。

休みも取らずに早朝から夜遅くまで、責任を感じて頑張ってくれた様子は、疲れ切った表情からも見て取れ、親族では無いが「私の宝物」を守ってくれた事に、感謝とお礼を感じずには居られずに恩返しを誓った。

振り返って見ると死ぬかも知れないと思い、死にたいと思った苦悩も、今考えると約2か月間の短い闘病生活であった。

「朝の来ない夜は無い」とはよく言ったもので、諦めない事の大切さを学んだ。休日にも問診に駆けつけて頂いた主治医の先生を始め、看護師の皆様にも恵まれ、同情や激励を頂いた数多くの皆様に感謝し、生かされている事を痛感した約2か月間の貴重な闘病生活の体験であった。

しかし、闘病生活を美化してはいけない。「転ばぬ先の杖」と言う。

闘病生活は経験しないに事に越した事は無いのは当然であるが、その為にも皆様には、早期の発見と早期の治療が大切だと思う。少なくとも年一度の定期検診は必ず受診する事を強くお勧めしたい。

大腸ガンや膀胱ガンなどは痛みも無く、長い人では潜伏期間も10年を超えると聞かされた。

「わしは病院嫌いでなぁ」と豪語する人を良く見かけるが、私に言わせれば「死の恐怖」を体験した事の無い「浅知恵の無法者」である。早期の発見による小さな手術と、手遅れの発見で余命宣告される事では、苦悩や辛さが、比較にならない事は明白である。

多くのお見舞いにお越しいただいた皆様も、元気者のイメージの有る私の病床での姿を見て、少しは驚かれたと思うが、「大事は小事より起こる」と言うが、この病はある日に突然、誰の身にも運悪く、平等に降りかかる厄介な難病である。

「一生の不作」に成らない様に、今後は皆で更なる精進を心掛けたい。

その後、既に亡くなっている創業者でもある両親の年忌法要にも参加するなど、回復ぶりを墓前に報告し感謝した。

 

   「父母の法事」

 ご覧いただきありがとうございました。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第8章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第8章

恐怖との戦い

腸を20センチほど切り取り、人工膀胱に代用した為に飲食を口にする事が出来ない。40度を超える高熱と脱水、喉を始めとする体中の渇き、嘔吐、幻覚症状と閉所恐怖症に苦悩したが、特に喉の渇きと幻覚症状、閉所恐怖症は表現出来ないくらいの苦しみと恐怖であった。

 

「菜の花畑」や「山間の滝の風景」、「暗い小さな鉄格子の箱に閉じ込められる」幻覚など、これが「三途の川」なのか、と思えるくらいの苦痛と恐怖であった。「何時までこんな事が続くのだろう? こんな事なら死んだ方が楽だとも考え、泊りがけで看病してくれている家内の目を盗んで、時には夜中に点滴や他の管を抜いて楽になろう」とまで考え実行しかけたが、その時たまたま巡回の看護師さんに見つかり、一命を取り留めた様な事もあったが、そのくらい辛かった。

昼夜を問わず襲って来る激痛と恐怖が、一週間位続いただろうか? その間も24時間体制の家内と12時間体制の兄の付きっ切りの看病は続く。

元々地声が大きく「歯に衣着せぬ」物言いをする兄の私を気遣う世間話や激励は、時には煩わしく感じたが、懸命に足や手を摩ってくれる様は無骨ではあるが、何とか気を紛らわせ、楽にさせてやろうとしてくれる思いが、ひしひしと痛いほど感じ取る事が出来た。元々兄は、過去に腕相撲では負けた事が無い位に力が強く、懸命の思いの強さからか、返って痛む事の方が多かった様に思うが、この強い思いが悲しくも嬉しかった。

少し気を遣い遠慮気味に拒絶すると兄が言った「わしら兄弟は戦友だから」。

今となってはユラクを退任して、別の道を歩もうとしていた私にとっては、生涯忘れられない「宝物」の一言となった。

また、その後も弟や子供達、孫達も再三見舞いに駆けつけてくれ、一人になる事が無いくらいに賑やかで、辛さを忘れる安らぎの一時に感謝している。

現状が理解出来ない孫の「じいしゃん来たよ。ファミマに行こう」と言うあどけない言葉にも救われた。

術後は個室で過ごしたが、窓から病院職員の駐車場が良く見える。

満車の時は安心して落ち着くが、夕方薄暗くなると、一台また一台と車が帰って病院の職員が退社する。20時頃になるとほとんどの車が無くなり、帰って行く様子を見て本当に寂しく不安であり、夜が来るのが怖かった。

     

    「豊岡病院職員駐車場」

特に土日、祝日は病院職員の駐車車両も少なく、私の嫌な曜日であり、何時しかナースコールボタンが、私の心の支えとなっていた。

夜中でも家内が苦悩を見かねて、ナースコールを押してくれる。「地獄で仏に会ったような」看護師さんの対応に、安堵し救われた。

夜も寝られずに、何度も何度も朝を待ちわびて時計に目をやるが、時計の針は止まっているかの様に進まず、10分間がこれほどまでに長く感じた事は、過去に経験が無く、何度も「音を上げそう」になった。

多くの患者さんと接する中で、再起不能と思われる患者さん、植物人間らしき患者さん、お見舞いの無い患者さん。

終末期とは何なのか? 安楽死とは何なのか? 認知症、寝たきり、闘病、介護、独居、こんな言葉を見たり聞いたりしない日は無い中で、大勢の方にお見舞いに来て頂く私は、周りの患者さんを気遣う程、賑やかで幸せ者であった事に気付かされる。

血縁より近くの知人とよく言われるが、私には何より力強い血縁者がすぐ近くに大勢居る事に感謝している。

考えてみると「兄弟は他人の始まり」と言われる中、私達兄弟3人は私が生まれた時から、何時も一緒に人生を共にしてきた。家内や子供でも30数年の付き合いだが、兄とは60年、弟とは58年のユラクを通しての長い付き合いであり、雨の日も風の日も晴れの日も、何をするにも何時も一緒に苦楽を共にして来た特殊な人間関係で有った。

大手術の関係で個室に入院していたが、その間、家内は術後より4日間は連続の泊まり込みの看病と、その後も毎日毎日、朝から晩まで病室で見守り続けてくれ、何時しか夫婦で入院をしているかの様な錯覚を覚えるほどに、一生懸命に世話をしてくれ、ナースステーションでは、「おしどり夫婦」と噂されるほどに成っていた。

こんな病床での生活では身動きが取れずに、15センチ先の物でも取る事が出来ずに、家内の存在無くしての入院は考えられなくなっていた。

 「毎日付き添い看病してくれる家内」

 何時もは10時頃には出勤? してくるのだが、少し遅いと腹が立ち「今日は何しとるんだ遅い」と、ついつい愚痴も手伝い携帯を鳴らす。「お父さん、子供じゃ無いんだから」と何時もの反撃の返事が返ってくる。

用事も無いし、特に顔が見たい訳でも無いが、やはり彼女の顔を見ると安心する特別な存在だ。

何時ものように持参してくれる弁当を、二人で分けて昼食を取り、晴れていればリハビリを兼ねて病院の外周を、雨天の時は病院内を散歩するのが、何時しか私達の日課となっていた。

昔話をしたり、子供や孫の話をしたり、時には私の余命の話もする。

私も7年前より彼女への感謝の気持ちとして、毎日15分間程では有るが「感謝の肩たたき」を毎日欠かさずに行っている。さすがに術後は無理であるが、安定してからは手術で休んでいた分も取り返す位の勢いで行った。

本当に喜んでくれる笑顔に騙されて、今日になってしまったが、しばしば看護師さんにも見られ、恥ずかしい思いもしたが、私の感謝の気持ちと、自己満足は今も変わらない。

闘病中は、悔しくて、悲しくて、情けなくて、辛くて、嬉しくて「鬼の目にも涙」人目もはばからずに涙を流す事も有ったが、こんな家族や兄弟、親族に見守られながらの闘病生活は、私の大切な財産で有る事を痛感し、深い愛情に感謝すると同時に、人の優しさや愛情とは一体何なのかを考えさせられる、良い機会に成った事は言うまでもない。

 「皆さんから頂いたお守り」 

そんな闘病生活も日々順調な回復を見せ始め、体内の管も一本また一本と抜かれ出し、ようやく峠を越えた事を自分でも実感出来るようになり、「サイダーとうどん」が無性に食べたくなるほどに回復していった。

「千里の山も一足ずつ運ぶなり」のことわざ通りである。

誰しも人生60年も生きて居れば、一度や二度「死ぬかと思った」経験は有ると思うが、じわじわと迫り来る苦痛と恐怖の時間は、やはり特別な時間だ。

人は皆、人生の終わりの時が決まっていないから生きられるが、時間制限の有る人生の恐怖は計り知れない怖さである。死ぬ事の怖さより、死ぬまでの経過の辛さが怖いのである。

それは、手術前の怖さは有るが、術中の全身麻酔の後は痛くもかゆくも無く終了するが、手術後の治療の辛さは半端ではなく、死ぬまでの経過に似ているのかも知れないが、死んでしまえば手術後の様な辛さは無い。

ご覧いただきありがとうございました。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第5~7章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第5章

一回目の手術の開始

手術の前日22日に手術の準備を進め、電子メスによる摘出手術で、手術時間は約2時間と聞かされていたが、夜はぐっすりと寝付きも良く熟睡し、初めての手術にしては、比較的穏やかな朝を迎える事が出来た。

当日の朝は、家内と兄に見守られる中で、8時45分に手術室へ向かった。

手術室はテレビドラマで見るような異様な光景で、スタッフは主治医を含め4名で「いよいよか」と腹を括り手術を待った。

下半身麻酔と言う事も有り、意識もほぼ有ったように記憶しているが、当然の事ながら手術に伴う痛みは皆無で、約3時間の手術を無事に終え、待ち受けてくれていた家内と兄に再会した時は、緊張感もほぐれ「やっと終わった」と言う安堵した爽やかな気持ちになった事を覚えている。

栄養剤の点滴など2本の管に繋がれ、いかにも入院患者らしい趣になった。その後、主治医の先生より手術の経過説明を3人で聞き、順調に手術が終わった事の報告を受けた。

報告では、「膀胱内の悪性腫瘍と疑わしい個所は最大限に深く削り取ったので、これ以上に腫瘍が深く浸潤していなければ、これで手術は終わりですが、前立腺に少し赤みを帯びた斑点が見つかったので、それも検査の為に切除しました。

結果は、4月1日の外来時に報告します」との事であった。

手術の3日後の26日に退院許可も出て、帰宅する事になったが、この期間中も「ほーゆー本店」の責任者である田中店長より、メールで会社の営業状況についての報告は受けていたので、仕事の事を気にする事も無く、治療に専念する事が出来て感謝している。

帰宅後は、全く痛みも無く排尿も以前に戻り「あぁ・・・これで終わった」と安堵し、少しずつ会社にも出勤しながら、今回の大事に終止符が打たれた喜びに浸り、これから先に知らされる事になる検査結果の更なる悪夢の事など疑う余地も無く、何事も無かったかの如く、以前の様な穏やかな日々を送っていた。

 

第6章

一難去って、また一難

それから数日後の指定された4月1日。何の不安も無く、それこそ笑顔でスキップしながら家内と豊岡病院へ行き、前回の検査結果を待つ事2時間。

まさかこの様な最悪の検査結果の報告を受け様とは思いも寄らず「一難去って、また一難」である。

結果の報告は、「膀胱ガンの浸潤が深く、削り取る手術の限度を超えている事。

疑いの有った前立腺にも転移が激しく尿道と精嚢も含めて、これらを全摘出する手術が早急に必要です。

連休を控えていますが、その前の4月14日に入院し17日に手術を実行します」との事で鳥肌が立つ中、早速に手術用の採血400ccを保存。

残りの400ccは後日4月8日の採血と決まり、合わせて800ccの輸血用の血液を保存する事になり、「奈落の底」に突き落とされた心境であった。

予期せぬ病状に大きく動揺したが、既に「まな板の鯉」である。直ぐに気持ちを取り戻し、冷静に現状を受け入れる覚悟を決め、「断腸の思い」で再手術に備える準備をした。

比較的小さい手術とは言え、数日前にも経験した事もあり覚悟を決めるのに、それほど多くの時間は要しなかったが、痛くもかゆくも無く、何不自由なく過ごしていたので、手術当日が「早く来てほしいような、来てほしく無いような」複雑な心境で、当日の4月17日を待った。

 

第7章

二回目の全摘出手術

いよいよ再入院の4月14日、前回と異なり4階の2人部屋に入室したが、今回も窓際の見晴らしの良い環境の病床となった。2人部屋と言う事で理由は分からないが、前回より少し事の大きさを感じたが、深い意味は無かったかも知れない。

今回は、4月17日の手術前日の昼食より食事制限も掛かり、下剤や2リットルの胃袋洗浄剤を飲み、飲料制限が掛かるなど、前回とは比較にならない位の大げさな手術前の準備となったが、それでも前回の経験からか、夜は8時間ほど熟睡し、手術に備える事が出来たのは、不幸中の幸いであった。

事前の主治医の説明では、膀胱、前立腺、精嚢、尿道を全摘出し、腸を約20センチ切り取り、これに2か所の穴を開けて、尿路変更を行い、膀胱の代役となる人工膀胱を取り付け、人工膀胱の腸の片方は、お腹に穴を開け外に出し、ストーマ(袋)に受けて尿を排出する大手術で、約10時間の手術と聞かされた。

この手術の代償として、男性機能や膀胱機能(尿を貯める、尿意を感じる、尿を排出する)は、失われるとの身体的な後遺障害も聞かされたが受け入れた。

他の手術方法の説明も受けたが、術後の生活の排尿が複雑で、今後の自分の人生で痴呆や認知症の発病の事を考えると、不都合は有るが、一番シンプルで安心な今回の手術方法を選択した。この時点では、先の余命の事は何も考えず、生き延びるものだと信じていた。

そして向かえた手術の当日、前回同様に家内と兄に朝8時45分に見送られ、手術室へと入室したが、今回は数日前の手術の経験からか、見慣れた光景に大きな動揺も無く、全身麻酔による効果で瞬時に意識が無くなって、術後の目が覚めた時には辺りは暗く、時間の経過をそれとなく感じていた。

個室の病室に搬送されていた様だが、今現在を以って終わった時間や、待っていてくれていただろう家内や兄を思い出す事が出来ない放心状況で、後日に家内から兄の手配でユラクの社長(甥)や女将(義理姉)、子供達や「ほーゆー」の田中店長など大勢が駆けつけてくれたと聞かされた。

特に兄には深夜まで自分の事のように心配し、苦悩の顔を見せていたと聞き涙がこぼれた。

結果的には、約10時間を超える「生身を削る」大手術で、主治医や担当医師、麻酔科の先生、看護師さんら10名体制の泌尿器科としては、最大級の手術で有ったと聞かされ、ようやく事の大きさに気付いた。

術後の経過説明では、家内と兄が立ち会ってくれ、摘出した臓器の現物や経過、手術結果などを詳しく聞いてくれたらしいが、手術痕はへその上方から肛門までの30センチにも達していた。

比較的安易に考えていた私にとって、ここから先に最大級の恐怖と孤独、激痛と嘔吐、幻覚症状と喉の渇き等が、待ち受けている事を予期する事は出来なかった。

モルヒネ剤や栄養剤など5本ほどの管に繋がれ身動き出来ない状況で、ここから先が本格的な恐怖と苦痛の闘病生活が始まる事になる。

ご覧いただきありがとうございました。

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