■コーナーの左右、それぞれ建具までおよそ1メートルの幅の壁に、床から天井までの高さおよそ2.4メートルにわたって、本棚を作ってみた。コーナー部分は高さ32センチで7段、左右の棚は単行本で10段の収納力となっている。全体でおよそ650冊の書物を収納している。
これまでにも、沢山の本棚を作ってきたけれど、いつの場合も、高い収納能力が前提で、さらに使いやすさを意識して作っている。もちろん、強度的な配慮も必要となる。コストをおさえることも心掛けている。
使いやすさには、いろいろな要素があると思うが、そこにはデザイン的な要素もからんでくる。1段の高さをいくつに設定するか、また奥行きをいくつに設定するかが、おそらくはもっとも重要ではないかと、わたしは思っている。
今回の本棚では、側板の幅が18センチ、コーナー部分の段高さは32センチ、左右の棚板の奥行きが17センチ、段高さは下段3段分がおよそ23センチ、その上の6段分がおよそ21センチ、最上段がなりゆき高さで、結果的に26センチとなっている。650冊という収納能力は、きわめて高いと思う。
部屋の床から天井までの高さがおよそ2.4メートルなので、天上までびっしりと収納するとなると、最上段だけはどうしても、踏み台に乗らないと手が届かない。この点が、使いやすさとデザイン性と効率をめぐっての判断のせめぎあうところで、結局、使いやすさに妥協したことになる。――吹き抜けの壁一面を本棚にしたりして、これよりもはるかに高い位置まで本棚、あるいは棚を造り付けたりする例があるけれど、デザイン性はきわめて高いことを認めるが、はたしてどこまで使いやすいか、はなはだ疑問が残る。わたしには書物は飾り物ではなく、考えたり理解したりするための道具だという意識が強い。できるだけ多くの本を手に取り、いろいろな世界に親しみたいと思っているので、身体性とのかかわりも重要になってくる。
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わたしは中学生の頃からこつこつと買いつづけ、夥しい数の書物を所有している。何冊あるのか、数えたことがないのだが、おそらく「万単位」だと思う。3万冊はないかもしれないが、2万冊以上はあるだろう。CDが3000枚以上、DVDはその倍は確実にある。
これだけ沢山の書物などがあると、読書という行為をどう思っているのか、ときどき人に訊かれることがある。もちろん全部を通読しているわけではないが、どの本にどんなことが書いてあるのかは把握している。そのための飛ばし読みや速読まがいの読み方は、むろん読書のうちにいれていない。書物は通読することが前提であり、できれば再読、あるいは何度でも読み返すような本と、どれだけめぐりあえたかが、重要なことだと考えている。
だからわたしは速読術を身につけようと考えたことはないし、情報収集とか資料閲覧という姿勢でめまぐるしくページを繰る行為を、読書行為と考えることができない。
読書の指南書のなかには、速度(情報処理速度)と冊数(情報処理量)、つまり情報処理能力をどれだけ高められるかを問題にするものが多い。本との関係は、強迫観念にとらわれてストレスをかかえこむようなこととは正反対のものと思うので、そういう姿勢にわたしは共感できない。
情報処理ということでいえば、むしろその精度をあげることは重要かもしれない。それも強迫観念になってしまっては意味がないと思うが、情報処理精度を高めることで速度が落ちたり、量が減ったりしても、そんなことは問題ではない。そう思える読書生活は充実しているはずである。
指南書のうちで、わたしが強く共感できるもののひとつに、山村修著『遅読のすすめ』がある。この本で著者はヘンリー・ミラーの言葉を紹介している。
《ここで、抑えがたい衝動に駆られて、ぼくは一つの無償の忠言を読者に捧げる。こういうことだ――できるだけ多くではなく、できるだけ少く読みたまえ! (略)人生で最もむずかしいことは、自分の幸福にとって厳密に得になること、厳密に生き甲斐あることだけをする術を学ぶことだ。(田中西二郎訳)》
そして著者自身も次のように述べている。
《目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。》
――読書の無上の愉しみはここにあると思う。この愉しみを阻害してまで速度と冊数に執着するのは、もったいないことである。
これまでにも、沢山の本棚を作ってきたけれど、いつの場合も、高い収納能力が前提で、さらに使いやすさを意識して作っている。もちろん、強度的な配慮も必要となる。コストをおさえることも心掛けている。
使いやすさには、いろいろな要素があると思うが、そこにはデザイン的な要素もからんでくる。1段の高さをいくつに設定するか、また奥行きをいくつに設定するかが、おそらくはもっとも重要ではないかと、わたしは思っている。
今回の本棚では、側板の幅が18センチ、コーナー部分の段高さは32センチ、左右の棚板の奥行きが17センチ、段高さは下段3段分がおよそ23センチ、その上の6段分がおよそ21センチ、最上段がなりゆき高さで、結果的に26センチとなっている。650冊という収納能力は、きわめて高いと思う。
部屋の床から天井までの高さがおよそ2.4メートルなので、天上までびっしりと収納するとなると、最上段だけはどうしても、踏み台に乗らないと手が届かない。この点が、使いやすさとデザイン性と効率をめぐっての判断のせめぎあうところで、結局、使いやすさに妥協したことになる。――吹き抜けの壁一面を本棚にしたりして、これよりもはるかに高い位置まで本棚、あるいは棚を造り付けたりする例があるけれど、デザイン性はきわめて高いことを認めるが、はたしてどこまで使いやすいか、はなはだ疑問が残る。わたしには書物は飾り物ではなく、考えたり理解したりするための道具だという意識が強い。できるだけ多くの本を手に取り、いろいろな世界に親しみたいと思っているので、身体性とのかかわりも重要になってくる。
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わたしは中学生の頃からこつこつと買いつづけ、夥しい数の書物を所有している。何冊あるのか、数えたことがないのだが、おそらく「万単位」だと思う。3万冊はないかもしれないが、2万冊以上はあるだろう。CDが3000枚以上、DVDはその倍は確実にある。
これだけ沢山の書物などがあると、読書という行為をどう思っているのか、ときどき人に訊かれることがある。もちろん全部を通読しているわけではないが、どの本にどんなことが書いてあるのかは把握している。そのための飛ばし読みや速読まがいの読み方は、むろん読書のうちにいれていない。書物は通読することが前提であり、できれば再読、あるいは何度でも読み返すような本と、どれだけめぐりあえたかが、重要なことだと考えている。
だからわたしは速読術を身につけようと考えたことはないし、情報収集とか資料閲覧という姿勢でめまぐるしくページを繰る行為を、読書行為と考えることができない。
読書の指南書のなかには、速度(情報処理速度)と冊数(情報処理量)、つまり情報処理能力をどれだけ高められるかを問題にするものが多い。本との関係は、強迫観念にとらわれてストレスをかかえこむようなこととは正反対のものと思うので、そういう姿勢にわたしは共感できない。
情報処理ということでいえば、むしろその精度をあげることは重要かもしれない。それも強迫観念になってしまっては意味がないと思うが、情報処理精度を高めることで速度が落ちたり、量が減ったりしても、そんなことは問題ではない。そう思える読書生活は充実しているはずである。
指南書のうちで、わたしが強く共感できるもののひとつに、山村修著『遅読のすすめ』がある。この本で著者はヘンリー・ミラーの言葉を紹介している。
《ここで、抑えがたい衝動に駆られて、ぼくは一つの無償の忠言を読者に捧げる。こういうことだ――できるだけ多くではなく、できるだけ少く読みたまえ! (略)人生で最もむずかしいことは、自分の幸福にとって厳密に得になること、厳密に生き甲斐あることだけをする術を学ぶことだ。(田中西二郎訳)》
そして著者自身も次のように述べている。
《目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。》
――読書の無上の愉しみはここにあると思う。この愉しみを阻害してまで速度と冊数に執着するのは、もったいないことである。