人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

黒洞々たる夜

2010-10-31 00:51:57 | 異界羅城門
 そもそも、饑死をするか盗人になるかの二者選択を迫られるような状況の深刻さを考えれば、どちらを選ぶかに疑問の余地はないと思えてならない。盗人になるといったところで、当面の飢えをしのぐだけのことで、生命の成否を賭した一回かぎりの、消極的で小さな必要悪かもしれない。――饑死をする可能性がたぶんにある状況を考えれば、悪事は悪事であるが、生きるためにするその悪事には、犯罪というよりもむしろ、生存本能による闘争の意味あいがつよい。
 この時代の京都にかぎらず、地震や辻風、火事、饑饉などというものは、つまり自然災害や異常気象、食糧難、資材の高騰とかというものは、人間社会が普遍的にかかえている問題であり、その事情は現代でもさほど変わりはない。
 悩んでいてもどうにもならないことならば、手段を選んでいる遑などはなく、生きるためには有無をいわせないとするならば、――羅生門の下で雨宿りをしていながら、行き所がなくて途方にくれている下人にとって――なるほど盗人になるよりほかに仕方がないのかもしれないが、しかしそれは選択の余地のないことなのだろうか……。
 下人にはこういう考えかたはなかったのだろうか。――たとえ築土の下か道ばたで、饑死をして、ついには羅生門の上へ運びこまれ、犬のように棄てられてしまう運命であったとしても、もしかすると、それこそが人生そのものの、冥い普遍的なかがやきではないのか。盗人になることに比べたら、饑死をして犬のように棄てられるほうが、余程幸せだという考えもある。
 しかし、実際にその通りに実行するのは、かなりな苦痛をともなうことである。その苦痛ゆえに、人間にはそれを易々と遂行することが困難にちがいない。
 たしかに、この時代に固有の状況というものがあるのかもしれない。だがこの二者選択は、もしかすると想像力の貧困によるものなのかもしれない。饑死をするのを回避したいなら、盗人になるよりほかに仕方がないという現実は、例外のユニークさをどこまで浸蝕しうるのか。朱雀大路にある羅生門の周辺では、往来する市女笠や揉烏帽子の者が何人か散見できてもおかしくはない。それならば、そうした人たちにもまた、下人につきつけられたような二者選択が不可避な問題なのだろうか。いや、そうとばかりは言い切れない。むしろそう考えることは、不自然ですらある。

 ある難題の提示が、二者選択のかたちをとるとき、それは逼迫したリアリティがあるものの、難易度は低いように思える。たとえば、ある程度以上の人生経験を経てから、自分の人生とは何だったのかと自問するとき、それは二者選択のかたちなどとらないが、より真実に近い答えを出そうとすれば、二者選択よりもはるかに難しい内容をふくんでいる。
 しかしながら、重要なのは、困難な問題が成立するかどうかというところに、その解決の糸口がひそんでいる場合が多いということである。――わたしたちが使用しているこの言語、つまり日本語が、かりに全宇宙を包括して理解できるような構造になっていて、そのすべてが機能的に表現可能であると仮定してみると、この言語に精通した者による問題提起は、さぞかし深いものだろう。だが彼が地上的な――つまりは人間的な――あらゆる問題を高みから俯瞰できているとはかぎらない。包括的な宇宙を知る知性にとっては、そこに内在している個々の瑣末な問題は、それを個別的に充分に悩みうる個人との関係において認識しうるのみである。彼はまた、その難問の前で困惑する個別的人間が、なぜそれを明快に解決できないのか、ほとほと疑問に思うことだろう。しかしそれもまた一般には人間の普遍的存在様式であることを、いちおう知悉してはいる。難問とそれに対する明快な解答との位相関係は、多くの場合に、わたしたちの意表を衝く、予想外のものとなるだろう。
 それゆえ、包括的な知者が難問を立てることがないのと同じ理由から、わたしたちの立てる難問は、その難易度が高まるにつれ、ますます問題提起としての完成度が高まる。

 ――申の刻を過ぎてから降りだした雨は、いっこうに上る様子がないものの、さきほどまで丹塗の剥げた円柱にとまったまま動かなかった蟋蟀は、いつのまにかもうそこにはいない。荒れ果てた羅生門には微かに死臭がただよっていて、なるほど狐狸や盗人が身を潜めるには都合のいい場所である。その目地から雑草が旺盛にのびた石段には、鴉の糞が白く点々とこびりついているはずだが、いまはそれが判然としないほど暗くなっている。
 下人の右頬の面皰は赤く膿を持って熟しかけている。仕方なく夜を明かすつもりで門の上の楼へ上ってみると、無造作に棄てられた数体の死骸のあいだを、黄いろく濁った光が、あやしげにうごめいている。死骸は土を捏ねて造った人形のように不気味であるが、その肩や胸の高くなっている部分に、ぼんやりと濁った光をうけて、低くなっている部分に一層の陰影を秘めている以上、死者たちはそこに冥い生命感のようなものをとどめているといっても過言ではない。
 そしてこの空間の深みでは、その生命感は鼻を掩うほどの腐爛臭となって下人を襲ったのだが、次の瞬間、その強烈な臭気すら忘れさせるような衝撃を受けたのは、これに対する生者のいとなみの不可解さによるものだった。――死骸の中に蹲る小柄な老婆は、痩せて、白髪頭の猿のような印象である。老婆は火をともした松の木片を手にして、死骸の一つを覗きこんでいたが、やがて死骸の首に両手をかけると、死骸の長い髪の毛を一本ずつ丹念に抜きはじめた。すると下人の心からは次第に恐怖がついえ、老婆に対する憎悪へと変質するのであるが、芥川はそれがむしろ「あらゆる悪に対する反感」というべきものと述べている。――この正義感ゆえに、ここにいたって下人は、問題の二者選択に決着をつけるとするならば、「何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」。
 下人がいきなり、身をひそめていた梯子から飛びあがり、やおら老婆の前へ歩みよると、驚いた老婆は死骸につまずきながらも慌てふためいて、逃げようとする。詰め寄る者と逃げまどう者との無言のつかみ合いの後、結局は老婆が下人に捻り倒された。下人には老婆が何をしていたのか、その挙動が理解できなかったので、それを問い質したのは、自然のなりゆきである。「――云わぬと、これだぞよ」とばかりに、太刀の鞘を払って老婆の眼の前へつきつけ、老婆が震えながら肩で息をつき、眼を見開いて執拗に黙っているのを見ると、いかにも老婆の生死が自分の意志に支配されていると意識するのである。
 下人が検非違使の役人ではないと知った老婆は、赤い瞼の、肉食鳥のような鋭い眼を向け、皺で、鼻と一つになったような唇を、何か物でも噛んでいるように動かし、尖った喉仏の細い喉の奥から、鴉が啼くような声を喘がせながら、死骸の髪を抜いて鬘にしようと思うた、と答えた。
 この答えの平凡なのに失望した下人ではあったが、そうと知るまで老婆の挙動からそれを推測することができなかったぶんだけ、いささか特殊な状況下にあって彼の想像力は鈍磨していたというべきである。いやむしろ、老婆が死骸の髪の毛を一本ずつ丹念に抜くのを見ると、下人の心から恐怖が消え、同時に老婆に対する憎悪を抱いたとき、自身の問題として、饑死をするか盗人になるかを選択する価値観において、老婆の行為を判断するのに「あらゆる悪に対する反感」を対置させること自体、いささかカマトト的な潔癖症といえなくもない。
 あらためて老婆への憎悪をつのらせ、さらに冷やかな侮蔑を抱いた様子の下人に、老婆は弁解がましいく、大略以下のことを言った。
 ――死人の髪の毛を抜くということは、どれだけ悪いことか知れない。だが、ここにいる死人どもは皆、そのくらいのことをされてもいい人間ばかりで、たとえば、自分がいま髪を抜いた女などは、蛇を四寸ばかりずつに切って干し、それを干魚だと偽って、太刀帯の陣へ売りに出かけたものだ。疫病で死ななかったら、今でも同じことをしていただろう。しかも、この女の売る干魚は、味がいいと評判になり、太刀帯どもが欠かさず菜料に買っていたそうだ。――自分はこの女のしたことが悪いとは思っていない。そうしなければ、饑死するのだから、仕方なくしたことだろう。それならば、今また自分のしていたことも、悪いこととは思わない。自分だってこうしなければ饑死をするのだから、仕方なくすることで、その事情をよく知っていたこの女は、おそらく自分のすることも大目に見てくれるだろう。
 膿を持った頬の面皰を気にしながら、下人はいつしか太刀を鞘におさめていた。
 下人の心には、あるしたたかな勇気が萌芽しつつあった。このとき下人は、もはやあの二者選択に迷うことはなかった。饑死などということは、彼の意識の埒外にあった。
「きっと、そうか。」
 奇妙なことに、つい先刻は正義感ゆえに何の未練もなく饑死を選んだはずの下人が、老婆の言葉の平凡さに失望しながらも、嘲るような声でそう念を押し、その選択を見放したのである。
 二者選択の切迫感は、ある意味では時代の趨勢だったかも知れない。そこに認識の軸足を置き、饑死をするか盗人になるかの可能性の振幅を凝視しつつ、「あらゆる悪に対する反感」をとどめたまま、ほとんど恣意的といってもいいほど気まぐれに、その選択結果を胸中にかかげたのである。――意志の決定などというものはいかにもあやふやで、頼りにならないものである。ひとつの答えがいかに必然的にみえたとしても、それは現象と認識との恣意的な関連付けによってなされるにすぎないとしたら……。
 一足前へ出ると、下人は不意に面皰から手を離して、老婆の襟上をつかんで、噛みつくように言った。
「では、おれが引剥ぎをしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 すばやく老婆の着物を剥ぎとると、足にしがみつこうとするのを手荒く死骸の上へ蹴倒し、その着物をわきにかかえ、たちまちにして急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 ――しばらくのあいだ死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、やがてその裸の体を起した。老婆はまだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで這い寄り、短い白髪をさかさまにして、羅生門の下を覗きこんだ。そこには、ただ、黒洞々たる夜があるばかりであった。

 ――作者が下人をとりまく世界を、饑死をするか盗人になるかの二者選択を迫られるような状況に設定したがために、それ以外の展開の可能性が成立しづらくなっているのは間違いない。そして死骸の髪を抜いて鬘にする行為に、悪の全体を象徴させる感受性が、下人の内面を還流している。二者選択はその状況は時代の趨勢ではあっただろうが、はたして絶対的なものだったのだろうか。
 言語を有限の意味によって無限に躍動させることが可能ならば、自由な発想と創意から繰り出された言葉は、本質的に現実の制約からは自由であるし、その積み重ねや練磨は複雑な言語構造として瞠目すべきものとなりうるが、脳が有限である以上、それは宇宙の無限に急迫することはできない。
 わたしはただ、この黒洞々たる夜が、この場の既存の悪を象徴する老婆の視界には決して捕らえきれない奥行きとゆたかさを包摂していることを、ひそかにねがうのみである。つまり、下人が盗人にはならないで、しかも饑死をしないで済むような、人生の稀有な展開がそこに待ち構えていることを、ひたすらいのりたい。



〈黒洞々たる夜〉_1

〈黒洞々たる夜〉_2

























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