>長野県南木曽町の雑木林に愛知県知多半島の土木作業集団「黒鍬」の労働者約20人余りが埋葬されている。南木曽町と飯田市をつなぐ大平街道の道路工事中の出稼ぎに来ていた1904年に土石流で犠牲になった。遺体の多くは知多に引取られず地元の墓地に葬られたが、記録はほとんどない。~中日新聞より。
・・・現在、地元の長延寺には供養塔が建っているが、ほとんど記録は残っておらず埋葬地も荒れ放題の雑木林となっていることに心を痛めた地元の郷土史家らが、色々と調査したり供養碑を建てようと活動しているようです。
「黒鍬」という集団は、戦国時代から土木工事の技術者集団として有名だが、徳川幕府の時代に江戸城に勤めていた同名の集団があり、三河から江戸に行かず知多地域に残った人達が、独自の土木技術を持って全国の現場を渡り歩いていたのだとしたら、現代のゼネコンの様な存在だったのも?。
知多半島は愛知用水が出来る以前は、農地も少なくて村の過剰人口は多く、きっと出稼ぎに行く人や、もしかしたら村を離れた人も沢山いたんでしょう。そういう人だったから死後も地元に引き取られなかったのだとしたら、気の毒な話だと思います。
・・・現在、地元の長延寺には供養塔が建っているが、ほとんど記録は残っておらず埋葬地も荒れ放題の雑木林となっていることに心を痛めた地元の郷土史家らが、色々と調査したり供養碑を建てようと活動しているようです。
「黒鍬」という集団は、戦国時代から土木工事の技術者集団として有名だが、徳川幕府の時代に江戸城に勤めていた同名の集団があり、三河から江戸に行かず知多地域に残った人達が、独自の土木技術を持って全国の現場を渡り歩いていたのだとしたら、現代のゼネコンの様な存在だったのも?。
知多半島は愛知用水が出来る以前は、農地も少なくて村の過剰人口は多く、きっと出稼ぎに行く人や、もしかしたら村を離れた人も沢山いたんでしょう。そういう人だったから死後も地元に引き取られなかったのだとしたら、気の毒な話だと思います。