コスモスの花(東京都大田区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「純粋な人」は、なぜ魅力的なのでしょうか!?
純度100%の水というと、不純物、つまり少しの塵も薬品も入っていない水を指しますよね。
では、「純粋」ということを人間に置き換えて考えていくと、一体どうなるのでしょうか!?
純粋な人というのは、
・喜怒哀楽がわかりやすい
・感動する心を持っている
・自分の意志に忠実
…と、こんな特徴が言えると思うんです。
「心が曇りなく透き通っている」のです。
つまり、「純粋な人」というのは、「嘘も表裏もない、素直な人」と言うことができそうです。
しかし、この「純粋さ」とか「透明感」というのも、
現実には、守っていくのはなかなか大変なことです。
「素直ならいいから」と、怖いものに怯え、おだてにはすぐ乗り、ちょっと悲しいからと涙を見せてしまえば、
たちどころに付け込まれてしまいます。
あるいは、人の言う言葉に無警戒でいると、嘘や誇張に簡単に騙され、
人に利用されたり、大きな損をすることにもなりかねない。
なぜなら、世の中には必ず、へずるい人がいるからです。
「無防備」というとカッコイイようですが、それで自分を崩されてしまうようでは、純粋もなにもあったものではありません。
あるいは。
人間、醜い部分の一つや二つは必ず持っているものですが、
そういう自分の嫌な個所に目を向けるには、かなりの勇気とエネルギーが必要です。
先に「純粋な人とは自分に嘘をつかない人だ」とお話ししましたが、
自分が嫌なほど、「醜い部分」をないものとして蓋をしてしまいます。
自分を隠せば、結果として自分の本音が見えにくくなりますから、
結局は「いい人ぶる」しかなくなってしまう。
しかし、作られた態度には必ず違和感が出る上、
無理をして演じているほど、苦しくなっていくだけです。
自分を抑えたり偽っていると、それに比例して本音も隠れてしまう。
つまり、「悪い人」がいるから人は純粋でいられないというのも一理はあるのですが、
「自分と向き合う力」がないために、「純粋さ」が失われてしまうこともあるのです。
さて、そこで。
純粋でいればいるほど、人に弱みも見せるし、自分の嫌な部分も目の当たりにすることになるのですから、
「純粋でいるのは難しいじゃないか!」と思うのが、自然な考え方でしょう。
しかし、よく考えてみて下さい。
自分に嘘をつかず、全ての感情を認めることは、
つまりは「本来の自分がどんな状態かを把握できる」ということにもつながります。
車だって、性能や特性がわかっているほど操りやすいように、
自分自身のことを把握できていれば、随分とブレーキも効きやすくなるハズ。
自分自身の本音がわかれば、感情を出す場面も選べますよね。
つまり、「本音はこれこれこうだけど、ここはこうしておこう」と、
コントロールできるようになるのです。
しかも、心を許せる人の前では本音をすぐに出せるようになるのです。
純粋な人は魅力的ですが、なかなかその純粋さを守るのは難しい。
しかし、純粋が故に自分をコントロールできるのだとしたら、
「真っすぐに生きてみよう」という気概もまた、生まれてくるのではないでしょうか!?
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「純粋な人」は、なぜ魅力的なのでしょうか!?
純度100%の水というと、不純物、つまり少しの塵も薬品も入っていない水を指しますよね。
では、「純粋」ということを人間に置き換えて考えていくと、一体どうなるのでしょうか!?
純粋な人というのは、
・喜怒哀楽がわかりやすい
・感動する心を持っている
・自分の意志に忠実
…と、こんな特徴が言えると思うんです。
「心が曇りなく透き通っている」のです。
つまり、「純粋な人」というのは、「嘘も表裏もない、素直な人」と言うことができそうです。
しかし、この「純粋さ」とか「透明感」というのも、
現実には、守っていくのはなかなか大変なことです。
「素直ならいいから」と、怖いものに怯え、おだてにはすぐ乗り、ちょっと悲しいからと涙を見せてしまえば、
たちどころに付け込まれてしまいます。
あるいは、人の言う言葉に無警戒でいると、嘘や誇張に簡単に騙され、
人に利用されたり、大きな損をすることにもなりかねない。
なぜなら、世の中には必ず、へずるい人がいるからです。
「無防備」というとカッコイイようですが、それで自分を崩されてしまうようでは、純粋もなにもあったものではありません。
あるいは。
人間、醜い部分の一つや二つは必ず持っているものですが、
そういう自分の嫌な個所に目を向けるには、かなりの勇気とエネルギーが必要です。
先に「純粋な人とは自分に嘘をつかない人だ」とお話ししましたが、
自分が嫌なほど、「醜い部分」をないものとして蓋をしてしまいます。
自分を隠せば、結果として自分の本音が見えにくくなりますから、
結局は「いい人ぶる」しかなくなってしまう。
しかし、作られた態度には必ず違和感が出る上、
無理をして演じているほど、苦しくなっていくだけです。
自分を抑えたり偽っていると、それに比例して本音も隠れてしまう。
つまり、「悪い人」がいるから人は純粋でいられないというのも一理はあるのですが、
「自分と向き合う力」がないために、「純粋さ」が失われてしまうこともあるのです。
さて、そこで。
純粋でいればいるほど、人に弱みも見せるし、自分の嫌な部分も目の当たりにすることになるのですから、
「純粋でいるのは難しいじゃないか!」と思うのが、自然な考え方でしょう。
しかし、よく考えてみて下さい。
自分に嘘をつかず、全ての感情を認めることは、
つまりは「本来の自分がどんな状態かを把握できる」ということにもつながります。
車だって、性能や特性がわかっているほど操りやすいように、
自分自身のことを把握できていれば、随分とブレーキも効きやすくなるハズ。
自分自身の本音がわかれば、感情を出す場面も選べますよね。
つまり、「本音はこれこれこうだけど、ここはこうしておこう」と、
コントロールできるようになるのです。
しかも、心を許せる人の前では本音をすぐに出せるようになるのです。
純粋な人は魅力的ですが、なかなかその純粋さを守るのは難しい。
しかし、純粋が故に自分をコントロールできるのだとしたら、
「真っすぐに生きてみよう」という気概もまた、生まれてくるのではないでしょうか!?