久慈浜海水浴場(茨城県日立市)
こんにちは。
自己否定や自己嫌悪。
これらはなかなか抜け出せるものではありません。
私は両親から完璧を求められ、どちらかというと否定されて育ったので、
「自己否定」的な気持ちとは長い付き合いだったりします。
当然、自己否定なんてものはしていて気分のよいものではありませんから、
私も抜け出すためにいろいろと勉強しました。
そこでよく目にしたのが、「自分のよいところを探しましょう」というアドバイスでした。
でも、これがなかなか、難しい。
自分を否定している状態で探すわけですから、
長所なんて見つからないし、
見つかったとしても、なかなか「自分は〇〇という長所がある人間だ」と、
どうがんばっても受け取れないわけです。
つまり。
自分を否定している人って、
自分を否定している方がある意味では楽なんです。
ただ、完全に楽というわけでもない。
だから、こんな視点を持つと、だいぶ楽になれると思います。
それは、
長所に着目しても短所が消えるわけではない
ということ。
具体的な例を挙げてみます。
「自分はだらし無い」と思っている人がいたとしましょう。
しかし、その人は自分のだらし無さに苦しんでいる一方で、
人の気持ちを考えられる、という長所もある、という人だったらどうなるでしょうか。
「だらし無い」けど「人の気持ちを考えられる」ということで、
長所も短所もある、両者は同居することができることになりますよね?
つまり、自分を肯定したからといって、
完璧な人間になるわけでも、
なにかのミスが帳消しになるわけでも、
増してや、自分という人間が変わってしまうわけでもないのです。
☆ ☆ ☆
自分を肯定することに慣れていないと、
いざ自己否定や自己嫌悪から抜け出そうとしても、
いとも簡単に躓き、かえって自己イメージを悪くしてしまいかねません。
自分を肯定することなんて出来なくてもいい。
短所が10も思い浮かぶなら、長所は1でも浮かべばいい。
こんな考えでいるうちに、
少しずつわかってくるはずです。
つまり、
「自己否定」や「自己嫌悪」は、
「自分という存在を全否定する考えに外ならない」ということを。
☆ ☆ ☆
大切なのは、自己嫌悪しないことではなく、
ただ少しでも楽になること、生きやすくすること。
自己否定や自己嫌悪が酷いときは、
無理に抜け出そうとしないことが、
案外大切なのではないでしょうか!?
こんにちは。
自己否定や自己嫌悪。
これらはなかなか抜け出せるものではありません。
私は両親から完璧を求められ、どちらかというと否定されて育ったので、
「自己否定」的な気持ちとは長い付き合いだったりします。
当然、自己否定なんてものはしていて気分のよいものではありませんから、
私も抜け出すためにいろいろと勉強しました。
そこでよく目にしたのが、「自分のよいところを探しましょう」というアドバイスでした。
でも、これがなかなか、難しい。
自分を否定している状態で探すわけですから、
長所なんて見つからないし、
見つかったとしても、なかなか「自分は〇〇という長所がある人間だ」と、
どうがんばっても受け取れないわけです。
つまり。
自分を否定している人って、
自分を否定している方がある意味では楽なんです。
ただ、完全に楽というわけでもない。
だから、こんな視点を持つと、だいぶ楽になれると思います。
それは、
長所に着目しても短所が消えるわけではない
ということ。
具体的な例を挙げてみます。
「自分はだらし無い」と思っている人がいたとしましょう。
しかし、その人は自分のだらし無さに苦しんでいる一方で、
人の気持ちを考えられる、という長所もある、という人だったらどうなるでしょうか。
「だらし無い」けど「人の気持ちを考えられる」ということで、
長所も短所もある、両者は同居することができることになりますよね?
つまり、自分を肯定したからといって、
完璧な人間になるわけでも、
なにかのミスが帳消しになるわけでも、
増してや、自分という人間が変わってしまうわけでもないのです。
☆ ☆ ☆
自分を肯定することに慣れていないと、
いざ自己否定や自己嫌悪から抜け出そうとしても、
いとも簡単に躓き、かえって自己イメージを悪くしてしまいかねません。
自分を肯定することなんて出来なくてもいい。
短所が10も思い浮かぶなら、長所は1でも浮かべばいい。
こんな考えでいるうちに、
少しずつわかってくるはずです。
つまり、
「自己否定」や「自己嫌悪」は、
「自分という存在を全否定する考えに外ならない」ということを。
☆ ☆ ☆
大切なのは、自己嫌悪しないことではなく、
ただ少しでも楽になること、生きやすくすること。
自己否定や自己嫌悪が酷いときは、
無理に抜け出そうとしないことが、
案外大切なのではないでしょうか!?