宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

読者自身が検証するしかない

2023年10月27日 | 「賢治研究」の更なる発展のために

荒木 それにしても、初めてこのタイトルの中の二文字「杜撰」を目にした時は、いくら何でも天下の筑摩に対して失礼千万、物騒だと思ったが、賢治によっていろいろと儲けてきたはずの同社が、神聖な賢治の終焉に対してまでも、常識的にはあり得ない、どこの者かも判らない農民との面談を、典拠も不確かなままに、あたかも事実であるかの如くに校本全集に書いてあるということを知って、まさにそのものズバリの表現だと今は納得している。いい加減だべと。
吉田 そしてまた、鈴木がこの本の「第一章 杜撰」の最初で引いている、
 賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。
という世間一般からの評価を、『校本宮澤賢治全集第十四巻』や『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』の担当得編集者等が知らないはずがなく、そのことを自負としているであろうに。だからなおさらにこの「杜撰さ」は情けない。
荒木 やはり、石井洋二郎氏の鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を、校本全集は蔑ろにしていたということだ。だからここは逆に、ならばせめて自戒をと、俺は言いたいね。
吉田 荒木もなかなか言うじゃないか。
荒木 だって、神聖な賢治の終焉に関してまでも杜撰、つまり、広辞苑が、
    【杜撰(ずさん)】 著作で、典拠などが不確かで、いい加減なこと。
と定義しているということになれば、他にも似たような杜撰があるのではなかろうかとつい疑ってしまいたくなるべ。
吉田 そうだよな、今まではこの本の84pの鈴木の次の主張、
  ㈢ 読者の皆様がご自身でも検証を
 以上、ここまで主に、次のような杜撰だと思われることやどうも危ういと思われる事柄、
  ⑴ 「サムサノナツハオロオロアルキ」もなかった賢治
  ⑵ 羅須地人協会時代の上京についてのあやかし
  ⑶ 羅須地人協会時代は「独居自炊」とは言い切れない
  ⑷ 〈悪女・高瀬露〉は冤罪である
  ⑸ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ⑹ 稲の最適土壌は中性でもアルカリ性でもない
  ⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい
  ⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず
について、いわば「賢治神話」の検証等をしてきたが、どうやらこれらについては一度一から出直して考えてみる必要があるということを納得していただけたものと思っている。
については、「読者の皆様がご自身でも検証を」ということまでもお願いするのは筋違いかも知れないぞと思っていたが、神聖な賢治の終焉に対してまでもこんな杜撰な扱いが為されているのだから鈴木のお願い、
   「読者の皆様がご自身でも検証を
は逆に必須だと僕も言いたくなった。
荒木 そうだよな、折角鈴木が『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』で訴え、直接当時の同社の社長にまでもお願いしたのに、完全に無視だもんな。こうなれば、筑摩は当てにならないから、読者に訴えるしかないということだべ。
鈴木 なっ、そう思うだろう!

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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