宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

甚次郎の下根子桜の賢治宅訪問は2回だけだった

2023年11月15日 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 
 さて投稿者(鈴木 守)の、この時の新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それは今迄ずっと解明出来ずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数とその訪問日を確定することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回そこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の松田甚次郎の日記を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなく、その日記に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上でである。その結果分かったことは、
【『松田甚次郞の日記』(昭和2年)】

     〈『新庄ふるさと歴史センター』所蔵〉
に、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日は昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。そして、
【昭和2年3月8日の日記】には、
  ……  
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   unpple
 2.30. for morioka 運送店
stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君
 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おゝお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ
 晴 関西大地震 花巻行
と記されていた。

そしてまた、2度目で、それが最後の訪問になった、
【昭和2年8月8日の日記】には、
  ……
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!
 花巻宮沢先生へ  歸宅
と記されていた。

 いよいよ結論へと進もう。さて、『松田甚次郎日記』に書かれていることに基づけば、
☆松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
ということが導けた。
 なぜならば、甚次郎が山形の新庄から岩手にやって来て盛岡高等農林に入学したのは大正15年の4月であり、昭和2年3月に同高等農林を卒業しているし、もう一つ、甚次郎自身が賢治と最後の会ったのは昭和2年8月8日だと実質的に言っているからである<*1>。
 これでやっと、「もう一つの懸案事項」が解決できた。つまり、
☆松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治を訪ねたのは、昭和2年3月8日の〝たった1回だけ〟であった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項も解決出来てしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)の「宮澤先生と私」の中で、
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
とか、『土に叫ぶ』ので出しで、
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
とか、かなりの回数そこを訪問しているかのような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。

 これで、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日が確定した。
 最初に賢治の許を訪れたのは昭和2年3月8日であり、2回目が昭和2年8月8日であり、しかも最後であった。
のであった。これで当面の懸案事項は全て解決した。それも、私にとっては望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上に、甚次郎が盛岡高等農林時代に下根子桜に賢治を訪ねたのは〝たった1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝たった1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝たった1回だけ〟が松田甚次郎をしてその後の人生を決めさせたことにである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は魅惑され、信服し、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*2>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方はその時の新庄行においてはそれほど重要なことではなく、もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだったが、そのことについては後ほど述べたい。

 とまれ、私のこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成出来た。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることが出来た。再び新庄まで来た甲斐があった。それも偏に『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長のお蔭であると感謝しながら私は新幹線に飛び乗ったのだった。

<*1:投稿者註> 松田甚次郎は賢治と最後に見えた時のことをこう書いている。
 「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)28p>
 もちろん、この賢治宅訪問は2回目の訪問、昭和2年8月8日のものであり、この訪問日が「私と先生の最後の別離の一日であつたのだ」と甚次郎は言っていることになる。 
<*2:投稿者註> この直前に次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測出来る。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていたと見られる。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
<補足>
 なお、投稿者(鈴木 守)が今までに『新庄ふるさと歴史センター』を訪れたのは下掲の4回があり、お陰様で貴重な資料等を知った。
 それから、

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 「〝このままでいいのですか『校本全集』の杜撰〟の目次」へ移る。
 
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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