道端鈴成

エッセイと書評など

Tube's dilemma:赤い官房長官

2010年10月25日 | Tube's dilemma
徳島県の自治体労働者は、2010年9月29日付けの団結ニュースで、尖閣諸島は中国の領土であるとの主張をビラにしているらしい。ビラの内容は、中核派の機関誌「前進」の記事と対応しているようだ。

自由社会では共産全体主義国家と違って、思想表現の自由は最大限に保証されなければならないが、国民の税金に依存して公に奉仕すべき公務員としての活動となると一定の制約があってしかるべきだろう。徳島県の自治体労働者が中核派のメンバーか否かは知らないが、自由主義社会において自らは思想表現の自由を享受しながら、思想表現の自由を踏みにじっている共産全体主義国家を是認、賛美、さらには目指そうとして、矛盾や恥を感じない人々の論理と倫理の麻痺が信じられない。要は破壊的カルトの信者と同じ心理なのだろう。

末端公務員の場合は、まだ一部の活動家と言っていられるかもしれない。しかし、政府の中心メンバーとなるとそうも言っていられない。

尖閣問題における一連の対応(独立国としての法の貫徹を崩した船長の釈放、国民の知る権利を無視したビデオ公開の阻害など)で官房長官の地位にいて菅内閣の外交を壟断している仙石氏は、極左団体フロント(社会主義同盟)の活動家だった。下にフロント(社会主義同盟)のシンボルを示す。事業仕分けを文化大革命と自賛した仙石氏の発言の異様さに、まともな自由社会の感覚をもった人は驚いたのだが、これを見ると、仙石氏の価値観や感覚からすればごく自然なものだったことが分かる。異様なのは、個々の発言ではなく、その背景にある仙石氏の価値観や感覚なのだろう。こうした人物が政府の中心にいるということは、まともな自由社会の国としてはありえない。(ちなみに仙石氏の選挙区は徳島県であり、自治労は民主党の支持母体である。)



                  (仙石由人官房長官が活動していたフロント(社会主義同盟)のシンボル)


Pigeon Watching:ブーメラン健在、民主党のおれたちルーピーズ政治

2010年10月17日 | Pigeon Watching
【衆院補選】初週末で党首クラス続々 北海道5区
 街宣車の上に立った鳩山前首相は「なぜこの補欠選挙が大事なのか、一言お伝えしたいと思った」と切り出し、前日に柔道選手からの引退を表明した谷亮子参院議員を例に「何事も引き際が大事」と世代交代を訴えた。さらに「今こそもっともっと強い力で、政治主導、みなさん方が主役の政治を作り出していかなければならない」と主張した。 (産経ニュース、10月16日)

鳩山氏の「何事も引き際が大事」には、思わず吹いてしまった。この人、何か脳に欠損があるのではないのだろうか。ルーピー賞に引き続いて、ブーメラン失認とか、鳩山氏にちなんだ国際的な名称があらたに誕生しなければよいが。ルーピー賞は、鳩山氏の1年間の治世を記念して「組織による最もまぬけな行為」に対して与えられる国際的な賞で、今年度はエジプトのムバラク大統領が受賞した。ただ、ムバラク大統領の受賞理由は国際会議での自分をやや中心にもってきた新聞における写真の偽造程度で、共産全体主義国家(国家社会主義も含む)における歴史写真の偽造に比べるといかにもスケールが小さいし、共産全体主義国家における歴史偽造のスケールは望めないにしても、例えば小沢一郎から小澤一郎への領収書などにくらべると、常識的というか、意表をついたインパクトが弱い感じがするのは否めない。

ルーピー賞が鳩山氏の精神に基づくものであるなら、単なる不祥事などではなく、国際社会の常識を越えた意表をつくような「組織による最もまぬけな行為」が選ばれるべきだろう。この意味で、尖閣問題における民主党の空き菅・柳腰仙石のコンビの宥和による侵略の追認・既成事実化と国益、国民無視の対応ぶりは、中国の侵略行為を仙石氏の言う柳腰外交でむかえいれ、空き缶がその脇でカラカラなり、偽装工作船に敬語を使うは、国民の知る権利を無視するは、周辺諸国を落胆させたりと、定石の侵略をしかけてきた中国も肩すかしをくらったのではないかと思えるほどのルーピーぶりで、来年度の最有力候補だろう。もちろん、鳩山氏も昨年度からの基地問題の迷走で要となるアシスト役をし、その後も海外で前首相としておだてられ国民へのつけをせっせと積み重ねているが、本家ルーピーの鳩山氏は別格だろう。こうしてみると民主党政権は、元祖ルーピー・ブーメランの帝王、空き缶・ズル缶、外柳腰・内恫喝とルーピー政治家の宝庫である。こうしたルーピーズの治世のもとに生きるまともな国民にはたまったものではないが。

「畏友、「柳腰さん」との対話・予算委質疑について」 (阿比留ブログ 10月17日) 
丹念に仙石氏の発言を紹介している。鳩山氏に劣らないブーメランぶりである。天然ではなく裏表がある人のようだから、「これはもうただのウソつきのレベルです。」かもしれないが。


Tube's dilemma:仙石官房長官の害について

2010年10月14日 | Tube's dilemma
【衆院予算委】陰の首相・仙谷氏の「独演会」 はぐらかしや逆質問を連発 漂う虚脱感 (産経新聞、10月13日)

  衆院予算委員会が仙谷由人官房長官の「独演会」となりつつある。質問者が菅直人首相に答弁を求めても割って入り、声を荒らげたり、けむに巻いたり、逆に質問したり…。「陰の首相」との“異名”では不満なのか、政権の「顔」として振る舞う異様な姿に、衆院第1委員室は虚脱感だけが漂った。・・・・・・

  首相も自らの答弁に自信がないのか、仙谷氏の代弁に満足している様子。後ろの仙谷氏を振り返りつつ、遠慮がちに手を挙げることもしばしばだった。

  12日の予算委では自民党の石原伸晃幹事長が尖閣諸島への民間人立ち入りの是非を問うと、仙谷氏が「原則として何人も上陸を認めない」と答弁し、首相は「官房長官の答弁の考え方で対応することが適切だ」と同調しただけだった。 12日の予算委では自民党の石原伸晃幹事長が尖閣諸島への民間人立ち入りの是非を問うと、仙谷氏が「原則として何人も上陸を認めない」と答弁し、首相は「官房長官の答弁の考え方で対応することが適切だ」と同調しただけだった。・・・・・ 以下略


「小村寿太郎を僭称する柳腰官房長官」 (阿比留ブログ 10月13日) 

 ビデオ公開をしぶっている仙谷由人官房長官についてでありますが、昨日の衆院予算委員会で実に面妖な答弁をし、勝ち誇っていました。・・・・・ 以下略


仙石氏は、外交や経済政策は出鱈目でもその言い訳や責任転嫁には熱心という民主党政治のありかたを象徴する実力者なのかもしれない。言い訳が居直り、逆ギレ気味なのは仙石氏の性格もあるだろうが、鳩山内閣のソフトな誤魔化しと比較して、民主党政権末期の有様を示してもいるのだろう。仙石氏は、中国の文化大革命に肯定的に言及したり、思想的な根っこのとこころは、全共闘時代の段階からいまでもはなれきらないらしい。彼の頭の中では今だに毛主席は革命の理想の輝かしい星で、文化大革命やチベットなどでの膨大な犠牲者は存在しないのかもしれない。この人はひたすら日本が反省していれば平和が維持されるとでも考えているようで、「マオ」「共産主義黒書」もまともに読んだことはないのだろう。そして、20世紀後半になってからも生じている国際的悲劇の原因をまともに考えたこともないのだろう。

週刊ポストの記事によると、仙石氏は菅首相のことを親しい友人にはひそかに「弁理士総理」とか呼んでいるらしい。記事の真偽は分からないが、東大法学部在学中に司法試験に合格したのが自慢らしい。なんとも志の低い話しだが、真理にいかに到達するかの論理の方向という観点からすると法の世界と科学の世界は対照的である。法の世界では正当化の論理を基本とし無謬性を求めるのが基本なのに対し、科学の世界は可謬主義の立場にたち仮説検証を基本とする。実際家も科学者も経験から学び仮説を検証し、事実に合わない仮説は棄却、修正するという柔軟性を持っている。一方、権力志向が強い一部の法技術者においては、法を物象化して、法がそなえる正当化の論理と無謬性への志向を自己主張の根拠とする傾向も生ずるようだ。全共闘運動以来、権力闘争の世界に身を接してきた仙石氏にとってまともな法律家の律儀さはもはや無縁なものだろうが、強引な正当化と誤魔化しをして恥じない仙石氏のメンタリティーは、本人のもともとの性格や化石化したイデオロギーへの固着だけでなく、科学者や実際家にみられる仮説検証的な事実への謙虚さの欠如と、一部の堕落した権力志向の法技術者にみられる肥大化した自己正当化癖も加わって生じたもののように思える。

Tube's dilemma:国民無視の対中配慮

2010年10月11日 | Tube's dilemma
漁船衝突ビデオ 公開先延ばし・責任押し付け…政府、国民無視の対中配慮

 9月30日夜、首相公邸で開かれた首相、仙谷由人官房長官と参院民主党幹部らとの会合では、こんな会話が交わされた。
 川上義博・参院予算委員会理事「ビデオを公開したら大変なことになる。日中関係改善は2、3年遅れる。温存した方がいい」
 仙谷氏「おっしゃる通りだ。ぜひ国会でも国対でもそう言ってください」
 首相「よく分かりました」
 政府・与党内には、明らかに中国側に非があることを示すビデオを公開すれば、国民の「反中感情」をあおることになるという危機感も強いようだ。
 衝突事件にかかわる省庁の政務三役の一人はビデオを見て「あれは公開してはいけない。あれを見たら『中国人ふざけるな』と国民感情が燃え上がってしまう」と感想を漏らした。
 やはりビデオを見た民主党幹部も公開を躊躇(ちゅうちょ)してみせた。「ビデオを出したら国民は激高するだろうな」
 8日の代表質問で首相は、菅内閣が掲げる「主体的外交」に関して、こんな熱弁をふるった。
 「最終的に外交の方向性を決めるのは主権者たる国民だ。一部の専門家だけでなく、国民一人ひとりが自分の問題ととらえ、国民全体で考えることにより、より強い外交を推進できる」
 菅政権では、ビデオを国民の目から隠そうとする「対中配慮」は目立つ。だが、首相が語ったこの理念を実現するために、国民に必要な情報を提供しようという発言は、聞こえてこないのが現実だ。 (産経ニュース 10月8日)


一方の中国は、案の定「ビデオ公開ない間に中国は一方的主張を展開」(産経ニュース、10月11日)ときている。中国は、南沙(スプラトリー)諸島では見え見えの証拠捏造(産経ニュース、10月4日)までして、占有の既成事実化をはかってきた国だ。それを知っていれば、明確な事実を国際社会に発信することがいかに大切かは分かるはずだ。


菅・仙石民主党政権は、民主主義の原則を踏みにじり国民の眼から事実を隠そうとしている。知る権利を強調し、核密約を問題視していたのはどの政党だったのだろうか。一旦、政権の地位についたら(国際社会の現実を知らず、外交の基本を間違え、経済政策ではまともな経済学もふまえられないのに)国民にはよらしむべし、知らしむべからずということなのだろうか。国民や国益を無視した保身だけのご都合主義という他はない。あるいは文革を賛美する全共闘出身の仙石官房長官の頭の中では依然として中国共産党が正義なのかもしれない。(川上義弘参院予算委員会理事はかくれもしない親北朝鮮派だ。)いずれにせよ、彼らの耳には国際社会の常識や論理や事実の言葉は届かず、届くのは世論と支持率の言葉だけのようだから、反中国共産党=反民主党感情と支持率の大幅低下で彼らの耳に非を伝えるしかないだろう。

Tube's dilemma:劉氏にノーベル賞(人権を口にできない菅民主党)

2010年10月10日 | Tube's dilemma
台湾・馬英九総統
 「この受賞は本人の栄誉だけでなく、中国の人権向上にとっても歴史的な意義を有する」

チベット仏教最高指導者・ダライ=ラマ14世
 「心から祝意したい。劉氏の受賞決定は、改革を強く求める中国国民の声が高まりつつ
 あることを国際社会が認知した表れだ」

アメリカ・オバマ大統領
 「劉暁波氏のノーベル賞受賞を歓迎する」
 「我々は、できるだけ早く劉氏を解放するために中国政府に言及していく」

ノルウェー・ストルテンベルグ首相
 「民主化と人権の促進に貢献した劉暁波氏を祝福したい」
 「中国政府に対しては今後も何度でも機会をとらえて劉氏の問題を提起し続けていく」

ドイツ政府報道官
 「彼がこの授賞式に参加できるように配慮し中国は彼を解放するべきだ」

フランス・クシュネル外相
 「この賞は素晴らしきものだ。フランスは何度も劉氏の釈放を呼び掛けてきた。
 今後もこの呼び掛けを繰り返す」

オーストラリア・ジュリア・ギラード首相
 「オーストラリア政府は、中国政府に対して、劉氏釈放を要求していく」
 「これまでも劉氏に代わって中国政府に働きかけてきた。これからもそうするつもりだ」

菅総理大臣
 「まあいま、あの、ノルウェーのノーベル賞委員会が、まあそういう評価をされて、
 まあそういう、メッセージ込めてですね、あの、賞を出されたわけですから、
 まあそのことを、しっかりと受け止めて、おきたいと思っています」(産経新聞 10月8日)


小説家の永井荷風は、大逆事件に際して何も発言できなかった自分を、フランスにおけるドレフュス事件への知識人の対応と対比し、自らを戯作者にすぎないと自嘲した。中国共産党による現在進行中の深刻な人権問題にほうかむりをする菅氏ひきいる民主党も、人権などと言う資格をもたないことを自ら示してしまった。しかし菅氏ひきいる民主党の方々は永井荷風のように自らをふりかえることなどせず、お得意の世論対策のための誤魔化しと自己正当化に走るだけだろう。

南沙諸島における侵略、チベットやウイグルなどにおける人権侵害の放置は、尖閣諸島への侵略、台湾などへの人権侵害に対しても同様な対応を許容してしまうことにも通ずる。この意味で人権は普遍的なものである。70年前、100年前の侵略や人権侵害は繰り返し弾劾するが、直近の現在進行中の侵略や深刻な人権侵害を許容する人々は、正義や人権を口にする資格のない、詐欺的な偽善者、エージェントにすぎない。沖縄も被害にあわない保証はない。その可能性は中国における実際の公的な言動が示唆しているし、わが民主党は、鳩山内閣以来、日本の防衛力と日米安保の弱体化に努め条件整備を行い、さらには中国のとんでもない言動に呼応するような政策すら提案している。


化けの皮がはがれてゆく民主党  北海道365 10月10日

Tube's dilemma:討論に完敗して捨てゼリフを吐く菅首相

2010年10月07日 | Tube's dilemma
自民党稲田朋美議員の代表質問に完敗した菅首相

  久しぶりに代表質問らしいものを聞いた。10月6日の午後に行なわれた衆院代表質問における自民党稲田朋美議員の質問がそれだ。
  メディアが書く前に私の評価とこの質問が日本の今後の政局に与えざるを得ない影響について書いておきたい。稲田氏の考えは、今の日本の政治のなかでも、最も保守・国家主義的な考えであり私の考えとは基本的なところで大きく異なる。しかしその立場の違いにもかかわらず、今日の彼女の代表質問は見事であった。
  菅民主党首相にぶつけた質問事項のすべては、いずれも現下の重要な問題であり国民の多くが菅首相に聞いてみたいと思っている事柄だった。一切の馴れ合いを排し、周到に準備された自分の言葉で菅民主党政権の政策の弱点や、民主党という政党が抱えている矛盾を見事についた。民主党攻撃材料のすべてがその中にあった。これこそが野党の代表質問である。トップバッターで質問した自民党党首の谷垣氏の代表質問があまりにも凡庸であった為そのするどさが際立った。
  ひるがえってそれを迎え撃つ菅首相の答弁には失望させられた。
  「私も野党時代は激しい質問をしたが、これほど汚い言葉で質問をしたことはなかった」などという言葉で応酬したつもりの菅首相の答弁は、あらかじめ用意された官僚答弁の棒読みに終始した言い訳ばかりだった。あげくの果てに、質問中に稲田議員が発した「官僚の書いたものを読み上げるのではなく総理自身の言葉で答弁願いたい」という言葉に言及して、「そんな事をいうのなら自分も原稿なしで質問したらどうか」などという捨てゼリフを吐いて、その答弁を終えた。
  誰が聞いても菅首相の完敗であった。(天木直人 10月6日)

  政治的な立場が全く違う天木氏の評だけあって説得力がある。

国会代表質問-稲田朋美 1/3
国会代表質問-稲田朋美 2/3
国会代表質問-稲田朋美 3/3
菅総理答弁 1/3
菅総理答弁 2/3

  天木氏は言及していないが、捨てゼリフを吐いた菅首相は、さらにだめ押し菅総理答弁 3/3をしている。

「答弁漏れしないために、原稿を見てるんです!」(キリッ!)
→(2分後)「え~答弁漏れがありましたので補足します、、、」

総合的学際研究の時代の復活:「倫理学ノート」清水幾太

2010年10月05日 | 書評・作品評
サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」が評判になっている。NHKのハーバード白熱講義あたりでとりあげられたのがブームのきっかけのようだ。日本語訳が出る前にAudio Bookの初めの部分を聴いたままだったので、最後まで聴いてみた。倫理学の歴史を、ベンサムの利主義からカントの義務論、ロールズの義務論の流れでの社会政策的な正義論、そしてアリストテレスの本質主義にもとづく共同体的道徳論と紹介し、そしてそれをアメリカの社会問題(税金での兵隊と徴兵制、避妊、等々)と結びつけて分かりやすく上手に説明している。(クリントンがホワイトハウスの執務室でモニカにフェラチオをさせて、セックスをしたわけでなかいとかクリントン的な言い逃れをしたのを、カントの道徳律と関連づけて、誤解を誘導しているかもしれないが、事実に反する言明をするなという格率は守っているとして、殺人犯に誤解を誘導して被害者をかくまいながら事実に反する言明を避ける場合や、カントの著作における権力者への対応などの場合を引き合いに出して、弁護しているのには、動機が違うだろうと、のけぞってしまったが。)アメリカの社会問題と関連づけながら、カントからロールズの義務論とアリストテレス流の共同体的道徳論をそれぞれの問題点を指摘しながら置いたあたりは、なかなかうまいと思ったが、共同体的道徳論を言うなら哲学でもVirtue Ethicsの展開があるし、心理学では道徳感情の研究が展開しているしポジティブ心理学における徳の研究もある。リベラルと保守の橋渡しみたいなところに位置するオバマ支持という点ではJonathan Haidtなども同じだが、より学際的に新しいアプローチを試みている。サンデルは、いかにもハーバードの先生という感じで、東海岸を中心にしたアメリカの表舞台を意識したリベラルで、説明は上手だが、オリジナリティーはあまりない(PinkerやE.O.Wilsonなど、科学的にとんがったハーバードの先生もいるが)。

倫理学への学際的アプローチということで、何十年かぶりに清水幾太の「倫理学ノート」を読んでみた。前半の功利主義と経済学の関連の部分は面白かった。また1930年当時、ドイツの形式社会学の影響下にある日本の社会学者の多くが、コントなどの総合社会学を知識もなしに見下しているのに憤慨しているくだりなどのエピソードも面白かった。ただ、後半のウィトゲンシュタインの話は今読むとまたかという感じで(というか、むしろ、この本の後で二番煎じ、三番煎じが出回ったということだろうが)、コントやヴィーコなどは持ちネタでまとめたという感じで、前半で導入された功利主義と経済学の関連の流れの展開とは対応していない。しかしノートとしては、20世紀に生じた形式社会学や経済学における専門化に対し、曖昧な人間の感情もふくめた総合的なアプローチを、コントやデカルトの敵ヴィーコなどの紹介を通じ、対峙させようとする生きの良い、40年後に読んでも十分面白い内容になっている。

「倫理学ノート」では功利主義と経済学の関連は途中で切れた感じだったが、「倫理学ノート」出版から40年近くたって、変化が生じているようだ。

新古典派の経済学は、労働価値説を越えて需要供給の観点から価値をとらえることを可能にする限界革命を経て成立した。メンガーやジェヴォンズが導入した限界効用(Marginal Utility)の考えは、当時の心理学における精神物理学を参照したものだった。限界効用逓減の法則などは、感覚量に関するウェーバー・フェヒナーの法則と同型の内容となっている。エッジワースのように効用の測定に向けて心理学を援用しようとした経済学者もいる。しかし、その後の経済学は、パレートなどの定式化にしたがい、心理量ではなく選択結果を参照してなりたつようにモデル化を行うようになる。サミュエルソンなどが、この流れで新古典派の経済学を数学的にモデル化していく。合理的な選択を前提とした数学的モデルによる専門化した経済学の誕生である。この方向が20世紀の経済学の主流となる。こうした流れに変化のきざしが生じたのは、20世紀の終わりになってからである。行動経済学では、実際の人間の選択を心理学的な理論を参照に実験的に研究を試み、神経経済学など神経科学と経済行動との関連も研究のテーマとなった。19世紀末に試みられた心理学との関連づけが、20世紀の専門化の時代をはさんで、20世紀末から21世紀になって再びより本格的に探求されるようになったのである。(この間の事情については、例えば次の論文が分かりやすい。THE ROAD NOT TAKEN: HOW PSYCHOLOGY WAS REMOVED FROM ECONOMICS, AND HOW IT MIGHT BE BROUGHT BACK, Luigino Bruni and Robert Sugden, The Economic Journal,2007, 117, 146-173.)また、経済学者が効用という扱いやすい概念だけを数学的定式化にのりやすいようにして拝借した功利主義者が問題とした幸福などという問題も経済学の本流に復帰しつつある(例えば、"Economics and Happiness: Framing the Analysis"などを参照。)。

心理学の成立は、ヴントがライプチヒ大学に心理学実験室を設立した1879年とされる。ヴントはヘルムホルツの弟子で、ヘルムホルツは生理学者ヨハネス・ミュラーの弟子だった。ヨハネス・ミュラーの孫弟子には、フロイトやパブロフがいる。ヘルムホルツなどは、物理学と感覚生理学の大家であるとともに、知覚の無意識的推論説を唱えた心理学者でもあった。要するに心理学は19世紀末におけるドイツの生理学における感覚研究などを基盤に学際的背景で成立したのである。ヴントは心理学を直接経験の科学とし、心理学を独立した科学として立ち上げようとした。行動主義や精神分析など、成立は生物学や医学と関係していながら、より専門的な学派を形成していった。心理学も、20世紀の初めから後半までは専門化の時代だったと言える。心理学も20世紀の終わりになって本格的な学際的研究の時期を迎えている。最初は、1960年代から70年代の認知革命、次は1980年代以降の脳科学の参入である(1985年に認知神経科学、1995年に感情神経科学、2005年に社会神経科学と心理学の主要領域ほんとんどすべてとリンクするようになった)。19世紀に生理学を背景として学際的な科学としてスタートした心理学は20世紀の専門化の時代を超えて、ふたたび本格的な学際的研究の時期を迎えつつある。

以上、心理学と経済学についてごく大づかみに述べた。清水幾太の「倫理学ノート」ではヴィーコによる歴史のらせん状発展の説は紹介されていないが、人間科学、社会科学は20世紀の終わりになって、20世紀初めから後半までの専門化の時代を超えて、再び19世紀末と同じような総合的学際化の時代を迎えつつあるようだ。

ステップ1を越えて政策の効果を考える

2010年10月03日 | 書評・作品評
Sowellの経済学のテキストは、教科書というより一般の社会人向けの本で、本の中心となるメッセージを一文で繰り返し提示しつつ、それを沢山の具体的な事実によって示している。提示される事例は豊富でよく調べられているし、メッセージは問題の核心を捉えている。Audio BookでBasic EconomicsApplied Economics を聴いたが、素人にもわかりやすく面白かった。

Basic Economicsの基本メッセージは、経済とは複数の用途のある稀少なリソース(自然資源、労働力、資金、知識など)の配分だということだ。だから、複数の用途のある稀少なリソースの配分であれば、お金が関係しなくとも、そこには経済学的な問題があるということになる。例えば、戦争におけるパイロットの扱いも、複数の用途のある稀少なリソースの配分としてとらえられる。太平洋戦争において、日本軍ではベテランパイロットは戦死するまでずっと戦場で戦った。一方、米軍は一定の期間をすぎたら、ベテランパイロットは後進の指導に当たらせた。ここで稀少なリソースはベテランパイロットであり、複数の用途は戦場で戦うか、後進の指導にあたるかである。

社会における財の生産や供給において、複数の用途のある稀少なリソース(資源、労働力、資金、知識など)の配分をどう行うのか。社会主義経済は、この配分を党幹部や経済官僚の中央からの指令による集中管理でより効率的に行おうとした試みだった。結果は無惨な失敗だった。複数の用途のある稀少なリソース配分のために必要な情報は、ローカルで多岐にわたっており常に変化しているため、中央からの指令による効率的な管理は不可能だからである。ソビエト共産党の幹部がイギリスを訪れて、毎朝新鮮なパンが店に並ぶのに驚いて、どのようにして政府は全国のパン工場や小売りに材料や製品の供給を管理しているのかと質問したというエピソードがある。政府は何もしてないというのが答えで、小麦の買い付けから、製粉、等々、それぞれの業者はもうけのためにそれぞれの取引をしているだけである。もうけがあがる方向に、複数の用途のある稀少なリソース(資源、労働力、資金、知識など)が配分され、その結果として安く美味しいパンが供給され続ける。

Basic Economicsでは以上の基本的な観点の流れで、独占や優位な企業の入れ替わり、所得分布の変動、貿易なども解説されるが紹介は省略する。

Applied Economicsの主題は、経済への政策的介入の効果である。政策的介入の本当の効果は、介入の意図や最初の段階(ステップ1)の変化ではなく、政策的介入によるインセンティブの変化がもたらす複数の用途のある稀少なリソースの再配分を見なければ分からない、ステップ1を越えて考える必要があるが基本メッセージである。

具体的な政策的介入の例が沢山あげられている。下に法人税の値上げと家賃制限の場合を示す。政治家は、かりにこうした経済のしくみは分かっていても、主に自分の選挙に直接影響するのは、ステップ1の段階までで、そこで好印象を得るのが重要で、その後は、忘れやすい選挙民マスコミをあてにしたり、できる。

法人税の値上げ
目的:税収を増やしたい-->政策:法人税を上げる-->ステップ1:税収が増える-->ステップ2:高い法人税を嫌って企業が撤退する-->結果:税収が減る

家賃の制限
目的:一般向きの住宅の家賃の高騰を抑えたい-->政策:家賃に制限を設ける-->ステップ1:家賃は人為的に低く抑えられる-->ステップ2:一般向きの住宅への投資が減る(投資は他の地域か、高級住宅に向かう)-->結果:一般向きの住宅が不足し、供給不足のために家賃の上昇圧力が生ずる

最近の日本の経済政策でも、派遣労働制限や貸し金行規制に関して、同様なステップ1だけ考え、選挙民にアピールした政策がとられた。

派遣労働制限の場合
目的:派遣社員を減らし正社員を増やしたい-->政策:派遣労働を制限する-->ステップ1:派遣労働者は減る-->ステップ2:正社員だけでは採算がとれない企業は撤退する-->結果:派遣社員も正社員も減る

貸し金行規制
目的:高利で苦しむ人を減らしたい-->政策:高利の貸し金を禁止する-->ステップ1:高利の貸し金はなくなる-->ステップ2:リスクの高い借り手に貸す金融業者が倒産、撤退する->結果:リスクの高い借り手は金を借りられなくなるか、ブラックマーケットに頼らなければならなくなる

Applied Economicsの第6章のテーマは移民問題についてステップ1を越えて考えるである。Sowellは自由経済学論者だが、安易な移民政策には否定的である。

移民問題
目的:高齢化する豊かな国では労働力に比し社会保障の負担が大きい。より貧しい国からの移民により労働力を補いたい-->政策:より貧しい国からの移民受け入れをはかる-->ステップ1:より貧しい国からの労働意欲に富む移民第一世代は熱心に働く-->ステップ2:移民は製品の輸入と違って高齢化し、子供も産んでいく。->結果:高齢化する移民は、社会保障の負担を増加させる。移民第二世代以降にとっては、移民先の豊かさは当然で、移民第一世代のような労働意欲はもたない。また、往々にして、文化的な軋轢も生ずる。結果として労働力に対する社会保障の負担の割合は増えることもある。

Tube's dilemma:事実隠蔽と責任転嫁の無責任

2010年10月03日 | Tube's dilemma
「尖閣、渋谷2600人デモ」 CNNが報道する一方、日本のマスコミは… 痛いニュース 10月2日

日本の主要マスコミでは報道されなかったが、尖閣諸島侵略に対する中国への抗議デモが10月2日に全国各地で行われたらしい。


China accused of invading disputed islands CNN 10月2日

CNNのコメント欄にはこんな書き込みもあった。

I am awaiting for the Japanese video to show how Japanese boats chased and sandwiched the Chinese fishing boat. It is still hard for many people to believe, (including my American, British,and French friends) that a small fishing boat chased two armed and much larger boats and intentionally rammed onto them.


尖閣、日本の立場説明へ=菅首相、3日ベルギー訪問 時事通信 10月1日

菅首相はアジア欧州首脳会議に出席し、そこで日本の立場を国際社会に説明するそうだ。英語ができないのはしかたないとして、衝突のビデオも公開せず、さらには自分も見ていないなどということで、日本の正当性を説得的に主張できるのだろうか?ビデオを公開しないだけでなく自分も見ないというのは、見たら見たで判断を問われるだろうし、そこから生ずるかもしれないコミットメントや失敗をさけようとしているのだろう。起訴前の船長を釈放した件についても、検察の独断でやったと信じる人はほとんどいないのに、すべてを検察に転嫁し知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。姑息で小ずるい事なかれ主義の無責任という他はない。