道端鈴成

エッセイと書評など

芭蕉の形式感覚

2007年09月25日 | 言葉・芸術・デザイン
「奥の細道」の旅で芭蕉は、5月16日に江戸を出発して、東北から日本海をまわり、10月4日に大垣に着いている。一日平均20キロ弱歩いて、約140日間の行程である。この旅で芭蕉が残したのは、400字原稿用紙にして50ページにみたない紀行文にすぎない。しかし、そこには数々の名句が彫琢に彫琢を重ねた文とともに綴られている。キーン氏は、「百代の過客」という、日本人の日記に関する興味深い本で、「奥の細道を」次のように評している。

「『奥の細道』は、日本の紀行文学に具わる諸資質の偉大な集約であり、同時にその分野における新しい可能性を、大胆に探究した作品である。芭蕉はこの作に、紀行文につき物のさまざまな要素を取り込んでいる。例えば名所や歌枕に関する記述、詩と散文の組み合わせ、道中での見聞、孤独の際における私的省察の叙述などである。すべてこれら周知の要素も、ここでは新たな意味を獲得している。それは芭蕉が、日記を読むという昔ながらの喜びを無限に高めてくれる、あの形式の感覚を付与して、以前にはややもすればただの気紛れな印象記に終わりがちだったものを、一つの渾然たる全体としてまとめ上げているからにほかならない。」

キーン氏は「奥の細道」を日本の紀行文学の頂点というだけではなく、まばゆいばかりの名文や句と、やや平板な文の対比を、モーツァルトのオペラにおけるアリアとレシタティーボの対比になぞらえるなど、世界の芸術における傑作として扱っている。

「奥の細道」における形式の感覚とは、具体的にはどんなものだろうか?

「奥の細道」は、深川を出るときの旅の初めの句と、大垣に着いたときの旅の終わりの次の句の二つの句を枠としている。

5月16日 深川発
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

10月4日 大垣着
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ

初めの句は、友人による見送りの際に詠まれている。キーン氏はこの句を「それ自体傑作であるばかりか、あとに続く作品全体の主調を見事に決めている。詩と散文との、これほど完璧な結合は、世界の文学の中でもまれなのである。」と評している。この句は、作品全体の主調、つまり、旅、季節の移ろい、無常と生き物・人の悲しみ、詩聖へのオマージュ(陶淵明の「羈鳥(カゴの鳥)は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」をふまえているとされる。)、それにおそらく水、を設定している。そして、冒頭の「行く春や」は、最後の、蛤の句における「行く秋ぞ」とが対応して、作品の枠を作っている。

各句にも、対比や比喩が多重にもり込まれている。最初の句における、鳥と魚の対比、口と目の対比。そして鳥や魚と人の間の比喩は、単純な擬人化ではなく、悲しむ動物の鳴き声や涙に伴奏されながら、人もいくぶんか動物になぞらえられている。最後の句では、「蛤」の引きはがされる二枚の貝に、分かれていく人がたとえられている。「ふたみ」は、「蛤」の二枚の貝であると同時に、二人の身でもある。また二見ヶ浦という芭蕉の次の目的地の地名も暗示されている。

8月20日(旧暦の7月7日)
荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)

春に出発した「奥の細道」の旅も、盛夏をようやく過ぎようとしている頃の句である。言語学者の平賀氏が、最近の著書で興味深い分析をしているので、簡単に紹介する。

「荒海や」の句には、複数のレベルで、多重の意味が集約されている。

まず、「荒海」と「天河」の対比がある。空にかかる大河である天河と、地上の荒海は風景として対比されるだけではなく、詩の形の上でも対になっている。水平線上の「佐渡」は、風景においても、詩の形においても「荒海」と「天河」の間に来る。これらは詩の形と指示対象とIconicity(類像性)である。

音のレベルでは、母音ではa音が8個、o音が5個で多い。a音は開放の印象を、o音はやや奥まった印象をあたえる。子音は、m,n,r,yなどの共鳴音(sonorant)が多くs,tなどの阻害音(obstruent)は五七五の真ん中でしか生じていない。共鳴音は荒海や天河といった水の印象と対応している。阻害音は、「佐渡」の島、しかも流刑地で金山があるという、ごつごつざらついた印象と対応している。a音の開放の印象とo音のやや奥まった印象は、夜の海と空の風景にふさわしい。これらは、音の印象と描写対象の印象との類像性である。

「荒海や」の句の季語は、「天河」で夏である。旧暦の七月七日に詠まれており、当然に、天の川を渡って牽牛・織女の二星が七月七日の宵に逢会するという伝説をふまえている。この伝説は、日本でも古くから知られており、万葉集にも詠まれている。牽牛・織女を隔てる「天河」と、こちらと佐渡を隔てる「荒海」がある種意味的にも対応している。さらに「佐渡」は「渡」を「佐」(たすける)との意味も込められている。これらは複数の意味における類像性である。

言葉は、音から意味まで複数のレベルで連なり、無数のテキストや知識と複雑な参照関係をもっている。詩人は、こうした複雑な関係の結節点である言葉を、繊細な手つきで紡ぐ。紡がれた言葉は、読み手の心で解凍されると、多重の波紋を生み出す。言葉を紡ぐ詩人がすべての効果を意識しているわけではなく、多くは無意識で、偶然の結果もあるかもしれない。芭蕉の形式感覚とは、こうした多重の関係を圧縮してテキストを紡ぐ能力である。

富士一つ埋み残して若葉かな

この与謝蕪村の名句は、感覚的に明快である。芭蕉の俳句におけるように、対や比喩的な意味の連鎖などによる濃密な意味の圧縮が行われている作品とは、やや異なるように思える。もちろん本物の詩人の作品だから、響きは意味と見事に対応している。「富士」という柔らかい言葉を、「一つ」のやや堅い小さな感じの音で受け、この響きは、遠景の富士の印象と対応している。そして「埋め残して」というややもたもたした感じの響きが続き、以上を「若葉かな」のa音の五連音の開放的で明るい響きが包むという構造になっている。そして、句が指し示すイメージの鮮明さは圧倒的だ。芭蕉の句より魅力が分かりやすい。

俳句を全体として見れば、イメージの鮮明さや、視点の面白さ、言葉のリズムなど、特定の側面の魅力で読み手をとらえる作品の方が多く、芭蕉のような徹底的に彫琢され凝縮された句は、やや例外的のような気がする。俳聖芭蕉の圧縮された多重のテキストを紡ぐ形式感覚は、むしろラテン文学で鍛えられたヨーロッパの詩人の形式感覚に近いのかもしれない。おそらく芭蕉はこうした形式感覚の基本を、傾倒する中国の詩で学び、連歌の指導者としての経験のなかで独自に発展させていったのではないかと思う。

自民党総裁選

2007年09月24日 | 時事
自民党の総裁選は、予想どおり福田氏の勝利だった。ただ、麻生氏も派閥単位での談合的支持が8対1と圧倒的に不利な状況のなかでの197票は善戦だったといえるだろう。自民党は、首相時代の一桁支持率を誇る森氏やデマ政治の中川(秀)氏、郵政政局を狡猾にすりぬけたプロ政局師の古賀氏など新五人組の面々との心中を、かろうじて踏みとどまったといえるかもしれない。

You Tubeに新宿アルタ前で22日に行われた麻生候補の演説会における北村氏の応援演説がアップされていた。テレビでのむっつりぶりとはうってかわって、北村吠えるといった感じの演説である。なかなか面白いことも言っている。

「いいですか。人間の言葉が説得力あるというのはどういうことなんですか。政治の問題は難しい。だけどその難しいことをわかりやすく具体的に話せる人間ってのはどういう人間なんだ。その政治の本質をわかっているからわかりやすく、我々に話すことが出来るんですよ。いいですか。政治の話をわかりやすく出来ない人間ってのは二通りあるんだ。 一つは本音を語ろうとしない人間。(拍手)もう一つは頭の悪い人間なんだ。 この二つしかないんだ。 そこが麻生太郎と全く違うところなんです。もう一つ言わせてもらいます。 私は、例えばですよ、私はお膳立てが全部揃わなければ出ません、て私はお膳立てが全部揃わなければ出ませんと、こういう風に言う候補がいたとすれば、これは弁護士の目から見ると非常にプライドの高いお方だ。(笑い)それはどういうことになるか、いいですか、この人にもし日本の未来を託した場合、ある局面では国益よりも、国民の生活よりも、自分のプライドを優先するだろう。そういうもんなんだよ。いいですか。それをわかるだろう。私にはわかる。 (拍手)いいですか、日本の国益を担って、首相として歩むためには強さが必要なんだよ、人間としての強さが。その為には自分こそ総理に相応しいんだと、自分こそ総理に相応しいんだと、みんなが思って、自分も思って、それで敢然と立ち向かっていく、そういう人間でなければダメなんです! (大拍手)それを分かるか!」

確かに麻生氏が自分の信ずるところを熱意をもって訴えているのに対し、福田氏はそうではない。そして頭もたいして良くない。だから、曖昧、しどろもどろにしか、語れない。本音とかは別にして、頭が切れたら、もうすこし上手に語るだろう。中国、朝鮮半島の要人たらしこみは、伝統の技で、高度に発達している。さして良くない頭で、たらしこまれつつ、東アジア共同体など推進されたら迷惑である。

「国会議員が投票する時に国民の声を全く無視するわけにはいかない。だから国民の声を無視するわけにいかないから、じゃあ何が起こったんだ。麻生謀略説。麻生が安倍の足を引っ張ったんだ、そういう謀略説を流したでしょ、最初に。 あれはまさに国民の声を無視できないから、世論操作しようとしたんだよ!それがわかりますか。(拍手) こんな短い期間であの麻生謀略説をひっくり返すのは大変なことだ。まして麻生太郎本人は、非常に品のいい男だ。だから、自分でそうじゃないんだなんてことは言わない。だから品の悪い私が言ってるんだよ。わかるかね!! (大拍手)」

安倍首相が、麻生氏に欺されたと言ったとのデマは、9月16日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」でも、政治評論家の三宅氏や宮崎氏がまことしやかに唱えていた。そして、番組では福田氏の支持をいう人が多数だった。東アジア政策に関して、福田氏の考えと対立するような意見が多かった当番組とは、ややそぐわない支持のまとまりのような気がしたが、日本テレビが、福田氏の支持の方向だったらしいので、出演者は、それに棹さしたのだろう。しょせんはTBSなどと同じテレビ局である。

糸瓜忌

2007年09月23日 | 言葉・芸術・デザイン
評伝などを読むと正岡子規は、なかなかに愉快な人物だったらしい。やたらと人を指導するのが好きで、漱石が英文を書いて子規に見せると、英語は弱いくせに、兄貴風はふかせたいで、Very Gooodと朱で書いたとか。松山に赴任していた漱石の家にいったとき、ちゃっかり、漱石のつけで、ウナギをとって平らげていたとか。まあ、それを面白そうに書く漱石も漱石だが。

子規は、俳句作者としてよりも、俳句運動の組織者としての貢献の方が大きい。俳句の分類作業など、情報の組織化については先見性と実行力を兼ね備えている。批評家としての眼識も確かだ。そして、リーダーとして才能のある人々を組織する能力がある。根岸の子規の病床が、俳句運動の中枢となりえたのは、こうした子規の才能と俳句革新にかける情熱によったのだろうと思う。

「墨汁一滴」「病床六尺」などの随筆は、病床で俳句運動を指導する子規の眼がとらえた日々の記録である。子規は、肺炎が脊椎に転移して、脊椎カリエスになっていた。しかし、脊椎カリエスのひどい苦痛にさいなまれながら書かれた子規の文章には、湿っぽさや、愚痴っぽいところはまったくない。寝床に金魚鉢を置いてもらい「痛いことは痛いが綺麗な事も綺麗じゃ」と書き、日々の食事を事細かに書いている。そこには、苦痛を苦痛としてとらえながらも、好奇心を失わない快活な子規がいる。

九月十九日は正岡子規の命日だった。病床の子規が庭を眺め、句のテーマとした糸瓜にちなんで糸瓜忌とよばれる。子規がなくなったのは、暑い夏が過ぎて、ようやく秋の気配が漂い始めた頃である。子規の最後の日記は、九月十四日の朝というタイトルで、不思議な清澄感のただよう文章である。以下に終わりの部分を引用する。

「虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひら/\と動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病氣を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。」

漱石の夏やすみ

2007年09月22日 | 言葉・芸術・デザイン
暑かった夏もようやく終わりだろうか。今年の夏は、消閑に「漱石の夏やすみ」を読んだ。漱石の漢文の紀行文「木屑録」の翻訳解説と、日本の漢文についての論考、それに正岡子規との交友などについて、中国文学の専門家、高島俊男氏がつづったものである。「木屑録」は、漱石23才の夏の房総旅行の紀行文である。旅行そのものは、たいして面白いものではないが、漱石の漢文の力が高い水準であることはよく分かった。兄貴風を吹かせる子規の漢文がいまいちなのは愛嬌な感じがした。著者の中国文学の専門家ならではの視点からの日本語表記におけるひらがなへのこだわりも興味深かった。水墨画風というか、論考、翻訳、解説、随想と要所をおさえるかたちで、ぬいて描かれている。要所の水準は高いが、油絵風に展開して塗りつぶすというしつこさがない。こういうのを、文庫本で気軽に読めるのはありがたい。

漱石の「文学論」「文学評論」も読んだ。

「文学論」は苦しい作品である、途中までしか読めなかった。漱石が、文芸の基礎をもとめて当時のイギリス心理学なども勉強し、真剣に文芸の基礎付けをしようとしたことは分かるが、感覚論や感情論など表面的であまり面白くない。これを講義でやったのだから、教師も学生も苦しかっただろうなと思った。当時の心理学と自分の文芸論をじかに結びつけるのではなく、カタルシス論、ミメーシス論など、従来の文芸に関する理論を咀嚼整理した上で、心理学との関連づけを求めるべきだったろうと思う。また、ジャンル論も展開すべきである。この辺で、歴史記述と文学、詩の役割の違いなど、漱石の蘊蓄をかたむけての西欧文芸と中国文芸についての比較があったら面白かったのにという気がする。「文学論」は、十分な装備や地図なしにジャングル探検をした作品のような気がする。とりあえずまとめあげてしまった根性というか、力量はすごいとは思うし、こういう苦しい仕事が、漱石の学識の基礎を作ったのだとは思うが。

「文学評論」は、いよいよ漱石の本領発揮という感じである。18世紀イギリス文化の紹介は、よく調べてあるし、ときどき混じるべらんめい調も、江戸っ子によるロンドン案内みたいな良い味を出している。アディソンやポープ、デフォーなどの遠慮のない作品評や、人物評も面白い。漱石の読解力と率直さは信頼できる。ただ、西欧の文芸史の流れでの評価の押さえはやや弱いような気がしないでもない。白眉は、スウィフト論である。風刺論、人物論、作品論、どれも見事で、英文学者としての知識を背景に、同じく希有の資質をもった風刺作家として、論じている。名人の勝負を見ているような感じがした。

漱石は、「文学評論」のあと、「我が輩は猫である」、「坊っちゃん」と立て続けに名作を書き、作家としての道に進む。個人的には、漱石の作品では、晩年の煮詰まった感じの大作より、前半のいきの良い小説や、エッセイなどの方が好きである。

感謝の心(臓)

2007年09月18日 | 心理学
人間の心の働きの中枢が脳にあることは、科学的な常識である。しかし、心、とくに感情については、「胸をいためる」、「胸が一杯」、「胸がキュンとする」、「胸が躍る」、「胸暖まる」、「胸にしみる」、等々、心が胸にあるかの表現がきわめて多い。実際、一般の人にアンケートをとってみると、心が胸にあると答える人の方が、脳にあると答える人より多いらしい。

最近の研究で、我々の素朴な感覚が全くの見当違いでもないことが分かってきた。

心臓は、交感神経系と副交感神経系の支配下にある。しかし同時に、心臓からの感覚出力が脳にモニターされ、感情状態などの心理的な状態に影響を与えている。興奮すると交感神経系の影響で心拍が増え、そのドキドキを脳がモニターする。パニック発作などは、心拍や呼吸の増大などの身体的変化を、脳が異常事態だと解釈し、これがさらなる身体変化をひきおこしという悪循環により生ずる。

HeartMath研究所では、単純な心拍頻度ではなく、心拍のリズムを問題にして、集中的に研究を行っている。心拍のリズムとして、具体的には心拍頻度の変動周期を指標としている。通常は心拍頻度の変動は、10秒周期を中心に生ずる。これは脳から心臓への運動指令、心臓から脳への感覚情報のループによって生ずるものらしい。

HeartMath研究所では、心拍頻度の変動周期の分布が感情状態によってはっきり変わることを見いだした。例えば、図は怒り(Anger)、リラクゼーション(Relaxation)、感謝(Appreciation)の状態の時の、心拍を示したものである。図の左側は毎分の心拍数BPM(Beat Per Minuite)のグラフである。怒りでは交感神経系が優位になり心拍数が増える。リラクゼーションでは副交感神経系が優位になり心拍がゆっくりめになる。これは心拍頻度の変化である。

心拍頻度の変動を周波数分解し、各周波数ごとにPSD(Power Spectral Density)を示したのが、図の右側である。怒りでは低い周波数成分の密度が高く、心拍頻度のゆっくりしたドリフトが生じている事が分かる。この低い周波数での変動は交感神経系の活性化によるものである。興味深いのは、リラクゼーションと感謝の違いで、感謝では心拍頻度の変動周期が0.1Hzあたりに集中し心拍頻度の変動がサイン波に近い綺麗な周期を示すのに対し、リラクゼーションでは高周波の部分にもピークがあり、心拍頻度にはややギザギザの小さな周期での変動も加わっている。リラクゼーションにおける高周波の変動は副交感神経系の活性化によるものである。

感謝の場合は、副交感神経系と交感神経系のバランスがよりとれた、心臓-脳ループが生み出す周期がより整合的(Coherent)な状態である。HeartMath研究所では、Coherentな心拍状態が示す、脳と心臓の整合的なリズムが、心理的に、また健康上も利点があることを種々の研究で示している。

直感的に言えば、心臓と脳が形成している身体の周期が、感謝や愛情などの肯定的感情の時には整合的にきれいなリズムを刻み、怒りなどの否定的感情の時は昂進しリズムが乱れ、リラクゼーションでは低く落ち着くがリズムはそろわないということになる。

むやみに怒ったりすることが、心臓血管障害など、健康に害があることは以前から指摘されていた。感謝の心や愛情などの肯定的な感情を持つ事が、社会関係の改善などを介した効果とは別に、直接に身体的健康にも良いという事も言えるのかもしれない。

参院選の夢の後

2007年09月16日 | 時事
参院選の夢の後だろうか、田舎を車で走ると、今でも、小沢氏の頑固そうな横顔に「国民の生活が第一」というキャッチコピーのポスターをあちこちで見かける。安倍首相のひ弱そうな顔に「成長を実感に」というキャッチコピーより、たしかに訴求力は強い感じがする。

「成長を実感に」は、競争の厳しい国際環境のなかで日本経済を成長させ、それを国民にという、すなおな内容である。大筋での政策の方向性を明確に示しているし、方向性も基本的には妥当だ。しかし、すなおに理屈っぽくて、実感にという言葉も抽象的なので、アピールは弱い。安倍首相の上品な顔もなんだか、たよりないような印象をあたえる。「成長をあなたの手に」とでもすれば、より具体的になる気はする。しかし、じゃあどうやっておれの生活をと、つっこみたくなるかもしれない。与党のつらいところである。

「国民の生活が第一」は、漠然とあなたの利益を暗示しているが、具体的な政策の方向は一切示していない。しかし、年金問題や格差が問題視されるなかで、「国民の生活が第一」のキャッチコピーは、言外に国民生活をないがしろにする政府への批判も含んでいる。これに、小沢氏の無骨で頑固そうな顔が、なんとなく信念の印象をあたえる。実際の小沢氏の信念が「政局が第一」だったとしても、この漠然とした利益の暗示と言外の政府批判は、有効にアピールした。野党でなければ使えない手だ。

以前、土井氏のもとで社会党が大勝したときのキャッチコピーは消費税反対の「だめなものはだめ」だった。これは、消費税いやだという特殊利害への訴えに、土井氏の庶民的で断固とした印象をくわえ、特殊利害の主張が、政策の理性的な検討など関係なしに、正当で良いものだという錯覚を与えるものだった。

小泉氏がやった「改革なくして成長なし」は、「成長を実感に」と同じようにすなおに表現すれば、「改革によって成長を」となるが、インパクトは弱くなる。A then Bではなく、Not B unless A のようにすることによって、脅迫型の有無を言わせないインパクトが出てくる。小泉前首相は、国民を相手に断固とした改革の必要性を脅迫的に訴えるだけでなく、改革への抵抗勢力、既成の権力者をもやっつけるという攻撃に国民も興じて楽しむというサーカスも同時に提供した。今回の年金問題での政府攻撃、大臣の辞任劇のように、サーカスはマスコミが主導して、政治家がそれに乗るのが一般である。普通の政治家には、マスコミを誘導して、自らサーカスを演出することなど、とてもできない。この意味でseñor小泉(con Iijima)は異能の政治家だった。

星野仙一オンラインレポート9月14日の記事

2007年09月15日 | 時事
民意、民意というけれど、今の日本の「民意」というのはメディア、特にテレビが作っているものじゃあないのか。10年ちょっと前に民放の報道局長が「政局はわれわれテレビ局の人間が作っている」というような発言をしてクビになったことがあるけれど、テレビが繰り返して流すものによって無定見な大衆が誘動されるという今の時代。民意というものはなんなのかと、いつもそう思ってテレビのニュースを見ている。

民意というなら訊いてもらいたいと思う。なにひとつ落ち度や欠点のない精廉潔白な人に大臣や首相をやってもらえばいいのか。それとも多少の失敗やキズ、弱点があってもきちんと結果を出してくれるような有能な人、職責に身命を賭けて努力してくれる人がいいのか。普通の大人なら、政治家にだって精廉潔白な人なんて滅多にいないことを知っている。誰しも一個の人生を築いて、それなりの力を発揮するところまで行く過程の中でなんの波風もない、ひとつの過ちや落ち度も犯さないような人間なんて、まずひとりもいないことを、普通の大人なら知っている。出てくれば自分たちで持ち上げて、押し出しておきながら、すぐにマイナス面、うまくいっていない面ばかり強調して、叩いて潰していくという最近の政界人事の繰り返しに、大きな失望感を味わっている。

若い安倍総理もあれだけ期待され、国民にも支持されながら、1年足らずのうちに、今度は決断力がないとか、人を見る目がないとか坊ちゃん気質だとか、ひとりで全責任を負った上バカ者扱いをされて、あっという間にボロボロになって辞めさせられていく。自分から辞めたという形ではあるけれど、心身ともに余程追いつめられていたのだろう。タイミングが悪い、無責任だというが、本人は命懸けでやっていただろうと思う。この間まで日本人の「武士道」や日本人の「品格」についての本がベストセラーになって、多少は武士の情けや人間の品位を問い直す風潮が出てくるのかなと、淡い期待ながらそんな思いでいたのだが、寄ってたかって魔女狩りみたいな、弱い者いじめの世界ばかり見せられている。

「出る杭は打たれる」は昔のことで、今は「出る杭は抜かれる」時代だ。倒れた者になおのしかかって、パンチを浴びせ、ひねりワザまでかけるようなマスコミの報道の偏りに、世間の態度に、わたしもテレビに出ている人間だが胸くそが悪くてたまらない。

正体がすぐに揺れ動く、すぐに風向きが変わる民意とやらを、テレビが一斉に拡大し強調して、そうして世の中が動いていくのだとすると、日本は「勝手主義」の時代になったとしかいうほかない。

星野仙一オンラインレポート9月14日の記事より。


デッドロック:福田.vs.小沢

2007年09月14日 | 時事
河端「自民党の総裁が福田氏になりそうだな。」
道端「福田.vs.小沢ですか。ぞっとしませんね。まさにデッドロックです。イギリスのタイムズにこんな社説が出たそうです。」

【ロンドン=森千春】英紙ザ・タイムズ13日付は、安倍首相の退陣表明を社説でとりあげ、「日本が国際政治での発言力を失おうとしている」と指摘した。
 社説は、インド洋での海上自衛隊の給油活動の継続という政策が「日本の声望を高めるもの」と位置づけ、首相が対テロの国際共同行動を重視したことを高く評価。首相退陣後、派閥順送りの人事など旧態依然とした自民党政治に逆戻りせずに、同党が「有能で現代的な指導者」を選ぶように求めた。
 一方、民主党の小沢代表が給油活動継続を阻止しようとしている点を取り上げ、「(小沢氏が)日本のステーツマンシップ(政治家の資質)を代表するのにふさわしくない証左」だと批判した。(2007年9月13日 読売新聞)

河端「NYタイムズと違って、まともな社説だな。」
道端「はい。NYタイムズみたいなヘゲモーンのコバンザメのねじけた眼ではないようですから。」
河端「せっかくの道端流造語だが、つっこむ気にもなれんよ。」
道端「村山時代の再来でしょうか。停滞と混乱は続きそうですね。」

日本版ノム・ヒョン政権を後押しするマスコミ

2007年09月12日 | 時事
河端「安倍首相が辞意を表明したね。」
道端「はい。驚きました。マスコミからの集中砲火、自民党の議員の離反などで、心身ともに耐えきれなくなったんでしょうね。政治家はタフでないとつとまりませんね。テロ特措法ですが、テロ対策やシーレーン確保という国としての死活の問題で国際社会からの要請を無視して、国連中心主義を唱えていればなんとかなるのと小沢氏が考えているとすれば素朴すぎますし、政局の手段としてやっているなら無責任すぎです。」
河端「まあ、政治家は結果責任だからな。人事手腕、説得力、周到さ、狡猾さなど、総合力が足りなかったのだろうな。」
道端「はい。教育や外交など良い方向での仕事はしたのですが、抵抗と妨害に抗して困難な課題をやり遂げるには、運もふくめて、やはり力不足だったのでしょう。で、朝日、TBSを初めとするマスコミは、ひきつづいて、小沢民主を後押しするんでしょうね。日本版ノム・ヒョン政権、親北政権を成立させたいのかと思えてなりません。」
河端「面白うてやがて悲しきワイドショー政治にならなければ良いが。」

ポジティブ心理学

2007年09月10日 | 心理学
道徳感情研究のパイオニアのひとりであるJonathan Haidtによって2005年の終わりに出されたThe Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdomは、いわゆるポジティブ心理学関連で一般の知的読者に向けて書かれた本としては、これまでのベストである。

ポジティブ心理学については、日本でも2006年に最初の解説書が出ているが、20世紀の終わりから21世紀にかけて成立した心理学の流れである。従来の心理学が、心の障害と否定的感情を中心に研究していたのに対し、人間のより積極的な特性、徳や強さ、肯定感情を研究しようとしている。

中心人物は、Learned Helplessness(学習性無気力)の研究で早くに有名になり、1998年からはアメリカ心理学会の会長をつとめたセリグマンである。一般向けに書かれたLearned Optimismは「オプティミストはなぜ成功するか」の題名で邦訳されている。Authentic Happinessも「世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生」という題名で邦訳されている。邦訳の題名からは、ひとむかし前にはやった脳内革命やポジティブ・シンキングなどの、アメリカの民俗心理学を科学の用語でごまかして提供する商売を連想するかもしれないが、セリグマンは実証的でタフな心理学者で視野も狭くない。Learned Optimismは、状況とは無関係にむやみにOptimismを勧めるような本ではない。人生時には悲観的にならざるをえない、またそれがふさわしい状況もあることを認めたうえで、Optimismを適用することも学ばなければならない(特に素質的に悲観的になりやすい人は)と、バランスのとれた考えを、エビデンスに基づいて示している。また、セリグマンらは、2004年には、ボーイスカウトなどのクラブのモットーから、各文化の聖典まで調査し、人格の強さと徳の分類と測定に関するハンドブックも出している。これは、DSMにおける心の障害の分類と診断基準のハンドブックに対応することをねらったものである。Authentic Happinessは、こうした研究もふまえて、書かれている。24リストアップされた人格の強さと徳について、簡単な質問紙により各人の人格・徳の長所がどこにあるかが調べられるようになっている。そして、足りない点を気にしたり、矯正しようとするのではなく、ポジティブ心理学にふさわしく、各人の人格・徳の長所の強みを個性としてどうのばしていったら良いのか解説されている。

ポジティブ心理学とやや似た運動にヒューマニスティック心理学がある。これは、心理臨床家で来談者中心療法を提唱したロジャースや動機付け研究で有名なマズローらが、行動主義のような機械主義ともフロイト的なペシミスティックな人間観の精神分析とも違う、より肯定的で機械論的でない人間観にもとづく第三の道の心理学として1960年代後半から主張したものである。マズローの至高体験の考えなど、ポジティブ心理学でよく言及されるチクセントミハイのフローに引き継がれており、ポジティブ心理学とヒューマニスティック心理学には共通部分はある。また使い方はヒューマニスティック心理学の方がだいぶゆるいとしても、尺度や調査を利用するという点では方法にも共通項はある。しかし、ポジティブ心理学には実験心理学指向があるのに対し、ヒューマニスティック心理学は精神分析や臨床経験に依拠しており、この点で両者は大きく異なる。

セリグマンが、ヒューマニスティック心理学を実証的な研究に乏しく、科学的でなく、ナルシスティックであると批判したのは、こうした背景と方向性の違いによるものだろう。ヒューマニスティック心理学がナルシスティックであるとの批判は、「夜と霧」で有名なロゴテラピーのフランクルなどもしている。ここからは、ウィルバーなどによるトランスパーソナルといった自己を越えようとする心理療法も主張されている。もともと精神分析には、心理的な不全感を抱えた人に理由と救済の物語を提供する宗教の代替物という側面があったが、ここまでくると完全に宗教である。

ポジティブ心理学が、実証的研究とエビデンスを重視している点は大いに評価できる。ただ扱う問題が、幸福感だったり、肯定感情だったり、複雑なので、かなり柔軟な調査や尺度などの記述的な手法も多用する。調査と尺度だけでは、仮説検証としては弱いが、肯定感情などの問題については、ポジティブ心理学にも実験心理的なアプローチを試みる研究者もいる。

まあ、そんなことで、ポジティブ心理学の主唱者であるセリグマンの本はエビデンスに基づきバランスがとれており、非常に具体的で実践的でもある。読んで損はない。ただ、扱うテーマが、幸福だったり、徳だったりするので、欲を言えば、哲学や宗教、社会学などの知識を背景にした議論や、科学的ということなら、最近進展の著しい、神経科学や進化論もふまえた議論もほしい。ちょっと物足りないなあという気が評者などはする。

こうした不満を解消してくれたのが、Jonathan HaidtのThe Happiness Hypothesisである。Haidtは、道徳感情の研究者にふさわしく哲学や宗教、社会学に造詣がふかく、脳研究や進化など最近の心の研究もしっかり押さえている。役立つというだけでなく知的にも十分楽しめる。

評者の考えでは、ポジティブ心理学の意義があるとしたら、それは、心の科学的な理解にむけて従来の偏りを是正した点にあり、独自の学派形成にはない。遺伝学から、脳研究、心理学実験、社会的な調査まで、心の科学的な理解が相互に関連をもちながらしだいに像を結びつつある現在において、独自の学派を固めようとしてもあまり意味はない。Haidtの本は、単なるポジティブ心理学の本というより、ポジティブ心理学の成果をふまえて現代心理学の知見を解説、吟味した本になっている。ポジティブ心理学のあるべき方向にそったものと言えると思う。

Math is Easy

2007年09月09日 | 雑談
(1)ピタゴラスの定理でXをFINDせよ -> 文字XをFIND
(2)式をEXPANDせよ -> 物理的に括弧の間をEXPAND
(3)ルートの中が計算できない ー> ルートの軒先で首くくり
(4)三角関数 -> アナグラム
(5)極限をもとめよ -> 数字を横にねかせばよい

結論:数式で遊べば数学も簡単になる



補足:詩人のための情報科学

(1)キロ・メガ・ギガ:キロ・メガ・ギガ、この力強い三連の進行。確実にグレードアップしていく、確かさと力強さを感ずる。時代は、まさにキロ・メガ・ギガ。

(2)マンデルブロート集合:マンデルブロートこの優しい響き。バイオリンのくびれとふくらみ。魅惑の迷宮。そう、そこにはすべてがある。 

(3)カオス:簡潔で厳しく運命を感じさせる言葉。カオス。おまえは、おまえは、一体なにものなのだ。運命と謎の言葉、カオス。

もうだいぶ前のことで、記憶で書いているのだが、実際にこんな答案があった。あまりにも面白かったので、うっかり点を与えてしまった。

一部の下級法技術者のカルト化について

2007年09月08日 | 思想・社会
河端「橋下弁護士が山口県光市の母子殺害事件の被告弁護団の4人に、訴えられ、1人当たり300万円の損害賠償を求めるられているらしいな。J-CASTニュースの始めにはこうある。「山口県光市で発生した母子殺害事件の裁判をめぐって、タレント活動もしている橋下徹弁護士がテレビ番組で被告の弁護士に対して「懲戒請求」を呼びかけたとして、被告の弁護士4人が橋下弁護士を提訴した。橋下弁護士はブログを通じて、被告の弁護士を「ふざけた主張をする」「カルト弁護団」「説明義務違反」などと主張。一方、被告弁護士側は橋下弁護士の主張について「業界で笑い話になる」と述べている。」」
道端「面白い訴訟ですね。両方とも訴訟は専門ですから。橋下弁護士は、テレビでは笑いをとるトークで人気を博しています。業界でも笑いをとっているとしたらたいしたものです。一方、橋下弁護士によるカルト弁護団という批判も言い得て妙です。」
河端「カルトは言い過ぎではないか。」
道端「いえ、山口県光市の母子殺害事件の被告弁護団に見られるように、一部の下級法技術者はカルト化していると言えるのではないかとも思います。」
河端「下級法技術者とはききなれない言葉だが。」
道端「はい。技術は専門的な知識を実際の問題解決に用いることです。純粋な理論的知識の探求ではなく、あくまで実際の問題解決のためのものです。同時に、その問題解決はたんなる経験や集団的に同意された臆断(ドクサ)ではなく、専門的な明知(エピステーメ)に基づくものである必要があります。」
河端「なんだかソクラテスみたいな言い方だな。」
道端「はい。ドクサだのエピステーメだのはギリシア語です。現代ではエピステーメは科学です。例えば工学は物理学や化学などに基づく技術学です。専門的な明知の基盤は明確です。医学は身体に関する科学に基づく技術学です。病気に対する医学の対応は、経験則や慣習による部分が多く、必ずしもすべてが明知に基づくわけではないですが、最近はエビデンス・ベースド・メディスンが強調されるようになってきました。同じように考えると法律は、社会的な問題の解決にあたる技術学です。」
河端「まあそうだろうな。それで、」
道端「ここで興味深いのは、各技術学における呪術師的な権威と儀礼への要求が基盤となる明知の度合いと反比例しているらしい事です。」
河端「ああ、そういえば、道端君はだいぶ前の記事でこんな事を書いていたな。「工学は自然制御の技術学、医学は人体の病気を制御する技術学、法学は社会制御の技術学である。技術の基礎となる基礎的な科学は、工学、医学、法学の順でよわくなる。これに対応して、儀礼と資格への要求はつよくなる。医学は、だれもがみとめる権威ある専門職だが、病気がなぜなおるのか、わからないこともおおく、呪術師的な権威と儀礼はやはり社会的に必要である。しかし、資格は基礎知識のないひとによる医療の危険をさけるための実質のものであって、権威維持のためのものではない。工学は儀礼をあまりもたない実質の専門職である。法学は儀礼と資格がとくに重要な権威ある専門職である。言語学者のチョムスキーは、数学者のあつまりで話しをしたときには数学の学位があるかとか形式的な要件は問題にされなかったが、政治学者のあつまりで話しをしたときにはそうでなかったといっている。」」
道端「ありがとうございます。それで、法学が基づくべき人間と社会に関する明知ですが、責任能力の問題にしろ、正義の問題にしろ、工学や医学の問題のようには明確には解けていないものばかりです。すでにできあがった法律を、個別の問題に顧客の依頼にそってどう適用するかだけを考えれば良い下級法技術者は、まだそうでもないでしょうが、社会にとって、どんな法が望ましいかまで考えると、実際の人間や社会をどうとらえるかが重要になってきます。公理的に明確かつ無矛盾に法体系を規定できればそれで良しとする立場もあるでしょうが、技術学としては無責任過ぎます。そういう法体系至上主義の人に、偏った知識とこだわりで社会に介入されると迷惑です。法技術者は、自らの無知を明確に自覚し、人間や社会に関する一般の人々の伝統的な考え方や常識に敬意を払い、人間と社会に関する科学的研究にも好奇心を持って学ぶべきです。儀礼と権威で無知を隠し、科学的な仮説検証の論理ではなく、正当化の論理にのみたけた法技術者には、なかなか難しいかもしれませんが。」
河端「人間と科学に関する科学的研究とは、具体的にいうと、」
道端「はい。例えば、ピンカーが『人間の本性を考える』で紹介しているような認知科学や進化論に基づいた心と社会の研究です。これらについては、「いじめと文明社会のルール」「知の戦争」ですこし紹介しました。また、今度紹介したいと思いますが、直接に道徳や法と関連するものとしては、道徳感情に関するJonathan Haidtの研究などがあります。いずれも、進化論的な人間性の把握と仮説検証的な研究成果に基づいて、20世紀に支配的だった標準社会科学モデルの人間観やリベラルの道徳理論に批判を加え反省を求めています。」
河端「面白そうだな、また紹介してくれ。わかりやすくたのむよ。」
道端「はい。それで、下級法技術者ですが、橋下氏のように、顧客の要望にしたがって、商売として正当化の論理で、法的根拠をさがすのは良いですが、往々にしてそこに自分の政治的な主張やイデオロギーが持ち込まれてしまいます。正当化の論理は、イデオロギー教化と信じ込みのエンジンですから。そしてそのイデオロギーが、排他的な特定集団に結びついて、一般の人々の伝統的な考え方や常識と解離すれば、それはカルト的といえるかもしれません。下級法技術者の実態はよく分かりませんが、橋下弁護士が批判しているケースでは、専門家としての自律的な正当化の回路が非常につよく働き、批判や都合の悪い情報への免疫化が、単純な情報隔離や恐怖による条件付けでではないだろう点は、教祖に教えを注入される典型的なカルトではなく、専門バカの亜型としてのカルト化した専門バカというべきかもしれませんが、」
河端「正確を期しているのか、目茶苦茶を言っているのか分からん言い方だな。一部の下級法技術者のカルト化の説明がずいぶん長くなったな。今日は、これくらいにしておこう。」
道端「はい。」

ワイドショー政治とヒトラーの大衆観

2007年09月06日 | 時事
河端「鬱陶しい天気だな。」
道端「そうですね、台風のせいでしょう。モンゴルの草原と青い空で秋を感じたいですね。」
河端「おまえ朝青龍か。」
道端「日本のジャー鳴りずむの方々ですが、モンゴルで何をやっているのでしょうか。朝青龍と鬼ごっこでしょうか。」
河端「日朝交渉もモンゴルでやっているらしいな。前向きの話ができたとか、日本側の大使のうれしそうな顔をテレビで見たが。」
道端「そうですね、北朝鮮はアメリカのテロ指定国解除を目的に、日本との関係改善が進んでいる印象を与えたい、そのための友好的な雰囲気の演出で、日本側の大使もその程度は分かっているのでしょうが。どうも、」
河端「なんだかモンゴルの話も鬱陶しいな。」
道端「ところで、安倍第二次内閣ですが。相変わらず、政治と金の問題で、ごたごた続きです。5万円とか200万円とか、しょぼすぎでなさけないです。政治家小沢氏(個人小澤氏とは別人とのことですが)が蓄財した10億円の不動産とは格が違います。」
河端「たしかに政治家は金にルーズではいけない。しかし、マスコミが集中的に報じて、世論が騒ぎ、引責辞任のくりかえしというのも、恣意的でよろしくないな。安倍内閣になって急に金に関わる問題のある大臣が増えたとも思えん。マスコミ・世論のスパイラルとは別に、どこまで責任があるのか、同じ基準を一律に適用しての、冷静で公平な審査をするしくみが必要だろうな。マスコミ・世論の集中砲火が裁くという事態は好ましいことではない。道端君が書いていた、ワイドショー政治批判は、そのとおりだと思うよ。」
道端「ヒトラーは選挙で政権を獲得しました。「我が闘争」では、こう書いてます。」

「いかなる宣伝も大衆の好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない。」

「大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。」

「大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。」

河端「ヒトラーを持ち出したか。たしかに、冷徹な洞察ではあるな。中途半端なディベートしかできないぼっちゃん首相にはおよびもつかないところだろうな。マスコミ・世論のスパイラルは、ワイドショーの舞台で燃え上がって、政策をゆがめたり、国政の沈滞をまねき、国民生活に結果として、大きな損害を与えることはあるだろう。しかし、以前のファシズムのように社会をおおってしまうことはないと思うよ。」
道端「はい。大衆をバカだというのはタブーのようですが、やはりバカはバカだと思います。」
河端「道端君は違うのか。」
道端「いえ。いろんなタイプのバカがいて、自分もあるタイプのバカなんだろうと思います。バカは無知に関連していて、無知自体はある種の欠如ですから、自分には見えにくいのが特徴です。誰もがバカと無縁でないのは、可謬主義からすれば当然の帰結です。ただバカが全身を覆っているような人もいれば、愛嬌程度の人まで、程度は様々です。ですから、自らのバカさを自覚しようとせず、相互のバカさの指摘を抑制するのは危険です。まあ、政治家は大衆におべっかをつかわないと選挙で落ちてしまいますが、他の人までそれに同調する必要はありません。ホヤのようにすったばかりのマスコミの意見をそのままはき出すホヤマスコミバカ、さらにはマスコミに感情的にのせられてくすぶるボヤマスコミバカ、」
河端「とマスコミをボヤクバカか。」
道端「すみません。それで、さらにマスコミにあおられまくって、めらめら燃え上がる火焔マスコミバカでしょうか。また、特定のイデオロギーにこり固まって事実の見えないイデオロギーバカ、狭い自分の専門からしか問題の見えない専門バカ、」
河端「人をすぐにバカ呼ばわりをして顰蹙をかう罵倒バカ。」
道端「うー。実は、私、性善説、性悪説に代わる第三の人間観として、性アホ説をかんがえているのです。これは、可謬主義の認識論に対応する人間観です。実は、色々予定しているライフワークの一つとして「無知学大全:スンマ・イグノランチア」を準備しているところです。で、これは、」
河端「あ、そうか。なんかオクシモロンな話だな。寸間でも大全でも無知のかぎりに書いてくれ。「新時間否定論」のような迷著になることを期待しているよ。でも、まあ、今日のところは、ややこしそうな話は、遠慮しておこう。」
道端「はい。わかりました。」

永田町票しぐれ

2007年09月03日 | 時事
永田町票しぐれ

作詩 小沢一郎   作曲 小澤一郎

  票のためなら  空約束もする
  それがどうした 文句があるか
  政権とれば  こっちのものさ
  自民葬る  マスコミ囃子
  小泉自民を  壊しただけよ
  壊し屋一郎  もっとやる
  
 「そやわいは政局師や 補助金の餌もまくし
  特亜にとりいり自治労解同ともつるむ
  せやかて それもこれも みんな政権交代のためや 数が力や 力なんや
  今にみてみい!わいは首領になったるんや
  金丸先生以上の首領になったるんや わかってるやろ 前原
  なんや そのしんき臭い顔は 票や!票や!
  票集めてこい!」