道端鈴成

エッセイと書評など

いじめと文明社会のルール

2006年11月07日 | 心理学
河端「おーい、道端君。」
道端「あ、河端先輩。お久しぶりです。」
河端「しばらく更新がなかったね。仕事が忙しかったのかい。」
道端「はあ。そんなところです。」
河端「ここのところ色々あったな。」
道端「はい。そうですね。」
河端「たしか、道端君は、前に生き甲斐自殺について書いていたな。自殺(Suicide)について、他者ではなく自己を対象としているが、生きたがっている無意識や身体の命を断つのは、やはり殺人(Hominicide)というようなことを書いてたね。最近問題になっているいじめによる自殺についても同じ意見かい。」
道端「ケースによっては、いじめグループによる間接的な殺人の側面もあると思います。生きている価値がないように扱ったり、死んでしまえというようなことを言った場合もあるそうですから。それでも、最後に手を下すのは自分なわけですから。つらいと思いますが、なんとか踏みとどまって欲しいです。」
河端「マスコミの報道が、苦しさからの、自殺による解放、それにより無理解な教師が土下座をし、いじめっ子も反省する状況になるかもしれない、そんなイメージを教唆をしている可能性はないのかな。」
道端「はい。その可能性はあると思います。いじめの被害者は、イメージに騙されないようにしないといけません。キャスターやコメンテーター達は、憤慨し、眉をひそめ、同情の気持ちを示すかもしれません。しかし数時間、あるいは、数日すれば、ケロッと忘れてしまうでしょう。加害者にしても、罪悪感に苦しめられうるのは、自分たちが罰せられる可能性がある場合だけです。結局、長い間にわたって、場合によっては生涯、心のトゲとして残るのは、自殺してしまった人を大切に思っていた人についてだけです。自殺が後の残すのはそういう理不尽で残酷な結果だけです。そして、時間がたち、状況が変われば開けただろう可能性も、すべてもぎとられてしまいます。くれぐれもイメージに騙されない事です。教師や教育委員などが、土下座をしているシーンがよく報道されますが、周辺でカメラを構えて群がっているマスコミの方々も含めて報道して欲しいものです。」
河端「マスコミの無責任はわかった。しかしどうすれば良いのだ。もしかして、道端君は、いじめの被害者に強くなれとでも言いいたいかい。」
道端「はい。ある程度まではそうです。人間は善良なだけの存在ではありません。人間集団からいっさいの敵対がなくなることはないでしょう。ある程度の敵対に対処できる強さを持つことは必要です。みんな仲良し、良い人幻想は有害なだけです。」
河端「うーん。道端君が、ジャングル哲学の信奉者とは意外だな。」
道端「いえ。反対です。山形浩生さんによる、ピンカー『人間の本性を考える』の書評にこうあります。「いわゆる人間は本来は平和的だという説がある。暴力や戦争は文明の病であり、幼児体験や暴力的なメディアのせいで広まる、と。でも先住民族は実はどれもえらく暴力的だし、メディアと暴力もほとんど無関係だ。テレビやマンガなんか規制したって何にもならない。人は暴力的なのが自然で、文明社会はむしろその傾向を抑えて発達してきたんだから。」教育は、人間性にある暴力的な自然を押さえて、文明社会のルールを教える営みです。戦後教育は、人間が本来は平和的だと勘違いしてきました。親や地域社会が伝統的な常識を維持していた間は良かったのですが、最近はそれも崩れてきました。人間観の誤りを根底から見直し、文明社会のルールを教える営みとしての教育を再建しなくてはなりません。心のケアだの、心理臨床家などは、敗血症の患者にバンドエイドをあてがうようなもので、応急措置、気休めにしかなりません。問題解決には、欠乏している栄養素の補給が必要です。」
河端「ピンカーか。道端君の持論だな。しかし、それで、いじめにどう対処するのだ。」
道端「まず、いじめという曖昧な言葉で事態を誤魔化さないことです。暴行や恐喝、これは身体や財産に対する侵害であり犯罪です。学校内であってもこうした犯罪を取り締まらないでは、文明社会は成り立ちません。摘発し罰を与えなくてはいけません。教育は、暴行や恐喝は決して許さない、摘発し罰を与えてでも排除するという文明社会のルールを明確に教えなくてはなりません。そして、ちくりだとか、やくざまがいの言葉を使うのが恥ずかしいことだと、子供にもわからせるべきです。全共闘でしょうか、かつての犯罪を懐かしむようなメンタリティーの持ち主の影響が大きいような状況では、難しいかもしれません。これは現在の日本の教育の惨状の原因の一つだと思います。」
河端「まあ。そうだな。しかし、いじめにはもっと陰湿な側面があるのではないか。」
道端「はい。いじめには集団の力学の側面があります。仲間はずれやいじめに自分も荷担しないといつの間にか自分がターゲットになる排除の連帯の恐怖です。同調者がある閾値をこえ、残りに黙認者が多いと、排除の連帯の力学はとめられなくなります。シマウマなどは、補食者がくると一斉になだれをうって逃げ出しますが、これと同じです。反対の声をあげても自分が排除の対象になってしまいます。逆に、勇気を持って反対の声をあげる存在が一定数いれば、排除を行おうとする人たちを少数にとどめることも可能です。意地の悪い人間、徒党をくんで悪さをたくらむ人間は、かならずいます。これが集団力学として波及しないようにするには、弱いものいじめをしない、おかしな事には勇気を持って異をとなえる、こうした人が一定数存在する必要があります。これがいじめの集団力学を阻止する集団のリソースになります。こうした徳は、犯罪の摘発・処罰とならんで、暴力を抑制する文明社会の基本となるものです。」
河端「いじめをする側の事を道端君はどう考えるんだい。」
道端「はい。自らの内の悪を制御できなかったかわいそうな人だと思います。犯罪を犯してしまったのなら罰することにより、すこしでも悪の是正になり、その人のためになります。犯罪を見逃されたままだと、自らの内の悪を放置したことになり、再度行う危険も大きいです。弱いものいじめをしたり、犯罪にいたらない程度の悪さの場合は、教師や仲間が叱ってやらなければなりません。」
河端「暴行や恐喝の摘発と勇気か。犯罪を防ぐのはすぐにできそうだしやらなければならないが、弱いものいじめをしない、異をとなえる勇気の教育は、大切だろうが、迂遠な気もするな。」
道端「はい。基本となる論点の指摘だけです。具体的な対策は、もっと色々、必要だと思います。その上で言いますと、犯罪や集団的排除の害をおさえられれば、意地悪や仲違い、敵対などは人間社会につきものなので、それにどう対処するかを身につけることも大切だと思います。」
河端「そうだな、具体的な対策や対処には色々な検討が必要だろうな。しかし道端君が持論に基づいて言いたいことの方向性はおおよそ分かったよ。」
道端「はい。たしかに固定観念によるおおまかな方向性程度の話しでした。もうすこし具体論を考えてみます。」

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶり (マサ)
2006-11-21 13:34:47
お久しぶりです。マサです。最近、アパートから実家に戻ってきました。金が無いので、です。貯金がんばります。
体調の方は、まあまあいいですね。鈴成さんはどうですか?お元気でしょうか?

文章が長いので、あとでじっくり読みます。また、コメントできたらしますね。
返信する
コメント (マサ)
2006-11-22 12:19:06
最近いじめが問題になってるみたいですね。私たちの時でもありました。私自身も、たいていのケンカの弱い奴らはちょっとしたいじめには遭いましたね。でも、その当時は、自殺まではいかなかったように思います。最近の若い人達は、いじめで追い詰められたら、自殺とか簡単に考えるなんて信じられませんね。
何を考えてるでしょうね。
返信する
ありがとう ()
2006-12-03 18:31:07
ピタゴラスイッチとアルゴリズム体操のCDを送ってくれて有り難う
さっそく、ピタゴラスイッチを見ました
でも、見たいって言ったのは、T-君でした
スゴイ面白かったです。
ありがとうございました
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。