道端鈴成

エッセイと書評など

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甲子園の土

2006年07月23日 | 雑談
道端「いよいよ甲子園ですね。」
河端「気に入らないね。」
道端「また。どこがですか。盛夏に始まる高校球児の熱戦も決勝戦の頃は晩夏。日本人の色んな思い出の背景にある季節の風物詩です。」
河端「高校球児も蝉時雨と一緒じゃたまらんね。だいたい日本の真ん中なら名古屋あたりでやるべきだろう。それに、決勝までの連戦は高校生には酷すぎる。特に投手はそうだ。まず地方予選でベスト16程度までは絞るべきだろう。」
道端「でも、神宮の土なんてきいたことありますか。」
河端「神宮は定時制高校の野球大会の会場だよ。プールの水を記念に持ちかえる水泳選手がどこにいる。サッカー選手が芝を持って帰ったら問題になるぞ。野球だって、土の記念なんて甲子園以外ではきいたことがない。」
道端「ウィキペディアで調べてみました。「1937年の夏の大会で熊本工(熊本)は順調に勝ち抜いたが、決勝戦で敗れて準優勝に終わった。決勝戦終了後に、熊本工の投手であった川上哲治は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れた。それから数年後、1949年の夏の大会で小倉(福岡)が準々決勝で倉敷工(岡山)に負けた後、小倉の投手であった福島一雄が甲子園の土を拾って地元に持ち帰った。これが甲子園の土第一号とされている。 その以降、高校球児たちの憧れである甲子園球場への出場の記念として、戦いに敗れた高校球児が試合後に甲子園の土を拾って持ち帰るようになった。」だそうです。」
河端「60年で年400人として、一人100グラムなら約2.4トンか。よく球場がえぐれないものだな。」
道端「試合の前に土をしこむから大丈夫みたいです。」
河端「しこみか。まあ、土をしこむ程度なら、よしとしようか
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社会的人間関係の四タイプ

2006年07月17日 | 思想・社会
  数を対象に対応づける場合、一般に四つの尺度水準が区別される。名義尺度は、背番号や電話番号など、単なる分類のラベルとしての数字である。背番号10は背番号7よりも大きいなどの順序に意味はない。順序尺度は、競技で7等か2等かなどの順序を表す数字である。ここでは、数字の順序は意味をもつが、2等と3等の差は1で、20等と21等の差に等しいなどの、数字の間隔は意味を持たない。摂氏での温度などの、間隔尺度では、30度と20度の差は、20度と10度の差に等しいなどの数字の間隔が意味を持つ。ただし、間隔尺度では基準となる0点がない(摂氏温度を1.8倍し、32を足せば、華氏温度になる)ので、20度は10度の2倍などの比率は意味を持たない(それぞれ、華氏では68度、50度となる)。最後に、長さ、重さなどの、比率尺度は基準となる0点が存在するので、100Kgは50Kgの2倍などの比率が意味を持つ。以上の尺度の四水準は、名義尺度で分類、順序尺度で序列、間隔尺度で間隔、比率尺度で比率と、順に尺度の持つ属性が増えていく。それぞれの尺度水準によって可能な統計量は異なる。例えば、代表値について言えば、名義尺度では最頻値(最も頻度の多かった数字)のみである。順序尺度はこれに中央値(順番に並べてちょうど真ん中の数値)が加わる。間隔尺度ではさらに算術平均(数値の合計を個数nで割った数値)も可能になる。比率尺度では、以上に加えて幾何平均(数値をすべて掛け合わしたもののn乗根)も可能になる。
  FiskeのStructures of Social Life: The Four Elementary Forms of Human Relationsは、以上のような四つの尺度水準を社会的人間関係にあてはめて、人類社会における社会的人間関係を包括的に扱った大著である。四つの尺度水準に対応する社会関係は以下のようになる。

(1)名義尺度・分類の論理:共同的分かち合い(communal sharing) 狩猟採取民族で特に発達
(2)順序尺度・序列の論理:権威的序列化(authority ranking) 農耕文明(水利社会)で特に発達
(3)間隔尺度・等価交換の論理:応報的等価交換(reciprocal give-and-take of equality matching) 遊牧民族で特に発達
(4)比率尺度・費用/利益計算:費用/利益計算(cost/benefit calculus of market pricing)産業社会で特に発達

  名義尺度の機能はメンバーのカテゴリー化であり、これは、トーテムによる部族の分類、内と外、我々と彼らといった社会関係における基本的な分類と対応している。共同的分かち合いは、家族や狩猟採取民族集団、クエーカー教などの宗教集団で典型的に発達している。カテゴリーのメンバー内では、強い平等主義傾向がある。Fiskeは、能力に応じて働き、必要に応じて得るという、マルクスの夢想は、共同的分かち合いの集団内部において、近いものが見られると指摘している。
  順序尺度の機能はメンバーの序列化である。これは、王、家臣、さらには人々の階級化など、人類の文明に一般的に見られる社会関係の論理である。農耕文明において、狩猟採取民族では、不可能だった冨の蓄積が可能になり、また、社会が大規模化するにつれて、共同的分かち合いは背景に退き、権威的序列化が前面に出るようになる。ウィットフォーゲルはオリエンタル・デスポティズムで、いわゆる東洋的専制が、社会における水利事業と関係しているという仮説を述べている。梅棹は文明の生態史観で、ユーラシア大陸に見られる中央集権的専制社会が、ユーラシア中央の破壊勢力との軍事的対処の必要に起因しているとの仮説を述べている。
  間隔尺度、比率尺度と社会関係の論理の対応は、カテゴリー化や序列化の場合ほどには、明確ではないように思える。応報的等価交換は、遊牧民における、交換経済の論理に基本があり、戦いにおける報復、眼には眼を、歯には歯をといった応報刑の考えにも反映している。コスト・ベネフィット計算は、産業社会で発達した論理であり、一定のコストでベネフィットの最大化を求める経済人のモデルはこの論理によっている。アメリカ社会などでは、コスト・ベネフィット計算が経済行動だけでなく、軍隊や研究などの集団形成でも適用され、効率的な目的達成集団を可能にしている。同窓生、同僚だといった共同性の論理、年齢などの権威的序列の論理が前面に出てしまうと、なかなかこうはいかない。メンバーのカテゴリー化、メンバーの序列化の論理は動物社会にもあり、論理の実施には仲間意識、仲間外れ、優位、劣位などの社会的感情が関与している。これに対し、応報的等価交換、費用/利益計算の論理は、交換経済、市場経済という人間に特有な社会条件のもとでの行動の論理である。
  日本社会は、儒教などの影響による権威的序列化の論理の伝統もあるが、より基盤には、内と外、内における甘えなどがあり、共同的分かち合いの論理が優位な社会のようである。市場経済とともに、費用/利益計算の論理は入ってはいるが、共同的分かち合いの論理や権威的序列化の論理に制約されて、アメリカのようには前面には出てこないようである。また、遊牧民的交換経済の歴史がなく、周辺文化からの応報的等価交換論理の影響も乏しかったために、日本社会では応報的等価交換の論理は、日本文化の歴史としては、あまり定着してきていないようだ。封建制におけるご恩に奉公や仇討ちは、ある種の応報的等価交換の論理とも言えるが、長期的な特定の相手に対するもので、家への共同的帰属の論理がより中心になっているように思える。
  経済成長を達成した1970年から80年代の日本社会は、能力に応じて働き、必要に応じて得るという、マルクスの夢想が、ほぼ実現された社会だったと評されることもある。これには、種々の要因があるが、Fiskeの理論との関係で言うと、産業の圧倒的成功の余裕のなかで、日本社会の基本的社会関係の論理である共同的分かち合いがプラス方向に展開したためだと言える。産業の圧倒的成功は、外的要因や戦前からの人的資源もあるが、戦後の廃墟からスタートしたために、共同性の論理や権威的序列の論理のマイナス面に影響されずに、効率的組織を形成し共同性の論理の強みを生かせたためである。1990年代からの長期不況以降の苦闘は、外的要因もあるが、戦後50年を経て、共同性の論理や権威的序列の論理のマイナス面が効率的組織形成に阻害的に働きはじめ、これを克服するための試行錯誤の時期に入ったためだと考えることができる。
  中国や北朝鮮、韓国は、ウィットフォーゲルがとりあげたように、権威的序列化の論理の権化のような地域である。中華、小中華の意識のなかでは、日本は中華文明の周辺の野蛮民族として下に位置づけられるようで、まことに迷惑なはなしである。ただ日本は日本で、共同性の論理の延長で、アジア共同体などと思い違いをしてきたし、またしようとしている。戦前の日本で真に反省すべきは、大東亜共栄圏などと、アジア地域の共同体を妄想したことである。福沢の脱亜論の認識を受け継ぎ、あくまで他者として、その特異な社会論理をひややかに分析しつつ、費用/利益計算にもとづくドライな関係を持つべきだった。近年、東アジア共同体を主張する政治家も多いが、戦前の誤りを繰り返そうとしているのが、自分だということに気がついていないのだろう。
  共同的分かち合いの論理の優位は、日本社会の強みであるとともに、重大な失敗の原因ともなってきた。大東亜共栄圏の一定の成果は残したものの犠牲が大きすぎた構想、実現されたら恐ろしい東アジア共同体構想、日露戦争後の軍部や高度成長後の官僚や企業などの成功した組織内における共同性の論理の肥大化による合理的効率性の喪失などがその例である。
  北朝鮮のミサイル恫喝に対する今回の政府の対応は適切だったと思うが、この種の事態は共同的分かち合いの論理で対応すると、大きく誤る事を認識しなくてはならない。ミサイル基地攻撃の議論そのものがけしからんという意見の背景には、友好関係を維持しようとするなら、言及することすらまかりならないとする共同的分かち合いの幻想だけでなく、言霊信仰もありそうだ。ただ一方で、共同的分かち合いの論理で、北朝鮮けしからん、仲間じゃあない、あいつらは外の敵だという、位置づけで対応するのは危険だ。共同的分かち合いの論理で仲間にできない相手であっても、自分への被害や負担をできるだけさけるように、費用/利益計算にもとづくドライな関係は維持しなくてはならない。また、共同的分かち合いの論理も程度問題なので、いくら非常識で迷惑な相手でも、同じ人類としての共同性のもとでの交流は可能である。
  共同的分かち合いの論理の良さを活かしつつ、そのマイナスをどう補うかは、日本社会の課題だと思う。そのためにまず必要なのは、共同的分かち合いの論理がマイナスになる状況を明確に把握する事である。問題がどこにあるかを適切に認識しないと、同じ誤りを何回も繰り返す。そして、共同的分かち合いの論理の弱点を補うには、応報的等価交換の論理を知る事も必要だろうが、ドライだがいろんな状況でタフに適用できる費用/利益計算の論理を、交渉や組織づくりなどに上手に適用しつつつ、権威的序列化の論理とおなじように定着させていく事が必要ではないかと思う。
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悪罵と頭突きとヘディング性脳障害

2006年07月15日 | 雑談
道端「河端先輩はワールドカップは見ましたか。」
河端「見てないよ。」
道端「私はつい見てしまいました。」
河端「しかし、ジダンの頭突きには呆れたな。」
道端「ずいぶん酷い事を言われたようですから。」
河端「サッカーでは、あの種の悪罵はよくあるとも言うぞ。」
道端「他のスポーツではありえないですね。しかも、世界最高をきめる試合でのことですから。」
河端「まあ。いずれにせよ、あんまり上品なスポーツではないな。オーストラリアなんて、足を狙って削ったりしてひどかった。」
道端「Frank Webbe博士によるとサッカーのヘディングを繰り返すと、脳障害が生ずる可能性があるそうです。長期間サッカーをしてヘディングを繰り返した選手を他のスポーツの選手と比較すると、教育レベルなどの他の要因を補正しても、認知機能が有意に低いという研究結果もあるそうです。」
河端「なんだか、ボクシングみたいだな。ヘディングドランカーとかあったら怖いな。ターゲットが視野に入ると、即、ヘディングスタートみたいな。」
道端「ヘディングは禁止すべきかもしれませんね。」
河端「それはいい。ヘディングを禁止すれば、身長差もハンディーではなくなる。日本サッカー協会は、ヘディング禁止を訴えていくべきだな。」
道端「まあ難しいでしょうね。でも、もしできたら、ジャンプの板の長さなどでのスポーツ政治への意趣返しになるかもしれませんね。ところで、河端先輩は本当にワールドカップ見てなかったんですか。」
河端「..........」
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笑いについて

2006年07月13日 | 心理学
河端「おーい道端君。生きてるか。もう夏だぞ。」
道端「はあ。なんとか。仕事がたてこんで、なかなかエントリーをあげる余裕がありませんでした。そういえば先日はフォローありがとうございました。」
河端「いやいや。姪御さんは、君とはずいぶん違って機械類や音楽にも強そうだな。感心したよ。」
道端「はい。これからが楽しみです。」
河端「ところで、道端君は、最近、落語や笑いに興味を持っているようだな。」
道端「ええ。調べてみるとなかなか面白いです。」
河端「そうか。アーハッハッハ。」
道端「面白いといったからといって、急に笑わないで下さい。」
河端「面白いのと笑うのではどう違うんだい。」
道端「そうですね、まず笑いは、表情と声で、泣くのと同じく表出行動です。表情は眼尻が下がり口角が上がります。こんな感じです。」
河端「パー?」
道端「あ。すみません。これは顔じゃんけんの絵です。口を尖らすとチョキで、酸っぱいものを食べた時のように眼、口を顔の真ん中によせるとグーです。なかなか面白いですよ。「大阪発笑いのススメ ~意外と知らない笑いの効用~」で紹介されてます。やってみますか。」
河端「お役所が笑いのすすめか。さすがは大阪だな。まあジャンケンはまたあとにしよう。笑いの説明を続けてくれ。」
道端「はい。この笑い顔は、大頬骨筋の収縮によるもので、愛想笑いのように意図的にもできます。もう一つ笑いの表情には、いわゆる眼が笑うという笑いがあります、これは眼を取り囲む眼輪筋の収縮によるものです。眼輪筋の収縮は普通は意図的にはできません。眼輪筋の笑いはより深い脳の部位がコントロールしています。」
河端「なるほど。顔は笑っていても、眼が笑ってないというのは、そういうことだったのか。」
道端「はい、そうです。ただ、作り笑いであっても楽しい気分と関係ないということではありません。河端先輩、エンピツをこうやって唇で挟んでみて下さい。」
河端「うん?こぅか....」
道端「はい。そうです。しばらくそのまま唇で挟んでいて下さい。」
河端「............」
道端「えー。気分はどうですか。」
河端「なんだか。あんまり気分よくないな。」
道端「では次にエンピツをこうやって歯で挟んでみて下さい。」
河端「何をやらせたいんだ。」
道端「まあやってみてください。」
河端「............」
道端「こんどは。気分はどうですか。」
河端「なんだか前よりすこしいいな。どういうわけだろう。」
道端「はい。これは、エンピツを歯で挟むと笑い顔の表情になり、唇で挟むとむっとした時の表情になるからです。表情は確かに気分に影響します。」
河端「なるほど。笑いの表情は分かった。笑い声はどうなんだ。」
道端「笑い声は1秒間に5回程度繰り返される呼気が、声帯を振動させて生じます。笑い声を押さえたり、意図的に呼気をコントロールすることもある程度は可能ですが、基本的には不随意的な横隔膜の振動によります。サルも笑いに近い声をだすこともありますが、呼気と吸気の交替によっていて、あえぐような感じです。笑い声は発声と同じく人間に特有のものです。四つ足動物の呼吸は、歩行と同期しているために、人間のような運動から切り離された呼吸は不可能です。」
河端「ワ-ハッハッハの説明が、なんだかややこしいな。」
道端「ええ、笑い声は表情に比べて研究が遅れていて、まだあまり分かっていないみたいですので。ただ、こんな考えもあります。ほ乳類の感情コミュニケーションでは、一般に低い音声は威嚇の、高い音声は宥和のサインとなります。低い音声が威嚇のサインとなるのは一般に体の大きな動物は低い音声を出すからです。逆に、宥和のサインを出すときには、体を丸めて小さくみせ、音声も体の小さな動物の出す高い音を出します。こうした音声による低い音の威嚇、高い音の宥和というシグナルはほ乳類全体に見られます。」
河端「たしかに人間でも脅すときには、よほど興奮していれば別だが、低い声を出すし、仲良くしたかったら声は高くなるな。うちの嫁など、相手によって2オクターブも声が変わる気がする。」
道端「先輩、口角をひいて低い声を出してみてください。」
河端「うう-う、う-って。俺は犬か。なかなか難しいな、声帯に無理な力を入れないと、どうしても声は高くなるな。」
道端「はい。それは口角をひくと、口腔における音声が共鳴できる長さが短くなり、声が高い方に変化するからです。高い声を出そうとすると、口角をひいた、つまり笑った顔になります。Ohalaという言語学者は、人間の笑い顔は、音声による感情伝達にともなう顔の変化が儀式化されたもので、進化的には音声による感情伝達からの派生だと主張しました。」
河端「たしかに面白い考えではあるな。」
道端「はい。顔だけの笑いと声を出した時の笑いによる気分変化を調べた研究がありますが、声を出した時の方が気分変化は大きかったそうです。また大頬骨筋による笑顔自体は、満足や誇りなど、笑い以外にもいろんな感情で生じます。笑いの基本となる表出は笑い声だとかんがえてもよさそうです。」
河端「音声による感情伝達や笑い声は分からないことは多いが、進化的には重要でまたより基本的かもしれないということか。ところで、最初の話しにもどるけど、笑いと面白さはどうちがうんだい。」
道端「はい。笑いは表出行動で、面白さは出来事の評価にもとづく気分です。典型的なケースでは、出来事を面白いと評価する-->(笑う<--->)楽しい気分、となります。(笑う<--->)をかっこに入れたのは、笑うという行動なしに、面白いと評価する-->楽しい気分という事もあるからです。笑うと楽しい気分の間に両方向の矢印があるのは、楽しい気分だから笑うという因果関係と笑うから楽しい気分という因果関係の両方があるからです。」
河端「ジョークでニヤリにしろ、クスリにしろ、出来事を面白いと評価して、楽しい気分になる時には、かすかにせよ笑うという表出行動は生じているという可能性はないのか?」
道端「はい。可能性としてはあります。表情にせよ笑い声にせよ、かなり精密に測らないと結論は出せないでしょうが。」
河端「それから、楽しい気分だから、出来事を面白いと評価するということはないのか。」
道端「はい。それもあるでしょう。気分一致効果といわれている現象です。」
河端「なんだかたよりないな。」
道端「そうですね因果関係が複雑な割に実証的研究がすくないですから。で、笑うという表出行動の原因は、出来事を面白いと評価するだけではないです。笑うという表出行動、特に笑い声は感染しやすいです。また人はくすぐりでも笑います。笑い茸など、薬物の効果もあります。」
河端「それが、面白さと笑いが別という理由かな。」
道端「はいそうです。特に笑いの感染は注目すべき現象です。笑い番組にはLaugh Trackがつきものです。録音された笑いでもついつられて笑ってしまいます。Provineの"Laughter: A Scientific Investigation"には、こんなエピソードが紹介されています。タンザニアでの出来事だそうです。1962年1月30日に3人の少女が笑いだしました。笑いは159人の学校の生徒のうち95人にまで感染し、授業続行が不可能となり、3月18日には学校が臨時閉鎖されたそうです。他の要因もあったのかもしれませんが、橋が転げても可笑しいという年頃の少女にはありがちなことかもしれません。」
河端「おいおい箸だろう。橋が転げたら大変だよ。」
道端「あ、すみません。わざと間違えました。ここに<笑いレコードと泣きレコード>があります。聴いてみて下さい。」
河端「カルメンの闘牛士のアリアはなかなか面白いね。調子外れの男性のアリアを聴いていた女の人が笑いだし、しまいにはその男性も一緒に笑ってしまう。ついつられて笑ってしまったよ。こんなレコードがあるとは、知らなかった。まあしかし、ヨーロッパの連中も酔狂だな。」
道端「日本にも笑い袋というのがありますよ。泣きレコードを聴いていると、悲しい感じになりますが。こちらは普通の感情の感染のレベルです。笑いの感染にはかないません。笑いが感染しやすい点に着目し、ラマチャンドランという神経心理学者は「脳のなかの幽霊」というすてきに面白い本のなかで、笑いの警戒警報ガセだった説を唱えました。」
河端「なんだい。その警戒警報ガセだった説というのは。」
道端「動物の群で危険があると警戒警報の音声シグナルを出すと言うことは、鳥でもほ乳類でも、よくあります。笑いの起源は、こうした警戒警報が誤りだった、安心しても良いということを知らせる信号だという説です。笑いのネタには、一旦、緊張感をたかめて実はなんでもなかったんだと落とす、こういう手法はよくありますし、笑いが特別に感染しやすい理由の説明にもなります。まあ、すべての笑いの説明にはならないでしょうし、くすぐりによる笑いはこれとは明らかに別です。」
河端「こんどは、コチョコチョか。」
道端「くすぐりを重視するProvineなどは、笑いの起源が幼い動物のじゃれ合いに起源があると考えています。進化論のダーウィンやヘッケルも動物のじゃれ合い、くすぐりを笑いの起源と主張しているので、笑いのダーウィン・ヘッケル仮説と言われています。」
河端「ダーウィン御大にヘッケル閣下もお出ましか。」
道端「はいそうです。言葉の笑いでもくすぐりと言われますしね。くすぐりで興味深いのは、自分でくすぐったらなんともないのに、こうして人からくすぐられると、、、、、」
河端「おい道端君。わかったからやめてくれ。」
道端「これは、自分でくすぐると自分の運動が予測できてしまうからだろうと言われています。くすぐりには、予測できない他者性が必要なわけです。これは、自分で自分をくすぐる場合にも生じます。例えば、右手の指先で右眼の眉をそっとくすぐってみてください。次に右手の指先で左眼の眉をそっとくすぐってみてください。どちらの方が、よりこそばゆい感じがしますか。微妙ですが、違うはずです。」
河端「本当だ。左眼の眉をくすぐったほうが、よりこそばゆい感じがする。どういうわけだ。」
道端「右手の指先の運動は脳の左半球から指令がでています。左眼の眉の感覚情報は脳の右半球に入ります。指令と感覚が半球の逆側なので、脳梁を介さなければならず、指令による感覚の予測がよりできにくくなるためです。体の左右は同じ側よりもより他者的といえるかもしれません。実際、脳梁を切断した患者さんは、体の左右で別人のようにふるまうそうです。」
河端「なるほど。」
道端「さらに統合失調症で幻聴のある患者さんでは、自分自身をくすぐっても、くすぐったく感ずるそうです。幻聴は、自分が内言として発した言葉の指令情報が適切にモニターできずに、他者の声として処理されてしまうために生じます。同じことが自分をくすぐった場合にも生ずると考えられます。」
河端「なるほど。コチョコチョもなかなか奥は深いな。」
道端「で次に、出来事を面白いと評価するのはなぜかですが、これには落語や漫才、喜劇などが関係してきます。薔薇の名前というエーコの小説では、ボルヘスがモデルとなった、ホルヘ神父が死をもってまもった秘密が、まぼろしの著作、アリストテレスの詩学第二部の喜劇論の写本だという設定になっています。可笑しさの秘密がそんな大層なものか知りませんが、人が何を面白いと思って笑うのか、プラトンの優越攻撃理論から、カントの無化された予期説、等々、古くから多くの哲学者思想家達の頭を悩ましてきたことはたしかです。アリストテレスの詩学第二部がどんな内容か知りませんが、最近になってこの2500年来の難問も、ようやく解決の方向が見えてきたように思います。まず理論の流れを大まかにわけますと、」
河端「いやあ、ありがとう。今日は道端君の笑い論、実演まじりで十分に堪能させてもらったよ。2500年来の難問の解決はまたの機会にうかがうとしよう。」
道端「いえ方向程度ですが、いずれまたお願いします。河端先輩の政治・文化論もぜひ拝聴させて下さい。」
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