道端鈴成

エッセイと書評など

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天使はなぜ堕落するのか:人間における悪の起源について

2011年11月04日 | 書評・作品評
「天使はなぜ堕落するのか:中世哲学の興亡」という奇妙なタイトルの本を読んでみた。煩瑣で無用な議論の代名詞とされる中世哲学だが結構面白い。タイトルに関連する心理学的な論点についてごくアバウトにコメントを記す。

中世神学では、世界に存在する行為主体は天使、人間、動物、サタンに四分類されたらしい。天使は純精神的存在、動物は純肉体的存在、人間は精神と肉体の混合である。精神性の根源である神は自分の僕として、純粋な精神的存在としての天使を作ったが、意に反するところがあったので、自分の似姿として人間をつくり、人間に利用させるために動物を作ったということになる。サタンは天使が堕落した存在と考えられた。(最初からサタンがいたのでは、一神教としては都合が悪い。かといって直接サタンを作ってもやはり善の神の名に傷がつくので、意に反してということにしたかったらしい。しかし、そうすると全能の神があやしくなる。どのみち、唯一全能善の神というのは無理筋なので、まあこの辺でという感じ。)問題はなぜ天使が堕落したかだが、二説あるらしい。一説は、天使としての精神的存在に肉体的欲望が混入したため堕落したという肉体的欲望汚染説である。もう一説は、精神的存在としての天使が自らの限界の認識の欠陥により傲慢の罪を犯したという自己認識欠陥傲慢説である。著者の八木氏が指摘するように、中世哲学的に考えれば、純粋な精神的存在に派生的な存在である動物的肉体性が影響するという肉体的欲望汚染説は説得力に欠ける。一方、精神的存在に内在する自己認識の欠陥と傲慢という考えは思弁的により面白いし、キリスト教神学でサタンの最大の罪が神に対抗しようとした傲慢にあるとされているように、説得力もある。

以上の話しはなんとなくゲームの設定みたいだし、まともな進化論の常識(動物から人間、人間が想像した神、天使、サタン)からするとまさしく逆さまのファンタジーの世界だが、人間における悪の起源に関する象徴的な議論としては、なかなか深いところをついているのかもしれない。

「しあわせ仮説――古代の知恵と現代科学の知恵」の4章で、道徳感情研究の専門家であるジョナサン・ハイトは人間における悪の原因の問題についてとりあげ、この人類2000年来の問題を社会心理学者のBaumeisterの"Evil: Inside Human Violence and Cruelty"がついに解いたと言っている。仲間内の評価なので割り引かなければならないが、Happiness Hypotheisの次作のThe Righteous MindはBaumeisterのEvilの結論にそったものなので、重要な貢献として高く評価していることは確かだ。BaumeisterはEvilで家庭内暴力からホロコーストにまでいたる侵犯者の心理を調査した.。Baumeisterが見いだしたのは通常侵犯者は自らを悪いとは思っていないという事実だった。侵犯者は彼らの血なまぐさい行為を防衛的、あるいはやむをえない反応としてとらえていた。侵犯者による自らの行動の理由付けは彼らの極端な独善性をうかびあがらせた。Baumeisterの研究によると貪欲やサディズムは個人的犯罪や歴史的な残虐行為において、比較的少ない役割しか果たしていない。

多くのケースで独善が侵犯行為の主要な原因であるとの主張は常識に反するが、十分な証拠に裏付けられている。貪欲やサディズムは侵犯行為の補助的な要因、少ないケースでの主要な要因という位置づけになるだろう。Baumeisterの言う独善は、常に自分が正当で対立する相手は不当であるとの倫理的独善と常に自分の見方が客観的でこれと対立する相手の見方は偏って歪んでいるという認識論的独善(素朴リアリズム)の両者を含んでいる。これが集団間の対立に拡張されると、我々対彼らにおける集団的独善になる。Baumeisterの言う独善は、過去多くの虐殺や残虐行為を生んできた不寛容複合(倫理的独善・認識論的独善・集団的独善)のコアを形成すると言えるだろう。貪欲やサディズムも重要な役割を果たすが、虐殺や残虐行為の素地を形成するのはより幅広く分布する独善をコアとする不寛容複合であり、種となるのが貪欲やサディズムだろう。サディズムを楽しむ人もいるが数パーセント程度である(『戦争における「人殺し」の心理学』参照)。貪欲は程度問題だが、集団的独善の助けなしに侵犯行為に至るのはやはり少数である。しかし、善良な人でも、侵犯行為とは無関係だとしても、なんらかの独善は避けがたい。

天使の堕落に話しをもどすと、貪欲やサディズムが肉体的欲望汚染説、独善が自己認識欠陥傲慢説に相当する。中世哲学における思弁的理論と現代心理学における実証的研究の結果が対応している点が面白い。

しかし、人間の独善と思い上がりはどこからくるのだろうか?中世哲学では自己認識の欠陥を言っている。これは基本的な論点である。原理的に言って、自分が知らない事については、何を知らないのかどの程度なのか具体的に知ることは不可能である。この無知についての無知、メタ無知は、無知の領域がゼロである全知の神以外は逃れ得ない。従って、純粋な精神的存在である天使もメタ無知からは逃れられない。自分が知っている領域や観点を過大に評価し思い上がる可能性がつねにある。人間もこれを避けることはできない。できるのは、失敗や無知を認め、謙虚さを学ぶことだけである。そして、もはやそれが神でないにしても、より大きな存在を意識した畏敬や謙虚さについて我々が中世の哲学から学ぶことは色々ありそうだ。
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燃えよカンフー(Kung Fu)

2011年10月15日 | 書評・作品評
燃えよカンフーは、大学生時代にテレビで見て、10年ほど前には深夜放送で見た。夏休みに、友人と昔見たテレビの話しをして懐かしくなってDVDを探した。日本語版はシーズン1と2が出ていたが合計で3万円近くするので、英語版をAmazonで購入した。シーズン1,2,3、郵送料を含めて5千円ですんだ。

これにかぎらず、日本のソフトは高すぎるのが多い。値段を抑えて違法コピーをきっちり取り締まった方が良いと思う。「ジャパナメリカ 日本発ポップカルチャー革命」 という本で、日本のアニメメーカーのサイトの貧弱さが指摘されていた。著者のケルツ氏は日本のアニメの多様性、質の高さ、素直な感性(見落とされがちだが、この指摘は重要だと思う)に愛着を持っていて、アニメ会社などの上層部の無能に怒っている。内部の人間関係と法律的な事務能力で上層部を占めるようになった人々だ。最近、ある市役所が行った、ITの利用に関するヒアリングで妙な経験をした。打ち合わせをメールでして全てが済んだあとで、書類を渡したいと言われた。受け取って驚いた、すでにメールで添付され、日付もすぎた依頼文書を印刷し、役所の判子をおしたものだった。問題がITの利用に関するヒアリングなので、ブラックジョークのような気がした。しかしこういうことは、内部の人間関係と法律的な事務能力で上層部を占めるようになった人々には重要なのだろう。流通などの自由な競争のある分野は良いが、役所や規制に守られた放送業界、メディアなどの業界はダメだ。ITを使える人はいても、それを活用できない無能な上層部の硬直性が、日本の組織の活力を削いでいると思う。

燃えよカンフーに話しをもどすと、英語は易しく(言い争いのシーンなどは早口で聴き取りにくいが、全体はゆっくりしている)字幕(英語・スペイン語・フランス語)もあるので、懐かしくたっぷり楽しめた。アメリカ人の父と中国人に母の間に生まれ、父母を失い、少林寺で仏教とカンフーの修行をしたケインが主人公である。ケインは、師匠を守るために皇帝の甥を殺害してしまい、清朝から賞金付きのおたずねものとなり、中国を逃れアメリカの西部に渡る。アメリカではまだ会ったことのない兄を捜し求めて、時に賞金稼ぎに追われながら、旅をするという話しである。西部でケインが遭遇する出来事と、少林寺での師匠との仏教的な対話の回想シーンを交互にまじえながら話しが進む。

ドラマでは、開拓時代の荒々しい西部で暴力や差別、貪欲などの種々の困難な状況に直面するケインがあくまで仏教徒としての忍辱、慈悲、自戒、禅定に従って行動していくさまが描かれる。もちろん、ケインはカンフーの達人で、荒くれや悪党を素手でやっつけて、人々を救い、また旅にでるという約束事の娯楽作品ではある。しかし、格闘場面はほんのわずかで、シーズン1,2では格闘もぎこちない。水戸黄門的な安心感と爽快感はあるが、ドラマの焦点は、荒々しい西部での暴力や差別、貪欲などと仏教的精神性の対峙にあり、スピリチュアル西部劇、あるいは、仏教的西部劇といった珍しい作品になっている。シーズン1,2では、ネーティブ・アメリカンが出て来る回ジョディ・フォスターが子役として出る回、等々、ケインと非仏教徒の登場人物の精神が共鳴した素晴らしい回が沢山ある。シーズン3は、格闘場面はだいぶうまくなっているが、東洋的神秘性やメロドラマ的趣向が前面に出てきて、シーズン1,2のシンプルな良さはなくなっている。シーズン1,2では、オープニングとエイディングでケインが西部を1人歩く姿がテーマ曲とともに流される。この映像と音楽は作品のエンブレムのように思える(シーズン3のエンディングは、少林寺の焼きごてのあまりぞっとしないシーンに替わっているが)。これを見ていると、原始仏典にある「犀の角のようにただ一人歩め」という言葉が浮かんでくる。下に一部を抜粋する。

四方の何処にでもおもむき、害心あることなく、何でも得たもので満足し、
もろもろの苦難に耐えて、恐れることなく、犀の角のようにただ一人歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心をかく乱する。
欲望の対象にはこの憂いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。

             (「ブッダの言葉:スッパニータ」中村元 岩波文庫)
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総合的学際研究の時代の復活:「倫理学ノート」清水幾太

2010年10月05日 | 書評・作品評
サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」が評判になっている。NHKのハーバード白熱講義あたりでとりあげられたのがブームのきっかけのようだ。日本語訳が出る前にAudio Bookの初めの部分を聴いたままだったので、最後まで聴いてみた。倫理学の歴史を、ベンサムの利主義からカントの義務論、ロールズの義務論の流れでの社会政策的な正義論、そしてアリストテレスの本質主義にもとづく共同体的道徳論と紹介し、そしてそれをアメリカの社会問題(税金での兵隊と徴兵制、避妊、等々)と結びつけて分かりやすく上手に説明している。(クリントンがホワイトハウスの執務室でモニカにフェラチオをさせて、セックスをしたわけでなかいとかクリントン的な言い逃れをしたのを、カントの道徳律と関連づけて、誤解を誘導しているかもしれないが、事実に反する言明をするなという格率は守っているとして、殺人犯に誤解を誘導して被害者をかくまいながら事実に反する言明を避ける場合や、カントの著作における権力者への対応などの場合を引き合いに出して、弁護しているのには、動機が違うだろうと、のけぞってしまったが。)アメリカの社会問題と関連づけながら、カントからロールズの義務論とアリストテレス流の共同体的道徳論をそれぞれの問題点を指摘しながら置いたあたりは、なかなかうまいと思ったが、共同体的道徳論を言うなら哲学でもVirtue Ethicsの展開があるし、心理学では道徳感情の研究が展開しているしポジティブ心理学における徳の研究もある。リベラルと保守の橋渡しみたいなところに位置するオバマ支持という点ではJonathan Haidtなども同じだが、より学際的に新しいアプローチを試みている。サンデルは、いかにもハーバードの先生という感じで、東海岸を中心にしたアメリカの表舞台を意識したリベラルで、説明は上手だが、オリジナリティーはあまりない(PinkerやE.O.Wilsonなど、科学的にとんがったハーバードの先生もいるが)。

倫理学への学際的アプローチということで、何十年かぶりに清水幾太の「倫理学ノート」を読んでみた。前半の功利主義と経済学の関連の部分は面白かった。また1930年当時、ドイツの形式社会学の影響下にある日本の社会学者の多くが、コントなどの総合社会学を知識もなしに見下しているのに憤慨しているくだりなどのエピソードも面白かった。ただ、後半のウィトゲンシュタインの話は今読むとまたかという感じで(というか、むしろ、この本の後で二番煎じ、三番煎じが出回ったということだろうが)、コントやヴィーコなどは持ちネタでまとめたという感じで、前半で導入された功利主義と経済学の関連の流れの展開とは対応していない。しかしノートとしては、20世紀に生じた形式社会学や経済学における専門化に対し、曖昧な人間の感情もふくめた総合的なアプローチを、コントやデカルトの敵ヴィーコなどの紹介を通じ、対峙させようとする生きの良い、40年後に読んでも十分面白い内容になっている。

「倫理学ノート」では功利主義と経済学の関連は途中で切れた感じだったが、「倫理学ノート」出版から40年近くたって、変化が生じているようだ。

新古典派の経済学は、労働価値説を越えて需要供給の観点から価値をとらえることを可能にする限界革命を経て成立した。メンガーやジェヴォンズが導入した限界効用(Marginal Utility)の考えは、当時の心理学における精神物理学を参照したものだった。限界効用逓減の法則などは、感覚量に関するウェーバー・フェヒナーの法則と同型の内容となっている。エッジワースのように効用の測定に向けて心理学を援用しようとした経済学者もいる。しかし、その後の経済学は、パレートなどの定式化にしたがい、心理量ではなく選択結果を参照してなりたつようにモデル化を行うようになる。サミュエルソンなどが、この流れで新古典派の経済学を数学的にモデル化していく。合理的な選択を前提とした数学的モデルによる専門化した経済学の誕生である。この方向が20世紀の経済学の主流となる。こうした流れに変化のきざしが生じたのは、20世紀の終わりになってからである。行動経済学では、実際の人間の選択を心理学的な理論を参照に実験的に研究を試み、神経経済学など神経科学と経済行動との関連も研究のテーマとなった。19世紀末に試みられた心理学との関連づけが、20世紀の専門化の時代をはさんで、20世紀末から21世紀になって再びより本格的に探求されるようになったのである。(この間の事情については、例えば次の論文が分かりやすい。THE ROAD NOT TAKEN: HOW PSYCHOLOGY WAS REMOVED FROM ECONOMICS, AND HOW IT MIGHT BE BROUGHT BACK, Luigino Bruni and Robert Sugden, The Economic Journal,2007, 117, 146-173.)また、経済学者が効用という扱いやすい概念だけを数学的定式化にのりやすいようにして拝借した功利主義者が問題とした幸福などという問題も経済学の本流に復帰しつつある(例えば、"Economics and Happiness: Framing the Analysis"などを参照。)。

心理学の成立は、ヴントがライプチヒ大学に心理学実験室を設立した1879年とされる。ヴントはヘルムホルツの弟子で、ヘルムホルツは生理学者ヨハネス・ミュラーの弟子だった。ヨハネス・ミュラーの孫弟子には、フロイトやパブロフがいる。ヘルムホルツなどは、物理学と感覚生理学の大家であるとともに、知覚の無意識的推論説を唱えた心理学者でもあった。要するに心理学は19世紀末におけるドイツの生理学における感覚研究などを基盤に学際的背景で成立したのである。ヴントは心理学を直接経験の科学とし、心理学を独立した科学として立ち上げようとした。行動主義や精神分析など、成立は生物学や医学と関係していながら、より専門的な学派を形成していった。心理学も、20世紀の初めから後半までは専門化の時代だったと言える。心理学も20世紀の終わりになって本格的な学際的研究の時期を迎えている。最初は、1960年代から70年代の認知革命、次は1980年代以降の脳科学の参入である(1985年に認知神経科学、1995年に感情神経科学、2005年に社会神経科学と心理学の主要領域ほんとんどすべてとリンクするようになった)。19世紀に生理学を背景として学際的な科学としてスタートした心理学は20世紀の専門化の時代を超えて、ふたたび本格的な学際的研究の時期を迎えつつある。

以上、心理学と経済学についてごく大づかみに述べた。清水幾太の「倫理学ノート」ではヴィーコによる歴史のらせん状発展の説は紹介されていないが、人間科学、社会科学は20世紀の終わりになって、20世紀初めから後半までの専門化の時代を超えて、再び19世紀末と同じような総合的学際化の時代を迎えつつあるようだ。
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ステップ1を越えて政策の効果を考える

2010年10月03日 | 書評・作品評
Sowellの経済学のテキストは、教科書というより一般の社会人向けの本で、本の中心となるメッセージを一文で繰り返し提示しつつ、それを沢山の具体的な事実によって示している。提示される事例は豊富でよく調べられているし、メッセージは問題の核心を捉えている。Audio BookでBasic EconomicsApplied Economics を聴いたが、素人にもわかりやすく面白かった。

Basic Economicsの基本メッセージは、経済とは複数の用途のある稀少なリソース(自然資源、労働力、資金、知識など)の配分だということだ。だから、複数の用途のある稀少なリソースの配分であれば、お金が関係しなくとも、そこには経済学的な問題があるということになる。例えば、戦争におけるパイロットの扱いも、複数の用途のある稀少なリソースの配分としてとらえられる。太平洋戦争において、日本軍ではベテランパイロットは戦死するまでずっと戦場で戦った。一方、米軍は一定の期間をすぎたら、ベテランパイロットは後進の指導に当たらせた。ここで稀少なリソースはベテランパイロットであり、複数の用途は戦場で戦うか、後進の指導にあたるかである。

社会における財の生産や供給において、複数の用途のある稀少なリソース(資源、労働力、資金、知識など)の配分をどう行うのか。社会主義経済は、この配分を党幹部や経済官僚の中央からの指令による集中管理でより効率的に行おうとした試みだった。結果は無惨な失敗だった。複数の用途のある稀少なリソース配分のために必要な情報は、ローカルで多岐にわたっており常に変化しているため、中央からの指令による効率的な管理は不可能だからである。ソビエト共産党の幹部がイギリスを訪れて、毎朝新鮮なパンが店に並ぶのに驚いて、どのようにして政府は全国のパン工場や小売りに材料や製品の供給を管理しているのかと質問したというエピソードがある。政府は何もしてないというのが答えで、小麦の買い付けから、製粉、等々、それぞれの業者はもうけのためにそれぞれの取引をしているだけである。もうけがあがる方向に、複数の用途のある稀少なリソース(資源、労働力、資金、知識など)が配分され、その結果として安く美味しいパンが供給され続ける。

Basic Economicsでは以上の基本的な観点の流れで、独占や優位な企業の入れ替わり、所得分布の変動、貿易なども解説されるが紹介は省略する。

Applied Economicsの主題は、経済への政策的介入の効果である。政策的介入の本当の効果は、介入の意図や最初の段階(ステップ1)の変化ではなく、政策的介入によるインセンティブの変化がもたらす複数の用途のある稀少なリソースの再配分を見なければ分からない、ステップ1を越えて考える必要があるが基本メッセージである。

具体的な政策的介入の例が沢山あげられている。下に法人税の値上げと家賃制限の場合を示す。政治家は、かりにこうした経済のしくみは分かっていても、主に自分の選挙に直接影響するのは、ステップ1の段階までで、そこで好印象を得るのが重要で、その後は、忘れやすい選挙民マスコミをあてにしたり、できる。

法人税の値上げ
目的:税収を増やしたい-->政策:法人税を上げる-->ステップ1:税収が増える-->ステップ2:高い法人税を嫌って企業が撤退する-->結果:税収が減る

家賃の制限
目的:一般向きの住宅の家賃の高騰を抑えたい-->政策:家賃に制限を設ける-->ステップ1:家賃は人為的に低く抑えられる-->ステップ2:一般向きの住宅への投資が減る(投資は他の地域か、高級住宅に向かう)-->結果:一般向きの住宅が不足し、供給不足のために家賃の上昇圧力が生ずる

最近の日本の経済政策でも、派遣労働制限や貸し金行規制に関して、同様なステップ1だけ考え、選挙民にアピールした政策がとられた。

派遣労働制限の場合
目的:派遣社員を減らし正社員を増やしたい-->政策:派遣労働を制限する-->ステップ1:派遣労働者は減る-->ステップ2:正社員だけでは採算がとれない企業は撤退する-->結果:派遣社員も正社員も減る

貸し金行規制
目的:高利で苦しむ人を減らしたい-->政策:高利の貸し金を禁止する-->ステップ1:高利の貸し金はなくなる-->ステップ2:リスクの高い借り手に貸す金融業者が倒産、撤退する->結果:リスクの高い借り手は金を借りられなくなるか、ブラックマーケットに頼らなければならなくなる

Applied Economicsの第6章のテーマは移民問題についてステップ1を越えて考えるである。Sowellは自由経済学論者だが、安易な移民政策には否定的である。

移民問題
目的:高齢化する豊かな国では労働力に比し社会保障の負担が大きい。より貧しい国からの移民により労働力を補いたい-->政策:より貧しい国からの移民受け入れをはかる-->ステップ1:より貧しい国からの労働意欲に富む移民第一世代は熱心に働く-->ステップ2:移民は製品の輸入と違って高齢化し、子供も産んでいく。->結果:高齢化する移民は、社会保障の負担を増加させる。移民第二世代以降にとっては、移民先の豊かさは当然で、移民第一世代のような労働意欲はもたない。また、往々にして、文化的な軋轢も生ずる。結果として労働力に対する社会保障の負担の割合は増えることもある。
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宮崎哲弥の「新書365冊」

2006年12月08日 | 書評・作品評
河端「やあ。ひさしぶり。何を読んでいるんだい。」
道端「宮崎哲弥の「新書365冊」です。なかなか面白いですよ。」
河端「宮崎氏というと、テレビによく出ているコメンテーターだね。」
道端「はい。ずいぶん売れっ子になって驚いてます。社会哲学、宗教、社会問題を主要な領域とする若手の評論家です。とくに「正義の見方」での「いいかげんにしてよ中沢さん」の中沢新一批判は出色でした。チベット仏教の専門家の発言を引いて中沢氏の著作は仏教としては異端である。また学問としても、ごまかしだらけであると、中沢新一氏の言説を徹底的に批判しています。」
河端「ああ。「虹の階梯」とか「チベットのモーツァルト」とか「雪片曲線論」とか、あったな。バブルの時期の一種の知的ファッションだった。TBSの筑紫氏が朝日ジャーナルの編集長で、若者達のカリスマとかなんとか持ち上げてたな。」
道端「オウム真理教事件では、宗教学者の島田裕巳氏が、学生の入会をめぐって、責任をとる形で大学を辞職しました。しかし、島田氏は、オウム真理教に騙されて広告の役割を担ってしまったかもしれませんが、島田氏の仕事自体は、宗教社会学として手堅いものです。オウム真理教事件において、島田氏は、あくまで周辺的で偶発的な役割をになったにすぎません。オウム真理教事件の信者達をカルトに誘導し多くの人々を地獄に誘導した笛吹き役、思想的な主犯は中沢新一氏です。」
河端「中沢氏の仕事がごまかしだらけというのは、どういう点かな。」
道端「例えば、フィールドワークを元にしたと書きながら、創作が混じっているらしく、フィールドワークの情報や資料が明確でない。数学や自然科学の用語を出鱈目な意味で使っているなどです。ファンタジー小説なら良いかもしれませんが、学問的な仕事としては問題です。その辺を、宮崎氏は的確に批判してます。オウム真理教事件の前、まだニューアカデミズムという言葉が死語になっていなかった頃の事ですが、中沢氏は、東大の教養学部の助教授として迎えられることが、教室のレベル(たしか相関社会学だったと思います)では決まっていました。しかし、教授会で否決されました。大学行政では、教室の決定が実質的で、教授会はそれを追認することが通例なので、異例の出来事です。そのときの教授会のメンバーに話しをきいたことがありますが、中沢氏の数学や自然科学の用語の出鱈目な使用に対する自然科学系の教員の反対が多かったそうです。宮崎氏も指摘していますが、その時の東大の教養学部の教授会はアカデミズムとして、まともな判断を下したわけです。」
河端「なるほど。で、最近、中沢氏は、漫才師と共著で「憲法九条を世界遺産に」などという本を書いているようだが。」
道端「ええ。オウム真理教事件のほとぼりもさめたし、また、笛吹き役をしようというところなのかもしれません。バブルの時代、中沢氏のエキゾチックなニューアカ言説は、今ここでないどこかでの不全感の解消をもとめる人々にアピールしました。今度は、世界の現実にたいする認識の普及とともに後退しつつあるサヨク言説を、笑いとファンタジックな逆説、それにニューアカデミズムの残り香で再賦活し、また信者を誘導しようというのでしょうか。」
河端「道端君は、中沢氏については、色々いいたいことがあるようだな。しかし、本題の宮崎哲弥氏の「新書365冊」に戻ろう。書評の書評というのも面白そうだからな。」
道端「はい。中沢新一氏の問題については、また改めて書きたいと思います。で、「新書365冊」ですが、通読して、宮崎氏は社会哲学、社会問題について特に詳しいと思いました。宮崎氏の評論家として美質は、幅広い知識をもって論理的に考える能力があることとバランスがとれ中途半端な点にあります。このため、右は左を嫌悪し、左は右を軽蔑しといった今の日本の言論状況のなかで、いわゆる右とも、左とも、まともな対話のできる貴重で重宝な存在になっています。「新書365冊」自体、いわゆる右の雑誌の「諸君」で連載し、戦前は右で戦後は左の「朝日新聞社」から出しているのが象徴的です。」
河端「社会哲学に通暁し幅広い知識をもってバランスのとれた発言をするので、右も左も一目おかざるをえないということだな。」
道端「はい。いわゆるジャーナリストやコメンテーターの不勉強は酷いですから。鳥越氏など、日本版オーマイニュースの編集長を引き受けながら、JanJanやライブドアニュースを知らなかっただの、2チャンネルでは女子アナ板しか見たことがなくゴミダメと思ったなど、信じられない無知というか無恥ぶりです。キャラクターを売りのタレントとして自分を考えているなら別ですが、知識や情報を商品としている自覚があるなら、宮崎氏の半分とは言いませんが、十分の一でも勉強して欲しいです。」
河端「「新書365冊」の社会哲学、社会問題以外は、どうなんだい。」
道端「科学はあまり詳しくないようですね。「「心の専門家」はいらない」」(小沢)を評価するのはタイムリーでしょうが、「行動分析学入門」(杉山)は30年前のスキナー流の行動分析の繰り返しなので、手放しの感心ぶりを見て、知識ないのかなと思いました。仏教については、サンスクリットまで勉強しているそうですから、チベット仏教のダライラマとヴァレラを初めとする認知科学者との一連の対話と共同研究にも興味を持って欲しいです。それと、宮崎氏が自らの思想的拠点としてとなえるラディカル・ブッディスムですが、関係論的な自己と世界の認識を基本とするのは、当然だと思います。しかし、それがなぜニヒリズムにならないのか、あるいは仏教をニヒリズムと考えるのか、もっとつっこんで検討すべきです。「死体はゴミだ」などと発言し、ラディカルぶりを誇ったようですが、言葉の本来の意味で探求者として問題の根底をさぐるという点で真にラディカルかというと、やや疑問です。この点は、ヴァレラなどの認知科学者が真剣に取り組んでいます。」
河端「まあ。新書が対象だから。あまり要求しすぎるのもな。」
道端「はい。そうですね。で、次にバランスがとれ中途半端な点です。例えば「東アジア「反日」トライアングル」(古田)を碩学による著作として評価しています。これは妥当でしょう。しかし、古田氏の立論として、韓国、中国のナショナリズムの原因として近代国家としての高揚の時期にあたるという歴史的フェーズの差は紹介していますが、中華思想には一言も触れていません。古田氏の本を読めば、近代国家としてフェーズの差だけでなく、中華思想も重要な問題として、むしろ中華思想をより中心的なテーマとして扱っていることは明らかです。ここで、宮崎氏は、評論家としての処世上、あぶないかもしれないテーマを上手に回避しているという印象をうけます。また「歴史認識を乗り越える」(小倉)を気韻があるなどやや抽象的な評価で絶賛しています。宮崎氏は、得難い博識で論理の人ですが、文体への感受性と鑑識眼をそなえたタイプの批評家ではないようです。宮崎氏にもうすこし、文体への感受性があったらなと思いますが、ないものねだりでしょう。博識で論理だけでも現在の日本では貴重です、本も、幅広く全体としてはバランスがとれ、好著です。」
河端「評論家というと、小林秀雄以来、日本では影響力を持った評論家が大勢いるが、宮崎哲弥氏はどんな位置になるのかな。」
道端「そうですね、評論家の評論というのも面白いですね。評論家にとって、ある程度の博識は前提だと思いますが、小林秀雄を初めとして、感受性と鑑識眼を中心とした評論家は多いと思います。宮崎氏は、社会哲学が中心領域ということもあってか、感受性と鑑識眼ではなく、論理を中心とした点に特色があるかもしれません。もうひとつ、評論家にとって難しいのが、自らの主義主張の基点をどこにおくかです。これを特定の政治的立場におくと、読者を限定してしまい、色つきの評論家、わるくすると色物の評論家として位置づけられてしまう危険があります。評論家を副業としているならかまわないでしょうが、評論家だけで食っていこうとすると、とくにテレビなどで出るとさらに制約が大きくなるかもしれません。文化領域に言説を限定するというのは一つの選択肢です。政治的に受け入れられやすい立場に立つ、政治的な立ち位置を変幻自在にずらしつつ言説を振りまく、などの選択肢は、論理的でラディカルであろうとする評論家には受け入れられないものです。ここで、呉智英氏の封建主義のように、実際の選択肢にはならないが、時代批評の論拠にはなりうるような立場を基点として設定するという方法もあるような気がします。ラディカルで、するどく、愛嬌があるという言説です。宮崎氏のラディカル・ブッディスムにも、同じにおいを感じます。呉智英氏のラディカルで、するどく、愛嬌路線と対照的なのが、山形浩生氏などで、ラディカルで、するどく路線ですが、実際の選択肢になり正味対立のあるところに言説の基点を置く言説戦略です。経済論争ではクルーグマン側、人間性論争ではピンカー側、知の欺瞞ではソーカル側と、日本の論壇ではどちらかというと少数派の、しかし理は通った立場に断固たっています。それで、宮崎氏ですが、、」
河端「そうか、道端君の評論家評論なんだかややこしいな。続きは、またの機会に、ゆっくりうかがうことにするよ。」
道端「はい。わかりました。」
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「統計学を拓いた異才たち--経験則から科学への一世紀--」 ザルツブルグ著 日本経済新聞社

2006年04月02日 | 書評・作品評
  統計学については、品質管理を初めとして、医学、薬学、農学、心理学、経済学、等々の広い領域における沢山のテキストや解説書が書かれている。統計ソフトウェアの解説書は山積みである。統計学の数学的な専門書もある。しかし統計学について論じた本は非常にすくない。これは、時空に関する物理学、進化論、分子生物学、最近では複雑系などについて、その研究の歴史や哲学的意味が大いに論じられているのと対照的である。統計学はあくまでテクニックとして行うものであって、論ずるものではないと考えられているかのようだ。
  しかし、人類の知的な探求の営みとして考えると、統計学には非常に興味深い特徴がある。まず、統計学的な認識は歴史的にかなり遅れて生じている。例えば、折れ線グラフや棒グラフなど、データのごく素朴な図示の方法だが、18世紀にイギリスのPlayfairが発案したものである。二つの変数の関連を示すごく基本的な指標である相関係数がゴルトンによって考案されたのは、20世紀も近くになっての事である。ニュートン力学における科学革命が、ギリシア以来のエピステーメの世界におけるコスモスの確定的な秩序を求める伝統的な知の営みの延長線上にあったのに対して、雑多で偶然が関わる世界のデータを扱い結論を見いだそうとする統計学における知の営みは、こうした知の伝統とは全く異質なものだった。科学哲学者のイアン・ハッキングは、「偶然を飼いならす --統計学と第二次科学革命--」で、18世紀から19世紀にかけて成立した統計学を、ニュートン力学がもたらした科学革命につぐ第二の科学革命として位置づけている。ハッキングは、この第二次科学革命は、17世紀の社会統計表などある部分では社会科学が先導し革命が進行した点に特徴があると指摘している。統計学が相手にする、雑多で偶然が関わる世界は、数理的秩序が美しい結晶や軌道の形をとって現出する純粋な自然科学とは異なって、雑多な日常や社会の出来事が大いに関わってくる。ギロビッチは、「人間この信じやすきもの --迷信・誤信はどうして生まれるか--」 で、迷信・誤信に陥らずに批判的に思考する能力を育てるには、確定的な秩序を扱う純粋な自然科学よりも、統計的分野の方が有効だったという研究を紹介している。統計学は、歴史的にあたらしい形態の知であり、批判的な思考能力育成につながる。だから、統計学については、たんなるテクニックとしてではなく、その歴史的、認識論的な意味についての議論がもっとなされるべきである。統計学を無知の制御として位置づけ、数学基礎論からファジー論理、社会学まで検討した野心的な本としてSmithsonによるIgnorance and Uncertaintyがある。構想が野心的すぎたせいか、1989年の出版以降、この本の方向での展開はあまりなされていないが、今後の展開が期待される。これについては、また機会を改めて論ずる事にしたい。
  「統計学を拓いた異才たち--経験則から科学への一世紀--」は、統計の実務家による統計学の歴史の本である。カール・ピアソンから始まって、フィッシャーから、Turkeyなど、かなり新しいところまで、統計的定式化の内容にまで立ち入って(全く数式なしで、数式も添えた方が分かりやすいのではという箇所もあったが。)書いてある。カール・ピアソンの測定による分布の算出、ギネスビールにおけるゴッセトのモンテカルロ法、フィッシャーの農場データ、医療現場、品質管理、等々、統計家達が解こうとした問題領域をちゃんと踏まえて書いてあって、さすがは実務家と感心した。
  エゴン・ピアソン(カール・ピアソンの息子)とネイマンによる、仮説検定の教科書的な定式化について、フィッシャーや最近では品質管理のデミングなどが批判的なことを知って面白かった。
  次は、フィッシャーが1929年の心霊研究予稿集に書いた論文からの一節である。
「慣例として、偶然によって生ずるのが二十回の試行のうち一回未満という程度であれば、結果は有意であると判断する。研究の実務に携わっている者にとってこれは恣意的だが、便利な有意水準である。だからといって二十回に一回判断を誤るというわけではない。有意水準は何を無視したらよいかを教えてくれるだけにすぎない。言い換えれば、すべての実験で有意な結果が得られないということだ。かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている場合、現象は実験的に論証可能であると主張するにとどめたほうがよい。そのため、再現する方法がわからない有意な結果がぽつんとあっても、これはあらためて解明されるまで未決定のままなのだ。」(p.124.)
  透視能力の存在に関して、5パーセントの有意水準で、完全な当て推量という帰無仮説からでは説明できない実験結果が得られた、などという論文における統計の間違った使い方への批判である。たまたま有意差が出た結果を論文として報告する。この種の統計の間違った使い方は今日でも結構ありそうだ。P値が0.05以下なら実験は成功、0.05以上なら実験は失敗と、一回の検定で確定的統計的結論(??)が出るかのように、考えている人も多い。
 ザルツブルグは、フィッシャーによるp値の使い方について次のようにまとめている。
 「「かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている」という表現に注目しよう。これはフィッシャーならではの有意性検定の使い方の核心である。フィッシャーにとっての有意性検定は、特定の処理効果の解明を問題とした連続した実験においてのみ意味を持つのだ。フィッシャーの応用論文に目を通せば、有意性検定を使って三つの可能な結論から一つを得ていたと信じるに至るだろう。もし、p値が非常に小さければ(通常0.01未満)、効果があると言明する。もし、p値が大きければ(通常0.20以上)、効果があったとしても、これはあまりにも小さくて、この規模の実験では検出できないと言明する。もしp値がこのあいだにあれば、効果がよく得られるために次の実験計画をどのようにすべきか議論する。」(pp.124-125.)
  p値の解釈、統計における確率の解釈には、今日にいたるまで色んな議論があるらしい。本書では、カール・ピアソンの多量の測定による確率分布から始まって、コルモゴロフによる確率論の公理化、個人確率、カーネマンらによる主観的確率まで、研究の歴史を紹介している。喧嘩っ早いカール・ピアソンの晩年の寂しい姿、t検定を考案したギネスビールのゴセットによる深夜の膨大なサイコロ実験、天才フィッシャー気むずかしさ、コルモゴロフやTurkeyの多才ぶりなどエピソードも豊富である。因果律の問題をラッセルが始めて指摘したかのように記述したり、イアン・ハッキングを参照しないなど、哲学にはやや弱いらしいが、統計の実務家による統計学の歴史の本として読みやすく有益な一冊である。日本軍の非金属地雷など誤りもあるが、翻訳はしっかりしていて、明白な誤りは、訳者が指摘を行っている。
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「丸山眞男の時代」 竹内洋著 中公新書

2006年03月28日 | 書評・作品評
  竹内氏と知り合いの老齢の学者が、本書を読んで「この本は書かれるべきではなかったのです」と憤慨していたと、人から伝え聞いた。その人の甲高い口調を思い出して、すこし笑ってしまった。それだけ信奉者を怒らせるのだから、一読の価値はありそうだと思って読んでみた。戦後の言論界における丸山の位置と言説戦略が、戦前の帝大粛正講演会あたりから始めて、豊富な周辺的資料を駆使して活写されている。評者のように、理系畑で、丸山に興味のなかった人間にも、丸山がなぜ偉いと思われていたのかが、よく分かった。
  丸山が言論界で注目を集めたのは、日本敗戦の翌年の1946年に発表した「超国家主義の論理と心理」だったらしい。この論文では、戦前の日本を西欧の国家主義とはことなる超国家主義として、法的権力と倫理、公と私の別が曖昧で、責任を持った主体としての個が未確立なまま、超国家主義に陥ったものとして位置づけているとの事だ。晩年には、執拗な持続低音としての日本的土着的なものをいったらしい。西欧の社会論理を基準に、そこからの逸脱、偏差として問題となる日本的なるものを執拗に追求している。社会設計主義への認識論的反省と伝統の役割の認識が欠如し、社会主義の可能性を信じ続けていたらしいので、進歩的文化人の元祖みたいな存在だったのだろう。
  本書では、丸山が言論界におけるポジションをいかに確保してきたかが、ブルデューの文化資本の考えを援用して分析されている。丸山は東大の法学部教授で、文学部的な歴史研究を行っている。法学部(国家の行政機構や経済などの権力とのつながり)と文学部(文化資産の本丸)のおいしいところに絡んでいる。また、アカデミーに属しながら、ジャーナリズムでも雑誌を選んで、ときたまに影響力のある論文を出す。批判は高みにあるかのように黙殺する。敵対する在野の研究者とのいやらしいやりとも紹介されている。丸山の絶妙のポジショニングぶりが、豊富な周辺的資料を用いて、竹内氏らしく客観的、かつ信奉者から見たら意地悪に描き出されている。
  丸山のたこつぼ型、ささら型、執拗な持続低音などの比喩は、ややアバウトな標語にすぎない印象をうける。西欧の社会論理を基準に、そこからの逸脱、偏差として日本を捉えようとするアプローチも、純日本的なのを言うのと同じく、ローカルな論理でしかない。梅棹の文明の生態史観や宗教疫学はアナロジーとしてより発展性があるし(宗教疫学についてはスペルベルの文化疫学など)、特定の地域の社会論理を基準にするのではない、より普遍的な社会科学の方向にあると思う。
  本書には、次のようなエピソードが紹介されている。「丸山は師南原繁によって、今の国粋主義系の日本精神論を超克するような「科学的な」日本の伝統思想の研究を要請された。日本思想の論文であっても、注の半分が外国の学者の論文であるように、という無茶な言い方もされていたが、このいい方で、南原の言う「科学的」が、西欧の学問や分析理論をもとにした日本思想論であることがわかる。」(p.94)
  ここで言う科学は、西欧の学問程度の意味で、仮説検証としての科学とは何の関係もない。実際、丸山は論文のまくらにヘーゲルを使ったりしていたようだ。国家の品格の著者で数学者の藤原氏が言うように、いくら精緻に概念体系が組み立てられていても、その説が人間社会に適合するか否かはわからない。哲学として思考の世界だけにとどまっていれば良いが、社会に適用されるなら、それは、ある種の社会神学として機能する。マヤの神官達が独自の宇宙論に基づいて社会に宣託を下すようなものだ。社会神学としての社会主義などは、精緻で雄大な学問体系だったが、それが現実の社会に適用されたとき何が生じたのか。我々は、数千万人の犠牲者とともに、その答えを知っている。社会科学の多くの領域では、まだ学説の輸入と言説の巧みさ程度で、学問的権威を維持できるようだ。その学問的権威とともにその教説が、実施にうつされると、社会神学として、社会に害をなすこともある。法と文、アカデミズムとジャーナリズムの間で影響力を駆使した丸山型の知識人の時代が過ぎた今日でも、社会神学の司祭達の時代はまだ過ぎていない
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科学の厳しさ

2006年03月27日 | 書評・作品評
  以前、たかじんのそこまで言って委員会で、地震予知の特集があった。ややトンデモがかった地震雲の研究がネタにされていた。ゲストのアメリカ人の地震学者が、エピソード的な地震雲の研究を正面から批判をし、鼻から息が出るような、歯が抜けたような脱力感のある日本語で「科学と言うふのふぁきびしぃいものでふ」とかいい味を出していた。たかじんに「先生それわかっとりまんがな」とつっこまれていたが。
  Wolframと言うと、高校時代に量子力学の論文を書いた早熟の才人で、20台でCellular Automataを四クラスに分類する論文を書き、Cellular Automataに関する優れたアンソロジーを出している。もう15年ほど前になるだろう、20台か30台そこそこの浅田彰がテレビ番組でノイマンの研究から始めて、WolframまでCellular Automata研究を実に手際よく解説していたことを記憶している。(プリブラムとの対談やニューサイエンス批判を行った頃の浅田彰はBrilliantだった。)Wolframはその後、数式処理ソフトの定番であるMathematicaを開発し、そのCEOとして巨万の富も手にした。
  そのWolframがCellular Automataを中心に科学の新しいアプローチを書いた大著を準備中という情報があって、大いに期待していた。2002年になって出版された本のタイトルは、A New Kind of Scienceで、1200 ページにもなる大著だった。Cellular Automataによるシミュレーションを武器にガリレオにも匹敵する新しい科学の革新への道をしめすものとうたわれていた。大仰だなと思ったし、物理学者で厳しい評価をしている人の情報もあった。ただ、8000円程度でページ数とグラフィックの美しさと比較するとお得感もあったので、Cellular Automataの参考書にもなるかと購入した。直接の必要がなかったこともあってなかなか読めないで、結局、つんどくになってしまった。
  ひさしぶりにAmazonのサイトをのぞいてみたら、手厳しい批評が沢山寄せられていた。"The Emperor's New Kind of Clothes"(February 28, 2003)では、単純なCellular Automataが計算万能である事はすでに何十年も前に示されていて、計算科学としてWolframは何も新しい貢献をしていないと詳細に批判している。"He's got it all wrong"(May 22, 2002)では、WolframはCellular Automataで自然現象と似たパターンを収集しているが、これの領域はすでに1940年代のKolmogorovらの研究、1980年代のフラクタル以来研究されているもので、Wolframの方法は自然科学に新たな寄与はもたらしていないと指摘し、もっと地道な研究をすれば何らかの科学的貢献も可能だったかもしれないが、CEOとしてYes Manに囲まれてスポイルされてしまったなどと手厳しい。高い評価もあるが、門外漢からのものが多いようだ。
  計算科学や自然科学としてWolframの貢献を直接に評価する能力は私にはないし、複雑系に関する研究には、新しい科学としての可能性の喧伝からホーガンらによる皮肉の科学という全否定まで、科学としての評価に、確定しにくい部分が残っているのも事実だと思う。評価は個々の領域や個別のモデルについて行う必要がある。しかし、A New Kind of Scienceについては、種々の評価を読む限り、誇大宣伝として、厳しい評価の方が妥当と思わざるを得ない。いくら才能に富み、CEOで、千頁を越す大著を著しても、真の新奇性がなく、検証に耐えなければ科学としてはダメである。まさに、「科学と言うふのふぁきびしぃいものでふ」。
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切り込み隊長こと山本一郎氏の本

2005年03月29日 | 書評・作品評
  証券会社に勤めている後輩から、株をやってみないかと言われた。余裕のお金はないけど、営業で苦労しているようだし、どうしようかと思って、株についてはまったく無知だったので、切り込み隊長の「美人(ブス)投票入門」を読んでみた。よたをかましてるようでいて、実に冷静かつ客観的に株投資について述べられている。それで、次のような返事を送ってしまった。
 「切り込み隊長の本には、推奨銘柄の1年後の平均値は下落なので無視するのがよく、自分が特に詳しい業界があるなら、将来性を思い入れなしに予測してすぐに売らずに長期的に保持し、しかし見込みがないと判断したら損切りは早めにと書いてあり、合理的だと思うと同時に、時間とお金に余力がないと、できないゲームだと思いました。投資行動としては、利益損失×確率=期待値を最大化するのが合理的ですが、人間は損については少額でも嫌い、逆に得については少額でも確実に確保しようとしてしまいます。このため、損失が生じないわずかな可能性にかけて大損をしてしまいがちですし、逆に利益については大きな利益の可能性を逃してしまいます。そんなことで、私の方は、ゲームに参加するお金も時間もないのが実際のところです。」
「美人(ブス)投票入門」 (オーエス出版)
「ニッポン経営者列伝 嗚呼、香ばしき人々」(扶桑社 )
「投資情報のカラクリ」 (ソフトバンク・パブリッシング )
「けなす技術」(ソフトバンク・パブリッシング )
  経営者列伝は連載もの、投資情報のカラクリはたぶん自分の会社でのプレゼン、けなす技術は自分のブログ経験、とそれぞれ、元になる材料はあるにしても、一年やそこらで、自分の会社やブログをやりながらこれだけ書く筆の早さは相当なものだと思う。「けなす技術」は、おそらく一番急いで書かれたように思える。それとわかるような内容の薄さもあり、けなす技術については何も書いてない。しかし、ブログについては、適切な助言や観察がしっかりしめされている。
  山本一郎氏の書くものを読んで感じるのは、まず、膨大な事実情報をおさえる情報処理能力の抜群の高さである。この辺は、投資家、ゲーマーとしての能力、経験から来るのだろう。ただこれだけでは、たんなるオタクの羅列記事になってしまう。これに、しきりにとばされる2ちゃんねる的ヨタ(不快になる人も多いかもしれないが)と、状況を外から把握しようとする視点(引いて概観しようとする姿勢、不明確な点をはっきり分からないというメタ認知など)による、ある種の批評性が加わる。論点を批判しつつ自分の立場を主張するようなところはあまりない。バーク流の保守主義も自分の立ち位置としてあっさり提示されるにとどまる。ネタとヨタはかなりあぶなく偏っているように見えながら、切り込み隊長、実は、山本一郎だったというように、最終的な結論、集約点は案外に常識的である。この辺は、一見まともに見えながら、トンデモな主張や煽りが、商売やメディア、政治の世界には多いので、あるいは、その裏返しということになるかもしれない。
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町田康と切り込み隊長

2005年03月27日 | 書評・作品評
  以前、知り合いのグールドファンの女性に、なにか面白い小説はないかということで、町田康の「くっすん大黒」と車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を紹介した事がある。車谷長吉はさすがに気に入らなかったみたいだが、町田康は、今では、ネコの写真集まで持っているらしい。私の方は、「へらへらぼっちゃん」、「夫婦茶碗」あたりまでは、楽しみに読んでいたが、そのあとメジャーになってからは、読まなくなってしまったのだが。
  町田康の面白さは、パンクなアナーキーさと古風な生真面目さの妙な混交が、生きの良い文体で展開されている点にある。
「寝転がっては見たもののちっとも眠くならないうえ、おまけにむらむらと怒りがこみ上げてくる。というのも、自分は、ぶらぶらするばかりでなく、寝床でぐずぐずするのも好む性分なので、枕元周辺にはいつも、生活用具一般、すなわち、ラジカセ、スタンドライト、湯呑、箸、茶碗、灰皿、猿股、食い終わったカップラーメンのカップ、新聞、シガレット、エロ本、一升瓶、レインコートなどが散乱しており、それらに混じって、いったい、なぜ枕元周辺にそれがあるかよく分からないもの、すなわち、ねじ回し、彩色してないこけし、島根県全図、うんすんかるた、電池なども散乱しているのであるが、そのよく分からないものの中に、五寸ばかりの金属製の大黒様があって、先前からむかついているのは、この大黒様、いや、こんなやつに、様、などつける必要はない、大黒で十分である、大黒のせいなのである。」(町田康「くっすん大黒」)
  こういう、でたらめに吐き出されるようでいて、ぴったりきまった表現など、読んでいるとうれしくなる。こういう表現は、活字だけでは出てこない、話し言葉の芸の蓄積をひきついだものである。
  むなぐるまさんがブログで指摘しているが、切り込み隊長の文章のいきのよさには、たしかに町田康を思わせるところがある。また考えの体質も、切り込み隊長の相場師としての冷徹さとバーク流というか心情的な保守主義の奇妙な混交は、町田康のパンクなアナーキーさと古風な生真面目さの奇妙な混交と似ているというか、そのへんが私にとっての魅力である。また両者共に、ネコ好きである。
  そんなことで、先のグールドファンの女性に、おすすめとして切り込み隊長のブログを紹介してみた。そしたら、切り込み隊長には、かわいらしさがない、品がない、比較にならないと散々だった。たしかに、町田康のCuteさと話芸の完成度にはかなわないし、反発をまねくところもあるだろう。しかし、切り込み隊長には、また別の面白さがある。最近出た「けなす技術」などの感想を書こうと思って始めたのだが、またの機会にしよう。
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