以前、たかじんのそこまで言って委員会(3月13日放送)で、短い時間だけど、人権擁護法案がとりあげられたことがある。民主党元代表の鳩山由紀夫氏が、人権擁護法案についてきかれ、人権擁護という名前があるし、反対しにくい、などと言っていた。後ろで評論家の宮崎哲弥がファッショ法案ですとか吐き捨てるように言っていたし、隣には三宅久之さんもいるので、積極的な賛成を言いにくかったのか、本当にその程度にしか思っていなかったのたのかはわからない。
一般に「人権擁護は良いことだ」したがって「人権擁護法案も良い」、あるいは、「差別発言は悪いことだ」したがって「差別発言を法的処置の対象とするのは良いことだ」程度の認識の人は多いのかもしれない。しかし人々の言行そのものの評価と、それを法的処置の対象とすることへの評価は、全く別である。例えば、挨拶が良いことだからと言って「挨拶法案」を作るのが望ましいとは限らない。「挨拶法案」に反対する人は、挨拶を嫌っているわけではない。挨拶を法的規制のもとに置くことを望ましくないと考え、またそういう事態になると特定グループの成員への不挨拶だけが法的処置の対象となることを危惧しているだけである。
ある種の人々は、言論まで含めて社会生活の広い範囲を公的権力による法的処置の対象とする事を良しとする。別の人々はそれを良しとはしない。したがって対立は、差別反対か否かにはない。個人の言論を公的権力による法的措置の下に置くのに賛成か反対かの対立である。以下、個人の発言を法的に差別的か認定して法的処置の対象とすべきでない三つの理由を述べる。
(1)自由言論の原則をそこなう
自由言論の原則では、王様であれ、首領様であれ、委員会であれ、特定の人々が公正中立の真理を保持しているとは考えない。全ての人が偏見を持っているし誤りうると考える。真理とは成功した偏見にすぎない。自由で開かれた批判的な議論によって、誤りを除去していく過程を確保することによって、公共的な言論の世界は成功した偏見としての真理に近づくことが可能になる。誰でもが、批判的な議論の権利を有する。こうした開かれた自由な批判の過程で、妥当でない批判や意見は、公共的言論の中心部から周辺に押しやられる。ただし、これらの意見は禁止されるわけではない。公共的な尊敬を失い、周辺に押しやられるだけである。ローチ(1993)が主張するように、こうした言論の品質管理のしくみは、科学の世界で大きな成功をおさめた。自由言論の原則は、自由社会の基盤である。
ポパーは、自由言論の原則を、思想の自然淘汰としてとらえた。生物進化のレベルでは、誤った仮説を持った個体そのものが淘汰された。しかし人間では、仮説を自由な批判にさらし淘汰させることにより、個体ではなく、思想を淘汰するという全く新しいしくみを導入することに成功した。ポパーの言い方を借りれば、誤った仮説を抱いたアメーバは個体もろとも死ぬが、アインスタインは誤った仮説を自らのなかで殺す事ができる。これが、議論における批判と実際の攻撃を峻別しなくてはならない理由である。言葉による暴力などと言われることがあるが、これはあくまで比喩である事に注意し、両者を峻別しなくてはならない。
もちろん、科学の世界でも、批判は常に友好的に行われるわけではない。激しい批判の応酬がなされる。自尊心を深く傷つけられ、立ち直れない事もある。しかし言葉によって心が傷つくことを理由に、批判を抑制したり、禁止したら自由言論の原則のもとでの真理への接近がなりたたなくなる。そして、自由な批判を抑制、禁止したところにあらわれるのは、和気藹々の世界ではなく、特定の意見や人々への批判を許さない権威主義の世界、王様、首領様、委員会などのご指導による全体主義の世界である。
誤った議論や差別的言論はどう扱うべきか。誤った議論は害を与える事もあるし、差別的言論で心を深く傷つけられる人もいる。法で禁止すべきでないのか。自由言論の原則では、プライバシーの侵害や名誉毀損、猥褻な表現など、対抗言論によって対処できないごく一部の言論を例外として、言論を法的規制の元に置くべきでないと考える。誤った議論や差別的言論は、開かれた批判的議論にさらし、その種の議論や言論への人々の尊敬を失わせ、公共的言論の舞台の中心から周辺へ追いやれば良い。
例えば、ナチによるホロコーストを否定するような議論を法的に禁止すべきか?自らユダヤ人でナチによるホロコーストを「人類史上もっとも異様な集団的狂気の噴出」であると考えるチョムスキーの立場は明確である。「わたしにとってスキャンダルなのは、自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護するとヴォルテールが200年も前に述べているというのに、いまだにこの問題を議論しなければならないということである。自分たちを虐殺した者たちの根本教義が後世に採用されたとなっては、ホロコーストの犠牲者たちも浮かばれまい。」(The Nation, 28 February 1981、HIS RIGHT TO SAY IT、http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/Chomsky/chom.htm)ここで「自分たちを虐殺した者たちの根本教義」というのは、総統と党が真理を規定し、アインスタインの相対性理論を非アーリア的であるとして禁止したような、自由な批判を抑制、禁止した全体主義の教義である。
同じ事は、ホロコーストのような歴史問題でなくとも、血液型性格判断などについても言える。血液型性格判断は擬似科学であり、4月6日のエントリーでは可能性として述べたが、韓国では実際にB型男性に対する差別が問題になったように、差別的言動につながるような人々の不当なカテゴリー化を行っている。血液型性格判断の出版は法的に禁止すべきか?そうはならない。誤って偏った言論であれ、それを禁止するのではなく、徹底的な批判の対象とすることにより、尊敬されない言論とし周辺においやり、さらになぜ誤りが起きるかの分析の対象とすることもできる。実際、血液型性格判断における誤りは、不十分な統計データ、バーナム効果、確証バイアス等、批判的思考(Critical Thinking)における失敗のケーススタディーの対象として使うことが可能である。問題があるとすれば、擬似科学を禁止する法的権力の不在ではなく、擬似科学への批判をまともにとりあげないメディアの知的水準の低さと無責任にある。以前、オカルト番組の司会者が、オカルトを否定する科学主義の人は、固い心の人だなどと情緒的な訴えをしていたのをきいたことがある。こうした擬似科学やオカルトへの最良の処方箋は、批判的議論の推奨であって、権力による法的禁止ではない。擬似科学やオカルトは、法的禁止によって根絶させるのではなく(例えば、現在は裏付けがなく擬似科学あつかいの代替療法などであっても、将来、新しい根拠を得て、批判的吟味に耐え、復権をとげる可能性がないわけではない)、批判的議論によって公共的言論の周辺の尊敬されない場所に押しやれば十分である。これが、自由言論の原則である。
差別的発言についても同じ事がいえる。差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある。歴史的被害者グル-プが認定したものだけが差別ではない。正当な批判と不当なカテゴリー化の線引きもつねに明確な訳ではない。また、人の心を傷つけるような発言を好んでする人は常にいる。そして社会から対立がなくなることはない。歴史的被害者グル-プに認定された差別への反対や優しさを唱える人も、当該集団に該当しない人の心を傷つけるような発言を平気でしたりする。ほとんどの人間は悪魔でもなければ、天使でもない。人の心を傷つけるような発言はほめられたことではない。しかし、人間社会では避けられない事である。これを法的措置によって排除しようとするなら、ローチが指摘しているように、自由言論の原則を決定的に損なってしまう。人の心を傷つけるような差別的発言に対しては、自由な言論を通じた批判と尊敬の撤収によって、軽蔑すべき言論として周辺においやれば良しとしなくてはならないし、すべきなのは、そのための言論の努力であって、公権力による法的な措置ではない。
(2)差別的発言の認定を中立公平に行うことは不可能である
差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある事、一般的な批判や否定的評価と、特定の者に対する差別的言動を明確に分離することは難しい事(5月19日のエントリーで述べた)を併せ考えると、差別発言を公的権力が中立公平に法的に取り締まることなど、ほとんど不可能に近い事が分かる。
「「嫌がらせ取り締まりの当局者は、中立的であるだろう。」他の言葉でいえば、公正な権威が設立されたら、批判は公正に規制されうるというのである。お生憎さま。この希望はまやかしであり、しかも記録は、全く酷い。・・・・・・・・およそどんな意思決定の委員会でも、必然的にある傷つけられたグループを他のものより依怙贔屓することにならざるをえない。中立性なんて、原理上でさえ不可能である。それを認めた上で、人の気を害してはならないとする人たちのあるものは、批判や意見の制限は、たとえ誰であれ、「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるとすでに断言している。」(ローチ(1993)、pp.224-225)
日本の状況もローチ氏の指摘に近いようである。ただ「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるなどという身も蓋もない発言ではなく、言葉による誤魔化しがこころみられているようだ。実際、古賀氏の「すべての人の人権をまもる。自民党の統治能力が問われている。」という趣旨の発言における「すべての人の人権」は、これが本当に何を意味しているのか、まともに考えてのものだろうか。たんなる枕言葉かブラックジョークにしか聞こえない。サラ金などの被害で経済的理由の自殺の道に追い込まれた人々、カルトの被害者の人々などの人権は、由緒ある歴史的被害者グル-プに入っていないので、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか。そして、由緒ある歴史的被害者グル-プによるあきらかな人権侵害については、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか(http://blog.so-net.ne.jp/takamori/)。
(3)公権力が私人間における人権侵害とみなされる個人の発言を法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても問題がある
この点については、4月15日のエントリ-にトラックバックをいただいたSasayama氏の4月24日のエントリー(http://www.sasayama.or.jp/wordpress/index.php?p=266)に分かりやすい解説があったので、その終わりの部分を引用したい。
「この日本の人権擁護法案について、アムネスティーは、前回の廃案前の段階で、次のようなコメントを出している。http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2002/021102.htm 参照
「公権力による人権侵害は、他の私人間における人権侵害とその構造が根本的に異なる。これを同列に扱うことは、自由権規約委員会からの指摘を無視しているだけでなく、国内人権機関が当局の権力の濫用を防止することを主たる目的として考案された制度であることを全く考慮していない」
つまりは、このアムネスティの見解の意味するところは、「公権力といえども、指弾される立場にありうる。」がゆえに、「人権委員会なるものが、法務省の外局にあって、しかも、それが、乱用されかねない強力な権限を有している。」ということへの懸念なのであろう。
このような見てくると、つまりは、この人権擁護法案なるものは、当初から枝葉末節の議論に振り回されて、擁護すべき人権が不明確のままに、いたずらに、「人権警察」を、アムネスティの及ばぬところで強化するものに過ぎないものと、私には、思えてくるのだ。」
また、pochisensei氏のブログでは、諸外国の国内人権機構を比較し、5月24日のエントリー(http://blog.goo.ne.jp/pochisensei/e/d99264fd5b9d201f7e8ccf2d996c1f34)で、以下のように述べている。
「(a)「人権擁護法案」は私人間の個別的な人権侵害事案を扱う権限を「人権委員会」に与えています。これは主に英米法系の諸国に見られることで、問題はありません。しかし、その対象が「表現の自由」に関する事項に及んでおり、これは外務省の一覧を見る限り、他国にほとんど例を見ないものです。
(b)しかも、「人権擁護法案」によれば、「人権委員会」は「表現の自由」に関する事項についてまで、強制調査権限や司法手続きへの参加権限などが与えられており、これまた他国にはほとんど例を見ないものです。」
以上のように、私人間における人権侵害とみなされる個人の発言に公権力が介入し、法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても、例外的らしい。たしかにここでは、古賀氏の言うように「すべての国民の言動に介入する、我々仲間の統治能力が問われている」のかもしれない。
一般に「人権擁護は良いことだ」したがって「人権擁護法案も良い」、あるいは、「差別発言は悪いことだ」したがって「差別発言を法的処置の対象とするのは良いことだ」程度の認識の人は多いのかもしれない。しかし人々の言行そのものの評価と、それを法的処置の対象とすることへの評価は、全く別である。例えば、挨拶が良いことだからと言って「挨拶法案」を作るのが望ましいとは限らない。「挨拶法案」に反対する人は、挨拶を嫌っているわけではない。挨拶を法的規制のもとに置くことを望ましくないと考え、またそういう事態になると特定グループの成員への不挨拶だけが法的処置の対象となることを危惧しているだけである。
ある種の人々は、言論まで含めて社会生活の広い範囲を公的権力による法的処置の対象とする事を良しとする。別の人々はそれを良しとはしない。したがって対立は、差別反対か否かにはない。個人の言論を公的権力による法的措置の下に置くのに賛成か反対かの対立である。以下、個人の発言を法的に差別的か認定して法的処置の対象とすべきでない三つの理由を述べる。
(1)自由言論の原則をそこなう
自由言論の原則では、王様であれ、首領様であれ、委員会であれ、特定の人々が公正中立の真理を保持しているとは考えない。全ての人が偏見を持っているし誤りうると考える。真理とは成功した偏見にすぎない。自由で開かれた批判的な議論によって、誤りを除去していく過程を確保することによって、公共的な言論の世界は成功した偏見としての真理に近づくことが可能になる。誰でもが、批判的な議論の権利を有する。こうした開かれた自由な批判の過程で、妥当でない批判や意見は、公共的言論の中心部から周辺に押しやられる。ただし、これらの意見は禁止されるわけではない。公共的な尊敬を失い、周辺に押しやられるだけである。ローチ(1993)が主張するように、こうした言論の品質管理のしくみは、科学の世界で大きな成功をおさめた。自由言論の原則は、自由社会の基盤である。
ポパーは、自由言論の原則を、思想の自然淘汰としてとらえた。生物進化のレベルでは、誤った仮説を持った個体そのものが淘汰された。しかし人間では、仮説を自由な批判にさらし淘汰させることにより、個体ではなく、思想を淘汰するという全く新しいしくみを導入することに成功した。ポパーの言い方を借りれば、誤った仮説を抱いたアメーバは個体もろとも死ぬが、アインスタインは誤った仮説を自らのなかで殺す事ができる。これが、議論における批判と実際の攻撃を峻別しなくてはならない理由である。言葉による暴力などと言われることがあるが、これはあくまで比喩である事に注意し、両者を峻別しなくてはならない。
もちろん、科学の世界でも、批判は常に友好的に行われるわけではない。激しい批判の応酬がなされる。自尊心を深く傷つけられ、立ち直れない事もある。しかし言葉によって心が傷つくことを理由に、批判を抑制したり、禁止したら自由言論の原則のもとでの真理への接近がなりたたなくなる。そして、自由な批判を抑制、禁止したところにあらわれるのは、和気藹々の世界ではなく、特定の意見や人々への批判を許さない権威主義の世界、王様、首領様、委員会などのご指導による全体主義の世界である。
誤った議論や差別的言論はどう扱うべきか。誤った議論は害を与える事もあるし、差別的言論で心を深く傷つけられる人もいる。法で禁止すべきでないのか。自由言論の原則では、プライバシーの侵害や名誉毀損、猥褻な表現など、対抗言論によって対処できないごく一部の言論を例外として、言論を法的規制の元に置くべきでないと考える。誤った議論や差別的言論は、開かれた批判的議論にさらし、その種の議論や言論への人々の尊敬を失わせ、公共的言論の舞台の中心から周辺へ追いやれば良い。
例えば、ナチによるホロコーストを否定するような議論を法的に禁止すべきか?自らユダヤ人でナチによるホロコーストを「人類史上もっとも異様な集団的狂気の噴出」であると考えるチョムスキーの立場は明確である。「わたしにとってスキャンダルなのは、自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護するとヴォルテールが200年も前に述べているというのに、いまだにこの問題を議論しなければならないということである。自分たちを虐殺した者たちの根本教義が後世に採用されたとなっては、ホロコーストの犠牲者たちも浮かばれまい。」(The Nation, 28 February 1981、HIS RIGHT TO SAY IT、http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/Chomsky/chom.htm)ここで「自分たちを虐殺した者たちの根本教義」というのは、総統と党が真理を規定し、アインスタインの相対性理論を非アーリア的であるとして禁止したような、自由な批判を抑制、禁止した全体主義の教義である。
同じ事は、ホロコーストのような歴史問題でなくとも、血液型性格判断などについても言える。血液型性格判断は擬似科学であり、4月6日のエントリーでは可能性として述べたが、韓国では実際にB型男性に対する差別が問題になったように、差別的言動につながるような人々の不当なカテゴリー化を行っている。血液型性格判断の出版は法的に禁止すべきか?そうはならない。誤って偏った言論であれ、それを禁止するのではなく、徹底的な批判の対象とすることにより、尊敬されない言論とし周辺においやり、さらになぜ誤りが起きるかの分析の対象とすることもできる。実際、血液型性格判断における誤りは、不十分な統計データ、バーナム効果、確証バイアス等、批判的思考(Critical Thinking)における失敗のケーススタディーの対象として使うことが可能である。問題があるとすれば、擬似科学を禁止する法的権力の不在ではなく、擬似科学への批判をまともにとりあげないメディアの知的水準の低さと無責任にある。以前、オカルト番組の司会者が、オカルトを否定する科学主義の人は、固い心の人だなどと情緒的な訴えをしていたのをきいたことがある。こうした擬似科学やオカルトへの最良の処方箋は、批判的議論の推奨であって、権力による法的禁止ではない。擬似科学やオカルトは、法的禁止によって根絶させるのではなく(例えば、現在は裏付けがなく擬似科学あつかいの代替療法などであっても、将来、新しい根拠を得て、批判的吟味に耐え、復権をとげる可能性がないわけではない)、批判的議論によって公共的言論の周辺の尊敬されない場所に押しやれば十分である。これが、自由言論の原則である。
差別的発言についても同じ事がいえる。差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある。歴史的被害者グル-プが認定したものだけが差別ではない。正当な批判と不当なカテゴリー化の線引きもつねに明確な訳ではない。また、人の心を傷つけるような発言を好んでする人は常にいる。そして社会から対立がなくなることはない。歴史的被害者グル-プに認定された差別への反対や優しさを唱える人も、当該集団に該当しない人の心を傷つけるような発言を平気でしたりする。ほとんどの人間は悪魔でもなければ、天使でもない。人の心を傷つけるような発言はほめられたことではない。しかし、人間社会では避けられない事である。これを法的措置によって排除しようとするなら、ローチが指摘しているように、自由言論の原則を決定的に損なってしまう。人の心を傷つけるような差別的発言に対しては、自由な言論を通じた批判と尊敬の撤収によって、軽蔑すべき言論として周辺においやれば良しとしなくてはならないし、すべきなのは、そのための言論の努力であって、公権力による法的な措置ではない。
(2)差別的発言の認定を中立公平に行うことは不可能である
差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある事、一般的な批判や否定的評価と、特定の者に対する差別的言動を明確に分離することは難しい事(5月19日のエントリーで述べた)を併せ考えると、差別発言を公的権力が中立公平に法的に取り締まることなど、ほとんど不可能に近い事が分かる。
「「嫌がらせ取り締まりの当局者は、中立的であるだろう。」他の言葉でいえば、公正な権威が設立されたら、批判は公正に規制されうるというのである。お生憎さま。この希望はまやかしであり、しかも記録は、全く酷い。・・・・・・・・およそどんな意思決定の委員会でも、必然的にある傷つけられたグループを他のものより依怙贔屓することにならざるをえない。中立性なんて、原理上でさえ不可能である。それを認めた上で、人の気を害してはならないとする人たちのあるものは、批判や意見の制限は、たとえ誰であれ、「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるとすでに断言している。」(ローチ(1993)、pp.224-225)
日本の状況もローチ氏の指摘に近いようである。ただ「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるなどという身も蓋もない発言ではなく、言葉による誤魔化しがこころみられているようだ。実際、古賀氏の「すべての人の人権をまもる。自民党の統治能力が問われている。」という趣旨の発言における「すべての人の人権」は、これが本当に何を意味しているのか、まともに考えてのものだろうか。たんなる枕言葉かブラックジョークにしか聞こえない。サラ金などの被害で経済的理由の自殺の道に追い込まれた人々、カルトの被害者の人々などの人権は、由緒ある歴史的被害者グル-プに入っていないので、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか。そして、由緒ある歴史的被害者グル-プによるあきらかな人権侵害については、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか(http://blog.so-net.ne.jp/takamori/)。
(3)公権力が私人間における人権侵害とみなされる個人の発言を法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても問題がある
この点については、4月15日のエントリ-にトラックバックをいただいたSasayama氏の4月24日のエントリー(http://www.sasayama.or.jp/wordpress/index.php?p=266)に分かりやすい解説があったので、その終わりの部分を引用したい。
「この日本の人権擁護法案について、アムネスティーは、前回の廃案前の段階で、次のようなコメントを出している。http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2002/021102.htm 参照
「公権力による人権侵害は、他の私人間における人権侵害とその構造が根本的に異なる。これを同列に扱うことは、自由権規約委員会からの指摘を無視しているだけでなく、国内人権機関が当局の権力の濫用を防止することを主たる目的として考案された制度であることを全く考慮していない」
つまりは、このアムネスティの見解の意味するところは、「公権力といえども、指弾される立場にありうる。」がゆえに、「人権委員会なるものが、法務省の外局にあって、しかも、それが、乱用されかねない強力な権限を有している。」ということへの懸念なのであろう。
このような見てくると、つまりは、この人権擁護法案なるものは、当初から枝葉末節の議論に振り回されて、擁護すべき人権が不明確のままに、いたずらに、「人権警察」を、アムネスティの及ばぬところで強化するものに過ぎないものと、私には、思えてくるのだ。」
また、pochisensei氏のブログでは、諸外国の国内人権機構を比較し、5月24日のエントリー(http://blog.goo.ne.jp/pochisensei/e/d99264fd5b9d201f7e8ccf2d996c1f34)で、以下のように述べている。
「(a)「人権擁護法案」は私人間の個別的な人権侵害事案を扱う権限を「人権委員会」に与えています。これは主に英米法系の諸国に見られることで、問題はありません。しかし、その対象が「表現の自由」に関する事項に及んでおり、これは外務省の一覧を見る限り、他国にほとんど例を見ないものです。
(b)しかも、「人権擁護法案」によれば、「人権委員会」は「表現の自由」に関する事項についてまで、強制調査権限や司法手続きへの参加権限などが与えられており、これまた他国にはほとんど例を見ないものです。」
以上のように、私人間における人権侵害とみなされる個人の発言に公権力が介入し、法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても、例外的らしい。たしかにここでは、古賀氏の言うように「すべての国民の言動に介入する、我々仲間の統治能力が問われている」のかもしれない。