道端鈴成

エッセイと書評など

個人の発言を法的に差別的か認定して法的処置の対象とすべきでない三つの理由

2005年05月29日 | 人権擁護法案
  以前、たかじんのそこまで言って委員会(3月13日放送)で、短い時間だけど、人権擁護法案がとりあげられたことがある。民主党元代表の鳩山由紀夫氏が、人権擁護法案についてきかれ、人権擁護という名前があるし、反対しにくい、などと言っていた。後ろで評論家の宮崎哲弥がファッショ法案ですとか吐き捨てるように言っていたし、隣には三宅久之さんもいるので、積極的な賛成を言いにくかったのか、本当にその程度にしか思っていなかったのたのかはわからない。
  一般に「人権擁護は良いことだ」したがって「人権擁護法案も良い」、あるいは、「差別発言は悪いことだ」したがって「差別発言を法的処置の対象とするのは良いことだ」程度の認識の人は多いのかもしれない。しかし人々の言行そのものの評価と、それを法的処置の対象とすることへの評価は、全く別である。例えば、挨拶が良いことだからと言って「挨拶法案」を作るのが望ましいとは限らない。「挨拶法案」に反対する人は、挨拶を嫌っているわけではない。挨拶を法的規制のもとに置くことを望ましくないと考え、またそういう事態になると特定グループの成員への不挨拶だけが法的処置の対象となることを危惧しているだけである。
  ある種の人々は、言論まで含めて社会生活の広い範囲を公的権力による法的処置の対象とする事を良しとする。別の人々はそれを良しとはしない。したがって対立は、差別反対か否かにはない。個人の言論を公的権力による法的措置の下に置くのに賛成か反対かの対立である。以下、個人の発言を法的に差別的か認定して法的処置の対象とすべきでない三つの理由を述べる。

(1)自由言論の原則をそこなう
  自由言論の原則では、王様であれ、首領様であれ、委員会であれ、特定の人々が公正中立の真理を保持しているとは考えない。全ての人が偏見を持っているし誤りうると考える。真理とは成功した偏見にすぎない。自由で開かれた批判的な議論によって、誤りを除去していく過程を確保することによって、公共的な言論の世界は成功した偏見としての真理に近づくことが可能になる。誰でもが、批判的な議論の権利を有する。こうした開かれた自由な批判の過程で、妥当でない批判や意見は、公共的言論の中心部から周辺に押しやられる。ただし、これらの意見は禁止されるわけではない。公共的な尊敬を失い、周辺に押しやられるだけである。ローチ(1993)が主張するように、こうした言論の品質管理のしくみは、科学の世界で大きな成功をおさめた。自由言論の原則は、自由社会の基盤である。
  ポパーは、自由言論の原則を、思想の自然淘汰としてとらえた。生物進化のレベルでは、誤った仮説を持った個体そのものが淘汰された。しかし人間では、仮説を自由な批判にさらし淘汰させることにより、個体ではなく、思想を淘汰するという全く新しいしくみを導入することに成功した。ポパーの言い方を借りれば、誤った仮説を抱いたアメーバは個体もろとも死ぬが、アインスタインは誤った仮説を自らのなかで殺す事ができる。これが、議論における批判と実際の攻撃を峻別しなくてはならない理由である。言葉による暴力などと言われることがあるが、これはあくまで比喩である事に注意し、両者を峻別しなくてはならない。
  もちろん、科学の世界でも、批判は常に友好的に行われるわけではない。激しい批判の応酬がなされる。自尊心を深く傷つけられ、立ち直れない事もある。しかし言葉によって心が傷つくことを理由に、批判を抑制したり、禁止したら自由言論の原則のもとでの真理への接近がなりたたなくなる。そして、自由な批判を抑制、禁止したところにあらわれるのは、和気藹々の世界ではなく、特定の意見や人々への批判を許さない権威主義の世界、王様、首領様、委員会などのご指導による全体主義の世界である。
  誤った議論や差別的言論はどう扱うべきか。誤った議論は害を与える事もあるし、差別的言論で心を深く傷つけられる人もいる。法で禁止すべきでないのか。自由言論の原則では、プライバシーの侵害や名誉毀損、猥褻な表現など、対抗言論によって対処できないごく一部の言論を例外として、言論を法的規制の元に置くべきでないと考える。誤った議論や差別的言論は、開かれた批判的議論にさらし、その種の議論や言論への人々の尊敬を失わせ、公共的言論の舞台の中心から周辺へ追いやれば良い。
  例えば、ナチによるホロコーストを否定するような議論を法的に禁止すべきか?自らユダヤ人でナチによるホロコーストを「人類史上もっとも異様な集団的狂気の噴出」であると考えるチョムスキーの立場は明確である。「わたしにとってスキャンダルなのは、自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護するとヴォルテールが200年も前に述べているというのに、いまだにこの問題を議論しなければならないということである。自分たちを虐殺した者たちの根本教義が後世に採用されたとなっては、ホロコーストの犠牲者たちも浮かばれまい。」(The Nation, 28 February 1981、HIS RIGHT TO SAY IT、http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/Chomsky/chom.htm)ここで「自分たちを虐殺した者たちの根本教義」というのは、総統と党が真理を規定し、アインスタインの相対性理論を非アーリア的であるとして禁止したような、自由な批判を抑制、禁止した全体主義の教義である。
  同じ事は、ホロコーストのような歴史問題でなくとも、血液型性格判断などについても言える。血液型性格判断は擬似科学であり、4月6日のエントリーでは可能性として述べたが、韓国では実際にB型男性に対する差別が問題になったように、差別的言動につながるような人々の不当なカテゴリー化を行っている。血液型性格判断の出版は法的に禁止すべきか?そうはならない。誤って偏った言論であれ、それを禁止するのではなく、徹底的な批判の対象とすることにより、尊敬されない言論とし周辺においやり、さらになぜ誤りが起きるかの分析の対象とすることもできる。実際、血液型性格判断における誤りは、不十分な統計データ、バーナム効果、確証バイアス等、批判的思考(Critical Thinking)における失敗のケーススタディーの対象として使うことが可能である。問題があるとすれば、擬似科学を禁止する法的権力の不在ではなく、擬似科学への批判をまともにとりあげないメディアの知的水準の低さと無責任にある。以前、オカルト番組の司会者が、オカルトを否定する科学主義の人は、固い心の人だなどと情緒的な訴えをしていたのをきいたことがある。こうした擬似科学やオカルトへの最良の処方箋は、批判的議論の推奨であって、権力による法的禁止ではない。擬似科学やオカルトは、法的禁止によって根絶させるのではなく(例えば、現在は裏付けがなく擬似科学あつかいの代替療法などであっても、将来、新しい根拠を得て、批判的吟味に耐え、復権をとげる可能性がないわけではない)、批判的議論によって公共的言論の周辺の尊敬されない場所に押しやれば十分である。これが、自由言論の原則である。
  差別的発言についても同じ事がいえる。差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある。歴史的被害者グル-プが認定したものだけが差別ではない。正当な批判と不当なカテゴリー化の線引きもつねに明確な訳ではない。また、人の心を傷つけるような発言を好んでする人は常にいる。そして社会から対立がなくなることはない。歴史的被害者グル-プに認定された差別への反対や優しさを唱える人も、当該集団に該当しない人の心を傷つけるような発言を平気でしたりする。ほとんどの人間は悪魔でもなければ、天使でもない。人の心を傷つけるような発言はほめられたことではない。しかし、人間社会では避けられない事である。これを法的措置によって排除しようとするなら、ローチが指摘しているように、自由言論の原則を決定的に損なってしまう。人の心を傷つけるような差別的発言に対しては、自由な言論を通じた批判と尊敬の撤収によって、軽蔑すべき言論として周辺においやれば良しとしなくてはならないし、すべきなのは、そのための言論の努力であって、公権力による法的な措置ではない。

(2)差別的発言の認定を中立公平に行うことは不可能である
  差別につながるような人々の不当なカテゴリー化は無数にある事、一般的な批判や否定的評価と、特定の者に対する差別的言動を明確に分離することは難しい事(5月19日のエントリーで述べた)を併せ考えると、差別発言を公的権力が中立公平に法的に取り締まることなど、ほとんど不可能に近い事が分かる。
 「「嫌がらせ取り締まりの当局者は、中立的であるだろう。」他の言葉でいえば、公正な権威が設立されたら、批判は公正に規制されうるというのである。お生憎さま。この希望はまやかしであり、しかも記録は、全く酷い。・・・・・・・・およそどんな意思決定の委員会でも、必然的にある傷つけられたグループを他のものより依怙贔屓することにならざるをえない。中立性なんて、原理上でさえ不可能である。それを認めた上で、人の気を害してはならないとする人たちのあるものは、批判や意見の制限は、たとえ誰であれ、「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるとすでに断言している。」(ローチ(1993)、pp.224-225)
  日本の状況もローチ氏の指摘に近いようである。ただ「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるなどという身も蓋もない発言ではなく、言葉による誤魔化しがこころみられているようだ。実際、古賀氏の「すべての人の人権をまもる。自民党の統治能力が問われている。」という趣旨の発言における「すべての人の人権」は、これが本当に何を意味しているのか、まともに考えてのものだろうか。たんなる枕言葉かブラックジョークにしか聞こえない。サラ金などの被害で経済的理由の自殺の道に追い込まれた人々、カルトの被害者の人々などの人権は、由緒ある歴史的被害者グル-プに入っていないので、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか。そして、由緒ある歴史的被害者グル-プによるあきらかな人権侵害については、擁護すべき人権としてリストアップされているのだろうか(http://blog.so-net.ne.jp/takamori/)。

(3)公権力が私人間における人権侵害とみなされる個人の発言を法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても問題がある
  この点については、4月15日のエントリ-にトラックバックをいただいたSasayama氏の4月24日のエントリー(http://www.sasayama.or.jp/wordpress/index.php?p=266)に分かりやすい解説があったので、その終わりの部分を引用したい。
「この日本の人権擁護法案について、アムネスティーは、前回の廃案前の段階で、次のようなコメントを出している。http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2002/021102.htm 参照
  「公権力による人権侵害は、他の私人間における人権侵害とその構造が根本的に異なる。これを同列に扱うことは、自由権規約委員会からの指摘を無視しているだけでなく、国内人権機関が当局の権力の濫用を防止することを主たる目的として考案された制度であることを全く考慮していない」
  つまりは、このアムネスティの見解の意味するところは、「公権力といえども、指弾される立場にありうる。」がゆえに、「人権委員会なるものが、法務省の外局にあって、しかも、それが、乱用されかねない強力な権限を有している。」ということへの懸念なのであろう。
このような見てくると、つまりは、この人権擁護法案なるものは、当初から枝葉末節の議論に振り回されて、擁護すべき人権が不明確のままに、いたずらに、「人権警察」を、アムネスティの及ばぬところで強化するものに過ぎないものと、私には、思えてくるのだ。」
  また、pochisensei氏のブログでは、諸外国の国内人権機構を比較し、5月24日のエントリー(http://blog.goo.ne.jp/pochisensei/e/d99264fd5b9d201f7e8ccf2d996c1f34)で、以下のように述べている。
  「(a)「人権擁護法案」は私人間の個別的な人権侵害事案を扱う権限を「人権委員会」に与えています。これは主に英米法系の諸国に見られることで、問題はありません。しかし、その対象が「表現の自由」に関する事項に及んでおり、これは外務省の一覧を見る限り、他国にほとんど例を見ないものです。
  (b)しかも、「人権擁護法案」によれば、「人権委員会」は「表現の自由」に関する事項についてまで、強制調査権限や司法手続きへの参加権限などが与えられており、これまた他国にはほとんど例を見ないものです。」
  以上のように、私人間における人権侵害とみなされる個人の発言に公権力が介入し、法的処置の対象とするのは国際的な基準からみても、例外的らしい。たしかにここでは、古賀氏の言うように「すべての国民の言動に介入する、我々仲間の統治能力が問われている」のかもしれない。

異端審問官

2005年05月21日 | 人権擁護法案
  ローチ(1993)「表現の自由を脅かすもの」角川書店("Kindly Inquisitors:The New Attack on Free Thought. ")は数年前に本を買って読んだのだが、見あたらないので、なさけない事に、図書館で借りてきた。そのまま訳せば、「親切そうな異端審問官達:自由思想への新たな攻撃」とでもなるだろうか。Kindだと親切な心根のという意味だが、Kindlyだといかにも親切そうなという感じになる。多くの実例をまじえて、思想的背景の解説もふくめて、非常に明解に書かれているので、一読を勧めたい。以下、私なりの観点から、同著の主張の要点を示してみる。
(1)自由な科学と言論が自由社会の基盤である。自由な科学と言論の要となるのはロックからヒューム、ポパーにいたる可謬主義の認識論に基づく自由主義の原則である。自由主義の原則では、全ての人間は誤りうる存在であり、誤りから自由な人間は存在せず、自由な批判と検証を通じた誤りの除去を通じてのみ、我々の社会は真理に近づくことができると考える。自由主義の原則は、公共的な知識の向上をはかり、誤った不適切な考えの悪影響を防ぐ上で、大きな成功を収めてきた。
(2)自由主義の原則に対立して、自由な科学と言論の敵となってきたのは、教会や全体主義的国家等における原理主義である。これらの原理主義においては、何を真理とみなすかは様々だが、特定の人間の判断やテキストに誤らない最終的な真理が示されていると考え、それへに背くことを、社会的、法的に断罪し、根絶をはかろうとするという点では共通している。イスラムや新興宗教、政治運動などに見られる、種々のファンダメンタリズムも、これらの現代版である。
(3)近年、自由主義の原則に対立して、自由な科学と言論の敵として新たに現れたてきのが、急進平等主義や人道主義の立場からの主張である。急進平等主義の立場では、歴史のなかで特に抑圧されてきた階級や集団に属する人々の信念に特別の配慮を払うべきだと要求する。人道主義の立場では、人の気持ちを傷つける言論の自由は許容されるべきではないと要求する。この二つの要求は、誰でもが自由に意見を述べ、批判、検証することによって真理に近づこうとする自由主義の原則を決定的に損なってしまうという点では、原理主義と同じく、自由社会の敵である。
  ローマ・カトリックの異端裁判から3世紀半の後において、「科学は抑圧であり、批判が暴力であるといった考え方が力を得、討論や調査を中央から取り締まる事が、まともなやり方だという考えに戻りつつある。----ただし今回は、人道主義的仮面を付けて。アメリカ、フランス、オーストリア、オーストラリア、その他のところで、人に害を与えるような誤った意見を持つ人々は社会の利益のために罰せられるべきだという「異端裁判」の古い原則が返り咲きしつつある。そうして、そうした人々を監獄にぶち込むことができないならば。職を失わせる、組織的な非難中傷の矢面に立たせる、謝らせる、意見の撤回をさせるようにすべきである。政府で罰せられないなら、私的機関や圧力団体、つまり思想監視の自警団がそれをやるべきであるという。」(同著p14)
  自由主義の原則の元で、人に害を与えるような誤った意見、人の心を傷つけるような差別的発言をどう扱うかについては、また次に述べる事にしたい。

差別的とされる言論の構造について

2005年05月19日 | 人権擁護法案
  自民党・法務省による人権擁護法案では、特定の者に対してという限定があるので、一定の集団に対する一般的な批判や否定的評価そのものは問題にしておらず、言論の自由に対して危惧される悪影響はないとする意見がある。たしかに、特定の者に対してという限定は、ある方がないよりずっとましである。しかし、差別的とされる言論の構造からすると、一般的な批判や否定的評価と、特定の者に対する差別的言動を明確に分離することは難しい点に注意する必要がある。
  個人に対する差別的とされる言動は、単なる個人に対する不当な否定的な評価ではない。個人を特定の集団の成員にカテゴリー化する事による、不当な否定的な評価である。一般的に表現すると次のようになる。
(1)AはXに属するのでpである。
(A:特定の個人、X:人種、出身、性などで規定される集団カテゴリー、p:否定的属性)
(1)の言明が不当であると判断されれば(誰がどういう基準で不当と判断するかはここでは問題としないことにする)、人権擁護法案では差別的言動にあたる。
 これに対し、
(2)Xはpである。
(2)の言明が不当とされても、人権擁護法案では差別的言動にはあたらない。
 この事から、人権擁護法案では一定の集団に対する批判や否定的な言及は、仮に不当とされても、差別的言動としては法的措置の対象とはならないとされる。これは、直接的にはそうかもしれない。
 しかし、ここで(3)の言明を考える。
(3)AはXに属する。
 (2)と(3)が成立すれば、(1)も成立する事になる。Aの立場からすれば、ある人が(2)と(3)の言明をしたら、(1)の言明と同等とみなすのは当然のことである。ここで注意すべきは、(3)の言明は必ずしも明示的になされる必要はなく、暗黙の了解事項と見なしうるケースが多い事である。例えば、Aを花子、Xを女性とすると、Aを面識のある人との間なら(3)は明示的言明なしにも暗黙の了解事項として成り立つ。他の集団についても同様なケースは少なくないだろう。そうすると、明示的には(2)の言明のみでも、人権擁護法案では差別的言動と認定されうる事になる。
 以上のように、差別的とされる言論の構造を見ると、自民党・法務省による人権擁護法案が、一定の集団に対する一般的な批判や否定的評価の言論に対しては、法的な影響を及ぼさないなどとは言えない。

人権様

2005年05月14日 | 人権擁護法案
A.「びっくりやねえ。世間をさわがした、サカキバラがつかまってみれば、中学三年生なんやから。」
B.「いや-。ほんま-。びっくりしたわ-。」
A.「とんでもない中学生やな。赤のサインペンで、人の名前を間違えるなどとても愚弄なことだとか、書きよって。添削の先生はどうなるんや。黒ペン使わなあかんやないか。黒ペン先生なんてきいたことあるか。郵便番号かて、赤でかいたら機械が字よめへんやないか。すこ-しは、物の道理ちゅうか、相手の立場ちゅうもん、かんがえてもらわなあかんわ。ほんま、おそろしいがきや。」
B.「そういう問題やないやろ。人殺したんやで。首きったんやで。猫や、鳩もころしたんよ。前歯だっておったんやで。猫の舌を切って瓶詰めにしたんやで。」
A.「こら、こら。唾とばすなって。ここにわいが特別に手にいれた、サカキバラの写真があるんやけどみたい。」
B.「えっ。みせてくれんの。こわいなあ。でも、みたいなあ。」
A.「やはり、みせられまへんな。」
B.「えっ。なんで-。」
A.「なんちゅうか。人権やからね。」
B.「人権?」
A.「そうや人権。」
B.「人権ってなんなん。」
A.「人権ちゅうは、え-っと、とにかくあかんのや。」
B.「そんなこといわんといて、みせてえな。」
A.「そうか。おまえ、ちょいと、わいの悪口いってみ。そしたら、みせたる。」
B.「ええんか。じゃあ。おまえのかあちゃんでべそ。」
A.「あっ、あっ、とうとう人権侵害してもうた。た、たいへんなことしてしも うたな。」
B.「なにが、たいへんなん。あほちゃう。」
A.「うわっ。うわっ。また。連発や。これは、えらいこっちゃ。おまえ、もうあかんで。たいへんなこと、しでかしてしもうたな。なにか、いいのこすことはな いか。」
B.「ちょっと、まちいな。なんや、さっきから、その人権侵害ちゅう-のは。」
A.「じゃ-。冥土のみやげに、おしえたるわ。よ-、きいとけよ。」
B.「よ-、きくさかい。おどかさんといてえな。」
A.「うちのおじいちゃんのいうには。人権様ってのはこわいんやて。だから、眼 をつけられんようにしときって。」
B.「ふ-ん。」
A.「戦前の憲兵みたいなもんやって。」
B.「憲兵?」
A.「憲兵ちゅうは、サ-ベルしてて、あっちまわったり、こっちまわったり、いろいろしらべては、おまえ、こんなこというとったんか、かいとったんか、けしからん、こっちこいちゅうて、ひどいめにあわせたんやて。むちゃ、こわかった んやて。」
B.「どんなこというたん?」
A.「竹槍なんかでは飛行機でくる敵はふせがれへんとか。天皇は神ちゃうとか。」
B.「え-っ。そんなん。あたりまえやないけ。」
A.「あかんの。あかんの。憲兵様がゆるさへんの。」
B.「むちゃくちゃやなあ。たいへんやったんやなあ。」
A.「おまえ。なんか、ひとごとのようやな。」
B.「えっ。」
A.「さっき、おまえ、なんてゆうた。」
B.「べつに。」
A.「べつにやないやろ。さっさっと、はかんかい。証拠はあがってんのやからな。 しらきるのもいいかげんに せえ。」
B.「ちょっと、まちぃな。」
A.「おまえ、さっき、えらいこというてしもうたんやで。おまえのかあちゃん× ××とか。××ちゃうとか。 人権様がゆるすとでもおもっとんのか。」
B.「なんで-。でべそがあかんの。あほがあかんの。」
A.「あ-っ。あ-っ。また人権侵害しよった。こらっ。あやまれ。あやまれ。人権 様おゆるしを。どうか、おゆるしを。」(Bの頭をつかんで、何度も、無理矢理 おしさげる。)
B.「ごめんなさい。ごめんなさい。」(Aの勢いにおされ、あっけにとられて。)
A.「おまえ、ちょっと教育せなあかんな。このままやと、おまえ、とりかえしぃ のつかんことになりよるで。人権様おこらしたら、どげぃなことになるか、ちょ っとおしえたらんとあかんな。」
B.「・・・・。」
A.「ええか。さっきおまえ、おまえのかあちゃん×××とか言うたな。かりにや。 これで、かあちゃん××× 同盟とかあったとしいや。」
B.「はぁ。」
A.「おまえ、えらいことになるんやで。同盟のえらいさんがくるわな。おまえの 人権侵害の調査や。そのうち 糾弾がはじまるで。おまえ、いたたまれんようにな るで。あやまって、あやまって、あやまって。まあ、おられんようになるやろな。 」
B.「なんか、こわいなあ。」
A.「とにかく、おまえはだいそれたことしでかしたんや。わるいことはいわん。 人権様にはさからわんこっちゃ。わかった?」
B.「うん、なんかわかってきたような気ぃする。ところで、かあちゃん××× 同盟って、どこにあるん。おまえのかあちゃん、はいっとんの。」
A.「わからんやっちゃなあ。たとえばのはなしやんけ。」
B.「ふ-ん。じゃあ、なにがあかんの。」
A.「ええか。それは、人権様のきめるこっちゃ。おまえのきめるこっちゃない。 人権様があかんというたらあかんのや。××とか×××とか×××は絶対にあか んな。×××とか×××とか、××、××××、××× ×、×××××なんかも あかんやろな。せいぜい注意しいや。政治家や官僚や学校の先生は、ぼろくそに いうても、かまわんやろな。人権様、かえって、よろこぶかもしらんしな。」
B.「ふ-ん。なんか、まだ、ようわからんな。」
A.「まあ、とにかくや。まわりをようみることや。みんながだまったら、おまえもだまる。それがいちばんや。けしかりませんねえいうたら。けしかりません ねえというんや。おまえ、相槌はとくいやろ。わて、相 棒とおもって、ここまで いうとんやで。」
B.「うん。だいぶわかってきた。やっぱり、相棒はありがたいな。」
A.「よし、それじゃ、ごほうびや。サカキバラの写真、ちょっとだけみしたる。」
B.「え-っ、どれ、どれ。」
A.「これや。」
B.「へえー、これかー。なんかふつうぽいな。ちょっとつり目やな。あれっ。このとなりのたれ目。あんたとちゃ う。あんた、サカキバラのしりあいやったん。」
A.「そや。酒木原とは高校のときからの友達や。」
B.「えっ。高校?」
A.「そやから、神戸のサカキバラの写真とはいうてへんやろ。」


ずいぶん前に書いた漫才のネタである。私の考えでは、人権擁護法案の一番の問題点は、言論も法的措置の対象にしていることである。お上に従順な日本人の国民性を考えると、言論の萎縮効果が抜群で、さわらぬ○○にといった風潮が強化され蔓延する事が危惧される。法的措置と言っても強いものではないという意見もあるが、付随する社会的効果も併せて考えると、ある種の確信犯には効果はないのにたいし、そうではないより一般の人々への萎縮効果や影響が大きいということになってしまうだけである。

知の戦争(1975-2000)(1)---脳の性差と自閉症について--

2005年05月08日 | 思想・社会
 連休はパソコンを持たずに田舎で過ごし、しばらくメールともネットとも無縁の生活を送った。直接仕事に関係しない本もいくらか読めた。

林間の緑明るきブナの森

 もう半月も更新してないので、読んだ本に関連してすこし備忘を書いておくことにしよう。読んだのは、「共感する女脳、システム化する男脳 」と「社会生物学論争史」である。
 男脳、女脳については、一般向きの本がいくつか出されているが、「共感する女脳、システム化する男脳 」は、自閉症を心の理論の観点から研究してきた、第一線の認知科学者による本である。読みやすいし、診断テストも面白いので、おすすめである。
 心の理論というのは、他者の意図や表象に関する理解を可能にする認知能力のことで、誤信課題によって確認できる。誤信課題は、他者が実際と違った表象を持っていることを理解できるかのテストである。例えば、こんなふうにする。「太郎が部屋に入ってきてジュースを冷蔵庫に入れました。太郎は部屋を出ていきました。花子が部屋に入ってきて、冷蔵庫にあったジュースを出して、近くにあったカゴの中にいれました。花子は部屋を出ていきました。太郎がジュースを持ちに部屋に入ってきました。太郎は、冷蔵庫とカゴのどちらをさがすでしょうか?」大人なら冷蔵庫と答える。しかし、4才以下の子供は、カゴと答える。太郎の視点から、太郎がどういう表象を持っているかを理解する心の理論が未発達だからである。身近に、4才以下の子供がいたら試してみると面白い。
 自閉症は、物理的因果関係の理解には問題がないが、誤信課題の成績が特異的に悪い。他者の意図や表象の理解の能力が極端に乏しく、このため言葉の発達も遅れる。「自閉症とマインド・ブラインドネス 」バロン=コーエン(1995) 青土社は、心の理論の観点から自閉症について扱った好著である。精神分析が盛んだった頃、自閉症は、幼児期の体験が原因であるとされ、親の情愛に欠けた子供への接し方が問題になったことがあった。現在は絶版になっているが、「自閉症・うつろな砦1、2」ベッテルハイム(1967)みすず書房、はそうした立場からの本である。たしかに自閉症児に対して親の対応は他の子供とは違いもあるらしい。しかし、これは、「子育ての大誤解:子どもの性格を決定するものは何か」ジュディス・リッチ・ハリス(1998)早川書房によると、むしろ子供の素質による反応性の違いが原因で、自閉症の原因を親の養育態度の求めるのは困難である。自閉症にはいくつものタイプがあり単一の原因を想定するのは難しいかもしれないが、研究の現在の段階では、脳の発達に関する器質性の問題が主因である事については認識が一致しており(「自閉症とマインド・ブラインドネス」では、心の理論に関する、視線検出や表象理解などのサブモジュールと関連する脳の部位が検討されていて、なかなか面白い。)、自閉症の主要な原因を親の養育態度に問題を求める研究者はいない。
 自閉症で興味深いのは、男女比で、男10に対して女1くらいの割合で圧倒的に、男性に多い事である。日本のフェミニズム運動に大きな影響力を持っている社会学者の上野千鶴子氏は、「マザコン少年の末路 : 女と男の未来」上野千鶴子(1986)河合ブックレット で、自閉症が男児に多いことを例に、母子密着の病理として自閉症を取り上げた。これに対し、自閉症を持つ親などから批判がなされた。自閉症の主要な原因を親の養育態度に求めるのは、分裂病性母親の説などと同じく、「blaming the victim in the heyday of psychoanalysis」(Edward Dolnick.(1998))と言える仕打ちであり、こうした精神分析的な説明の妥当性が学問的にすでに崩れた状況で、このような言動を続けるのはもはや許される事ではないから、当然の対応である。こうしたまっとうで、しかも自閉症の親というつらい立場に置かれた人からの批判を、フェミニズムの理論家であり東京大学教授の上野氏がどうはぐらかしたのか、黒木玄氏のサイトに解説があるので興味のある方は参照されたい。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Tmp/mothercom.html
 バロン=コーエンの本にもどると、「共感する女脳、システム化する男脳」では、心の理論を中核として発達する共感能力と物の組織的操作を中核として発達するシステム化能力を対比させ、女と男の能力の違いを共感する女脳とシステム化する男脳(集団としての差なので、個人個人について見れば、共感がドミナントな男性も、システム化がドミナントな女性もいる。)として集約している。そして、自閉症を、共感能力が特に低く、システム化に偏った、超男性脳の持ち主として位置づけている。本の原題「The essential difference」にあるように、この主張は、かなり大胆だが、男女の脳の違いを自閉症における性差との関連で集約した仮説としては、良い線をいっているように思う。前の世代の研究者は、「女の能力、男の能力 : 性差について科学者が答える」ドリーン・キムラ(1999)新曜社におけるように、男女の脳と能力の違いについて、着実に実験的事実を積み重ねた。(3、4年前の事になるが、知り合いの女性の脳研究者が、性差別に関する人権問題の委員会に出席して、何気なしに脳の性差に関する発言をしたら、一瞬、一同凍りついたような雰囲気になった、あそこは行きたくないという話しをきいた事がある。)そこからすると、The essential differenceというのは、かなり大胆だが、こうすることによって、自閉症との関連づけが明確になり、また、進化の過程における男と女への淘汰圧の違いの検討といった進化心理学的な展望も開けたのは利点である。質問紙による共感指数テスト、システム化指数テストもあるので、ためしにやってみると面白いだろう。これは一般に出回っているたぐいの心理テストではなく、研究にも使われているものだが、共感能力や、システム化能力をはかるには、自己判定の質問紙だけではやや弱い感じはする。眼から感情を読みとるテストも、西欧の女優さんや男優さんのいろんな眼の表情があって楽しめる。ただ、眼の表情については文化差もあるように思う。バロン=コーエンの主張の中心部分は大胆だが、性差別者とのレッテルを貼られるのをさけるためか(バロン=コーエン自身、90年代にはこうした本は出せなかっただろうと言っている。)、本の周辺はおそろしく用心深い。自分はカウンセラーだから女性的な脳の持ち主で、周囲には女性のエンジニアがいて、たよりっきりだなどとエクスキューズに余念がない。エソロジーの創始者の一人のローレンツがナチを批判しなかったのは、また、ショックレーの優生学発言は、彼らが共感能力に低かったからなどと、逆の方向の差別ともうけとられかねない発言までしている。(社会的な差別的行動があったとして、その原因を、単純に個人の共感能力にのみ求めるのは、集団力学の重要性の理解が全く欠けており、適当でないと思う。)この本を書くのに数年かかったと書いているが、バロン=コーエンさんにも色々あったのかなと思ってしまった。
 ここまで書いたところでだいぶ長くなってしまったので、「社会生物学論争史」については、次の機会に書くことにしよう。最後に全体の位置づけに関して簡単に記す。
 20世紀最後の四半世紀、欧米では、自然科学といわゆる人文・社会科学のはざまの領域で、いくつかの大規模な論争が戦わされた。社会生物学戦争、記憶戦争、科学戦争などである。下に私が持っている関連する基本図書で論評を予定しているものをリストアップした。これは、人間観、社会観にかんする知のヘゲモニーをめぐるものである。今回は、社会生物学戦争の流れのなかの、脳の性差について、記憶戦争とかかわる自閉症について「共感する女脳、システム化する男脳」を取り上げた。言論の自由と自由科学の重要性については、機会をみて、ローチ(1993)「表現の自由を脅かすもの」角川書店("Kindly Inquisitors:The New Attack on Free Thought. ")などを紹介したい。

(1)社会生物学戦争(Sociobiology Wars/Darwin Wars)
「社会生物学」エドワード・O・ウィルソン(1975)思索社
「The Adapted mind : evolutionary psychology and the generation of culture 」Jerome H. Barkow, Leda Cosmides, John Tooby. eds. (1992) Oxford University Press.
「社会生物学論争史―誰もが真理を擁護していた(1)(2)」ウリカ・セーゲルストローレ(2000) みすず書房
「社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか 」 ジョン オルコック(2001)  新曜社
「人間の本性を考える : 心は「空白の石版」か」スティーブン・ピンカー(2002) NHKブックス
*「共感する女脳、システム化する男脳 」サイモン・バロン=コーエン(2003) NHK出版

(2)記憶戦争(Memory Wars/Freud Wars)
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン(1992)みすず書房
「抑圧された記憶の神話 : 偽りの性的虐待の記憶をめぐって」E.F.ロフタス, K.ケッチャム(1994)誠信書房
「The memory wars : Freud's legacy in dispute」Frederick Crews,et,al. (1995)New York Review of Books. 
「Madness on the couch : blaming the victim in the heyday of psychoanalysis」Edward Dolnick.(1998)Simon & Schuster
「危ない精神分析 : マインドハッカーたちの詐術」矢幡洋(2003) 亜紀書房

(3)科学戦争(Science Wars)
「「知」の欺瞞 : ポストモダン思想における科学の濫用」アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン(1997)岩波書店
「The Flight from Science and Reason」Paul R. Gross.et.al.(1997) New York Academy of Sciences.
(翻訳本の場合、著者名のあとの年号は、すべて、元の本の初版出版年度である。)