道端鈴成

エッセイと書評など

「赤福―老舗よ、お前もか」って

2007年10月21日 | 時事
自宅の庭先の縁側で河端が新聞を読みながらお茶をすすっている。
河端「<赤福―老舗よ、お前もか>うむ。どうも。情けないな。」
そこへ、道端現れる。
道端「ちわ。」
河端「なんだ。道端君か。急に出てくるな。びっくりするじゃあないか。」
道端「先輩、なんか面白そうなの読んでますね。」
河端「白い恋人に続き、赤福も、賞味期限の切れた食品を販売だ。なさけないよ。」
道端「そうすっか。赤福だって長いこと再利用してきて、食中毒とか問題なかったんですから。まさに老舗ならではでしょう。それに、味は、落ちるかもしれませんが、消費者だって気がつかなかったのだし、目くじらたてるようなことじゃないっすよ。数々の誤報、捏造で社会におおいに被害を与えてきた朝日が、どの面さげて言うかですね。赤福の再利用問題なんて、マスコミの誤報、捏造、世論誘導の害に比べたら、鼻くそにもなりませんよ。」
河端「またそっちへいったか。」
道端「いえ。今日は、生きる力と食育の問題について語ります。」
河端「生きる力?」
道端「はい。ゆとり教育では、生きる力という事が言われました。ゆとり教育を推進した寺脇氏は、その後文化庁で日本のロマンポルノを韓国に紹介するなど得意の映画を通じて韓日文化交流に尽力され、官僚を退職後は大学教授として国際コリア学園の理事となり推薦の辞をよせていたりしています。国際コリア学園は、学力重視で土曜日も授業をするとうたっています。寺脇氏ほどの人物が立場を変えたということではないでしょう。寺脇氏が推進したゆとり教育は、まさに国際的戦略にもとづいてのものだったのかもしれません。有馬氏は、大臣として、ゆとり教育推進のシャッポになったわけですが、最近では、講演で、ゆとり教育は学力低下の原因ではないと、必死になって主張しているそうです。」
河端「有馬氏は物理学者だったわけだし、ゆとり教育が学力の低下をもたらしたという理科系の研究者の批判がこたえているのかもしれないな。しかし、肝心のゆとり教育の目標はどうなったんだ。」
道端「そこです。授業時間を減らして、学力は低下しましたが、意欲も、考える力も、生きる力も、増したという報告はありません。Benesse教育研究開発センターの国際比較では東京の子供は他の国の子供に比べて「勉強が役に立つ」という意識が最も弱いようです。また国際学力比較でも、あいかわらず応用問題、文章題の成績が芳しくないことが報告されていたと記憶します。生きる力については、どうやってはかるのか定かではないですが、よりたくましくなった、強くなったとは言いにくいと思います。ようするにゆとり教育は無惨な失敗だったと思います。」
河端「どうしたら良いのだ。」
道端「安倍内閣が行ったゆとり教育見直しと基礎学力重視の方向付けは、遅かったとはいえ、間違えた路線の修正として評価できます。考える力をはぐくむには、総合的学習なんていう教師任せの気休めではだめです。西欧がレトリックやクリティカルシンキングなどでやってきたことを、日本語で、事実と意見の区別から始めて、国語教育の再編も含めて、カリキュラムを作り直さなければだめです。意欲は社会のありかたも関係してきます。ここでは生きる力をどうはぐくむのか、食育に関して考えを述べたいと思います。」
河端「やけに真面目だな。道端君。大丈夫か。」
道端「はい。大まじめです。生きる力の基本は、食べる事です。人間は、食べなければ生きられません。我々はどうかすると、食べ物が、スーパーや店、冷蔵庫から出てくるかに錯覚してしまいますが、実際は、植物や動物から作られた物です。農業や漁業、牧畜、食品産業、流通など文明のしくみが提供してくれるものです。賞味期限ぎれの食品をマスコミが騒いでいます。しかし、同じ期日でも、保存状態によってはまったく中身の状態は違うでしょう。ラベルをだけ見て、実際の匂いや味で、確認しようとしないのは、生きる力の欠如だと思います。」
河端「たしかに、道端君の生きる力というか、食べる力は半端じゃないからなあ。しかし、賞味期限ぎれの食品を売るのは、法律的には問題だし、信義に反するよ。」
道端「はい、それが文明社会のしくみです。しかし、文明社会のありがたさを知るためにも、それがどんな基盤の上に立っているかを実地で知った方が良いと思います。狩猟採集民は大変な苦労をして食物を手にいれました。昆虫も食用にしてます。子供に狩猟採集民の生活を経験させろとは言いませんが、自然で実際に食べ物を採取する経験はさせるべきです。食べられるもの、毒になるもの、その区別がいかに大切かを、指導者のもとで実地に経験すべきです。価値の場と生き甲斐で述べましたが、子供には欠乏も経験させるべきです。大人も含めて、我々は、文明社会に依存しきって感謝の気持ちを忘れた、わがままな甘えっ子みたいになっていると思います。」
河端「そうかもしれんな。ところで、ここに冷凍保存した赤福をもどしたのがある。なかなかいけるよ。お茶のあてにどうだい。自然派の道端君は、そこの庭に落ちてるドングリの方が良いかな。」
道端「いえ。赤福いただきます。」

バカマンガと低能マンガ

2007年10月04日 | 言葉・芸術・デザイン
マンガを好きで良く読む。マンガは基本的にはデフォルメ、誇張である。人物は特徴をカリカチュア化して描かれるし、感情や動作も誇張して表現される。登場人物も、規格を外れているのが多い。日本マンガを代表する二人の巨匠、手塚治虫の代表的登場人物はロボット、水木しげるは妖怪である。動物が主人公のマンガも多い。ふつうの人間が出てきても、超人、低人など、恐ろしく誇張したキャラクターである。要するにマンガの登場人物は、ある種の化身なのである。

文章で同じ事をやると荒唐無稽すぎて、感情移入できなくなってしまうが、絵だと、視覚的にそこにあるというリアリティーもあって、世界がなりたってしまう。また、化身には読者と共有出来るある種の価値や考えが投影されるし、マンガ家は、作画に時間がかかるので、相当の時間をその世界の表現に没頭してすごさなくてはならない。あれだけ荒唐無稽なのにもかかわらす、マンガ世界に没入が可能なのは、この辺の事情によるのだろう。

谷口ジローの私小説、あるいはドキュメンタリー映画のような作品、高野文子の実験映像のような作品も好きだが、マンガの王道はやはり荒唐無稽のリアリティーだと思う。最近読んだのでは、三宅乱丈の「大漁!まちこ船」、山口貴由の「シグルイ」、望月峯太郎の「万祝」などが面白かった。ある種のバカマンガということになるかもしれないが、没入できるバカマンガを書くには相当な才能が必要なようだ。島木和彦の「燃えよペン」などを読むと、バカマンガにあこがれながら、離陸できないもどかしさを感ずる。

一方、社会的に重要なテーマをかかげ、賢いことを言おうとするマンガもある。手塚のように頭の良い作家がやれば、「アドルフに告ぐ」やいくつかの医療ネタの作品のように、マンガとしての面白さを保ちながら、見事にこなす。プロットの組み立てなど小説家顔負けである。楳図かずおは、「私は真悟」など大テーマで複雑なストーリーを書くと、手塚ほど頭が良くないので、プロットが破綻をきたす。しかし作品には、圧倒的な表現力と思いこみの力がこもっており、マンガとしては無視できない怪作になる。

どうしようもないのが、複雑なプロットを上首尾に組み立てる頭もなく、バカマンガの表現力もない作品だ。最近の作品では、たとえば、「ホムンクルス」「イキガミ」などがその例だ。「ホムンクルス」は始まりのトレパネーションあたりは少し面白いかと思ったが、深層心理の画像化など、陳腐でつまらない。深層心理だの精神分析だのサイエンスでも何でもないのだから、ハチャメチャに遊んでくれれば、楽しめるのだが、深刻そうな雰囲気というか語り口が、頭が悪いというかうっとうしい。「イキガミ」も状況の設定が甘すぎる。絵空事を書くのだから、もうちょっと頭を使ってほしい。結局は、安っぽい感動のヒューマンドラマのオムニバスになってしまっている。佐藤という外交評論家が、この作品に感心したようなことを話していたが、この評論家も頭が悪いのかと思った。この種の作品は、バカマンガではない。低能マンガである。

私は、バカマンガは人がなんと非難しようと好きだが、低能マンガは別だ。