道端鈴成

エッセイと書評など

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Never in Anger

2006年08月31日 | 心理学
  怒りは、悲しみや嫌悪などと同様、否定的感情に分類されるが、より複雑なところがあるようである。アリストテレスは弁論術で、怒りの発散は力の感覚をともない快であると述べている。Davidsonは脳の前頭前野の左側の活性化が接近行動の関連した肯定的感情に、右側の活性化が待避行動の関連した否定的感情に関連している事を多くの実験で示しているが、怒りの場合は前頭前野の左側の活性化が示されたという報告もある。若い世代の日本人の場合、怒りの必要性についてきいてみた経験では、怒りは冷静さを失った敵対的対応なので、できたらないほうが良いという意見と、間違いや不正に対処するための時には怒りが必要だとする意見に、およそ半々くらいに分かれる。
  目標追求への妨害に対する不快反応と妨害源への攻撃といった怒りの基本反応は幼児にもみられ、人類に普遍的なものである。大人になると各文化が水路づけた方向性が強く影響してくるようになる。一方には、ある状況における特定のタイプの怒りを固定化し文化に組み込む場合がある。例えば、フィリピンのイロンゴットにおけるリゲット(通常「怒り」と訳されるが、首狩りにおける力の感覚の獲得も含んだより複雑なものである。)、インドネシアのブギスにおけるシリッ(通常「恥/名誉」と訳される。恥を与えられたならば報復して名誉は回復されねばならない。この報復をも導く感情がシリッである。)、韓国における火病(ファビョン)(韓国の民俗的症候群で、英語では“anger syndrome”(憤怒症候群)」と訳されている。DSM‐IV‐TR精神疾患の診断・統計マニュアル(2002年 医学書院刊) p836参照)など、文化特有のラベルのつけられたものもある。もう一方には、怒りを極力抑制する文化もある。こうした文化では怒りは子供っぽい不適切な感情と見られる。エスキモーなどがその典型例である。
  BriggsはNever in Anger: Portrait of an Eskimo family.で、カナダのハドソン湾の北に居住するUtkuのエスキモーの家族と1年5ヶ月過ごした経験をまとめ、エスキモーの社会では怒りを表情にさえ示さないことが分別ある大人としての美徳と考えられ、実際にもそう行動していることを報告している。彼女は、Utkuのエスキモーの言葉を解したので、夏に来る白人の釣り人との通訳も勤めた。白人の釣り人達は、エスキモーに対し、傍若無人に無礼に振る舞った。Briggsにとっては、同じ白人であっても釣り人達の行動は不愉快なものだった。しかし、エスキモー達は辛抱強く決して怒りを見せず従順に釣り人達に接しつづけた。事件は、たった二槽しかないカヌーを白人の釣り人達が借りようとした時に起きた。
 「私は、Inuttiaq(エスキモーの長)に白人たちにカヌーを貸したくないと言ってもそれに気を悪くすることはないだろうということと、もしあなたが望むなら私が彼らに話してもよい、酔っ払ってカヌーを壊されるかもしれないし、と言った。すると、Inuttiaqは、「私はカヌーを貸したくはない。カヌーで魚を獲りたいし、彼らが貸してほしいといってもだめだ。」と強く答えた。私はそれを文字通りに解釈した。
 予定通り、また釣り人は来て、Utkuは一番いいInuttiaqのカヌーを貸さなかった。Palaのカヌーは貸したが、少し水漏れした。それでも私は彼らの従順さにイラついた。
 次の朝早く、船の音で目が覚め白人の声が聞こえてきた。エスキモーと白人がビーチの端で群がり、私が行くと白人がもうひとつのカヌーを借りようとしているところだった。Utkuたちが見たときには2人の男が既にInuttiaqのカヌーに手をつけていた。
 私は、激怒した。白人のリーダーに2つ目のカヌーを貸せば、魚釣りのボートはなくなり、これが壊れたら、我々は困る。前のガイドは約束の修理の材料を忘れたし、我々は氷が張るまでに材料を買ってくるのは不可能だということを話した。Inuttiaqの言っていたことを心におき、2つ目のカヌーのオーナーは貸すことを望んでないとガイドに伝えた。
 ガイドは、もしオーナーが貸すのが嫌ならよい、彼の自由だといったので、私は少し落ち着いてInuttiaqに私にカヌーを貸したくないと言ってほしいかと尋ね、ガイドはあなたが嫌なら借りないと言っていると伝えた。
 すると、Inuttiaqは、「彼のしたいようにすればいい。」と強く答えた。私は狼狽し、その時の声が穏やかであったことを祈るが、「あなたがいいなら。」と答えた。私は、白人にもInuttiaqにもくだらない仲介役を引き受けた自分自身にも激しい怒りを抱え、ガイドに「彼は貸すと言っているわ。」と答え、ぶっきらぼうに振り返り、テントまで戻ってベットに突っ伏して静かに泣いた。」(Briggs1970,pp283-285.)
  Briggsは白人の釣り人達の行動がエスキモーの正当な権利を不作法に侵害するものとして怒りを抑えられなかった。これに対し、エスキモーの長は、Briggsの怒りの表出を子供っぽい不適切な行動であると見なし、不快感を示し、エスキモーの大人の仲間には不適切だとしてostracize(村八分)扱いにした。全体としてBriggsはゲストとして大切に扱われたが、Briggsによると、彼女とUtkuとの関係は3つの時期に分かれる。初めは、見知らぬ、物珍しい者。それから、反抗的な子どもになり、最後は頑固でイライラさせる存在であった。カヌー事件における怒りの表出のような、エスキモーの正当な権利を主張する行動も、Briggsを頑固でイライラする存在とした。
  Briggsを読んで、昔読んだ極限の民族を思い出した。 本多勝一が朝日新聞の名物記者になってしまう前の、京都大学山岳部での今西学派の影響下のもとにあった頃のエスキモーとニューギニア高地人、ベドウィンの滞在記である。失敗しても決して謝らない砂漠の暴力に歴代さらされてきたベドウィンのえぐさとエスキモーやニューギニア高地人などの狩猟採集民の人なつっこさが印象深かった。(この頃は梅棹の文明の生態史観などもまだ本多の論の視野には入っていたのだろう。)極限の民族には、ライフルで自殺する前にお茶で一服したエスキモーのエピソードなども紹介されていた。日本の切腹における感情の抑制の文化と似ているなと思った。
  日本は、エスキモーと比べると、文字の文化の長い伝統をもつ、より複雑で多層的な社会だが、異民族異文化からの攻撃の脅威に晒されることなく、内部の共同性の原理が優先し、外からの来訪者を何かをもたらす存在として遇するという点では似ているように思う。BriggsのNever in Angerが報告している怒りの抑制の文化も、せまい同族社会のなかでの共同性を優先するなら有効だったのだろう。怒りを示したものへのostracize(村八分)も、怒りの抑制の文化を維持するには必要なのだろう。(怒りの表出を子供っぽい不適切な行動であると不快感を示し、ostracizeするのも怒りの一形態ではあり、立派な攻撃性の発露ではあるのだが。)エスキモーの怒りの抑制の文化は、せまい共同体内部だけなら首尾良く機能する。しかし、Briggsが報告するカヌーのエピソードのように、同じ感情文化を持たない相手に対しては無惨な結果になる。
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無我と実体的自己観

2006年08月24日 | 思想・社会
 仏教では無我をとなえる。つまり、変化せず、単一で、純粋な主体としての、常一主宰の我は存在しないと考える。これは、逆からいうと、私は、つねに変化し、複数の部分からなり、影響のなかにあることになる。私という現象を、複数の部分の相互作用として、また環境のなかでつねに変化し、影響をうける存在として、とらえる考え方は、現代の心理学や脳科学の基本である。
  常一主宰の我の否定は、神(ありてあるものとしての、完全であるゆえに部分をもたない単一の存在としての、第一始動者としての神は、まさに常一主宰の我の原型である)の似姿としての人間、最後の審判をうけ救済される統一された存在としての自我という西欧の人間観の基本前提の否定につながる。西欧で、伝統的に、仏教が虚無の信仰だとして誤解されてきた原因はここにある。最近では、ヴァレラなど、仏教における常一主宰の我の否定が、虚無ではなく、慈悲と救いにつながることを理解し、キリスト教的伝統の束縛をはなれ、現代の認知科学、脳科学の成果と仏教に伝統とのつながりを模索し、チベット仏教の指導者ダライラマとの一連の対話を行っている科学者達もいる。
  随筆家の内田百間(間の日は月)は、借金を借りた自分と今の自分は異なった自分だから借金は返せないなどと言っているが、これは外道の言であり、仏教徒であるなら、貸した自分と今の自分は異なるから自分に返す必要はない、必要な人に与えてくれと言うべきである。人工知能のミンスキーは心の社会で、心が複数のモジュールからなる一種の社会であることを強調している。常一の自己という表象は、実際の心の機構を表しているのではなく、長期的な目標追求や社会的なコミットメントに必要なため仮象として要請されるのだろうとしている。
  人間の認識には強い実体化の傾向がある。例えば、アスファルトの逃げ水は、アスファルト表面の高温により光が反射して生ずる、観察者の視角と関連での光学現象にすぎない。しかし人間はそこに水があるかのように認識してしまう。虹も同様である。例えば、幼い子供は夢で旅行中のお母さんを見ると、実際にお母さんが夜、自分の部屋に来たと考える。もうすこし年長になると、旅行中のお母さんが自分の部屋に来るはずはないことは理解するが、自分の経験を純粋な主観的現象とは考えられずに、自分の経験を外の世界の実体に投射し、まぶたの裏側にお母さんが来たなどという。大人のまぶたの母という言い方には、そう思わずにはいられないという、主観の投射が反映しているのかもしれない。私という現象についても、主宰する私という実体が両眼の後ろのどこかにあるかに思ってしまう。魂という自己をになう実体が身体に宿り、死とともに身体を離れるという考えは洋の東西を問わず古くからある。
  以上のように、私を関係のなかで変わっていく現象としてではなく、常一主宰の実体としてとらえる考え方は、素朴心理学、長期的な目標追求や社会的なコミットメントの必要といった要請から生じたものである。キリスト教は、身体から分離した魂の教えを固定化し、長期的な目標追求や社会的なコミットメントを最後の審判と永遠の救い、あるいは、滅びまで拡大してしまった。これは、仏教の無我と縁の教えとは対極的な世界観の固定化である。素朴心理学やキリスト教における自己の見方を実体的自己観と呼ぶことにする。人間にとっては、実体的自己観が基本であり、仏教の無我と縁のような関係論的自己観は認識論的な反省の後に獲得されるものである。
  文化心理学などで言う、西欧人の独立的自己観と東洋人の関係的自己観は、実体的自己観のなかでのキリスト教に強化されたやや特殊な自己観を、より素朴な相互依存的な自己観および関係論的自己観をふくめたものと対比させている。現在の文化心理学は、西欧と東洋という対比のみにとらわれすぎる悪弊がある。現在の文化心理学は、社会心理学者がやっているオリエンタリズムの下請け作業である。ダライラマは「なぜ人は破壊的な感情を持つのか」のなかで、西欧人の独立的自己観と東洋人の関係的自己観を言う社会心理学者に対して、ささいな区別を重大視していると、めずらしく批判的でひややかな態度を示している。
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日中関係についての麻生発言をFiskeによる社会的関係の四類型から評価する

2006年08月19日 | アジア論
  NHKは8月14日、「どうして人は戦争をするの?」の後に日中関係についての討論番組を行っていた。番組は、後半しか聴けなかったけど、NHKご愛用のカン氏は、あいかわらずのソフトな口調で、おだやかに誘導するような意見を言っていた。私の意見ではその誘導先は泥沼なのだが、泥沼であれ誘導する話術は堂に入っていて、なかなか見事である。番組では、泥沼への誘導にまじって、こわれたレコードの曲も年中行事のように電波を発していた。電波や泥沼への誘導の混じる中で、麻生外相は的確な発言をしていた。例えば、同じアジアの国でしかも前の戦争で迷惑をかけた仲良くしなくてはなどという情緒的な意見に対し、国と国が仲良くすることは外交の目的ではない、外交の目的は互いに利益をえる関係をつくることだ、日中も互いに利益になる関係を持とうではないかと言っていた。
  前に書いた社会関係的人間関係の四タイプからすると、日中の外交関係についての意見は下のようになる。
(1)共同性:日本側による東アジア共同体、一衣帯水などの日中共同体幻想
(2)権威的序列化:日本側による文明の恩人としての中国という思いいれ、中国側による中華的認識と東京裁判史観による、また日本側の思いいれを利用した日本の隷属化と利用
(3)等価交換:日本側では先の大戦で侵略したという負い目、中国側では墓を暴いて骸をむち打ち仕返しをするような復讐を是とする伝統
(4)市場価値:日本側による中国でのビジネスチャンスへの期待、中国側による日本からの投資と技術への期待、海洋進出のもくろみ
   以上大ざっぱに書いたが、(3)の報復のしつこさは、やはりユーラシア大陸の砂漠の民からの影響にさらされるなかで中国が身につけたものだろう。海洋民族、狩猟採集民族のおおらかさとは違うことに十分注意しなくてはならない。(1)共同性は日本側の危険な思いこみである。アジア問答で河端先輩がすこし話されたが、日本と中国は異なる文明圏に属する。問題は、後期モンゴロイドという形質人類学的な特徴の近さではなく、文明の基本原理である。これについてはまた機会をあらためて述べたい。(2)権威的序列化と(1)共同性が結びつくと、日本が隷属化した形での友好関係ということになる。マゾヒストなら満足すべき関係だろうが、そういう趣味は個人だけにしてもらいたい。妙な趣味を押しつけられたら、迷惑である。現在の中国は抗日を自らの存在根拠とする一党独裁の共産政権であり、今後、政権の形が変わることは考えられる。日中関係については、(1)共同性、(2)権威的序列化、(3)等価交換に無自覚にコミットすることは非常に危険である。社会関係の論理を明確に対象化、その根拠を批判的に吟味し、相対化し、別の解を見いださなくてはならない。当座の関係としては、こうした、社会関係の論理の意識化と根拠の批判的吟味を行いつつこれを相対化し、(4)市場価値における、双方損にならない関係をドライにもとめるということになる。麻生氏の日中関係についての発言は、討論出席者やNHKに充満していた(1)共同性の幻想や(2)権威的序列化の無批判な黙認という電波と泥沼を回避し、(4)市場価値の論理で生産的な問題解決の方向を提示したものとして評価できる。
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靖国狂想曲、自由社会の敵

2006年08月18日 | アジア論
河端「道端君いるかい。」
道端「河端先輩こんにちは。先日はご馳走さまでした。」
河端「いやあ、ひさしぶりに楽しかったな。鈴子君もよろしくといってたよ。」
道端「あ、もう帰られたのですか....」
河端「なんだか、淋しそうだな。」
道端「いえ。テレビ、新聞メディアもようやく靖国狂想曲が終わったようですね。」
河端「小泉首相も、中韓、国内メディアの圧力に屈せず、よく初めの公約をまもった。感動した。といいたいところだな。」
道端「そうでしょうか。小泉首相の個人的満足のための8月15日のように思えます。それにせっかくの発信のチャンスですから、靖国の追悼文化について他国との比較もふくめて、非難が適当でないことを、もっと具体的に説明してほしかったですね。心の問題だけでは不十分です。一国の首相ですから、自分の行為について、決意表明だけでなく、もっと論理的に展開して語って欲しいです。」
河端「すると道端君は、中韓やテレビ、新聞メディアからの批判に理があるというのかい。」
道端「いえ、とんでもありません。中韓からの、他国の追悼文化への非難、内政干渉は礼を欠いたものです。」
河端「それを突っぱねたのだから立派ではないか。」
道端「中国の外交部が、小泉首相の靖国参拝は、人類の文明への挑戦とか、なんとか言ってました。」
河端「文化大革命、チベット、ウイグル、等々、手を血に汚してきた、そして今も法輪功などの宗教団体にひどい人権弾圧を続けている共産党独裁政権が言うんだから、とんだブラックジョークだな。」
道端「ええ、ただ、笑ってばかりもいられません。ここの人類といった言い方では、例によって、ナチスと第二次世界大戦の日本軍のアナロジーがほのめかされています。ナチスのユダヤ人の組織的虐殺は、人類史上でも例をみない残酷非道なものです。ユーラシアのジンギスカンなどの征服者やヨーロッパの新大陸進出での虐殺も大規模なものですが、組織性ではかなわないでしょう。ソビエト、中国、カンボジアなど共産主義政権下での1億人ちかくの犠牲が、その組織性で近いかもしれません。」
河端「しかしナチスと第二次世界大戦の日本軍のアナロジーはなりたつのか。」
道端「戦争の残虐性という点で公平にみたら、全くなりたたないでしょう。ごく大ざっぱなに分けてみます。(a)正規の戦闘行為での殺戮、(b)正規の戦闘行為に関連しての民間人の殺戮、(c)空爆による民間人の大規模殺戮、(d)民族の大規模な組織的虐殺。このように並べると、ナチスの罪は(d)で最悪です。(c)は日本軍も行いましたが、もっとも大規模に行ったのは米軍です。」
河端「戦争は国家による人殺しだ。国家による人殺しはすべて許されざる行為だ、みたいな考えがあるからなあ。道端君のような議論は、受け入れられないのではないか。」
道端「だったら、すべての戦争における軍を同様に批判しないと非論理的です。」
河端「結局、ナチスと第二次世界大戦の日本軍の共通点は、(イ)互いに同盟を結んでいた、(ロ)連合国側と闘って破れた、(ハ)戦後連合国側による戦争裁判にかけられ有罪とされた、ということではないのか。」
道端「はい。その通りです。しかしそれは、以上に説明しましたが、人類の歴史における軍の非道さとは全く別です。ナチスの非道さは人類の歴史上でも例をみないものです。日本軍も、(b)正規の戦闘行為に関連しての民間人の殺戮、(c)空爆による民間人の大規模殺戮といった、誤りを犯しました。しかしこれは、ナチスの犯した(d)民族の大規模な組織的虐殺に比較できるようなものでは全くありません。」
河端「そうだな、問題は(ハ)と軍の非道さ評価が、結びついて受け取られていることだろうな。話も長くなったし、つづきは、またの機会にしよう。鈴子君にも声をかけてみるよ。」
道端「そうですね、また、ぜひ。」
河端「鈴子君というと、なんか、うれしそうだな。ところで、加藤紘一代議士の自宅が65才の右翼団体の男に放火され、その男が割腹した事件はもうきいたかい。」
道端「はい驚きました。加藤氏の靖国に関する発言に対してなどと報道にあるのを見ました。組織的背景もふくめて徹底的に捜査して、このようなことが起きないようにして欲しいです。ポパーが「開かれた社会とその論敵」で、ナチスなどの極右とマルクス主義を、自由社会の敵として、左右の全体主義を批判していたことを、あらためて思い出しました。」
河端「そうだな、暴力団がらみらしいが、気持ちわるいな。暴力は自由な言論を萎縮させる最たるものだ。加藤氏もこれに屈しないで欲しいな。また、加藤氏の意見への批判も、加藤氏にエールを送る気持ちで、遠慮せずに徹底的にいきたいものだな。」
道端「はい。そうですね。」
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子供をだしにつかった子供だまし

2006年08月15日 | 思想・社会
  NHKでどうして人は戦争をするの? というタイトルの番組をやっていた。小説家と女優と小学生何人かがテーブルをかこんで話し合っていた。戦争はどちらもが悲惨だなあという実感と国を越えた友情を、未来のためにも歴史を知らなくては、というあたりが結論だろうか。それはそれで良いとして、なんだかマイルドに気持ちの悪い番組だった。
  まず世界の紛争・戦争地図が示された。問題の概観を図で示すのは有益だ。しかし、番組で取り上げられたのは、太平洋戦争とイラク戦争だけ。アメリカと日本が戦争をおこし、イラクと中国が被害者で、でも加害者も苦しんだというところだろうか。まともに、なぜ戦争が起きるかを考えようとする気があるなら、サンプリングとして不十分で偏りすぎだ。せめて、アフリカの部族紛争、宗教がからんだボスニアなどの紛争、中国やロシアなど古い帝国の現在の周辺での紛争なども取り上げなくてはならないだろう。
  そうすると子供には扱えなくなるかもしれないが、だいたい戦争と平和のテーマを子供をだしに語らせるのが気色わるい。子供は、独自に情報を集めることもできないし、すなおに大人の考えにそまる。全体主義者はしばしば好んで純真な子供にイデオロギーを語らせてきた。独自に情報を集め考えることのできる大人を出すべきだ。
  すくない例の一面を描写し、戦争を愚かで悲惨とだけ評し、心の問題とためいきをついていても、思考停止に陥るだけだ。戦争が時に得になる、集団間の面子や宗教、イデオロギーのからんだ問題だという点を見なければ、戦争を考えたことにはならない。というか、まじめに戦争が全く愚かで悲惨なだけだと考えているのなら、NHKさんは大河ドラマあたりで「国盗り物語」だの延々と戦争賛美番組をやってきていることとの整合性を、どう考えているのだろうか。
  ピンカーは「人間の本性を考える」の「暴力の起源―「高貴な野蛮人」神話を超えて」で、スラムなどの暴力を逸脱行動としてのみ見て、フラストレーションなどの指標と暴力の関係をみるような心理学的研究や血中のホルモン濃度を検査したりするような生理学的研究のたぐいを紹介し、暴力を不適切な逸脱行動としてのみ、やぶにらみで見ていたら問題は解決できないと、めずらしく軽蔑感もあらわに評している。ピンカーは、スラムなど司法権力のおよびにくい状況では、暴力が得になる状況があり、名誉の文化の基準にしたがい、なめられないことが必要であること、などを指摘している。スラムの場合には、適切な司法権力や権威が介在し、暴力が得になったり、なめられたら終わりだ、というような状況を改善できれば、暴力は減らせることが示されている。戦争の場合は、国や覇権国よりも上位の実効的な機関が公正に介入することが、はるかに困難だが、基本的な問題状況には共通の点も多い。
  戦争も多くは資源や領土の支配権をめぐって生じてきたことを、まず理解しなくてはならない。これとからんで国家間にも名誉の文化の問題がある。アメリカが、一発なぐらせてから、百発なぐりかえすようなまねをするのも、これが覇権国家としての抑止力になると思っているからだろう。またアフリカの部族紛争に典型的に見られるような集団心理が、集団間の対立の場面では強烈に働く。戦争というのは単に個人の心の問題というより、集団における心の問題である。さらに、宗教やイデオロギーが戦争遂行にむけての集団の心棒になることもある。こうした要因があっても、多くの場合には、踏みとどまる。それでも時には沸点を越えてしまう。
  あれだけ沢山の紛争戦争地域が示されている世界の紛争・戦争地図を見ながら、戦争をなくすには、心の問題、国を越えた友情が大切ですで、終わってしまえるのはなんとも脳天気だという気がした。まともに問題解決しようとするなら、世界の紛争・戦争地図に示された戦争をどう減らすのか、かりに生じても最小限にとどめるにはどうしたら良いかなど、具体的に検討すべきだ。上位の機関であることが期待されている国連の問題点(先の大戦の先勝国で核保有国が安保理の常任理事国を独占し、自分の上首尾にいったというか、とりあえず破綻してない侵略を棚にあげ、戦争で負けた国を60年前のことで、いつまでもあることないこと非難し、因縁をつけ続けることは、アメリカの独善以上に、国連の正当性、つまり国家間の名誉の文化を抑制しうる根拠をいちじるしく傷つけている。資源、領土や地域の覇権確保を考えれば、孫子の兵法にしたがって、闘わずして相手を屈服させる上策(とくに用間篇2「内間なる者は其の官人に囚りてこれを用いるなり」が功を奏しているなかでは。)だろうが。)、資源、領土問題、集団心理、宗教とイデオロギー、兵器産業、等々の問題を具体的に検討すべきだと思う。
  国の対立のなかでも個人の友情や信頼は成立しうる。過去の戦争においてもそれはくりかえし示されてきた。しかし、上述のような戦争の要因を具体的に検討せずに、国をこえた個人の友情で戦争をなくせるかのように言うのは、子供だましでしかない。
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現代用語の周辺知識:「自分に正直に生きる」

2006年08月13日 | 思想・社会
  後輩の井戸端鈴子さんが休暇で帰ってきている。久しぶりに三人そろって河端先輩の家で歓談をした。ちょっとした同窓会気分で大いに話がはずんだ。河端先輩の発案で「現代用語の周辺知識」を書こうという話になった。河端さんは文化、政治に一家言ある人だし、鈴子さんは歴史や国際情勢に詳しい。私のブログにそれぞれ少しずつ書いていくことになった。楽しみだ。つい調子にのって、三端トリオですねといってしまった。河端先輩が三バカトリオじゃないぞとつっこんで、鈴子さんも笑っていたが......つまらない冗談はつつしもう。
  現代用語の周辺知識のエントリーは、いちおう事典なので、あとで適宜加筆修正を行う。機会に応じて、ぼちぼちと覚え書きをアップしていくことにする。今回は、「自分に正直に生きる」である。


「自分に正直に生きる」
  以前、小説家の妻が劇団員の男と浮気をし、小説家と離婚し、劇団員と結婚するという記者会見の場で、「自分に正直に生きたい」と言っていた。あなたの人生の目的はという質問に対して「自分に正直に生きたい」と答える人も結構いる。本項目は、ある種の人々の愛好する用語のようである。
  この言葉は一般に葛藤事態で、世間的配慮よりも自分の欲求を優先する選択において用いられる。この表現では、特定の選択の表明だけではなく、この選択が正直という重要な社会的徳目に従ったものであり、よって、この選択にともなう社会的な負の評価は不適当で、むしろ賞賛されるべきであるという主張も同時になされている。
  小説家の妻を例にとる。
A.小説家の妻でありつづける<---世間的配慮
B.劇団員の男と暮らしたい<---自分の欲求
  小説家の妻は、世間的配慮にもとづいて小説家の妻でありつづけるよりも、自分の欲求に従って劇団員の男と暮らしたい。しかしこれは、正直という重要な徳目に基づく選択であり、道徳的な非難は不適切であり、むしろ賞賛されるべきだと主張している。同じ葛藤事態における同じ選択をニュートラルに表現すると「世間的配慮よりも自分の欲求を優先する」あるいは「自分の欲求を優先する」となるだろう。さらに「やりたいようにやる」という表現も可能である。
「自分に正直に生きたい」<---選択の表明+非難の回避と賞賛の要求
「自分の欲求を優先する」<---選択の表明
「やりたいようにやる」<---選択の表明+非難の無視宣言
  三つの表現の含意を比較すると上のようになる。「自分に正直に生きたい」という表現は、ある意味でもっとも欲張りな含意を持った表現かもしれない。(道端鈴成)

関連項目:「本当の自分」、「自分探し」
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旧約の文化ウィルス

2006年08月09日 | 思想・社会
  聖書は、旧約と新約の複数の文書からなる文集みたいなものだが、旧約はユダヤ教の聖典、旧約・新約はキリスト教の聖典である。イスラム教は、マホメッドによるコーランを真の神の教えを伝える拠り所としているが、新約のキリストも預言者の一人とみなし、旧約や新約も聖典とみなされる。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、いずれも旧約聖典を聖典する聖典の民である。
  聖書は、ここ2000年の世界の文化と歴史に多大な影響を与えてきたし、現在も与えている。キリスト教圏では、聖書は、単なる一冊の本ではなく、社会に浸透し人々の考えと行動を左右する社会テキストとなっている。聖書をふまえて多くの文学や思想作品が書かれてきた。教会、祭り、毎日の言葉、親の話しや行動、絵本、教師の話しや行動、音楽、演劇、映画、あらゆる社会の意味あるメッセージになかに様々な形で聖書の考えが書き込まれている。「GOD―神の伝記」 には、こう書かれている。「神は欧米の家庭においては日常のありふれた言葉以上のものである。すなわち神は、歓迎されていようといまいとにかかわらず、欧米の家族の実質的な一員なのである。」(GOD、p15.)キリスト教圏では、聖書を全く読まなくとも、社会テキストとしての聖書から、影響を受けざるをえない。
  「欧米人の多くはもはや神を信じていない。だが、失った信仰は、失った宝のように、まだその影響を引きずっている。何不自由なく育て上げられた若者がいたとしよう。彼は青年に達すると、自分の財産を手放して貧しい者たちと連帯して生きるかもしれない。だが、その場合でも、彼の性格は何一つ不自由なく育て上げられた男のそれであろう。なぜなら、彼は自己の歴史を手放すことなどできないからである。同じようにして、何世紀にもわたる、厳格で、信心深い性格の形成は、たとえその基が、多くの者から取り除かれたとはいえ、確固として立つ人間の性格の規範を創出してきた。われわれ欧米人が異なる規範を有する文化に出会ったり、「日本人は違っている」と思わず呟くとき、われわれは間接的にだが、われわれ自身の規範、すなわち人間のあるべき姿について継承してきた理解が他の理解と相容れずにつづいてきたことを確認する。.........両者の間には大きな違いが存在する。なぜなら、聖書の神が欧米人の鏡であった幾世紀もの間、日本人はそれとは異なる宗教・文化の鏡の中を覗き込んでいたからである。」(GOD、pp12-13.)
  聖書が社会テキストして書き込まれていない日本で育った我々は、聖書を知ろうということになるが、福音書は別として、聖書を読み通すのはなかなか難しい。死の床に聖書を置いたという芥川も「侏儒の言葉」(松本清張はこの本について幼稚だと評している。たしかに高校生向きかもしれない。)で、旧約について、個人の知恵は民族の知恵にしかない、しかしもうすこし簡潔であればなどと書いている。
  素人なりにざっと聖書を読んでみて驚くのは、新約のキリストの民族を越えた愛と平和の教えと、旧約における自民族中心主義の血なまぐさい虐殺の物語の共存である。長谷川は、バベルの謎―ヤハウィストの冒険-で、旧約の神には、全能の創造主と部族の神の二系統の物語が、はいりこんだものと指摘している。たしかに、嫉妬深く、疑り深く、残酷で、怒りっぽい部族の神としてのエホバは、どうも全能の創造主とは違うようだ。また、旧約はユダヤ民族を中心とした民族の歴史と預言者、神の話しであるのに対し、新約はあくまでキリストを中心とする教団の教えを説いたもので、両者は分けて考えた方が良さそうだ。
  こうした素朴な疑問を抱いて、解説書にあたる。たしかに聖書の解説書は沢山ある。しかし、信者の立場からの解説だったり、歴史の紹介だったり、信者でないにしても、ただひたすら聖書をありがたがるお花畑の本だったりする。聖書学には、膨大な文献学的、歴史的研究の蓄積がある。これらは研究としては貴重だが、一般の知的な読者層に対しては専門的すぎる。
  「誰も教えてくれない聖書の読み方」には、聖書に何が書いてあるのか、旧約と新約の断絶、性格の悪い神エホバ、旧約の神が推奨する敵部族のだましと徹底的虐殺(割礼をしたら仲間として友好関係をむすぼうと持ちかけ、それを信じ割礼をしたら、痛がっている間に皆殺し、神様は良くやったと大喜び。あるいは、敵の大人の男達だけを皆殺しにしたら、ぬるいとしかりつけ、男は子供も殺せ、男と交わった経験のある女も殺せ、男と交わった経験のない女は孕ませろときつく命令。等々。)、女性差別、等々、あれこれもったいぶらずに、分かりやすくまとめてある。これを読むと、十字軍による略奪と殺戮、新大陸での侵略と大規模な虐殺など、聖書の精神からの逸脱でなく、旧約の精神にのっとっていただろうことがよく分かる。近年では、ボスニア紛争における民族浄化など、旧約の神が嘉し賜うところだろう。もちろん旧約は、伝道の書のような哲学的考察、ヨブ記などの神義論、雅歌のような文学、などなど、芥川の言う民族の知恵が結集された複数の側面をもったテキストではある。しかし、砂漠の古代文明における部族間の生き残りのための熾烈なだましと虐殺、選民思想を伝えた、強烈な文化ウィルスを、そのテキストの中核に持っていることも事実である。
  キリスト教が、一筋縄でいかないのは、こうした旧約に、強引に、キリストによる民族を越えた愛と平和の教えを接合させていることである。マタイ福音書冒頭の系譜についてで書いたように、マタイ福音書の冒頭は、新約を旧約の物語につなぐことを狙ったものだが、旧約の由緒ある父系の系譜を列挙してきて、最後は、処女懐胎、アレー!とくるが、とにかく無理でも旧約と新約を接続してしまっている。 
 「筆者が以下で示すように、神はひとつの性格の中で諸人格が融合したものである。これらの人格間での緊張が神をわかりにくいものにするが、それはまた神を抗しがたい魅力のあるものにさえする。欧米人は、神の徳を意識的に見習っているものの、無意識のうちに、神の「一」性と「多」性の間で不安を誘発する緊張を自分のものにしている。.....われわれがこの人は本物だとする人物は、その人のアイデンティティがいくつかの相容れないサブ・アイデンティティをひとつに束ねている人なのである。.....さまざまな役割と演じることがうまいだけの者は、この規範に達しないでいる。.....複雑でない単純な人たちもまた、この規範に達しないでいる。」(GOD、pp16-17.)
  このようにキリスト教の神を鏡とし、ダイナミックな人格形成が行われる。こうした鏡を持たない文化の人格は素朴である。ここで、人格に、旧約と新約の二重性をとりこむと、筋金入りの恐ろしい偽善者が出来上がることに注意したい。ジミー・カーター前大統領のように、新約の精神が前面に出た善意の人はいる。しかし指導者としては単純でお人好しすぎたのかもしれない。フランクリン・ルーズベルトやクリントンなど、リベラルな装いの新約のうわべに旧約の残酷さや狡猾さをちゃんと備えた、より複雑でダイナミックな人格である。
  イスラエル大使館公使を勤めたことのある今西は「聖書の誤り―キリスト教文明の大罪」で、旧約が自民族中心主義によるだましと虐殺の正統化をもたらしてきたことを痛烈に批判している。アメリカ大統領が就任の宣誓で聖書の手を置くが、聖書を使って宣誓するなら新約聖書とキリストの精神に対してのみにすべきだと主張している。もちろん、だましと虐殺のテキストは旧約だけではない。旧約の影響なしにも、梅棹の指摘するユーラシアの破壊勢力の影響をうけた中国を初めとして、だましと虐殺の文化的伝統は様々に存在する。人間の同じ種内における組織的殺戮には、チンパンジー由来の側面、集団力学による部分も否定しがたい。ではあるが、砂漠の古代文明における部族間の生き残りのための熾烈なだましと虐殺の教えを継承して、旧約がそのテキストの中核にしこんだ文化ウィルスが、自民族中心主義によるだましと組織的虐殺を世界に広める上で大きな役割を担ったのも事実だろう。
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海上保安庁

2006年08月06日 | 雑談
河端「いよいよ夏も本番。やっぱり夏は海だな。道端君は、海はどうだい。」
道端「はい。先日近くの海上交通センターを見学してきました。係りの方に、管制モニター表示の見方から、屋上からの展望まで、説明していただきました。単なる一見学者なのに、ずいぶん丁寧な対応でした。この人たちが海の安全を守っているのだなと、感謝の気持になりました。」
河端「そうか、それは良い経験をしたね。」
道端「もう10年以上も前になりますが、海外の日本領事館に在留届けを出しにいったときの事を思い出しました。治安上の情報もききましたが、あの時の横柄、かつ、めんどくさそうな対応は、今でも忘れられません。」
河端「まあ、全部が全部ではないだろうが、国民とは別の方向を向いて仕事をしているのだろうな。」
道端「ところで、海上交通センターは、海上保安庁の管轄ですよね。河端先輩は、海猿を知ってますか。」
河端「ああ、映画だろう。」
道端「映画の海猿LIMIT OF LOVEのクライマックス・シーン、遭難しそうになりながらの携帯によるプロポーズに、アメリカの映画館では爆笑だったそうです。私もバリーリンドンの湖での求愛シーン、あまりに明瞭にイッヒ・リーベ・ディッヒとか発音するものですから、イッヒは1格でディッヒは4格かとか、つい笑ってしまったことがあります。タイタニックで、舟から旅客がバラバラと氷の海に落ちるシーン、上海の映画館では大爆笑だったそうです。知り合いが河でワニに食べられたと笑いながら言ったという報告もあります。笑いは、解釈枠組みや価値基準、文脈に依存しますから、同じ出来事でも可笑しいか否かは、文化や個人でずいぶん違ってきます。笑いを導く出来事の認知的評価ですが、」
河端「道端君の笑い論はまたうかがうことにしよう。映画は見たのかい。」
道端「いえ、マンガの方だけです。キャラクターが結構面白くて、海上保安庁というこれまでなじみがなかった世界を知ることもできました。」
河端「マンガとはさすが道端流だな。日本は海に囲まれた国だ。海上保安庁の仕事は、海上交通の安全確保、救助活動、密航密輸対策、海上犯罪への対応、領海警備、海洋調査と多岐にわたる。特に、領海警備や紛争への対応など、海上自衛隊の行動が制約されているから、危険に身を挺しての大変な仕事だ。」
道端「そのなかで、一般の我々にも、ちゃんと説明もしてるのですね。」
河端「外務省にも爪の垢を煎じて飲ませたいな。」
道端「次の機会に、河端先輩の外交論、ぜひ聞かせて下さい。」
河端「そうだね、とくに詳しいわけではないが、前からの約束だったしな。」
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亀田・ランダエダ戦

2006年08月03日 | 時事
河端「昨日の亀田どうだった。」
道端「え!なんで知っているんですか。亀田は昔からの好物です。昨日は、ハッピーターンを食べ過ぎてしまいました。冷たい飲み物とも結構合います。」
河端「あの老舗の亀田じゃあなく、ボクシングの亀田だよ。」
道端「.......」
河端「勝谷誠彦の××な日々を見ると良いよ。」
道端「うーん。これどこまで本当なんでしょうね。でも、メディアや賭博機メーカーもまきこんでとなると、なんだか気持ち悪いですね。」
河端「ネットでは、判定に批判的な意見が大多数のようだな。在ベネズエラ日本大使館によるとランダエダ選手への激励のメールもずいぶんあるらしい。盲目的な自国びいきに陥らず、事実に則してフェアネスを求める姿勢が多いのには救われるな。まあ今回の誤審疑惑は新聞やテレビなどでもちゃんと扱われているようだが、積水名刺事件のような民族などが関わる事件になると重要な事実を無視した誘導的な報道しかされないようだ。やはりネットでの自由な言論は、事実を隠蔽したり歪曲したり果ては捏造して国民の意見を一定の方向へ誘導しようとすることばかりにたけたメディアへの、良いクスリだな。」
道端「そうですね。亀田選手も若いのですから、次はぜひ頑張って、名誉挽回をして欲しいですね。」
河端「そうだな、名誉を重んずるならば、次は、ハワイでもどこでもいいから、日本以外でランダエダ選手と早急に再戦し、すっきり勝つなり、潔く負けるなりして欲しいな。」
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