道端鈴成

エッセイと書評など

福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか

2011年11月14日 | 時事
東日本大地震(福島第一原子力発電所事故)から8ヶ月がすぎた。4月の初めまでは巨大なカタストロフの可能性をリアルに感じていた。現場の必死の努力によって巨大なカタストロフは回避できたが、3月の爆発による放射能汚染は大きな傷として残ってしまった。我々は、福島第一原子力発電所事故から何を学び、教訓とすべきだろうか?もう原発はこりごりだという反応は心情的には理解できるが、敗戦で戦争放棄というのと似た反応のように思える。反原発デモなど、九条の会系のサヨク老人が元気づいていて、なんだか気持ち悪い。かと言って、なしくずしの原発再開は論外だ。ストレステストといっても、原子力安全委員会だの不安院だののお墨付きは何の安心にもならない。福島第一原子力発電所事故の具体的な検証を行い、それを今後の対策にどう活かすか検討し、これを社会が共有していくことが必要である。

大前氏のグループが10月28日付けで発表した報告はそうした作業をしていると思う。下のサイトから、資料・映像へアクセスすることができる。

福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか:資料・映像へのリンク

以下に結論部分の要約を示す。素人の眼から見て、立地選定の問題もある気がするが、全体としては的確な結論のように思える。今後、こうした検証と対策の検討を幅広く行い、それぞれの専門での掘り下げを併せて行い、失敗の総括をし、失敗から学ぶことの失敗は決して繰り返さないようにしなくてはならない。


教訓
最大の教訓は、津波等に対する「想定が甘かった」事ではなく、「どんな事が起きても苛酷事故は起こさない」という「設計思想・指針」が無かった事である――その意味で、福島第一原発の4基の重大事故は、天災ではなく人災である
1.設計思想に誤りがあった(格納容器神話、確率論)
2.設計指針が間違っていた(全交流電源の長期喪失、常用と非常用の識別)
3.炉心溶融から引き起こされる大量の水素及び核分裂生成物の発生・飛散は想定外(水素検知と水素爆発の防止装置)
4.当初の設計にはなかった“偶然”が大事故を防いだケースが複数ある(第一6号機の空冷非常用発電機など)

提言
再発防止のために。そして、原発再稼動の是非を論理的に議論するために
1.監督・監視の責任の明確化(人災であるにも拘わらず未だに誰も責任をとっていない)
2.いくら想定を高くしても、それ以上の事は起こり得る。「いかなる状況に陥っても電源と冷却源(最終ヒートシンク)を確保する」設計思想への転換。それをクリアできない原子炉は再稼働しない
3.同じ仕組みの多重化」ではなく、「原理の異なる多重化」が必須
4.「常用、非常用、超過酷事故用」の3系統の独立した設計・運用システムを構築する
5.事故モード(Accident Management)になった時には、リアルタイムで地元と情報共有し、共同で意思決定できる仕組みの構築
6.事業者・行政も含め、超過酷事故を想定した共用オフサイト装置・施設や自衛隊の出動などを検討する
7.全世界の原子炉の多くも同じ設計思想になっているので、本報告書の内容を共有する

重要な知見
A:電源喪失
外部交流電源は、地震によって大きく破損している(オンサイトの電源確保が鍵となる)。そして、その後の長期にわたる全電源喪失(直流、交流)が致命傷となった
・非常用発電装置が水没
・海側に設置した非常用冷却ポンプとモーターが損傷
・直流電源(バッテリー)が水没
・外部電源取り込み用の電源盤が水没
・これらはいずれも想定を超える巨大津波がもたらした損壊である。しかし、大事故に至った理由は津波に対する想定が甘かったからではない
- より小さな津波でも、海岸に並んだ非常用冷却水取り入れ装置は破壊される
- 水没しない空冷非常用電源が健全であった事などが生死を分けている

B.設計思想
どの様な事象が発生しても、電源と冷却源(及び手段)を確保する設計思想であれば、緊急停止した炉心を「冷やす」手段は講じられ、過酷事故を防げたはずである
・「長期間にわたる全交流電源喪失は考慮する必要はない」という原子力安全委員会の指針に代表される設計思想は、この重要な点を軽視していたと言わざるを得ない。今回の巨大事故につながった直接原因である

C.事故当時の国民へのメッセージは適切であったのか?
・福島第一1号機のメルトダウンは、3月11日当時すでに分かっていたはずであるが、その後一ヶ月が経過しても「メルトダウンは起こっていない」とする発表との乖離は大きい
・国民や国際社会に対する情報開示は適切であったのか、疑問が残る

D.正当・公平に評価されるべき点
・大地震においても、全ての原子炉は正常に緊急停止(スクラム)している。大規模な配管破断も起きていない
・また3月11日当時、最悪の極限的な危険の下で現場対応に当った福島第一の運転チームがマニュアル以上の奮闘をした点も同様

乗数効果を知らなかった菅氏を上回る野田首相のISD条項に関する無知ぶり

2011年11月13日 | 時事
TPPに関する11月11日の参議院予算委員会での議論を聴いて驚いた。乗数効果を知らずに奇妙な発言を繰り返した菅氏の無知ぶりは酷かったが、野田首相の無知はさらに問題で、害はより大きい。菅氏の居直りと逆ギレの醜悪さがなく、低姿勢な態度をとりつつ、しかしまともな説明もなく、重大な決定をしれっとしてしまうだけに、かえってしまつに悪い。ISD条項の問題点をまともに知らず、普通の大学生でも言えそうな一般論しか言えず、まともな応答ができない。もうすこしは勉強しているだろうと思っていたが、想像以上の不勉強と無知だ。そして、それを補うスタッフも政権内にいないのだろう。出鱈目な政権だとは思っていたが、想像外の無知ぶりに愕然とした。こんな無能なトップと政権にまともな判断や交渉は無理だ。

日本にとって自由貿易は大切で、農協に縛られた補助金付けの農業は変えなくてはならない。狂牛病や遺伝子組み換え食品などに関するリスク管理感覚も合理性を欠いていると考えている。ヒステリックなTPP反対には与したくはない。政策決定はトレードオフのなかでの総合判断で、やむをえない決断も必要だ。しかし、真に重要な問題にまともな考慮が払われておらず、政策担当者にその前提となる知識もないありさまを見ると、こんな無知で無能な人間の政治決断とやらに国を託したくはない。

民主党政権は、自主外交には独立国としての力の確保と狡知が必要な事を分からず、鳩山氏の夢想と普天間のデタラメで米国との関係をこじらせ、菅内閣における尖閣へのちぐはぐな対応で中国につけいられ、ルーピー、空き缶が招いた厳しい国際環境のなかで、この泥鰌は米国追従の穴へと逃げ込もうとしているらしい。(鳩山内閣時代からの貿易交渉に関する民主党内閣の失敗の積み重ねが、現在の苦境を生み出した経緯については11月11日の林芳正氏による参議院予算委員会での質疑応答で明らかにされている。)しかし、そういう甘い相手ではない。経済力はあるのでリップサービス程度はするだろうが、無知で無能な政権は徹底的に利用されるだけだ。そして、その被害者は国民である。

小泉氏は郵政問題では、芝居がかっていたとは言え、アジェンダを明確に提示し、ちゃんと国民に信を問うている。民主党政権も自民党政権のときにさんざん言っていた政権のたらい回し批判や直近の国民の意思の重視を、あれこれ言い逃れや誤魔化しをせずに、自らに当てはめるべきだ。そして出来るだけ早く国民の信を問うて欲しい。


佐藤ゆかり質疑(全) この後 どじょう頭は"ドヤ顔"でTPP参加表明(11月11日参議院予算委員会)

《佐藤ゆかり議員》
貿易協定におけるISD条項について説明、
国内法がISD条項によって曲げられる可能性について首相に質問
《野田首相》
国内法で対応できるよう交渉をしていく
(一時中断)
国内法よりも、条約のほうが上位にあり、それに対応しなければいけない現実の中で、どう対応するか考える
《野次》
何を言ってるんだ!
どうやって対応できるんだよ!
条約が上だから対応できないんだよ、国内法では!

《野田首相》
ISDS(ISD条項)は、あまりよく寡聞にして詳しく知らなかった
条約と国内法との上位関係だったら、条約が上
だからこそ、条約を結ぶために(国内法を)殺したり、壊したりはしない
《佐藤ゆかり議員》
既に日本は中身の条約・交渉は手遅れ
(中略)
憲法に記載してあることを首相が即座に答えられなかったことは非常に驚愕
この件を理解せず、TPPへの参加を表明するのは国民軽視

naverまとめ 問題となった内容(要約)

天使はなぜ堕落するのか:人間における悪の起源について

2011年11月04日 | 書評・作品評
「天使はなぜ堕落するのか:中世哲学の興亡」という奇妙なタイトルの本を読んでみた。煩瑣で無用な議論の代名詞とされる中世哲学だが結構面白い。タイトルに関連する心理学的な論点についてごくアバウトにコメントを記す。

中世神学では、世界に存在する行為主体は天使、人間、動物、サタンに四分類されたらしい。天使は純精神的存在、動物は純肉体的存在、人間は精神と肉体の混合である。精神性の根源である神は自分の僕として、純粋な精神的存在としての天使を作ったが、意に反するところがあったので、自分の似姿として人間をつくり、人間に利用させるために動物を作ったということになる。サタンは天使が堕落した存在と考えられた。(最初からサタンがいたのでは、一神教としては都合が悪い。かといって直接サタンを作ってもやはり善の神の名に傷がつくので、意に反してということにしたかったらしい。しかし、そうすると全能の神があやしくなる。どのみち、唯一全能善の神というのは無理筋なので、まあこの辺でという感じ。)問題はなぜ天使が堕落したかだが、二説あるらしい。一説は、天使としての精神的存在に肉体的欲望が混入したため堕落したという肉体的欲望汚染説である。もう一説は、精神的存在としての天使が自らの限界の認識の欠陥により傲慢の罪を犯したという自己認識欠陥傲慢説である。著者の八木氏が指摘するように、中世哲学的に考えれば、純粋な精神的存在に派生的な存在である動物的肉体性が影響するという肉体的欲望汚染説は説得力に欠ける。一方、精神的存在に内在する自己認識の欠陥と傲慢という考えは思弁的により面白いし、キリスト教神学でサタンの最大の罪が神に対抗しようとした傲慢にあるとされているように、説得力もある。

以上の話しはなんとなくゲームの設定みたいだし、まともな進化論の常識(動物から人間、人間が想像した神、天使、サタン)からするとまさしく逆さまのファンタジーの世界だが、人間における悪の起源に関する象徴的な議論としては、なかなか深いところをついているのかもしれない。

「しあわせ仮説――古代の知恵と現代科学の知恵」の4章で、道徳感情研究の専門家であるジョナサン・ハイトは人間における悪の原因の問題についてとりあげ、この人類2000年来の問題を社会心理学者のBaumeisterの"Evil: Inside Human Violence and Cruelty"がついに解いたと言っている。仲間内の評価なので割り引かなければならないが、Happiness Hypotheisの次作のThe Righteous MindはBaumeisterのEvilの結論にそったものなので、重要な貢献として高く評価していることは確かだ。BaumeisterはEvilで家庭内暴力からホロコーストにまでいたる侵犯者の心理を調査した.。Baumeisterが見いだしたのは通常侵犯者は自らを悪いとは思っていないという事実だった。侵犯者は彼らの血なまぐさい行為を防衛的、あるいはやむをえない反応としてとらえていた。侵犯者による自らの行動の理由付けは彼らの極端な独善性をうかびあがらせた。Baumeisterの研究によると貪欲やサディズムは個人的犯罪や歴史的な残虐行為において、比較的少ない役割しか果たしていない。

多くのケースで独善が侵犯行為の主要な原因であるとの主張は常識に反するが、十分な証拠に裏付けられている。貪欲やサディズムは侵犯行為の補助的な要因、少ないケースでの主要な要因という位置づけになるだろう。Baumeisterの言う独善は、常に自分が正当で対立する相手は不当であるとの倫理的独善と常に自分の見方が客観的でこれと対立する相手の見方は偏って歪んでいるという認識論的独善(素朴リアリズム)の両者を含んでいる。これが集団間の対立に拡張されると、我々対彼らにおける集団的独善になる。Baumeisterの言う独善は、過去多くの虐殺や残虐行為を生んできた不寛容複合(倫理的独善・認識論的独善・集団的独善)のコアを形成すると言えるだろう。貪欲やサディズムも重要な役割を果たすが、虐殺や残虐行為の素地を形成するのはより幅広く分布する独善をコアとする不寛容複合であり、種となるのが貪欲やサディズムだろう。サディズムを楽しむ人もいるが数パーセント程度である(『戦争における「人殺し」の心理学』参照)。貪欲は程度問題だが、集団的独善の助けなしに侵犯行為に至るのはやはり少数である。しかし、善良な人でも、侵犯行為とは無関係だとしても、なんらかの独善は避けがたい。

天使の堕落に話しをもどすと、貪欲やサディズムが肉体的欲望汚染説、独善が自己認識欠陥傲慢説に相当する。中世哲学における思弁的理論と現代心理学における実証的研究の結果が対応している点が面白い。

しかし、人間の独善と思い上がりはどこからくるのだろうか?中世哲学では自己認識の欠陥を言っている。これは基本的な論点である。原理的に言って、自分が知らない事については、何を知らないのかどの程度なのか具体的に知ることは不可能である。この無知についての無知、メタ無知は、無知の領域がゼロである全知の神以外は逃れ得ない。従って、純粋な精神的存在である天使もメタ無知からは逃れられない。自分が知っている領域や観点を過大に評価し思い上がる可能性がつねにある。人間もこれを避けることはできない。できるのは、失敗や無知を認め、謙虚さを学ぶことだけである。そして、もはやそれが神でないにしても、より大きな存在を意識した畏敬や謙虚さについて我々が中世の哲学から学ぶことは色々ありそうだ。