道端鈴成

エッセイと書評など

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「丸山眞男の時代」 竹内洋著 中公新書

2006年03月28日 | 書評・作品評
  竹内氏と知り合いの老齢の学者が、本書を読んで「この本は書かれるべきではなかったのです」と憤慨していたと、人から伝え聞いた。その人の甲高い口調を思い出して、すこし笑ってしまった。それだけ信奉者を怒らせるのだから、一読の価値はありそうだと思って読んでみた。戦後の言論界における丸山の位置と言説戦略が、戦前の帝大粛正講演会あたりから始めて、豊富な周辺的資料を駆使して活写されている。評者のように、理系畑で、丸山に興味のなかった人間にも、丸山がなぜ偉いと思われていたのかが、よく分かった。
  丸山が言論界で注目を集めたのは、日本敗戦の翌年の1946年に発表した「超国家主義の論理と心理」だったらしい。この論文では、戦前の日本を西欧の国家主義とはことなる超国家主義として、法的権力と倫理、公と私の別が曖昧で、責任を持った主体としての個が未確立なまま、超国家主義に陥ったものとして位置づけているとの事だ。晩年には、執拗な持続低音としての日本的土着的なものをいったらしい。西欧の社会論理を基準に、そこからの逸脱、偏差として問題となる日本的なるものを執拗に追求している。社会設計主義への認識論的反省と伝統の役割の認識が欠如し、社会主義の可能性を信じ続けていたらしいので、進歩的文化人の元祖みたいな存在だったのだろう。
  本書では、丸山が言論界におけるポジションをいかに確保してきたかが、ブルデューの文化資本の考えを援用して分析されている。丸山は東大の法学部教授で、文学部的な歴史研究を行っている。法学部(国家の行政機構や経済などの権力とのつながり)と文学部(文化資産の本丸)のおいしいところに絡んでいる。また、アカデミーに属しながら、ジャーナリズムでも雑誌を選んで、ときたまに影響力のある論文を出す。批判は高みにあるかのように黙殺する。敵対する在野の研究者とのいやらしいやりとも紹介されている。丸山の絶妙のポジショニングぶりが、豊富な周辺的資料を用いて、竹内氏らしく客観的、かつ信奉者から見たら意地悪に描き出されている。
  丸山のたこつぼ型、ささら型、執拗な持続低音などの比喩は、ややアバウトな標語にすぎない印象をうける。西欧の社会論理を基準に、そこからの逸脱、偏差として日本を捉えようとするアプローチも、純日本的なのを言うのと同じく、ローカルな論理でしかない。梅棹の文明の生態史観や宗教疫学はアナロジーとしてより発展性があるし(宗教疫学についてはスペルベルの文化疫学など)、特定の地域の社会論理を基準にするのではない、より普遍的な社会科学の方向にあると思う。
  本書には、次のようなエピソードが紹介されている。「丸山は師南原繁によって、今の国粋主義系の日本精神論を超克するような「科学的な」日本の伝統思想の研究を要請された。日本思想の論文であっても、注の半分が外国の学者の論文であるように、という無茶な言い方もされていたが、このいい方で、南原の言う「科学的」が、西欧の学問や分析理論をもとにした日本思想論であることがわかる。」(p.94)
  ここで言う科学は、西欧の学問程度の意味で、仮説検証としての科学とは何の関係もない。実際、丸山は論文のまくらにヘーゲルを使ったりしていたようだ。国家の品格の著者で数学者の藤原氏が言うように、いくら精緻に概念体系が組み立てられていても、その説が人間社会に適合するか否かはわからない。哲学として思考の世界だけにとどまっていれば良いが、社会に適用されるなら、それは、ある種の社会神学として機能する。マヤの神官達が独自の宇宙論に基づいて社会に宣託を下すようなものだ。社会神学としての社会主義などは、精緻で雄大な学問体系だったが、それが現実の社会に適用されたとき何が生じたのか。我々は、数千万人の犠牲者とともに、その答えを知っている。社会科学の多くの領域では、まだ学説の輸入と言説の巧みさ程度で、学問的権威を維持できるようだ。その学問的権威とともにその教説が、実施にうつされると、社会神学として、社会に害をなすこともある。法と文、アカデミズムとジャーナリズムの間で影響力を駆使した丸山型の知識人の時代が過ぎた今日でも、社会神学の司祭達の時代はまだ過ぎていない
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科学の厳しさ

2006年03月27日 | 書評・作品評
  以前、たかじんのそこまで言って委員会で、地震予知の特集があった。ややトンデモがかった地震雲の研究がネタにされていた。ゲストのアメリカ人の地震学者が、エピソード的な地震雲の研究を正面から批判をし、鼻から息が出るような、歯が抜けたような脱力感のある日本語で「科学と言うふのふぁきびしぃいものでふ」とかいい味を出していた。たかじんに「先生それわかっとりまんがな」とつっこまれていたが。
  Wolframと言うと、高校時代に量子力学の論文を書いた早熟の才人で、20台でCellular Automataを四クラスに分類する論文を書き、Cellular Automataに関する優れたアンソロジーを出している。もう15年ほど前になるだろう、20台か30台そこそこの浅田彰がテレビ番組でノイマンの研究から始めて、WolframまでCellular Automata研究を実に手際よく解説していたことを記憶している。(プリブラムとの対談やニューサイエンス批判を行った頃の浅田彰はBrilliantだった。)Wolframはその後、数式処理ソフトの定番であるMathematicaを開発し、そのCEOとして巨万の富も手にした。
  そのWolframがCellular Automataを中心に科学の新しいアプローチを書いた大著を準備中という情報があって、大いに期待していた。2002年になって出版された本のタイトルは、A New Kind of Scienceで、1200 ページにもなる大著だった。Cellular Automataによるシミュレーションを武器にガリレオにも匹敵する新しい科学の革新への道をしめすものとうたわれていた。大仰だなと思ったし、物理学者で厳しい評価をしている人の情報もあった。ただ、8000円程度でページ数とグラフィックの美しさと比較するとお得感もあったので、Cellular Automataの参考書にもなるかと購入した。直接の必要がなかったこともあってなかなか読めないで、結局、つんどくになってしまった。
  ひさしぶりにAmazonのサイトをのぞいてみたら、手厳しい批評が沢山寄せられていた。"The Emperor's New Kind of Clothes"(February 28, 2003)では、単純なCellular Automataが計算万能である事はすでに何十年も前に示されていて、計算科学としてWolframは何も新しい貢献をしていないと詳細に批判している。"He's got it all wrong"(May 22, 2002)では、WolframはCellular Automataで自然現象と似たパターンを収集しているが、これの領域はすでに1940年代のKolmogorovらの研究、1980年代のフラクタル以来研究されているもので、Wolframの方法は自然科学に新たな寄与はもたらしていないと指摘し、もっと地道な研究をすれば何らかの科学的貢献も可能だったかもしれないが、CEOとしてYes Manに囲まれてスポイルされてしまったなどと手厳しい。高い評価もあるが、門外漢からのものが多いようだ。
  計算科学や自然科学としてWolframの貢献を直接に評価する能力は私にはないし、複雑系に関する研究には、新しい科学としての可能性の喧伝からホーガンらによる皮肉の科学という全否定まで、科学としての評価に、確定しにくい部分が残っているのも事実だと思う。評価は個々の領域や個別のモデルについて行う必要がある。しかし、A New Kind of Scienceについては、種々の評価を読む限り、誇大宣伝として、厳しい評価の方が妥当と思わざるを得ない。いくら才能に富み、CEOで、千頁を越す大著を著しても、真の新奇性がなく、検証に耐えなければ科学としてはダメである。まさに、「科学と言うふのふぁきびしぃいものでふ」。
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嫌韓問答

2006年03月26日 | アジア論
河端「道端流小泉コメント分析もなかったようだな。」
道端「道端流はやめて下さいよ。今度のコメントはごく普通だったですし。」
河端「やっぱり、チェックしてたのか。」
道端「ところで、河端先輩は嫌韓なんですか?」
河端「WBC見ただろ。マウンドに太極旗突き刺したり、鬱憤晴らしにボールを投げたり、独島は我が領土のプラカードをさらしたり、敗退してからも色々と因縁つけたり。普通の感覚を持っていれば、なにがしの嫌悪感を感ずるなというほうが難しいんじゃないかな。地下鉄の反日絵などに比べると、今回のは、まだ可愛いほうだがな。」
道端「はい。河端先輩に教えてもらって見ました。教師が中学生にあんな絵を描かせて、しかも公共の場に飾るなんて信じられないです。」
河端「「日韓友好のため韓国の新聞を読もう」あたりも読んでみると良いよ。産経新聞の黒田さんや筑波大学の古田先生の本などもお勧めだ。韓国への深い理解と愛情、そして重要な事だが、日本人としての普通の感覚を持って書いている。」
道端「マンガ嫌韓流はどうなんですか?」
河端「表現にはたしかに稚拙なところがあり、これと比べると、小林よしのりなどのデフォルメの威力の大きさが分かるな。内容も一面的ではある。しかしこれらは、事実をたんたんと伝える几帳面さと分かりやすさをもたらしている。内容はネットではずいぶん前から周知の事ではあった。しかし日本のマスコミは、友好とおもねりとりちがえてか何なのか、とりあげようとしなかった。そんななかで、マンガという分かりやすい印刷媒体で表現した意義は、大きかったろうな。」
道端「マスコミではネットの議論を便所の落書きと評し、ネット由来の嫌韓への軽蔑を語る文化人は多いですが。」
河端「道端君は、昨年の4月15日エントリーの記事のコメント欄でこんなことを書いてたよな。「・・・このへんはなにか、言論の傷を見つけたするどい論客のピラニアがいっせいに食いついたような印象をうけました。私も自由な批判的議論を非常に重要だと思っていますが、議論の質を高めるには、批判の対象の議論をできるだけ強いものに設定する事が必用だと思います。ですから、権威あるとされているメディアや専門家などの言論の傷でしたらわかるのですが(この辺がネットの主要な言論領域で、ネットには言論の傷をすばやく見つけて食いつくタイプの論客が多いようです)、単に言論の傷を見つけては食いついていく子供っぽいオートマティズムはどうかと思いますし・・・」」
道端「コメント欄まで読んでいただいてたんでしたか。恐縮です。」
河端「道端君はピラニアとかオートマティズムとか言っているが、ネットの記事や議論では、論拠の提示や議論の整合性のチェックを、広い範囲のソースを参照して自動的に行い、インチキや隠蔽があるといっせいに食いついていく、こんな運動があるようだな。なにしろ自宅のパソコンで検索すれば古いものから最新のものまで世界中の関連情報に網がかけられる。マスコミが報じない、インチキや隠蔽を検出してネットにあげれば、ネットのなかで多くの注目と参照がなされ、マスコミや社会にもなにがしかの影響を与えることもある。2002年のワールドカップあたりからのネットのいわゆる嫌韓記事も、ワールドカップのおける韓国の不品行や疑惑に関する情報について、マスコミの隠蔽があったから盛り上がったのだろうな。ネットに韓国や中国に関する否定的な情報や議論のサイトが多いのは、マスコミの報道の偏りや隠蔽と相関的なものと見なくてはいけないだろうな。」
道端「NYタイムズにでたマンガ嫌韓流への批判はどうなんですか。」
河端「ああ。例の大西記者の記事か。occidentalismというブログで詳細に批判されているので、読んで見ると良いよ。大西というと、小東の反対だな。中華思想から見た、反日エージェントのコードネームかもしらん。」
道端「えっ。本当ですか。」
河端「冗談だよ。まるでなんかの化身みたいだから言ってみただけだよ。」
道端「いわゆる進歩的文化人の対応はどうなんですか。」
河端「事実の検証をぬきにして動機とか社会背景の議論で、いわゆる嫌韓を否定しようとするのが特徴だな。事実の検証に入ると、マスコミの報道の偏りや隠蔽が明らかになるし、反論もしにくい。動機や社会背景の議論で、ネット由来の嫌韓を否定すると、やや上からの議論が文化人ぽいし、ネット対マスコミの局面ではネットを批判した方がメディアの覚えはめでたいだろうし、戦前の日本は悪で日本のナショナリズムは許されないという政治的立場(韓国や中国のウルトラナショナリズムには眼をつむるが)とも整合的というというわけだろうな。」
道端「精神分析では、エディプス複合みたいなトンデモ理論を批判すると、それも抵抗のあらわれだとか、まともな批判や仮説検証の試みから、斜め上に逃げますし、ポストモダンでのソーカルらのテキストに則した詳細な批判に対し、フランス文化への攻撃だとか日本ではポストモダンは制度となってないからソーカルらの批判は関連性がないだとか、やはり正面から批判に答えようとしません。」
河端「ああ、たしかリカちゃんだかなんだか、いたなあ。まあその辺の子難しい話しは道端君に任せるよ。」
道端「はい。そのうち書いてみます。」
河端「で、動機や社会的背景の話しだが、これはどちらの立場からでも、お互い様で何とでも言える。それとは関係なしに、事実の検証は出来るし、しなくてはならない。例えば、蛇嫌いの研究者が蛇毒の危険性を主張する研究を発表したからと言って、お前は蛇が嫌いだからそんな研究を発表するんだなんて、反論はしないだろ。蛇が好きだろうが、嫌いだろうが事実は事実として確定できる。」
道端「たしかにそうです。」
河端「そして言論という点で言えば、ネットでの嫌韓の言論は、マスコミの報道の偏りや隠蔽との関連で、インチキや隠蔽を検出というネットの機能を活かした一定の役割を果たしていると評価できる側面はたしかにある。残念なのは、マスコミがそんな状態なので、事実の認識に基づいた将来の構想や戦略まで言論がなかなかいかない事だ。一方には、事実を誤魔化したお花畑の構想があり、もう一方には事実の誤魔化し、インチキや隠蔽の摘出がある。事実の認識に基づいた将来の構想や戦略の言論までなかなかいきにくいような状況かもしれない。」
道端「ええ。構想や戦略はネットが得意とする領域ではないですから。」
河端「この点で、福沢諭吉の脱亜論は冷徹な事実の認識に基づいた将来の構想や戦略という点で、振り返ってみる価値がある。1885年の論文だから、相当に時代状況は異なるが、変わらない点もある。」
道端「ずいぶん長くなりましたから、河端先輩のご説はあらためてうかがう事にします。」
河端「まあ、ご説というほどでもないけどな。またにしようか。」
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WBC優勝

2006年03月22日 | 時事
  WBC優勝実に目出度い。イチローの熱いリーダーぶり、王監督の神々しい胴上げ姿に感動した。両チーム緊張からかミスはあったが、日本の集中とキューバの粘りはなかなかのものだった。キューバは、国の誇りというのはあるだろうが、スポーツへの熱狂が基本にはあるようで、やっぱりスポーツの応援はこうでなきゃという感じがした。またメキシコのガッツにも感謝だ。韓国は予選の日本戦は、もう次に進むことはほぼ決まっていたのだから、もっと流して、次の準決勝に集中すべきだったろう。しかし、準決勝で勝つことよりも、日本を負かすことを優先したらしい。そして、そのとおりになった。準決勝で完敗した相手が日本だったのは皮肉なことだったが。韓国は応援も含めてスポーツへの熱狂より、別のものが前面に出てきて気持ちが悪い。これに迎合する日本の一部メディアも気持ちが悪い。日本を下に位置づけるのを当為とする小中華的序列と日本を固定の否定的対象とした否定による自己肯定のメカニズム、これがほぼ自動的に運動していて、それに火病エンジンが油を注いでいるという感じだ。ところで、小泉首相が便乗コメントを出して、また、道端君が誤魔化しだとか、言い出さなきゃいいが。 ( 河端大成 )
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WBC準決勝

2006年03月20日 | 時事
河端「昨日の準決勝、日本は快勝だったね。」
道端「ええ。よかったですね。」
河端「相変わらず韓国のラフプレーはあったけど、ボブもおとなしくしてたし、まあ良い試合だった。」
道端「この間はプロレス興業とか言っていたのに・・・」(小声で)
河端「道端、お前何か言った?」
道端「ところで、小泉首相、こんなコメントを出してましたね。」

★「負け組」もあきらめないで=WBC準決勝進出を歓迎-小泉首相

・小泉純一郎首相は17日夜、野球のワールド・ベースボール・クラシック
 (WBC)で日本の準決勝進出が決まったことについて「まさかこういうことに
 なるとは想像しなかった。1度や2度、負け組になってもあきらめてはいけない」
 と述べた。その上で「なんとか今度は頑張って勝ってもらいたい」と語った。
 首相官邸で記者団の質問に答えた。

道端「これは、経済における格差固定として問題になっている勝ち組、負け組に関して、小泉改革に対してなされている批判に対して、スポーツの比喩をつかっての反論というか、世論を意識した発言ですね。」
河端「まあ、そうだろうな。」
道端「負け組もあきらめるな。日本代表と同じでチャンスはあると。」
河端「そのとうり。」
道端「経済を勝ち抜きのリーグ戦に喩える事は適当ではないですね。リーグ戦は一方が勝てば一方が負けて、最後の勝者のイスは一つしかないです。それを目指して各チームが、あらゆる人間的集団的リソースを出して必死に戦う、ここにドラマと感動がうまれます。ここでは、登場人物は各チームですが、舞台を設定しているのは、一方が勝てば一方が負けて、最後の勝者のイスは一という過酷なルールです。経済はこれとは、違います。時事ネタに便乗して、適当な比喩で、批判を誤魔化そうとなぞしないで欲しいですね。」
河端「また。話しがそこにいったのか。せっかく良い気分だったのに・・・・まあ、経済の話しはまたあとでしよう。」
道端「ええ。そうですね。明日のキューバ戦、楽しみですね。」
河端「そうだな。道端、お前もしっかり応援しろよ。」
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プロレス興業じみてきたWBC

2006年03月18日 | 時事
◇「相撲より判定難しい」 首相、WBCの米国戦で
小泉純一郎首相は13日夜、野球の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)2次リーグの米国-日本戦で、日本が審判員の判定変更で勝ち越し点を逃したことについて 「(飛球を)取った方と(三塁走者が)スタートしたのが同時だからね。相撲の判定より難しい」と述べた。 首相は「いい試合で勝てそうな状況だった。日本もよくやるなと(思った)」と今後の健闘に期待を込めた。 首相官邸で記者団の質問に答えた。 (了) [ 共同通信社 2006年3月13日 20:10 ]

  首相は、相撲と比較しているが、WBCはなんだかプロレスの興業じみてきたな。ボブとかいうクソ審判、メキシコ戦でもインチキやらかして、結局、筋書きがくずれて、アメリカが負けたものだから、見事なヒールぶりだ。それにしても、TBSの古館あたりのはしゃぎよう、アメリカが超ドジふんで、韓国が勝ち続け、日本が負けたんだから、TBSにとってはクリスマスと盆と正月とが一度にきたようなものか。古館はもともとプロレス興業の饒舌絶叫アナだったしな。韓国も好投攻守に専念していればスポーツとして評価できるものを、マウンドに旗たててウリナラマンセー、期待を裏切らないイタイ連中だ。メキシコはがつがつしてない正義の仮面レスラーといったところか。決勝は、日本と中米のチームのスポーツとしての良い試合がみたいものだ。(河端大成)


せっかくの河端先輩のエントリーですが、小泉首相の発言について、一言付け加えさせて下さい。スタートしたのが同時ならセーフです。また今回の誤審は、判定が難しいといったレベルではありません。ポジショントークとしての機構は果たしていますが、中味がひどすぎです。「スタートしたのが同時だからね」で「愛子さまのお子さまが男児でも」の発言を思い出しました。あの発言でもルールを全く理解せずに、ポジションどり、フィーリングへの訴えをしていたのかもしれません。(道端鈴成)

道端君もしつこいな。所詮スポーツだし、政治家は適当な友好的発言していればいいんだよ。(河端大成)
  
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スポーツの意義

2006年03月13日 | 雑談
 以前、運動選手を相手にスポーツの意義を問わなければならないはめになった事がある。運動選手の気持ちを理解せずに、思考の柔軟性を見ようと質問をなまじ工夫したのがいけなかった。陸上100mの選手に「100mの世界記録なんていったって、せいぜい時速37km程度、そこらのおばさんのラッタッタでもそれ以上出すんじゃないかな?そこを35kmだ、37kmだなんて、大騒ぎして意味ないんじゃない。」と問いかけた。そうしたら、その選手は、すこし考えてから、やや不機嫌そうな声で「いやあ、それは間違っている」と言った。どうくるかと息をつめて待っていると、「それは、走り出しの時を考えていないから、だめです。最速では、時速40kmを越えます。」と断固たる口調で答えた。なかなか面白いやつだな、ポイントは外しているけど、などと思った。次は、ハンマ-なげの選手だった。室伏選手を尊敬していると言っていた。100mの選手の事があったので、すこしとまどったが、同様に「アメリカでは牛糞なげってあるらしいね。ハンマ-投げがあって、スプーン投げとか、しゃもじ投げがないのはなぜなんだろう。前に広島の宮島で、しゃもじ沢山みて、面白いんじゃないかと思ったけど。」などとやってしまった。そうしたら、キットにらみつけられ「あなたは、スポーツを愚弄しているのですが。」と詰問された。その怒りの真剣さに打たれて、もうポイントは外しているけどとか、不埒な事を思う余裕もなかった。(河端大成)
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価値の場と生き甲斐

2006年03月12日 | 心理学
  ボードレールの「パリの憂鬱」に“酔い給え”と言う散文詩がある。「常に酔っていなければならない。それこそ唯一の問題である。汝の両肩を圧し砕き、汝を地面の方へ圧し屈める。怖るべき時間の重荷を感じまいとするならば、汝を酔わしめてあれ。さらば何によってか? 酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むままに。ただに、汝を酔わしめよ。」
  人間も輪を廻して走るネズミ、ニンジンを追いかける馬と変わらないのだろうか。動物は、その時々の動因の状態に依存してきまる物理的環境世界に張り付いたアメ(正の価値)とムチ(負の価値)からなる、正負の価値の環境場のなかで、正へ惹かれ、負から逃げるように行動する。ダンゴ虫が日向で移動を活発化し、湿った影へ移動して落ち着き、蟻が蜜に集まるのは、正負に張られた価値の環境場での勾配に従った移動である。蟻などでは他の蟻の残したフェロモンの勾配に従って移動することにより、餌を求めての集合的な移動が生じている。こうした、正負に張られた価値の環境場での勾配における集合行動はStarLogoという環境場における多エージェント行動をシミュレートする教育用のソフトで見ると非常にわかりやすい。プログラムはStarLogoのサイトで無料でダウンロードできる。ProjectのAntでは蟻の集合摂餌行動、Slimeでは粘菌の群体形成、Termiteではシロアリの材木あつめといった、一見集団としての意図を持って遂行されるかに見える環境場における集合行動が、個々のエージェントの簡単な行動ルールによって自己組織的に生成されうることが確認できる。正負の価値の環境場における動物の行動では、このように単純で分散的なルールにより、一見集団としての意図を持ったかに見える集合行動は起こり得る。しかしこれは、環境の場を介して他の動物との行動のTuningが行われたり、あるいは直接に他の動物と相互に刺激を与えあって行動のTuningが行われているだけであり、人間の価値追求行動におけるように、他の個体の意図を理解しての社会性とはレベルが異なる。(この辺は、最近研究が大いに進んできた領域で「心とことばの起源を探る」などはおすすめである。機会を改めて紹介したい。)アメ(正の価値)とムチ(負の価値)を無条件刺激とすると条件付けにより条件刺激へ価値が転移する事は動物でも、人間と同様に生ずる。
  人間も動物と同じく、その時々の動因の状態に依存してきまる物理的環境世界に張り付いたアメ(正の価値)とムチ(負の価値)のなかで生きている。空腹で食べ物を欲し、腐った匂いを嫌悪し、炎熱を避け、緑陰に逃れる、等々。しかし、人間の場合、社会的な指し示しと言葉によって形成された象徴的な価値の場が、物理的環境世界を覆いつくしている。人間社会はその物理的環境を集団的に制御しており、人間は単独では物理的環境で生きる事はできないので、社会的象徴的な価値の場の影響は非常に大きい。日焼けがかっこいいと自らが属するグループが評価すると、炎熱に身をさらし好んで皮膚に炎症を形成しそれを誇る。人間は互いに行動を評価しており、自らや自らの行動を評価する場合も自らが属する集団の眼を内面化しそれを通じて評価を行っている。そして集団の評価はある種の秩序と階梯を備え、変更されつつ伝えられていく。この秩序と階梯は、正の価値の極(集団における聖なるもの、最高の境地など)と負の価値の極(集団における悪の極み、汚辱など)を両極として、ある種の梁のようにして象徴的な価値の場をはる。閉鎖された宗教的社会など正負の価値の極が明確で、人々は同じ梁のなかで移動することになり、人々自体も共有の正負の価値の極の間の階梯のなかにおかれる。アノミーの状態では、人々に共有される正負の価値の極がばらけてしまい、正負の価値の勾配の方向性が定まらず、人々は混乱のなかにおかれる。社会全体がアノミー化すると、局所的に形成されるカルト宗教などの正負の価値の極が明確な梁のなかに飛び込む人も出てくる。
  ボードレールの“酔い給え”にもどると、これは、キリスト教における正負の価値の極が明確な梁に安住できなくなったボヘミアン詩人が、アノミーと退屈に苦しみ、自分の正の価値の極、神を持てとすすめている詩であると解釈できる。ただし、これは一人の思いつきで頑張っても、なかなか難しいだろう。人間における象徴的な価値の場は、社会的な指し示しと共同体的な言葉によって形成されたものだからである。以前、家族からは邪魔にされつつ、またほとんど理解されることもなく、たぶん先輩や先達もなく、苦労してリヤカーで世界一周した人が紹介された番組を見た。次はリヤカーでの北極圏横断を目指して日々トレーニングと練習に励んでいた。この人は、ほぼ一人で、正の価値の極からなる価値の場を作って、そのなかで充実して生きている、すごいと感激した覚えがある。普通の人はこうはいかない。象徴的な価値の場を共有する集団、評価してくれる人、歴史へつながることによって、始めて、実効的な象徴的な価値の場が形成される。
  一般的に言うと、生き甲斐、幸福感は、価値の場で負から正へ向かう勾配のなかを移動するときに経験される現象である。
  たとえば、戦争で生命の危険にさらされてきた人には、心配なく夜眠れるだけで幸せである。飢餓に苦しんだ人にはお腹一杯たべられれば幸せである。この意味で現在、衣食が満ち足りて、欠乏の経験がなく、将来不安だというのは、過去から現在、未来をつなぐ、価値の場における正の勾配が得られにくいので好ましいことではない。かつての戸塚ヨットスクールのように生命の危機に直面させるところまで行かずとも、なんらかの欠乏、危機を経験しておくことは、正の勾配を得るための参照点を提供する上で、ゆたかになった社会には必要な知恵だろう。イスラエルの過越しの祭りや、イスラムの断食月、イギリスのパブリックスクールなどにおけるエリート教育の厳しさなどは、そうした状況に対応する文化装置の側面もあるのかもしれない。
  また、人間における価値の場は、基本的に社会的に織りなされているので、集団から認められている、必要とされているという社会的な是認の感覚も、生き甲斐、幸福感には、不可欠である。この点で、仏教には興味深い側面がある。仏陀は、仏教修行のゴールを良い仲間を持つことだといった。また、禅仏教では、師匠から弟子への伝授のつながりが強調される。キリスト教にような聖典と神義論にもとづく、象徴的な価値の場形成とは異なった、集団と歴史的継承に重点を置いた象徴的な価値の場の形成がここではなされているように思える。文化的に意味のある達成は、かならずなんらかの歴史的継承を基盤になされている。歴史的継承を無視すれば、新規な価値のあることが達成されるなどと考えるのは、近代の浅はかな人間観社会観にもとづく、思い違いにすぎない。
  戦後のゆたかな社会における我々の、特に若い世代の不幸は、正の勾配を得るための参照点を提供するような文化装置を考えるような知恵の欠如だけでなく、歴史的継承の重要性をないがしろにしてきた近代の浅はかな人間観社会観を無思慮に受け入れ、それが骨がらみになってしまった点にもある。
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自殺

2006年03月10日 | 思想・社会
  むやみやたらにひとりごとといったタイトルで、開設者本人の自殺未遂の経験が赤裸々に綴られたサイトを読んだ。予告記事を残し、昨年の末に山で自殺を既遂してしまった。亡くなってしまってからも、友人や知人、通りすがりの人の書き込みが続いている。知的で優しく、多くの人に愛された人だったらしい。読んでいてなんだか妙な感じがした。以前にガンで亡くなる直前の同僚からメールをもらった時の事を思い出した。
  考えと、行動と人間関係が自殺というアトラクターをめぐってまわり始めて、結局、死にすいこまれてしまったように思えた。中高年における生活苦や病気での、追いつめられての、あるいは、万事窮しての自殺とは異なる気がする。青年期における死の想念は、あらゆる恥辱と自負をすいとって、雑多な現実を超越する点をなにがし示しはするので、ある種の甘い吸引力があるのかもしれない。
  だいぶ古いが、ホメオスタシスの概念の提唱者のキャノンに「からだの知恵」という名著がある。我々の身体が、いかにして生命を維持しているのかの仕組みには驚くべきものがある。今日でもまだ完全には解明されていない。自己の生命を消滅させようとしても、簡単でないのは、我々の身体や無意識が、生命を断とうとする行為に必死に抗しているからだ。自殺(Suicide)は、やはり、自らを対象とした殺人の一種であると思う。何でもいいから夢中になれるものを見つけて、自己への関心の集中と自己消滅の想念から、はなれられなかったものかと思った。
  以上は概念的な一般論である。本当のところは、その身にならなければわからない。そうした語りえない領域は、宮沢賢治の詩、「青森挽歌」(「春と修羅」)や〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕(「春と修羅」補遺)などが、ぎりぎり表現しているように思う。
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日本語の人名表記と正書法

2006年03月07日 | 言葉・芸術・デザイン
  ずいぶん前に、緑夢で「ぐりむ」と読ませるという記事を読み、はやりの万葉仮名風の表記をも超えた大胆さというか放恣さに、驚いた記憶がある。トリノオリンピックで、その後の消息に出会う事が出来た。
  日本語の人名表記は、でたらめかつ、混乱のきわみの世界である。日本には、約14万の苗字がある。また、珍妙なよみの個人名も日々うまれている。日本語における文字コードの問題は、人名表記の問題である。
  よみと漢字の対応のでたらめは、苗字と個人名の両方で大規模にしょうじている。苗字には、なぜそうよむかわからないようなものがおおい。たとえば、五十嵐(いがらし)、乃位(のぞき)など。紫田(しばた)は、「紫」を「柴」とまちがえてつかったのを、そのままよみにしてしまったものである。また、いくとおりものよみががあるものもある。四方(ヨカタ、シホウ、シカタ)など。また、ひとつの音に対応する苗字の漢字はきわめておおい。たとえば、「ソガ」にたいしては、蘇我、曽我、十川、十河、宗丘、宗宜、宗岳、宗我、宗賀、崇賀、我何、曽加、曽宜、曽賀、曾宜、曾我、曾谷、素我、素賀、蘇何、蘇宜、蘇宗、蘇賀など、あとJIS第二水準では表記できない文字をつかった「ソガ」が二種類ある。一方、名前のほうは、名前につかう漢字の制限はあるが、漢字とよみの対応の制約はない。このため、緑夢(ぐりむ)などの外国語の音をあててもよいし、温大(はると)など、よみはどうふっても自由である。最近のはやりは、沙矢香(さやか)などの万葉仮名風の表記とよみである。以上の結果として、人名の名簿では、漢字とよみがなの両方を参照しないと個人を識別してよぶことができなくなる。
  苗字には、さらに異字体の問題がある。渡邊・渡辺、藤澤・藤沢、広瀬・廣瀬、程度ではない。手書きにおける字体のすこしの差異も、戸籍の電算化とともに、異字体として登録されてしまう。学校の名簿でも、梯子高などは、JIS第二水準までのパソコンでは、対応するフォントなしとして、ゲタ(〓)で表示されてしまう。「團」という作曲家は、「団」という宛名の郵便物はすべてうけとりを拒否したと自慢している。これは、文字フェティシズム、文字の呪術崇拝をほこっているようなものである。
  名前の出鱈目な読みの新感覚の世界を見て、以前、戸籍の電算化とかで、役所で初めてみる字体のフォントを示され、あなたの苗字は電算化するとこうなりますとか言われ、役人と言い合いになり、こんな文字フェチを飼うために税金を払っているのかと憤慨した事を思い出した。一方には、漢字の字体に拘泥し、判子で一杯の、そして奇怪なお役所言葉と整備文の形式主義の世界があり、もう一方には出鱈目な読みのフィーリング世界がある。簡潔明解な日本語など知ったことではないというのだろうか、両方で日本語をもてあそんでいる。
  日本を代表する人類学者の一人である梅棹忠夫氏は、日本語における複雑で煩瑣な文字表記に、大文明を担う文字表記システムとしては問題があると、早くから警鐘をならしてきた。日本語の文字表記の混乱を是正するためには、ひらがな表記による名前の音を一義としてもっと大切にし、漢字の字体とよみとの対応は標準的なものに制限する必要がある。オングが名著「声の文化と文字の文化」で説いているように、文字や記号システムが思考や文化のありかたに与える影響は思いのほか大きい。
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アカペラ

2006年03月06日 | 雑談
  知り合いの人に誘われてアカペラのライブを聴きにいった。
  アカペラのライブは、初めてで、ポンポンという声の伴奏みたなのも面白く、声だけであれだけ表現できるのに感心した。ビートルズのIn My Lifeを聴いていて、モンテヴェルディのマドリガルを好きだった事を思い出した。
  カーナヴァーウ(http://www.carnaval.jp/)という女性四人のグループである。すこしトリノオリンピックのカーリングのチーム青森みたいな感じもした。
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