道端鈴成

エッセイと書評など

マタイ福音書冒頭の系譜について

2006年04月06日 | 思想・社会
  iPodには、International Bible Societyの聖書の朗読も入れている。新約と旧約の全部が入っている。四福音書からなかなか先にすすまないけど、結構面白い。信者でもなんでもなく、ある種の民族学の資料というか、客観的に吟味するような態度で聴いているのだが、新約のキリストは、すばらしい比喩を用いて教えを説いているし、ヨハネの福音書など聴いていると、なぜ信じてくれない、あなたは私を通じて神を、と媒介者の論理をつかって必死になって訴えているのに打たれる。けっこうはまる。ミイラとりがミイラになったわけではないが、ふだんの会話でもキリストはこんな事を言っているがなどと、つい出てしまう。
  新約聖書の冒頭に掲げられた「マタイによる福音書」は、アブラハムからキリストにいたるまでの系譜の列挙から始まっている。アブラハムからダビデ王まで14代、ダビデ王からバビロン移住まで14代、バビロン移住からキリストまで14代、計52代である。新約がこの長たらしく退屈な記述から始まるのは、これが、旧約における民族の物語と新約のキリストの物語のつなぎであると同時に、キリストに血統の正統性を付与するものでもあるからである。
  この箇所は、日本聖書協会の日本語訳では「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ、ヤコブは・・・・」といった感じで書かれている。International Bible Societyの英訳では "Abraham was the father of Issac, Issac was the father of Jacob, Jacob was the father of ..."となっている。英訳がはっきりと父系の系譜であることを明示しているのに対し、日本語訳はここが曖昧になっている。ギリシア語の原文がどうなっているか知らないが、聖書のなかでfatherという言葉がしきりに出てくることを考えると、英訳の方がギリシア語の原文に近いのではないかと思う。最も、キリストはアブラハムから父系でつながるヨセフの子だが、母マリアは処女懐胎なので、普通に考えるとアブラハムからの父系はヨセフまでで切れている。まあもともと、処女懐胎で男子が生まれるなんてメチャクチャなはなしなんだが。

毎日世論調査

2006年04月05日 | 時事
毎日世論調査:「次の首相」に期待 中韓改善4ポイント増
 毎日新聞が1、2日実施した全国世論調査で次の首相に何を最も期待するかを尋ねたところ、「景気回復」が27%と最も多く、「少子高齢化問題への対応」23%、「財政の再建」20%、「中国、韓国との関係改善」11%などと続いた。同じ質問をした12月調査と比べ、財政再建が11ポイント減り、中韓との関係改善が4ポイント増加したのが目立つ。
 「次の首相にふさわしい政治家」との関係では、中韓との関係改善を挙げた人の36%が福田康夫元官房長官がふさわしいと答え、安倍晋三官房長官の34%を上回った。アジア外交に懸念を持つ層は、安倍氏以上に福田氏に期待感を抱いているようだ。財政再建など他の政策はすべて安倍氏を挙げた人が最多だった。小泉内閣支持との関係では中韓との関係改善に期待する人の57%が小泉政権不支持層だった。【渡辺創】
毎日新聞 2006年4月4日 3時00分

11%の内訳でここまで書くとは。いっそ、本誌の調査によれば、小泉政権不支持層の100パーセントが小泉政権を支持しないと答えたとか、有識者の意見を調査したところ福田氏を支持する声が多数をしめた、街の声をきいたところ福田氏を支持する声が多くきかれた、とかやれば良いとか思うけど、朝日との違いだろうな。(河端大成)

鮑のし

2006年04月04日 | 雑談
  60GigaのiPodを手に入れて、CDを整理している。音楽から落語、朗読までいくらでも入る。100枚ちかく入れてもまだ4Gigaにもならない。ひとまとめにポケットに入れておくと、歩きながらでも聴けるのがうれしい。
  そんなことで、久しぶりに落語を聴いた。志ん生の「鮑のし」は、こんなはなし。
「ちょいと人間がポーッとしている甚兵衛さん。仕事もしないで家に帰ってきて、腹が減ってしょうがないからめしを食わせてくれという。おかみさんは大層腹を立てたけれど、これからしっかり働くから食わしてくれよと頼み込まれて、仕方なく許してやる。けれど、なにしろ家に食うものなんぞありゃあしない。そこでおかみさんは、甚兵衛さんに入れ知恵をしてやった。まず山田の旦那に五十銭借り、魚屋で尾頭つきを買う。ちょうど大家のうちに嫁入りがあるから、その尾頭つきを持っていけば礼に一円もよこすだろう、そうしたら山田さんに五十銭返して、のこりの五十銭で米を買って食えばいい――。甚兵衛さんはたいそう感心して言うとおりにしたが、魚屋に行ったら尾頭つきは鯛しかない。高くて買えないから、仕方なく鮑を買って大家の家へ。ところが大家、鮑は「磯の鮑の片想い」と言って縁起が悪いとヘソを曲げ、突っ返されてしまった。」(http://zaba.fromc.com/neta/awabinoshi.html)
  火焔太鼓などと同じく、しっかりものの女房とぼんやり旦那の定番コンビである。志ん生が一番油ののった時期の録音で、酔った蟹のタテ歩きのまくらから始まって爆笑の連続。甚兵衛さんは、鯛を金魚の取り締まりと言ったり、素敵で罪のないまぜっかえしを連発する。「うけたまわりますれば」は言葉が丸まってまっつぐでない(実際発音してみると、舌が前後に動く)など、まくらの陽の手と陰の手もそうだけど、観察もするどい。わたしとお前の人称代名詞をつかった意図的なイロジカルなまぜっかえしなどは、志ん生ならではである。比喩も「おめえさんに金を貸しゃあ出しっぱなしになっちゃう。公園の水道みてえんなっちゃうからダメだ。」など、意表をついて的確だ。ぼけぶりが秀逸で、洒落ていてシュールで人情味があり、まさに絶品。だけど、歩きながら、これを聴いて一人で笑っているのって、どうなんだろう。

アジア問答

2006年04月03日 | アジア論
道端「今日は、河端先輩のご説を拝聴にきました。」
河端「よく日本もアジアの一員としてとか、思いれたっぷりに言うのがいるが、アジアで何を指し示しているのか分かっているのかな。」
道端「ユーラシアの非キリスト教圏がアジアという、西欧からの一方的な視線オリエンタリズムをそのまま受けれてしまって、アジア各地域の文化を具体的に知ろうとしていないのかもしれませんね。人の口まねをして、創造性が大切だなんて言うタイプと近いんでしょうね。」
河端「道端君もなかなか手厳しいな。まあ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、旧約聖書を聖典としている聖典の民だ。聖典の民とそれ以外という区分ならまだ分からないでもない。いくらなんでも、イスラム教地域も含んだ、アジアというくくりは異質なものを含みすぎだろう。」
道端「レヴィ・ストロースは、悲しき熱帯で、女性的な文化である仏教徒の元にいるときの安らぎと超男性的な文化であるイスラム教徒の元にいるときの居心地の悪さを対比させ、西欧人はイスラム教に自らの文明の誇張したものを見いだすからだろうとか書いていました。」
河端「たしかに旧約聖書とエホバは猛烈な文化ウィルスだからな。あれに感染するとしないでは違いは相当に大きいだろう。新約のキリストは、仏教徒というトンデモ説もありえるかーみたいな平和主義者だけど、マホメッドはまた違うから、ややこしいな。」
道端「ユーラシアの文明の区分でしたら、梅棹が指摘したような日本やイギリスのような海洋地域と中国、ロシアのような内陸ユーラシアの対比は重要ですね。日本は縄文、イギリスはケルトと狩猟採集文化の影響が強く残っている点もありますしね。」
河端「先進国、進昂国、後進国という産業化段階の分類もあるな。また自由主義国か共産主義国かの違いも忘れてはいけない。」
道端「なんです。進昂国というのは。」
河端「産業化がある程度進み、国民国家意識が高まった段階の国だな。保有している文化ウィルスによっては相乗作用でウルトラナショナリズムを発症することもある。」
道端「結局、文明の分類の基準は複数あって、各地域の文明は各基準に相当する複数の層が重なったものとしてとらえられるということでしょうか。」
河端「まあ。そうだろうな。西欧などは、キリスト教、ギリシア・ローマ文明の影響、産業化段階と複数の基準が合致するからまとまりとして扱う事も可能になる。もちろん、海洋か内陸か、基層文化の種類などで、バラエティーは出るが。これに対し、いわゆるアジア地域をひとまとめにするような複数の基準の合致は見られない。だから、アジアなどといった文化的なまとまりは存在しない。仏教文化圏、環太平洋自由主義諸国、など、個々の基準にしたがったくくりは可能だろう。しかし、これらはアジアといった名前で呼べるようなくくりではない。以上だ。」
道端「アジア的やさしさとか、なつかしさとか、人のつながりとか言う人もいますが。」
河端「人間社会には色んな面がある。こういうのは世界中どこでもある。センチメンタルなたわごとにすぎん。」
道端「いわゆる極東といわれる地域はどうなんですか。仏教、漢字、儒教など、共通の文化要素は多いのではないでしょうか。」
河端「中華文明圏とでも言いたいのかな。日本は大陸国家ではない海洋国家だし、文明の基盤には狩猟採集文化である縄文文化がある。仏教はインド伝来の真にインターナショナルな宗教だし、日本への儒教の影響は中華、小中華での宗族の儀礼とは全く異なる道徳的な教え程度で、日本の祖先崇拝はこれとは全く違うものだ。文字も漢字を借用はしたが、言語は全く異なり、全く独自の表音的な表記法を早い段階で開発し、その表記法が文明の基礎となっている。朝鮮半島は中華文明圏にはいるだろうし、そうさせておこう。しかし、日本は、梅棹が1960年代に文明の生態史観で言ったように、大陸の中華文化圏とは明らかに異なる原理での文明の歴史を形成してきた。最近では、ハンチントンの大づかみな文明の八分類のなかでも日本は独自の日本文明に分類されている。」
道端「そうですね。ハンチントンの分類では仏教文化圏のおさまりが悪いのが面白いですね。結局、各地域の文明は複数の層が重なったものですから、どの層とどの基準による区分を重視するかの、文明の分類は、文明の自己定位の問題にもなるんでしょうね。」
河端「そのとおりだ。日本文明の歴史的な基盤は今いったとおりだ。文明の自己定位としては、共産主義ではなく自由主義、権威と思惑に事実と論理を従属させるのではなく自由な言論と科学を大事にするといった方向性が基本だ。そして、日本文明の独自性を象徴する皇室とその正統性は大切に守っていかなければならない。結局、福沢の脱亜論は、日本文明の自己定位の論だった。福沢の時代と今では、どこが同じで、どこが違うのか、今後、どう定位すべきか。この辺の話しはまたにしよう。」
道端「はい。河端先輩の快刀、麻を断つようなお話、楽しみにしてます。」
河端「おいおい。普通に麻を断ったらいかんだろう。乱麻を断つだよ。」
道端「あっ!失礼いたしました。」

「統計学を拓いた異才たち--経験則から科学への一世紀--」 ザルツブルグ著 日本経済新聞社

2006年04月02日 | 書評・作品評
  統計学については、品質管理を初めとして、医学、薬学、農学、心理学、経済学、等々の広い領域における沢山のテキストや解説書が書かれている。統計ソフトウェアの解説書は山積みである。統計学の数学的な専門書もある。しかし統計学について論じた本は非常にすくない。これは、時空に関する物理学、進化論、分子生物学、最近では複雑系などについて、その研究の歴史や哲学的意味が大いに論じられているのと対照的である。統計学はあくまでテクニックとして行うものであって、論ずるものではないと考えられているかのようだ。
  しかし、人類の知的な探求の営みとして考えると、統計学には非常に興味深い特徴がある。まず、統計学的な認識は歴史的にかなり遅れて生じている。例えば、折れ線グラフや棒グラフなど、データのごく素朴な図示の方法だが、18世紀にイギリスのPlayfairが発案したものである。二つの変数の関連を示すごく基本的な指標である相関係数がゴルトンによって考案されたのは、20世紀も近くになっての事である。ニュートン力学における科学革命が、ギリシア以来のエピステーメの世界におけるコスモスの確定的な秩序を求める伝統的な知の営みの延長線上にあったのに対して、雑多で偶然が関わる世界のデータを扱い結論を見いだそうとする統計学における知の営みは、こうした知の伝統とは全く異質なものだった。科学哲学者のイアン・ハッキングは、「偶然を飼いならす --統計学と第二次科学革命--」で、18世紀から19世紀にかけて成立した統計学を、ニュートン力学がもたらした科学革命につぐ第二の科学革命として位置づけている。ハッキングは、この第二次科学革命は、17世紀の社会統計表などある部分では社会科学が先導し革命が進行した点に特徴があると指摘している。統計学が相手にする、雑多で偶然が関わる世界は、数理的秩序が美しい結晶や軌道の形をとって現出する純粋な自然科学とは異なって、雑多な日常や社会の出来事が大いに関わってくる。ギロビッチは、「人間この信じやすきもの --迷信・誤信はどうして生まれるか--」 で、迷信・誤信に陥らずに批判的に思考する能力を育てるには、確定的な秩序を扱う純粋な自然科学よりも、統計的分野の方が有効だったという研究を紹介している。統計学は、歴史的にあたらしい形態の知であり、批判的な思考能力育成につながる。だから、統計学については、たんなるテクニックとしてではなく、その歴史的、認識論的な意味についての議論がもっとなされるべきである。統計学を無知の制御として位置づけ、数学基礎論からファジー論理、社会学まで検討した野心的な本としてSmithsonによるIgnorance and Uncertaintyがある。構想が野心的すぎたせいか、1989年の出版以降、この本の方向での展開はあまりなされていないが、今後の展開が期待される。これについては、また機会を改めて論ずる事にしたい。
  「統計学を拓いた異才たち--経験則から科学への一世紀--」は、統計の実務家による統計学の歴史の本である。カール・ピアソンから始まって、フィッシャーから、Turkeyなど、かなり新しいところまで、統計的定式化の内容にまで立ち入って(全く数式なしで、数式も添えた方が分かりやすいのではという箇所もあったが。)書いてある。カール・ピアソンの測定による分布の算出、ギネスビールにおけるゴッセトのモンテカルロ法、フィッシャーの農場データ、医療現場、品質管理、等々、統計家達が解こうとした問題領域をちゃんと踏まえて書いてあって、さすがは実務家と感心した。
  エゴン・ピアソン(カール・ピアソンの息子)とネイマンによる、仮説検定の教科書的な定式化について、フィッシャーや最近では品質管理のデミングなどが批判的なことを知って面白かった。
  次は、フィッシャーが1929年の心霊研究予稿集に書いた論文からの一節である。
「慣例として、偶然によって生ずるのが二十回の試行のうち一回未満という程度であれば、結果は有意であると判断する。研究の実務に携わっている者にとってこれは恣意的だが、便利な有意水準である。だからといって二十回に一回判断を誤るというわけではない。有意水準は何を無視したらよいかを教えてくれるだけにすぎない。言い換えれば、すべての実験で有意な結果が得られないということだ。かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている場合、現象は実験的に論証可能であると主張するにとどめたほうがよい。そのため、再現する方法がわからない有意な結果がぽつんとあっても、これはあらためて解明されるまで未決定のままなのだ。」(p.124.)
  透視能力の存在に関して、5パーセントの有意水準で、完全な当て推量という帰無仮説からでは説明できない実験結果が得られた、などという論文における統計の間違った使い方への批判である。たまたま有意差が出た結果を論文として報告する。この種の統計の間違った使い方は今日でも結構ありそうだ。P値が0.05以下なら実験は成功、0.05以上なら実験は失敗と、一回の検定で確定的統計的結論(??)が出るかのように、考えている人も多い。
 ザルツブルグは、フィッシャーによるp値の使い方について次のようにまとめている。
 「「かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている」という表現に注目しよう。これはフィッシャーならではの有意性検定の使い方の核心である。フィッシャーにとっての有意性検定は、特定の処理効果の解明を問題とした連続した実験においてのみ意味を持つのだ。フィッシャーの応用論文に目を通せば、有意性検定を使って三つの可能な結論から一つを得ていたと信じるに至るだろう。もし、p値が非常に小さければ(通常0.01未満)、効果があると言明する。もし、p値が大きければ(通常0.20以上)、効果があったとしても、これはあまりにも小さくて、この規模の実験では検出できないと言明する。もしp値がこのあいだにあれば、効果がよく得られるために次の実験計画をどのようにすべきか議論する。」(pp.124-125.)
  p値の解釈、統計における確率の解釈には、今日にいたるまで色んな議論があるらしい。本書では、カール・ピアソンの多量の測定による確率分布から始まって、コルモゴロフによる確率論の公理化、個人確率、カーネマンらによる主観的確率まで、研究の歴史を紹介している。喧嘩っ早いカール・ピアソンの晩年の寂しい姿、t検定を考案したギネスビールのゴセットによる深夜の膨大なサイコロ実験、天才フィッシャー気むずかしさ、コルモゴロフやTurkeyの多才ぶりなどエピソードも豊富である。因果律の問題をラッセルが始めて指摘したかのように記述したり、イアン・ハッキングを参照しないなど、哲学にはやや弱いらしいが、統計の実務家による統計学の歴史の本として読みやすく有益な一冊である。日本軍の非金属地雷など誤りもあるが、翻訳はしっかりしていて、明白な誤りは、訳者が指摘を行っている。