道端鈴成

エッセイと書評など

日本語表記とキャッチワード

2006年05月27日 | 言葉・芸術・デザイン
  日本語の語彙は、大きく四つの層にわかれる。和語、漢語、外来語、オノマトペである。和語はひらがなと訓読みの漢字、漢語は音読みの漢字、外来語はカタカナ、オノマトペは主にカタカナ(時にひらがな)でそれぞれ表記される。漢語は西欧の言葉の翻訳語として日本で考案されたものも多数あるが、ほとんどは中国語からの借用である。外来語は、西欧の言葉を日本語風の発音にかえて借用したものである。和語とオノマトペは日本固有の語彙である。
  外国からの借用語が語彙の重要部分をしめるのは、英語を初めとしてどの言語でもあることで珍しくはない。しかし、こうした語彙の層の違いが文字種の違いと連動しているのは日本語だけである。日本語では、借用語が、単により詳細で新奇な指示機能をもつ単語の導入としてだけではなく、文字種の違いと連動して独自の含意を伝える機能ももつようになった。柳父は、社会科学などで用いられるはなし言葉とのつながりがよわい漢語の語彙が、文字崇拝的に非日常的なよきものという含意をもつ、カセット(宝石箱)効果を指摘している。婉曲語法の効果もある。
  文字種と語彙の層がむすびついた多層の語彙を持ち、カセット効果や婉曲効果などの含意を自在につかえることは、CMや印象操作として言葉を使うときには、非常に有用である。しかし、言葉で事実を的確に指示しつつ腑分けして議論を展開しようとするときには、ときに落とし穴として働く。キャッチワードによる思考の罠である。言葉には元々呪術的側面があるが、文字種と語彙の層がむすびついた多層の語彙を誇る日本語では、書き言葉のレベルでこうした呪術的思考、キャッチワードによる思考の罠の危険が大きい。以下、ごく一般的に問題点だけを簡単に述べる。

1.社会科学における漢語の語彙
 明治期の日本の知識人は、おおくの欧米の事物や学術にかんする膨大な語彙を漢語に訳した。これは、欧米の事物や学術を導入するために必要なことだった。しかし、人文社会科学でもらいられる漢語の語彙は、概念規定があまく、日常生活のはなし言葉とのつながりがよわく(きれる、むかつくなどのマイナスの意味をあらわす和語の身体性との対比)、構成する文字の字面の意味にひきずられたり、文字崇拝的に非日常的なよきものとしてもちいられることがおおい。和語も、「ゆとり」や「まなび」など、思い入れが前面にでた使われかたをすることもあるが、はなし言葉とのつながりが明確で、文字の呪術崇拝的側面はないので、利用はより限定的である。
 例えば、革命・解放・平等、多様性・個性・自由、単独性・非決定性などの漢語は、一定のグループのなかで独自の思い入れとともにつかわれ、プラスの含意だけが前面にでて、何を指示しているかがおろそかになる傾向があった。例えば、「関係性のなかにおける多様性の実現」というと何かぼわーっとして良いことみたいだが、「個々の関係のなかで、いろいろな生き方をすること」といえば、とくにありがたくもなく、どんな関係だ、どんな生き方だと具体的に何を指示しているかなどが問題としてすぐに思い浮かぶ。能記や所記など、何を指し示しているのか分からない、漢訳仏典のような、奇怪な漢語の語彙もある。また、国際化というと良いことという含意で、長谷川の「からごころ」によると自らが国際化しなくてはならないと、ほとんど自動詞として用いられるが、英語のInternationalizeは、他国を対象とした主に他動詞として使われる。語彙には、思考の枠を固定する働きがあるが、プラスの含意が前面にでて指示機能が不透明で、かつ日本語の語彙の基本部分を占めている漢語には、とくに思考の枠を固定する働きが強い。(外来語は、日本語の語彙の基本部分を占めるに至らず、借り物の言葉だという意識が残っているので、思考の枠を固定する働きはより弱い。)
 日本の学術は、自然科学・技術の分野、人文科学の分野では独創的な成果をのこしたが、社会科学の分野は欧米の学問の翻訳にとどまってきている。内田義彦などは、こうしたなさけない状況が、言葉を事物をさししめす道具としてきたえていこうとせず、外来のありがたいおまもりとしてつかうような態度にも原因があると指摘している。

2.カタカナ語について
 最近のはやりはカタカナ語である。カタカナ語には、技術分野などのようにあたらしい語彙がつぎつぎでてきて日本語化が間にあわないという事情、漢語に同音異義語がおおすぎるなどの事情もあるが、印象操作としてもちいられる場合がおおい。コマーシャルだけでなく、行政なども、舌足らずの外来語を率先してつかっている。外来語の発音は、CVCVの二拍を基本に日本語化されているが、構成要素の意味が把握されていないので漢語のような造語力はもちえず、日本語の語彙の混乱、言葉の呪術的使用の傾向に拍車をかけている。

3.声の文化と文字の文化
 欧米には言葉の本質は声にあり、文字はそれをうつしたものであるというかんがえが根強くあり、科学論文なども19世紀までは音読されていた。今日でも、選挙のさいには、かんがえを声として表明し、声と声を対決させるという文化がのこっている。これを2次的な声の文化という。西欧は、はやくに1次的な文字の文化を確立したが、文字が音素文字であることもあって、2次的な声の文化が公の文化としてつよくのこっている。
 日本文化には、かかれた文字を重視し、声を軽視する傾向がある。落語や露天商などの庶民の声の文化は、文字をしらない層の1次的な声の文化であり、書き言葉をふまえた公的な声の文化は日本ではきわめてよわい。日本でのおおやけのスピーチは、柳田が荘重体とよんだような、漢語ばかりの伝達力、喚起力にきわめてよわい、文字のうつしのような形式的・儀式的なものになってしまっている。日本には、公的なスピーチや議論の文化がきわめてとぼしい。

4.官僚と法律家、社会神学者たち
 漢語だらけの奇怪な日本語の典型例が、官僚や法律家による文である。官僚による文をイアン・アーシーは、整備文とよんだが、官僚たちは整備文をつかって読み手の頭脳を混乱させ、責任をあいまいにしながら、自らの頭も混濁していき、責任をのがれるために誤りから学ぶこともできなくなっている。判決文などの法律の文は、文のながさといい、つかわれる語彙の特殊さといい、奇怪さでは、官僚の文以上である。複雑怪奇な文章をあやつれるのだから頭がいいのだというひともいるが、心理学の知見からすると、まちがいである。かんがえは表現とコミュニケーションをつうじて形成されていくので、簡潔・明快な文章ではなく複雑・怪奇な文章でかんがえを表現していると、かんがえ自体も混乱し、頭脳はしだいに混濁していくのである。人間の知的能力は、表現手段もふくめてのものであり、奇怪な表現を常用していると、知的能力は確実にむしばまれていく。
 奇怪な言葉に思考をのっとられ、頭脳をむしばまれているのは、法学部出身者だけではない。おおくの社会科学者も、「1.社会科学における漢語の語彙」でのべたような、キャッチワードにとわらわれている。個性、自由、人権、国際化などの、現実感や身体感覚によるうらづけをかいて、概念規定もゆるい、社会的是認のおすみつきをえた言葉による思考は、現実的、科学的思考ではなく、神学的思考にちかいものになる。西部のいう大衆は、こういうキャッチワードに思考をのっとられた社会科学者を原型とする知識人のことである。日本のような高学歴の消費社会では、大衆も地に足のついた身体感覚にうらづけされたはなし言葉をつかっていない。日常の会話でも、個性とか自己実現とか、自由とか、うろんな言葉をつかい、それに思考をのっとられたミニ知識人と化している。

個性浪費社会の応援歌:世界に一つだけの花

2006年05月20日 | 言葉・芸術・デザイン
河端「どうも気にいらんね。」
道端「河端先輩。まあ、また一体何がですか。」
河端「実は、カラオケにつき合わされてね、最後が「世界に一つだけの花」の合唱さ。」
道端「ああ、あのSMAPの大ヒット曲ですか。最近は卒業式などでもよく歌われるらしいですね。古い言い方ですが、今や国民歌謡でしょうか。」
河端「2003年度の日本レコード大賞の有力候補とされていたが、歌詞でNo1よりもOnly1を唄っている」ということから辞退したそうだ。どうもね。」
道端「そうですか?いい感じの歌のように思うんですが。」
河端「メロディーはおいておく。
歌詞が気にいらん。歌の終わりはこうだ。
<そうさ 僕らも
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one>」
道端「意気消沈しがちな我々を元気づけてくれる応援歌みたいな感じがしますが。」
河端「そう個性浪費社会の応援歌だ。Only oneという言い回しには、グローバルな競争が激化している今日、Only oneを目指せとか、ビジネスの世界の倍音が響いている。競争なんていいんだよ、などと言いながら、未練がましいというか、鬱陶しい。ここで言う個性は、小さい花だの、大きな花だの、人と花が同列にとらえられる、他と異なる属性の組み合わせとしてでしかない。人のかけがえのなさはこれとは全く別のものだ。」
道端「といいますと。」
河端「唐の有名な詩に、
<年々歳々、花相似たり。
歳々年々、人同じからず。>
というのがある。ここで、人同じからずは、異なる属性によるものではなく、関係の歴史によるものだ。家族や友人が特別なのは、家族や友人が他の人と異なる属性の組み合わせを保持しているからではない。歴史を共有してきた関係が特別なのだ。」
道端「ビジネスの論理が効率と利益の最適化をはかるものとすれば、ビジネスの論理では、関係の歴史などに拘泥しないで、可能な組み合わせを一律に評価する方が良いということになるでしょうね。」
河端「その通り。そして供給過剰の状態でのビジネスは、多品種少量生産、属性の組み合わせのユニークさという意味での個性を消費のターゲットとし開発を競い、それが人の評価にも波及している。「世界に一つだけの花」はそうした状況に棹さした口当たりの良い応援歌というところさ。」
道端「そういえば。DQN命名で取りあげた珍名もそうした個性浪費社会における、最近ではお嬢様大学も含んだ夜露死苦層の人たちの懸命のアピールかもしれませんね。」
河端「道端君も言いたいことが、わかってきたようだな。」
道端「道元は中国への仏教留学から帰国したとき、期待とともにどんな教えや経典を持ち帰ったかと問われ、「空手還郷、眼横鼻直」(「経典や仏像など持ち帰らず、手ぶらで祖国日本に帰ってきた。眼は横に鼻は縦についていることがわかった」)と答えました。さすが禅僧という答えです。道元の「正法眼蔵」は、措辞の見事さもふくめて、日本語で書かれた最も独創的で深い思想作品と言えると思います。しかし、道元自身は、「語言文章はいかにあれ、思うままの理をつぶつぶと書きたならば、後来も文章わろしと思うとも、理だにもきこえたならば、道のためには大切なり。」(言葉や文章はどうであれ、考えている道理をこまごまと書いたなら、後の人が読んで、文章はよくないと思っても、道理さえ通じていれば、仏道のためには大切なことである。)と言っています。個性とかそんな表面的なことには眼もくれず、ひたすら仏道の普遍的真理を定着しようとしただけです。道元の仏道への強い願いと権力への軽蔑は母親の思いをうけた部分が大きかったでしょう、また、禅の師との出会いがあります、そして、道元は自らがおかれた日本という環境で日本語を使って日々の思索を言葉に定着しました。自らがおかれた歴史と環境に根ざしつつ、普遍的価値を達成しようとした結果として、独創的で深い思想作品が生まれました。」
河端「パチパチ。道端君の道元論なかなかよかったよ。道端が道の端で、道元は道の元か、たしかに、道元は道の元を言いあてているな。普遍的価値の追求なく、歴史や環境に根ざさず、個性をねらっても、結局、紛いものしかできない。そしてなにより、個性そのものには価値はないということだ。個性的だろうがなかろうが、大切なのは価値の追求であり、自らがおかれた歴史と環境に根ざすことだ。」
道端「先輩からかわないで下さいよ。なかなか個性の問題は面白いですね。また議論する機会を持ちましょう。」
河端「うん。そうしよう。」
道端「で、河端先輩、カラオケでは「世界に一つだけの花」歌ったのですか。」
河端「しかたないから口パクだったよ。」
道端「だったらいつもと同じじゃあないですか。」
河端「・・・・・・」

DQN命名

2006年05月13日 | 言葉・芸術・デザイン
河端「おーい。道端君。」
道端「河端先輩こんにちは。」
河端「しばらく更新がないので、様子をみにきたよ。元気にしてたか。」
道端「すみません。仕事に追われて、なかなかエントリーが書けませんでした。」
河端「道端君が興味を持ちそうな新聞記事があったよ。」
道端「ありがとうございます。面白い記事ですね。<妃(きさき)>だの<姫(ひめ)>だの、なかなかの言語カテゴリーの脱臼ぶりです。ボルヘスの中国の辞書を思わせます。ついでなら、<名前(ねいむ)>とかやれば良いのに。こういう中だと<姫梨(ひめり)>だの<沙蘭(さら)>だのの万葉仮名風の表記がオーソドックスに見えてきます。実は、最近の命名のとんがった部分はもっとすごいことになっているみたいです。子供の名付け(命名)DQN度ランキングを読んで(2ちゃんねるの育児版、「子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ」スレッドを元にしたものだそうで、ネタも混じっているかもしれませんが、それを割り引いたとしても)少々驚きました。」
河端「道端君が、3月7日の「日本語の人名表記と正書法」で書いてた、緑夢(ぐりむ)程度ではないのか。」
道端「はい。緑夢(ぐりむ)は、始まりにすぎなかったようです。漢字と読みの対応は、当て字、連想ゲームなんでもありのアナーキーな状態のようです。名前に使う漢字の制限しか考えず、苗字の異字体は放置し、名前における漢字と読みの対応になんのしばりもかけない、尻抜けの無定見な文字行政の上で、「夜露死苦」系統の人たちが独創性を競っているというところでしょうか。名前ですから、ある程度、歴史的な継承による不規則性を許容しなくてはないのは分かります。しかし新奇なDQNを競って、漢字と読みの対応を壊し放題というのはどうなんでしょう。上のサイトに命名の読みのテストがあるのでやってみました。
1. 歩星 ( ほせい )  ⇒ ほせ
2. 笑羅 ( しょうら )  ⇒ にこら
3. 彪也 ( ひょうや )
4. 聖玲菜 ( せりな )  ⇒ せれな
5. 羅亜羅 ( らあら )
6. 季凛音 ( りりね )  ⇒ きりん
7. 稀音 ( きおん )  ⇒ まれーね
8. 綺輝斗 ( ききと )  ⇒ あぎと
9. 達千 ( たっち )
10. 今日 ( きょう )  ⇒ ほいて
 私は、10問中正解は3問でした。」
河端「もしかして、3問しかできなかったから怒っているのか。」
道端「冗談じゃあ、ありません。むしろ、<たっち>が正解だったのが恥ずかしいです。自分が、笑羅(にこら)だの今日(ほいて)だの妙な名前をつけられたら、親を恨みます。こんな当て字や連想ゲーム、個性でもなんでもありません。」
河端「ダンス・ウィズ・ウルブスを見たら「拳を握る女」だとか「狼と踊る男」だとか妙な名前が出てきた。河田順造の「声」には、アフリカでの「ああ、もっと力があったらなあ」などの妙な名前がぞろぞろ紹介してあった。日本では、秀吉は自分の子供に「捨て」とか名前をつけている。妙な名前もいいのではないか。」
道端「はい。それぞれの経験から思いを込めて妙な名前が出てくるのはかまいません。命名には一種の呪術的側面があるのはたしかでしょうから。河端先輩に紹介していただいた新聞記事ですが「少子化で、子どもの名前に凝る人が増えているが、僕は大賛成」と加藤教授は言っているそうです。しかし、凝るつもりが、横滑りして、当て字と連想ゲームに堕しているなら無意味です。新聞の記事で紹介された調査結果自体が、プチDQNじみてます。」
河端「おいおい。プチDQNなんて珍妙な言葉で正名の主張かい。」