道端鈴成

エッセイと書評など

文化ウィルスとしての中華思想と儒者軍人

2006年09月30日 | アジア論
  古田博司氏の本は、「朝鮮民族を読み解く―北と南に共通するもの」の新書版が1995年に出てしばらくして読んだ。韓国については、学生時代に韓国からの留学生を一人知っている程度だったが、その留学生の生真面目な様子になんとなく好感をもっていた。1988年のソウルオリンピックの応援ぶりですこし首をかしげたが、2002年のワールドカップで決定的に韓国とメディアに不信感をもつ前だったので、どちらかといえば好意的な好奇心で読んだ。豊富な実際の経験と幅広い文献渉猟、朝鮮労働党新聞を読むのが趣味だという著者の北朝鮮についての知識と実際に数年生活した韓国についての深い理解、朝鮮民族への愛情を持った好奇心と客観的で冷静な批判のバランスがとれているのに感心した。
  当時の韓国論としては、関川夏央根本敬なども読んだが、関川氏の本は、韓国=軍事政権=悪という朝日新聞を初めとする当時の日本メディアのステレオタイプ(今の朝日新聞を初めとする日本メディアは、韓国が左翼民族政権に変わり反日になったら、扱いが逆方向になったが)にとらわれていないという意味では意義は大きかったのだろうが、内容はよくできた体験記というところだったし、根本氏の本は、韓国に根本ワールドと共鳴する部分があることは示してはいるが、当然というか根本ワールド韓国版といったところだった。
  古田氏の本は、南北朝鮮を通じて、その中華意識の根強さを多くの例で示し、豊富な歴史的知識を通じて中華思想の由来を説明し、恨についても、現在の出来事、文学、歴史と多面的に解説している。すぐれた学者が豊富な知識と経験を通じて、朝鮮民族の特性を、見事に押さえたという印象を持った。これは朝鮮民族がコンパクトにまとまった同質性を持っているためでもあると思う。李御寧氏の「「縮み」志向の日本人」などは、文化的な博識にもとづく興味深い著作だが、文化論としては、才人による気の利いたエッセイにとどまっている。実際、李御寧氏は、「縮み」志向の後、「縮み」志向の論点を掘り下げたり、敷衍したりはせずに、ふろしき文化論、ジャンケン文化論と、別の一連の文化エッセイを提示するにとどまっている。古田氏の「朝鮮民族を読み解く」の後、小倉紀蔵氏「韓国は一個の哲学である―「理」と「気」の社会システム」が出た。韓国を朱子学の観点から読み解くポストモダン的試みは興味深いが、朱子学の教義を、儀礼などの行為規則など、社会学的文化人類学的な背景から位置づけるられるようにすべきところを、無批判に教義の中に入り込んでしまい、朱子学とポストモダンが融合した解釈枠組みによる文化談義に遊んでいるという印象をうける。李御寧氏の文化エッセイや小倉紀蔵氏のポストモダン的文化談義に比し、古田氏の中華思想論は、東アジア地域で大きな影響をふるってきている文化ウィルスを摘出、分析したものであり、先行研究をうけ、その後の著作でもさらに展開されている。今後の比較歴史的、文化人類学的な研究にもつながる、より本筋の学問的文化論である。
  古田氏は、「朝鮮民族を読み解く」の後、「東アジアの思想風景」で、サントリー学芸賞を受賞している。早々に絶版になってしまったが、著者の体験にもとづくエッセー集である。著者の韓国庶民への親しみと儒教的中華思想に対する違和感が率直に綴られている。ここでは「東アジアの思想風景」で印象に残った箇所を引用したい。
  まず、中華思想を端的に表現した箇所を引用する。
「自己を中華に措定し、まわりを夷狄、禽獣と見、まわりが強ければ悪人、弱ければ牛馬と見なす意識を朝鮮のインテリ達に教えたのは、実はジュルチン(女真族)やモンゴルの異民族におしまくられていた頃の、南宋の人、朱子その人であった。この宋儒の固陋な伝統が彼らの国民国家形成をうながし、いまでは「南洋」での悪評につながっているとすれば、すべては諸刃の剣であったというべきであろうか。」(p.118)ここでの悪評は「見栄を張って札を切り、現地の人々を夷狄視し、牛馬のごとくに扱うからだろう。韓国人の小中華思想の弊害については、もはや様々な人がベトナムや、中国延辺やロサンジェルスでの彼らの行動を指摘しているので、あえて筆を染めるまでもあるまい。」(p.117)なお、朱子語録巻四、人物之性気気質之性にはこうある。「猿となると、形状が人間に似ているので、獣の中では最も利巧で、言葉が喋れないだけだ。夷狄となると、人間と禽獣の中間にある。それで結局、気質を変えることが難しいのだ。」(「東アジア・イデオロギーを超えて」、p.24.)
  一時期、儒教経済圏や儒教勤勉論がとなえられたこともあったが、古田氏は自らの体験や多くの儒教の文書などを引いてこれを、あっさり否定している。体験の部分を引用する。
「韓国人が勤労のエトスらしきものを得たのは、おそらく1989年あたりだと思う。この頃からタイムカードが定着し始め、韓国人社員が徹夜で酒を飲まなくなった。当時私は、酒の相手が激減し、大層寂しい思いをしたので良く覚えている。「明日会社が早いからもう帰る」という言葉が、彼らの口をついて出たときには一瞬我が耳を疑った。宵越しの銭をもたなかった韓国人が持つようになったのである。少なくとも「儒教精神」は、韓国人の勤労のエトス発生とは何ら関係がない。」(pp.84-85.)
  以前のエントリーでは、太平洋戦争における日本軍の上層部の無能、無責任を共同性重視のためと解釈したが、古田氏はここに儒教的権威主義の影響を見ている。
「いわく、補給・兵站、つまり食を軽視し、無形の精神力を重視した点。日露戦争当時の白兵戦と艦隊決戦の戦法を頑なに変えず、いわば日露戦争の戦陣訓で太平洋戦争を戦ってしっまったという尚古主義。信賞必罰の功過システムの欠如。軍幹部養成学校での暗記中心の硬直化した教育体系などが指摘されている。
  軍事に詳しい友人によれば、そのような彼らを軍人とはとても呼べないという。糧食を思わず、経典をひたすら暗唱し、いにしえの栄光に耽溺し、作戦失敗の責任を問わない。そのような連中は「軍人」の範疇に入らないという。では彼らは一体何者だったのか。筆者にいわせれば、彼らこそ儒者そのものである。」(p.55)
  こうした儒教の影響は一般に考えられているように、江戸期ではなく、明治政府のナショナリズム形成のイデオロギーとして導入されたと著者は指摘している。日本での儒教的中華思想の影響は、韓国などとはその程度が比較にならず、また現れ方が違うとしても、ある時期にはたしかに諸刃の剣だった訳である。古田氏は、「東アジアの思想風景」の後「東アジア・イデオロギーを超えて」「反日トライアングル」などで、さらに東アジア地域の中華思想について多面的に研究を続けている。これらの研究については、また、機会をあらためて紹介、検討することにしよう。

オヤジギャグときみまろに笑うオバサン

2006年09月11日 | 心理学
  あまりに蒸し暑いので、深夜に散歩しながらラジオの周波数を弄っていたら、NHKのAMでこんなジョークをやっていた。
「サラリーマンが名刺を渡そうとしたが見つからない。別の人の名刺を出して、あいにく自分のは切らしております。今日のところはこちらを。」
  ラジオでは、このジョークについて、名刺をきちっとわたすというサラリーマン社会のストレスを、もっといい加減でいいんだよと緩和してくれるので可笑しいとか、解説していた。すこしずれてるんじゃと、つっこみをいれたくなった。
  ここでの笑いのポイントは、自己情報を相手に提示するという行為Aと、四角い厚紙を渡すという行為Bの、コントラストである。行為Aは社会的に重要視されている行為に属する。これに対し、行為Bは、行為Aと外形は似ているが、無意味のより子供じみた行動に属する。行為Aから行為Bへ価値の下落が生じている。このコントラストが可笑しみを生む。落語でも、青菜、鮑のし、子ほめなど、このタイプのネタは多い。青菜では行為Aが隠居のしゃれたもてなし、行為Bがそのもてなしに感心した植木屋さんのとんちんかんなマネ、鮑のし、子ほめでは行為Aが誕生祝いの正式な口上、行為Bが教えられた口上の珍妙で子供じみたまねである。このタイプの演目では、まず行為Aをやってから、その予期の上で行為Bとのコントラストを楽しむというので、聴く方も分かりやすい。ここでの笑いのポイントは、単に行為Bでもいいんだよ、もっといい加減でいいんだよという緩和のメッセージではない。社会的に重要視されている行為Aと無意味で子供じみた行為Bの価値の落差である。
  深夜の散歩が川辺にさしかかった頃、ラジオは、サラリーマンネタから、おばさんねたに移っていた。解説は、笑う哲学者の土屋さんだった。おじさんに対し、おばさんのユーモア感度は高い。おばさんは自分を笑える。これは、おばさんにおける、きみまろ人気が示していると指摘していた。
  きみまろは中高年のオバサンを主なネタにする毒舌漫談家だ。「きれいな方ばっかりです、口紅が!!」「ブスは交通事故に遭うのでしょうか?奥さん、安心して下さい。遭わないのです。運転手がよけます。」という調子。たしかに、おじさん相手に同じような毒舌漫談をやってもほとんど客は入らないだろう。おばさんのユーモア感度は高いといえるのかもしれない。しかし、この男女差は何を意味しているのだろう。
  Provineによる通常の会話の調査によると、誰の発話をきっかけにどちらが笑うかを集計すると、男の発話をきっかけに女が笑う頻度が高い。女同士の会話では両方が笑う場合も多い。笑わせる男、笑う女という、かなり強い偏りが見られる。Provineは、欧米の恋人募集広告を調べて、男のアピールにはユーモアがあります、女の要望にはユーモアのある人というのが多い事を報告している。日本でのちゃんとした調査はないが、笑わせる男、笑う女という偏りはやはり見られるようだ。伝統的にも女は愛嬌、箸が転げても可笑しいとか、笑う女を肯定的にとらえている。売笑婦などという言葉もある。苦み走ったいい男とはいっても、苦み走ったいい女とは言わない。笑わせる男については、日本でも最近では、恋人への女の要望に面白い人などが出てきたが、恋人への男の要望に面白い人というのはまずない。
  嘲笑などは別として、基本的には微笑みや笑いは対人的な宥和のサインである。笑う女が肯定的にとらえられるのは、女性における対人的な宥和のサインが、より肯定的に評価され、社会的に強化されるからだろう。鏡で微笑みの訓練をする女性はいるが、男性ではまずいない。笑いは笑いを誘導するので、自分がまず笑って、相手の笑いを誘うのは、まず自らが緊張を解き、相手の緊張の緩和による宥和をもたらすことになる。これに対し、自分が笑わずに相手を笑わせるのは、自分の緊張はそのまままに、相手の緊張を解き、宥和を誘導することになる。この種の笑いが男性に偏っているのは、男性が緊張関係のなかで、主導的に相手の宥和の誘導をねらうような集団間の関係に、より関わっていることによるのかも知れない。あるいは、くすぐりが笑いの起源だとするダーウィン・ヘッケル仮説にしたがえば、笑わせる男、笑う女という偏りは、くすぐる男、くすぐられる女という、身体的な相互行為における能動、受動の別を反映しているとも考えられる。
  いわゆるオヤジギャグというのは、笑わせる男の行動パターンが実効性を失って、からまわりしている状態である。オヤジギャグでも、おなさけで笑ってもらえれば良いが、そのうち、しだいにオヤジギャグも言わなくなる。オヤジギャグは、笑わせる男の終点駅である。
  笑う女も、若いうちは、ちょっとした微笑みや愛想笑いが絶大な効果を発揮する。女性の微笑みや笑いも、年齢を重ねるとその対人的な効用もしだいに弱くなる。微笑みや笑いを実効的に発揮する場面が減る。実効性が低下した笑う男のオヤジギャグの女性版として、実効性が低下した笑う女の笑いを、とりあえずオバワライとよぶことにする。オヤジギャグは、はたらきかけなのでからまわりのままでは、存続できない。飲み屋やキャバレーなど、実効性を失ったオヤジギャグにたいして、女性が反応としての微笑みや笑いをサービスとして売る場という側面もあるような気がする。これに対して、オバワライの方は、反応なので、笑いに対する社会的報酬が弱まっても、あるいは顰蹙をかっても、よりタフに持続可能である。対人関係で笑わせてくれる人がいなくても、笑いのネタはあるし、笑わせるための芸人もいる。笑う方が、笑わせるよりも、よりチャンスは多く持続しやすい。
  で、なぜオバサンは、オバサンを主なネタにする毒舌が中心なのに、きみまろにオバワライするのか。
  一つの可能性は、これを聴いて笑っているオバサンは、自分のことではなく、まわりのオバサンを対象にしたものだとそれぞれに誤認しているということである。このためには、自己モニター能力のかなりの程度の抑制、ないしは、低下を必要とする。オバワライそのものが、笑いに対する社会的報酬が弱まって持続する笑いなので、ある程度の自己モニター能力の低下は想定されるが、これできみまろの毒舌へのオバワライの全てが説明できるとは思えない。
  もうひとつの可能性は、きみまろの毒舌の内容である。聴いてみると、ありきたりで、定型化された毒舌である。きみまろはかなりの芸歴をもっており、毒舌の内容が意図的にありきたりで、定型化されたものになっていることが考えられる。すべてが想定内で、えぐるような批判や真の攻撃性をもった毒舌は、注意深く排除されている。当のオバサンによって、きみまろの毒舌が拒絶されない理由だろう。
  三つ目の可能性は、聴衆ときみまろの関係である。きみまろは風貌はパットしないカツラの熟年の芸人だが、公家をきどり自己卑下はけっしてしない。オバサンを毒舌のネタにしているが、本心でオバサンを嫌悪しているわけでは決してない。二枚目の芸人がオバサンへの毒舌を吐いたらオバサンは受け入れないだろう。また、きみまろが自己卑下したり、正面からオバサンに媚びたら、やはりここまでの人気はでないだろう。このへんの立ち位置が絶妙である。聴き手とのある種の共犯関係を確立している。共犯関係というのは、実はあまりさえないが表面偉そうに、実は共感しているのに毒舌を、といった虚実の関係の共有である。表面偉そうに毒舌をはくが、実はあまりさえず気を使い追従しているというのは、通を対象とした高度な太鼓持ちの芸といえなくもない。
  二つ目と三つ目の可能性をあわせて言えば、きみまろの毒舌は、表層における擬似的な自己への攻撃と深層におけるその解消、あるいは無効化という、緊張と緩和の一形式ということになる。これは、高いユーモア感度を示すものと言えるだろう。一方、自己モニター能力の低下は単なる鈍感化である。表層における擬似的な自己への攻撃と深層におけるその解消・無効化が主となる要因で、自己モニター能力の低下が従となるのではと予想するが、はっきりは分からない。高いユーモア感度と自己モニター能力の低下が一人の人間に共存することは十分にありえる。

加治屋町:維新ふるさと館

2006年09月09日 | 雑談
河端「しばらく見なかったね。」
道端「はい。出張で鹿児島へ行ってました。行き先がちょうど加治屋町だったので、維新ふるさと館を見学しました。100メートルそこそこの町内から、西郷・大久保、大山・東郷などの世界史に残る維新、日露戦争の偉人を輩出しているのには驚きました。実際、歩いてみると本当にご近所です。」
河端「地域で長年はぐくまれてきた武士の気概、精神と薩摩藩での教育の蓄積、産業や地理的な条件などが、近代日本における時代の要請とむすびついたのだろうな。」
道端「地元の人と話しをしたのですが、西郷・大久保の頃の十分の一の気概でもあったらとか嘆息してました。」
河端「そうだな維新の頃の志士の気概は半端ではないからな。素地には命や安逸をものともしない武士の苛烈な名誉心、義務感がある。もはや我々にはないものだ。また藩校での学問の錬磨の蓄積や新しい西欧の学問への好奇心がある。そして時代の状況が、日本の再編を要求した。それに、尊皇を機軸にして答えたのが、明治維新だ。そうした大きな課題を見事に担ったということだろうな。」
道端「気概はたしかに重要ですね。フクヤマあたりが「歴史の終わり」で言っているthymosは、たんなる知でも、欲望でもない、認知を求める自尊心といったある種の自我拡張の欲求が中心ですが、西郷や大久保などには敬天愛人というように、ある種の無私の精神が基底にあります。ここでいう気概は、大きく分けると、たんなる知でも、欲望でもない、thymosで良いでしょうが、そのあるタイプということになるような気がします。仏教の影響をうけた武士道に裏打ちされた、尊皇の、無私の気概とでもいうことになるでしょうか。」
河端「なんだかややこしいな。」
道端「維新ふるさと館で勉強したのですが、生麦事件での無礼打ちから、薩英戦争、一戦まじえてから、互いに相手を認めあうような形での薩英同盟のへの流れが、いい感じで、なかなか面白かったです。梅棹のいうユーラシアの両端で並行して進化した封建制と騎士道、武士道という指摘を思い出しました。」
河端「道端君は歴史に弱いから、良い機会だったね。」
道端「維新ふるさと館は、展示も、ホログラムとロボット、遺品、解説図、など実物と視聴覚技術をうまく組むあわせていて効果的で感心しました。それに案内のお姉さんがすごく良かったです。」
河端「おいおい。結局、案内のお姉さんかい。」

「言論の自由」への挑戦

2006年09月02日 | 人権擁護法案
河端「おーい、道端君。」
道端「こんにちは、河端先輩。すこし涼しくなってきましたね。」
河端「ああ、季節はさわやかになってきていいんだが、またうっとうしいのが出てきたようだな。古賀、二階などの自民党議員や、公明党、法務省人権擁護局あたりが、また人権擁護法案にむけて画策を始めたようだ。 9月1日の産経抄にこんな記事がでてたよ。」
「 何をコソコソ隠す必要があるのだろう。自民党と公明党の議員でつくる「与党人権問題懇話会」の メンバーがおととい、議員会館の一室に集まり、人権擁護法案の国会提出へ向けた動きを再開した。 だが取材記者によると、会合が終わって出てきた座長の古賀誠自民党元幹事長は、だんまりを決め込んだという。
 ▼出席議員の一人は「内容は口外するなと言われた」と語る。会議では法務省のお役人が、かつて 廃案となった法案の修正案を示しただけでなく、インターネットの掲示板で「人権侵害」があった場合も、 新法で対処できるのかといった議論もあったそうだ。そのほか、表に出せない発言もあったのでは、 と勘繰りたくもなる。
 ▼人権擁護法案は、一口に言ってしまえば、人権問題を扱う人権委員会という国家機関を新設する 法案だ。この委員会の権限は強大で、人権侵害の救済や調査を目的に「加害者」の出頭要請や捜索が容易にできる。
 ▼いじめや差別、児童虐待は深刻な社会問題である。他人や自分の人権を大事にするのは当たり前の話であり、家庭や学校、会社で折に触れて啓発すべきだろう。だからといって、強制力をもった法律をつくってお上が規制するのは筋違いだ。
 ▼最も問題なのは人権侵害の定義があいまいで、拡大解釈の余地が大いにあることだ。きれいな花には毒がある。小手先で修正してみても毒は消えない。法案が成立すれば誰も逆らえない「人権」を錦の御旗に、うるさいメディアを黙らせようとするある種の人たちが跋扈(ばっこ)することになりは しないか。
 ▼加藤紘一自民党元幹事長の実家が放火された事件と同様に、人権擁護法案を成立させようという動きは「言論の自由」への挑戦だと言わざるを得ない。産経抄 9/1 」
道端「まさに正論ですね。」
河端「そうだな。道端君が昨年の5月29日の記事でローチの本からこんな一節を引用していたな。「「嫌がらせ取り締まりの当局者は、中立的であるだろう。」他の言葉でいえば、公正な権威が設立されたら、批判は公正に規制されうるというのである。お生憎さま。この希望はまやかしであり、しかも記録は、全く酷い。・・・・・・・・およそどんな意思決定の委員会でも、必然的にある傷つけられたグループを他のものより依怙贔屓することにならざるをえない。中立性なんて、原理上でさえ不可能である。それを認めた上で、人の気を害してはならないとする人たちのあるものは、批判や意見の制限は、たとえ誰であれ、「歴史的被害者グル-プ」だけを保護するのに用いられるべきであるとすでに断言している。」(ローチ1993,pp224-225.)まあ特定のグル-プの人々の保護をその他の人々の犠牲の上に達成することになるだろうな。」
道端「一般国民の税金を犠牲にした、たんなる利権あさりならまだましです。人権擁護法案は自由な批判的言論を抑圧します。利権あさりがあったとしても、自由な批判的言論があれば、問題点の指摘とその共有に基づく改善は可能です。自由な批判的言論が抑圧されてしまえば、そうした回路自体が機能不全を起こしてしまいます。」
河端「2006年8月27日のTBS報道特集は、なかなか面白かったよ。」
道端「見てませんが、どんな内容だったのですか。」
河端「旧芦原病院への不正融資で明るみにだされた大阪市の同和行政における公文書偽造、背任、横領、詐欺まがいの犯罪の背景を追っていた。要求を拒否したり反論をしようにも、差別だと言われるとなにも言えなかったという市のお偉いさんの証言が印象的だった。まあ実際、差別との決めつけは怖かったのだろうね。それと官僚的事なかれ主義だ。結局ずるずる不正をしてまでしてしまったということになる。組織がらみで常習的にやっていた犯罪なので刑事責任は問えないとする判決にも恐れ入るがね。Youtubeにアップされているので道端君も見てみるといいよ。」
TBS報道特集 大阪市同和行政の闇:その1その2その3その4  
道端「人権擁護法案があれば、にかぎらず、歴史的被害者グル-プによって差別だとの決めつけられることへの恐怖、事なかれ主義が蔓延することになるでしょうね。」
河端「ゾンビの映画を思い出すよ。古賀氏が似ていると言うわけではないが。」
道端「特定の歴史的被害者グル-プを特権化するのではなく、本当に困っている人、苦しんでいる人を助けるための政策が必要ですね。児童虐待防止法など個別の問題への対策をはかる法案もいくつもあるようです。消費者金融やカルト宗教の被害者を減らしたり、犯罪被害者への援助など、個別に、達成度をはかりつつ取り組まなくてはならない問題は多いです。政治家は、治安維持だの人権擁護だのマジックワードをかかげ、国民の言動に広く網をかけ、公権力による介入を行うのではなく、こうした問題に着実にとりくんで欲しいですね。」
河端「まったくだ。そのためにも、ゾンビ法案、ゾンビ議員は押し込めなくてはならない。」