道端鈴成

エッセイと書評など

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情報戦とレトリック(2)慰安婦問題におけるロゴスとエートス、パトス

2007年08月25日 | 思想・社会
アメリカ下院の慰安婦に関する日本非難決議に際して、日本人有志がワシントンポストに出した全面広告は、事実を簡潔に提示したすぐれた内容のものだった。冤罪を晴らそうとする、すぎやまこういち氏を初めとする有志の努力は、大いに評価すべきものである。池田氏が日本人を差別する慰安婦非難決議で指摘しているように、欧米のメディアにおける報道が両論併記なり、やや慎重になっているのは、こうした広告も含めて、読売新聞などのメディアの記事、ブログなどでの英語での反論の試みが、多少なりとも影響しているとは言えるだろう。反論なしに、事実誤認と公平性の原則(同じ出来事は同様に扱うべし)に反する決議を放置すれば、フィリピン議会のようにその尻馬に乗ろうとする国が多く出てくることになるだろう。個々の局面での説得は、単に、勝ちか、負けで終わるのではなく、より長期的・全体的な流れのなかで、より良い手を打っていくことが重要であり、事実に基づく反論は、やはり必要だった。

ではあるが、今回の慰安婦問題への反論の仕方を全体としてみると、説得の戦略として見ると、やや考慮すべき点があるように思う。情報戦とレトリック(1)で述べたように、説得には、事実の吟味と論理に基づくロゴスと話者の信頼性に関わるエートスと聞き手の感情に関わるパトスの側面がある。ロゴスの側面は誰が言っても同じだが、エートスとパトスは誰が、いつ、どのように言うかで大きくことなる。

まず政府の対応は、当初反論を試み、そのあと謝罪、最後に無視というように、拙劣だった。首相は個別の反論をする必要はなく、事実は政治家が決めることではない、歴史家にまかせるとで言って、おうように構え、調査と英語での発信をサポートすればよかった。誰が何を言うかの連携が全くとれていない。

The Factsというタイトルのワシントンポスト紙への全面広告は、ロゴスへ訴えるものだった。ロゴスへの訴えとしては簡潔で非常に良くできていた。しかし、エートスとパトスの壁は破れなかった。事実を訴えても、日本の右翼が、あるいはリヴィジョニストがと、欧米メディアに充満した第二次大戦に関する日本からの主張に対するエートスの免疫で、事実を検証しようとすらしない。また、戦勝国として空爆による民間人の無差別虐殺などの非道を重ねてきた自己の正当化の根拠として、旧日本軍を悪とする素朴リアリズムにかたくなにしがみつくパトスに根ざす思いこみがある。涙で訴える老齢の性被害者かわいそう、その訴えを信じないなんてちうパトス、またそれに反論したら女性と被害者の敵にされてしまうという世論への恐怖というパトスもある。個々の議員は選挙区で中韓系の移民の票はほしい、日系はたいして反発しないしという損得勘定のパトスもある。

以上のように考えると、エートスとパトスの壁はなかなかあついことが分かる。ロゴスで理非をわきまえた指摘をしても、エートスとパトスの壁は破れない。

しかしロゴスは長期的には有効である。だからまずロゴスはロゴスとして、徹底的に反論と主張を続けなくてはならない。秦氏の慰安婦と戦場の性などは、全面広告の費用を充ててでも、英訳出版すべだろうと思う。

ロゴスはしつこく集中してが原則だが、エートスとパトスへの対処には、問題をより広い文脈で扱う必要がある。ロゴスで事実を明確化する一方で、アジェンダとして浮かび上がり、エートスとパトスをかき立てるのをさけるという選択肢もありうるが、すでにアジェンダとしてややこしいエートスとパトスの焦点となってしまっているので、政治的にはあえてアジェンダ化しないという程度の選択しかない。そうすると次のようなきわめてやっかいな問題に対処せざるをえない。

エートス1:旧日本軍への非難への反論は右翼、レヴィジョニストであり、その主張は吟味せずに棄却できるとのレッテル貼り

パトス1:旧日本軍への非難へのあらゆる反論は、戦勝国側としての正当性の主張を傷つけるので排除すべきである

パトス2:かわいそうな被害女性が自ら訴えていることを疑うことは言語道断である

パトス3:パトス2を受けいらないと世論からの非難をうけるのでこれは避けたい

パトス4:選挙事情を優先したい

エートス1とパトス1は戦争に関する正義と利権に関する問題、パトス2と3は弱者の訴えに関する問題、パトス4は個別利害に関する問題である。戦争利権と弱者の訴えに関する問題は個別でも扱いが難しいのに、両者が一緒だと、エートスとパトスの扱いがきわめて難しい。地雷原を歩くようなものである。パトス4は、事実をしつこく指摘しつづけて、相手側が自分のエートスの危機をいだくようにする必要がある。収賄など不明朗な金銭の授受を告発できればさらに良い。訴訟で、議員の行動そのものをアジェンダ化するのも有効である。

戦争に関する正義と利権の問題では、旧日本軍の正当性を擁護するより、同じ基準で他の国の戦争犯罪も扱うべしと訴えた方が効果的ではないかと思う。このためには、慰安婦問題のような事実誤認や不公平な非難はあくまで反論するとして、旧日本軍の犯罪で認めるべきはあっさり認めてしまったほうが良い。たとえば731部隊の問題など、告発に誇張やウソがあったとしても人体実験の事実は否定しがたくあり、どうみても擁護できない。アメリカ軍との取引で追求を免れたのかもしれないが、関係者で戦後に叙勲されたものがいるときく。こんなのは、今からでも遅くないので、叙勲を取り消して名誉剥奪をしたほうが良い。日本の都市空爆で民間人の大量虐殺をした責任者であるルメイの叙勲も取り消すべきだ。

苦しいなかで闘った祖先を擁護したいという心情は人情としてはわかるが、外から見たら単なる身内びいきとしてしかうけとられず、エートスを損なうことにしかならない。正しい事実認識を、そして公平な批判をという要請の方が良い。同じケースは同様に扱うべしという公平性の要請には普遍性があり、またアジェンダが旧日本軍だけに固定化されることをさけられるので、エートス、パトスの面で有利だからだ。例えば、アメリカ下院による慰安婦決議は、ロゴスにおける事実誤認は別としても、アメリカの議会にそれを言う権利はあるのか、原住民の虐殺は謝罪したのか、原爆による一般市民の大量虐殺は謝罪したのかなど、他のより深刻なアジェンダをとりあげて、公平性の原則に訴える議論がある。「兄弟の眼の細かい塵に目くじらを立てるくせに、自分の眼の梁が見えないのか。」、自己中すぎはしないかというもっともな批判であり、これは一部の反日に凝り固まった国や批判された当該国などの主流派には受け入れる事が難しいかもしれないが、普通の国の市民の立場から見れば説得力がある。これに対しては、比較などするな、それで旧日本軍の戦争犯罪が免責されるわけではないという意見もある。免責されないという点は正しい。しかし、それは、アメリカや中国やロシアなどの戦争犯罪が同じ基準で追求されなくても良いという理由にはならない。免責されないというなら、追求されなくとも良いということには、さらにならない。これが公平性の原則である。個別の事例だけを追求して他の事例を同じ基準で追求するなというのは、下級法技術者、あるいは、個別の利害を持った人間の発言である。ノーマン・フィンケルシュタインも、エリヴィーゼルなどによるユダヤ人の被害の特権化を批判し、比較せよと強調している。これが、下級法技術者や個別利害関係者でない、より公平な立場の発言である。

Institute for the History of the Human Raceにおける「当事者間の紛争の継続としてのイデオロギー的非難合戦に汚染されない、人類史の立場からのより客観的な事実にもとづく評価の提示を試みることにより、人類としての虐殺と虐待の抑止の向上に貢献することを目的にした」世界虐殺・虐待ランキングは、こうした趣旨の試みである。

以上のような普遍的な批判をする場合には、戦争に関する正義と利権の問題で、公平性を欠く戦勝国秩序にかわり、どんな構想かという点にも議論は及ぶ。戦勝国秩序における共産主義と自由主義のイデオロギーの溝に着目し、提唱された、自由と繁栄の弧などという方向での構想がもっと活発に議論されるべきだ。積極的な構想に関する議論の蓄積なしに、個別の事実の批判だけしても、議論は弱いものにしかならない。では、過去に戻りたいのかと言われてしまう。こうした文明論的な議論については、また機会をあらためて述べたい。

パトス2とパトス3は、戦争に関する正義と利権の問題とは別の意味で、扱いが難しい。いくら冷静に証言の矛盾などを指摘しても、具体的な被害者を自称する人の涙の訴えのインパクトが勝ってしまう。第三者にしても、弱者、被害者とされる人にやさしくない非人道的な人というレッテルを貼られる恐怖から、被害者とされる人の訴えがおかしいと思っても、せいぜい沈黙する程度になってしまう。どうしたら良いのか。直接、涙の訴えには立ち向かわず、映像と事実を淡々といろんなチャンネルで提示して、周辺から徐々に、エートスとパトスを変えていくように試みるしかないだろう。例えば、被害者の涙の訴えがかならずしも正しいとは限らないことは心理学では常識で、アメリカでも偽造記憶などの問題があった。きわめて周辺的で、ある程度理性的な人に対してしか効果はないが、一応情報としては必要だろう。また、戦争における明白な性被害の別の例も、問題をより公平にとらえるには必要である。日本人の慰安婦やアメリカ軍の慰安所経験者、ベトナムでの性被害者などが、メディアに登場すれば、現在の慰安婦スターによる涙の訴えの映像の独占状態を相対化できるだろうが、恥ずかしいし、難しかもしれない。写真などでも映像があると、言葉だけよりも効果は大きいだろう。涙で被害を訴える慰安婦スターのエートスの直接攻撃は難しい。プロモーターである活動家や支援団体もふくめて、金銭の流れなどをおうなどしてエートスを徐々にきりくずすしかないだろう。いずれにしても宣伝戦のようで気持ちが悪いが、なかなか他の方法も難しい。そもそも、アジェンダとして、メディアで映像などを繰り返し提示され、パトスをかき立てられるのを避けられたら良かったかもしれない。しかしこれは避けられなかった。
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情報戦とレトリック(1)古典レトリックについて

2007年08月24日 | 思想・社会
1.レトリックという言葉
レトリック(Rhetoric)は、日本語では修辞学、弁論術などと訳される。(語義としては、言葉の学の意味で、trickとは無関係。Rhetorは雄弁家。)レトリックを最初に定式化したアリストテレスによれば、「レトリックとは、どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけだす術である。」となる。レトリックをあえて日本語訳するとすれば、弁論術がもっとも近い。日本語で読めるレトリックのテキストは、修辞法だけのものが多いが、「レトリック辞典」は、議論法も扱っているので有益である。

2.レトリックの始まり
言葉による説得が初めて学問の対象になったのは、紀元前5世紀シシリー島のシラクサにおけるコラクスによってであるとされている。コラクスは、当時民主制を始めたばかりのシラクサで大問題となった、土地の所有権をめぐる訴訟を有利にすすめるための弁論の技術を教えて職業とした。コラクスの著書は残っていないが、蓋然性にもとづく議論のしかた、弁論の構成などの実用的な内容のものだったらしい。

コラクスと弟子のティシアスについては、つぎのようなエピソードが残っている。
コラクス「私のところで学べば、どんな訴訟にも勝てるようになる。もし勝てなかったら授業料を返還することを約束する。」
ティシアスはコクラスの元で学び、いよいよ勉強も終了になった。
ティシアス「コクラス先生、ありがとうございました。さっそくですが、先生に対して授業料返還の訴訟をおこします。」
コラクス「なんじゃと。」
ティシアス「コクラス先生が最初に約束したように、先生の授業を終了した私はどんな訴訟にも勝てるはずです。私が訴訟に勝ったら、授業料を返還するのがルールです。しかし、もし、私が訴訟に負けるようなことがあったら、先生は最初の約束通り、私に授業料を返還すべきです。いずれにしろ、授業料を返還してもらうことになります。これも先生のご指導のおかげです。」
コラクス「ちょっとまて。どんな訴訟を起こそうとお前の自由だ。しかし、かりに授業料返還訴訟に負けたら授業料は払うのがルールというものだろう。逆に、お前が勝訴したら、私の教育が約束通りのものであったことになるので、授業料を返せといわれる筋合いではないな。」

さて、どちらの言い分が正しいだろうか。レトリックは、どちらの立場からでも説得の方法を見つけだす術なので、コラクスとティシアスの例のように、詭弁的であやしげな論法も出てくる。

コラクスとティシアスが開始したレトリックは、ギリシアの民主アテネで、ますますさかんになる。ゴルギアスやイソクラテスといったソフィストと言われるレトリックの教師が活躍する。レトリックの対象は、法廷弁論だけでなく、議会演説、儀式の演説などもふくむようになり、議論法、論述の構成、言葉のあや、声の出し方など弁論の様々な側面がとりあげられた。次に、ギリシア哲学の二大巨頭、プラトンとアリストテレスのレトリックへの対応を見てみよう。

3.プラトンとアリストテレス
ラファエロに「アテネの学堂」という作品がある。アテネの聖堂につどう哲学者群像をえがいた大作である。その哲学者達の中央には、なにやら熱心に議論をしているプラトン(前 427-前 347 古代ギリシャの哲学者。ソクラテスに師事し,遍歴ののち,アカデメイアを創設。)とアリストテレス(前 384-前 322、 古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。アレクサンダー大王の師。)がえがかれている。プラトンは、右手をうえにむかって指さし、アリストテレスは手を水平にのばしている。プラトンとアリストテレスは、二千数百年にわたるヨーロッパの知的伝統の礎をきづいた哲学者だが、その個性は対照的であり、ラファエロの絵にはふたりの個性が象徴的にしめされている。

プラトンとアリストテレスの知にかんするかんがえのちがいが、典型的にしめされているのが、レトリックの領域である。

今日、レトリックは、ことばのあやの意味でもちいられているが、西欧では、伝統ある、説得のための総合的言語技術であり、バルトのいいまわしでは「紀元前五世紀から十九世紀まで西欧に君臨したメタ言語」となる。レトリックは、日本での西欧文化の導入の時期が西欧でのレトリックの衰退期にあたっていたこともあって、日本における西欧文化理解のおおきな欠落となっている。シラクサで誕生した西欧のレトリックは、プロタゴラスなどのプラトンの前の世代のソフィスト達や、プラトンのライバルのイソクラテスなどによって発展していった。ソフィスト達やイソクラテスは、民主ギリシアにおける、法廷弁論や政治弁論の教師として、たいへんな人気をはくしていた。法廷弁論や政治弁論のポイントは、聴衆に正しいとうけとられることである。かりに、主張がただしくとも、聴衆にそううけとれらなければ無益である。逆に、かりに主張が正しくなくとも、聴衆に正しいとうけとられれば弁論としては成功ということになる。

プラトンがゆるせなかったのは、この点である。ゴルギアスなどの対話篇で、プラトンは、レトリックを、エピステーメへの道をゆがめる、うわべをかざる、おべっかつかいの、詐欺的な似非技術として、口をきわめて批判している。(ただ、レトリックの批判者にありがちなことだが、その批判自体みごとなレトリックによっている。ローマ時代の雄弁家キケロにいわせると、プラトンはレトリックの大家である。)あくまで、エピステーメをもとめるプラトンにとっては、ドクサの領域で、説得合戦をくりひろげるレトリックなど知の邪道だった。

レトリックへのアリストテレスの対応は、はるかに現実的である。アリストテレスはすべてをエピステーメでカバーできない(非哲学者にとってはとくに)ことをあっさりみとめ、演繹的推論や帰納法などのエピステーメの方法をおぎなう、省略三段論法や例示の方法を提案し、また、比較、原因・結果などの論拠のだしたかたをまとめた。さらには、ロゴスだけではなく、エートス(人柄)やパトス(感情)による説得までふくめて、レトリックの体系を弁論術で、講義録風にまとめた。プラトンによるレトリックを駆使したレトリック批判とアリストテレスによる無味乾燥な文体のレトリック論。実に対照的である。

4.古典レトリック
4.1.古典レトリックの確立
アリストテレスの「弁論術」は文字どおり弁論の技術の書である。論点の分類、話者の個性とその表現、聴衆の心理、弁論の構成、言葉のあや、と網羅的に弁論にかんする問題を、整理してまとめている。言葉のあやについては、最後のほうで、全体の五分の一程度のスペースでふれられているだけである。論理学と政治学の創始者が、両者の間にあるとみずから位置づけた弁論について、テキストとして包括的にまとめたのが「弁論術」である。アリストテレスののち、弁論家の教育や倫理、事例による教育など、より実際的なテキストや記憶法、表現法、言葉のあやなどの部門についてのより詳細な論考がおおくでたが、基本的な枠組みについていえば、CorbettらがClassical Rhetoric for the Modern Student で指摘するように、アリストテレスの「弁論術」をこえることはなかった。

4.2..レトリックの五部門
アリストテレスが定式化し、ロ-マ時代に制度化された総合的言語技術としてのレトリックの内容は、発想・配置・修辞・記憶・発表の五部門からなっている。

法廷弁論であれ、政治弁論であれ、ギリシア・ローマのレトリックは実際に口頭弁論をおこなうための手引きで、レトリックの五部門は口頭弁論の準備から実施までの各段階に対応していた。このなかで、修辞の役割は、発想と配置の部門の指針にしたがって形成されたメッセージの内容にたいして、注目させたり、印象づけるように表現上の装飾をくわえることだった。

4.3.説得の三側面
アリストテレスが定式化した古典レトリックでは、説得をロゴス、パトス、エートスの三側面からとらえた。これをうけてローマの雄弁家のキケロは弁論家の任務は、論証し、聴衆を感動させ、聴衆に好かれることだとした。これらの位置づけは、今日における説得をかんがえる際にも有効である。下に、まとめて示す。 

         説得の三側面

      レトリックにおける説得の三側面              弁論家
ロゴス   議論の内容(理由づけや事実の印象)による説得    論証する  
パトス   聞き手の感情や利害関心にうったえる説得        感動させる
エートス  話し手への信頼や好意による説得             好かれる

5.レトリックの衰退と日本におけるレトリック
5.1.西欧におけるレトリックの衰退
レトリックは、西欧ではギリシア以来の知の伝統を体現する科目で、言葉に関する自由三科(論理・文法・レトリック)の仕上げの位置をしめていたが、1902年に、フランスで中等教育課程の最終学年の名称である「レトリック学級」が法的に廃止される頃までには、レトリックは新しい科学の時代に合わない、古くさく形式的で退屈な学問になってしまっていた。

5.2.日本におけるレトリック受容
日本では、西欧文化の導入の時期がレトリックの消滅の時期とかさなったために、レトリック理解は日本文化における西欧文化理解の盲点となっている。田中美知太郎は世界の名著におけるプラトンの解説でこういっている。「レトリックというものの重要性について、わが国の西洋文明の理解は未だ浅薄なため、ほとんど知られていないが、これは西洋において、ローマ時代から中世、ルネサンスを経て現代に至るまで、最も古く最も長くつづいている教養の伝統の根幹をなすものである。西洋のレトリックの伝統について知ることなしに、西洋の文学や演劇を云々することも、西洋の政治家や評論家の演説や文章を理解することも、ほとんど不可能であると言ってよい。わが国の外交官、わが国ジャーナリズムどが、西洋の生活の皮相な細目に触れるだけで、その根底にある心理や論理に達する者の少ないのも、わが国の教育が全体として、この主の理解を準備することを全く怠っているからである。」

明治の初期は、万機公論に決すべしの機運のもと演説文化が盛んになった日本の歴史では例外的な時代だった。この時代には、古典レトリックに対応した内容の「雄弁術」「弁論術」などの翻訳書や紹介がいくつもなされた。

その後は、明治における演説文化の衰退もあって、修辞法へ縮小した西欧レトリックが、日本古来の文芸の伝統と照応する形で、レトリックとして紹介研究されることになる。1970年代以降のレトリックブームも、修辞法の枠内のものである。

5.3.パブリック・スピーチと実際的レトリック教育
日本では、種々の修辞の粋をこらした豊かな文芸の伝統がある。しかし、パブリック・スピーチの伝統はないに等しい。名文集はあっても、名演説集はほとんど存在しない。学校の国語教育も、圧倒的に文芸にかたよっており、パブリック・スピーチの訓練はほとんどなされていない。こうした現状は文化の偏りであり、教育の怠慢である。日本語での発信能力を高めるための、パブリック・スピーチと実際的レトリック教育が必要である。
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お父さんのためのワイドショー講座的現実認識の世界におけるエートスとパトス

2007年08月07日 | 思想・社会
昨日、朝日放送のムーブを見ていたら、宮崎哲哉さんが、民主党の研究会にも出ているが、民主党の年金案はでたらめだ。小沢党首のバラマキの公約の財源はどうするのだ、自民党も対抗上補助金行政に逆戻りだ、日本の政治が停滞してしまうといった趣旨の、しごく真っ当な発言をした。そしたら、朝日放送的に何かまずいのか、堀江アナがあわてて、でも「やっぱり悪いのは政府ですよね」とフォローし、勝谷氏は、それを補って、昔から日本の政治は停滞しているんだよと、まぜかえしていた。反論するなら良い、「悪いのは政府」という念仏とまぜっかえしである。せっかくまともな議論、問題の検討の糸口が提示されたのに。文春の仏頂面日記にも書いているが、宮崎哲哉さんは、慶応大学の権丈教授の著書などを調べて、また、実際に民主党の議員と研究会で議論しての結論のようだ。

今回の選挙は年金問題で盛り上がった、記録もれ問題に国民は怒り、ワイドショーはそれをあおり、怒りの炎は燃え上がった。たしかに政府には責任がある。しかし、社会保険庁のでたらめな業務ぶりは、自治労の反合理化闘争の責任も大きい。ところが、自治労幹部で民主党の比例区から出た、あいはら氏は、マスコミで問題とされることなく、まんまとトップ当選を果たした。出来事の重要度はマスコミで放映される時間できまるという、お父さんのためのワイドショー講座的現実認識の世界に有権者の多くは住んでいるのだろう。あいはら氏の問題を扱った大坂毎日放送の番組が放送されたのは投票終了後である。マスコミは、赤城大臣の絆創膏を報道するのに、忙しかったようだ。

ジュリアス・シーザーにおけるアントニーの演説は、大衆煽動の見本である。聴衆は、ブルータスの生真面目な演説に納得した。それをうけて、アントニーは、注意深くブルータスの信頼性(エートス)を徐々に切り崩していく。ブルータスは高潔の士だ、しかし、と一見矛盾する事実の提示、この繰り返しで、最後には、「ブルータスは高潔の士だ」が、皮肉にしか聞こえないところまでもっていく。そして、シーザーの血まみれの衣服の提示というイメージ(哀れみと怒りのパトスの喚起)、シーザーによる遺言が市民への遺産分配とのほのめかし(利害のパトスの喚起)、これで完全に聴衆を自分の方へ引きつけ、ブルータス一派に対する暴動をまんまと誘導してしまう。ここでのポイントは、相手のエートスの切り崩し、具体的な映像による怒りのパトススの喚起、利益のほのめかしの三点である。ロゴスは関与していない。

今回の選挙では、安倍首相が状況把握が鈍く、演出力にとぼしく、ロゴスによる反論を中途半端に試み、かえって怒りを増すなど、大衆への働きかけが下手すぎた。小泉批判を試みたマスコミの報道も結果としては自分に利すように使ってしまった小泉氏の天才とは比較にならない。結果として、安倍内閣の信頼性を損ねる内閣不祥事のイメージが繰り返し、繰り返し、提示され、安倍首相のエートスは順調に低下していった。年金問題に対する怒りのパトスも、繰り返しの事例で強調され、それを受ける政府というイメージで、怒りのパトスは、無責任な公務員・労働組合・民主党ではなく、安倍内閣へと首尾良く向けられた。小沢氏は、地方まわりと利益誘導で仕上げをすれば良いだけだった。小泉改革による自民党組織の疲弊、経済格差に苦しむ地方に、小沢氏の金丸ゆずりの手法は、実に有効だった。今回の民主党大勝は、マスコミ主導の安倍内閣エートス崩壊劇、年金劇場に小沢氏の利益誘導が結びついて生じたのだろう。

国民のバランス感覚なんて昔のことになってしまった。小泉劇場は、組織の影響や固定票の割合が小さくなり、マスコミの提示するエートスとパトスの劇場で浮動する票によって選挙の結果が大きく左右される時代の幕開けだったのかもしれない。
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アメリカのコメディアン、世界の国々けなしまくり

2007年08月03日 | 雑談
アメリカのコメディアンConan O'Brienの世界の国々けなしまくりが、cominganarchyに紹介されてた。(翻訳は適当です。元は英文を見てください。)

中国:理由なく投獄される共惨国家。
(If you’re gonna be in prison, it might as well be for no reason.)

日本:20世紀には中国・ロシアを手ひどく打ちのめし、21世紀にはハロー・キティー・トースターを作っている不可解でキティーな国。
(Last century, you brutally defeated China and Russia. This century, you make Hello Kitty toasters.)写真はハロー・キティー・トースター。

韓国:最大の資源は石炭、これで犬に素敵な燻蒸の香り、よっ、犬食い姦国。
(Your biggest natural resource is coal, which gives dog a nice, smokey flavour.)

けなす国の多さはさすがに世界の警察アメリカのコメディアン。でも、残念ながら、アメリカと北朝鮮は無かった。それに、けなしかたがシュールじゃないというか、やや単純。こういう偏見ネタを連発でやるには、けなす方の視点の異常さもそこはかとなくコミカルに醸し出さなくては。Boratは、悪趣味だけど、そのへんが面白い。また、シュールさではモンティーパイソンとは比較にならない。ベルギー人けなし大会とか、面白かった。「ベルギー豚」とか色々あるなかで、優勝は、「単にベルギー人」だった。日本のコメディアンも身辺ネタばかりじゃ退屈だ。ドラマから政治まで韓流好みで若者のお笑い番組もやっているNHKさん、東アジア国別対抗けなしバトルでもやったら。
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