道端鈴成

エッセイと書評など

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Google Chrome: Hatsune Miku (初音ミク)

2011年12月16日 | 言葉・芸術・デザイン
以前、初音ミクについてぎこちない記事を書いた。

"Google Chrome: Hatsune Miku (初音ミク)"は1分1秒でヴォーカロイドの本質を的確に伝えている。
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初音ミクとヴォーカロイドの可能性:クラシック・ポップス・デジネッツ

2011年02月20日 | 言葉・芸術・デザイン
初音ミクはヤマハの音声合成ソフトを元に、北海道に本社のあるクリプトン・フューチャー・メディアが2007年8月末に販売したヴォーカロイド(アンドロイドなどと同様に、人造歌い手といった意味)である。初音は初めての音で、ミクは未来で、未来の初めての音といった意味になる。様々な楽器の音を合成するシンセサイザーは1980年代以降、PCでも簡便に使えるようになってきたが、その音声版といえる。

人間の音声が、歌として聴くにたえる合成の対象となると、単なる楽器音の合成にはとどまらない一連の効果が生ずる。声は性別や感情、性格などさまざな情報をつたえ、意見や考えという意味もあり、我々は声と人格を密接したものとして受け取る傾向があるからだ(Nassらの研究やジェインズのBicameral Mindsに関する議論など)。ヴォーカロイドという名称は、単なる音声シンセサイザーソフトをこえた、人格的な存在にも関わる製品であることを含意している。

CGを使ったヴァーチャル・アイドルの試みはこれまで色々あったがみんな失敗している。ヴォーカロイドがこれらと違うのは音声を基盤にしていることで、クリプトン・フューチャー・メディアでは声優の選択や音源のサンプリングにはかなりの時間をかけてやっているようだ。画像の方も、基本は提示しているが、ユーザーの自由な創作を許容している。異様に長い青緑の髪(Long Tailのもじりというわけではないだろうが、なんだか巫女っぽい感じもする。)などはトレードマークとして、あとは三次元CGのものから、よりギャク漫画チックな(なぜかネギを振り回している。「和ませる」の意味の古語「ねぐ」からきた禰宜と関係あるというわけではないだろうが。)ものまで様々である。クリプトン・フューチャー・メディアが成功したのは、音にこだわって、自由な制作のプラットフォームを提供した点にあるのだろう。初音ミクは、世界初のメジャーなヴァーチャル・アイドル歌手となった。

みくみく菌にご注意♪(マンガ版ミクが歌でヴォーカロイドの世界への案内とお願いをしている。左腕の01はクリプトンでの製造番号。)

2010年春には初音ミクなどのヴァーチャル・アイドル歌手の3DのCG映像を透明なスクリーンに提示し、ニコニコ動画などのネットでヒットした曲を、実際のバンドと観客の前で演奏するコンサートが開催されている。コンサートの様子はミクの日感謝祭 39's Giving DayProjectとして、DVDやCDになって発売されている。ほとんどの曲がYoutubeなどにアップされており、大多数の視聴者はネットやそこからのコピーで視聴しているようだ。Youtubeでのコメントなどを見ると、ほとんど世界中に熱心なファンがいることに驚かされる。アニメファンというだけでなく、既存のポップスに不満足で新しい音楽を求めている人もひきつけているようだ。

39's Giving Day 2nd OP Live

例えば、上の動画では最初が「裏表ラバーズ」でその後、初音ミクがバンドを紹介し、「パズル」、「Voice」、「1/6」とメドレーで歌われる。仕草や声などは完璧といってよいほど水準が高く、バンドや聴衆とシンクロしているさまは、歴史的といいたい感じがする。裏表ラバーズは人間の限界を超えた速さで歌われるが、恋の混乱と痛みをいたたまれないような速さで歌った歌として面白いし、「パズル」、「Voice」はゆったりとした感じで、「1/6」はやや生硬だが、それぞれ生活の場から立ち上がったつぶやきみたいな感じがあり、音楽産業の型にはまってつくられた既成の歌にはない魅力がある。

Double Lariat - Vocaloid - Hatsune Miku 39's Giving Day Concert

巡音ルカは、初音ミクよりすこし声の低いやや大人の感じがするヴォーカロイドである。"Double Lariat"も歌の標準的な定型をはなれた即物的な表現がアレゴリーとなっていて面白い。

World is Mine Live

「世界で一番のお姫様」で始まるWorld is Mineは、Youtubeで再生回数がすでに400万回を越えていて、曲の内容はより一般のポップスに近い。

こうしたヴォーカロイドの曲の多様性と、CGもあわせた完成度は、作詞、作曲、作画にきわめて多数のアマチュア職人が参加し、ネットを通じて共同し、作品をネットにアップし、視聴者によって選択されていくという過程によっている(「動画共有サイトにおける大規模協調的な創造活動の分析」)。テレビなどのように多数の興味をそこそこ満たすという作品供給時の隘路がないので、特異な規格外の作品でも自由にアップされ保存され、一部でも熱心な視聴者がいれば選ばれていく。初音ミクの長い青緑の髪が象徴するようなクールなLong tailの選択が可能になっている。

既存の曲についても、音楽のジャンルを自由に越えて歌われる。

初音ミクに はじめてのチュウ を歌わせてみた
Ievan Polkka
初音ミクが歌う「アヴェ・マリア」 05.シューベルト

さらには、祝詞やお経まである

【ミク・オリジナル】天津祝詞
歌って覚える般若心経

こうしたヴォーカロイドをハブにした領域を越えたゆるいつながりについては、プロの音楽家で注目している人もいる(5年間で激変したメジャーとネット)。ようするにLong tailでは個人の趣味、嗜好が反映されるが、これらがヴァーチャルなアイドル(偶像)を通じて、ゆるやかなつながりをも持ちうるということである。

Introducing the World's Next Rock Superstar(Lew Rockwell.com, 2010年8月9日)

Mike Rogersは上の記事で、初音ミクについて音楽におけるMusci3.0革命を導入する新しいスターだといって紹介している。Mike Rogersの記事は、自由と市場を志向するジャーナリストらしい生きの良い内容で、ヴォーカロイドの革命性の認識はおそらく正しい。ただ音楽進化に関する説明は不十分である。

望月(2010)は「ウェブ時代の音楽進化論」で、録音技術がポップスをもたらし、デジタル技術は新しいよりパーソナルで多様な音楽作りつつあり、それをFuture MusicつづめてFusicと呼ぼうと提案している。作曲家中心で複雑で長い曲が作られたクラシック、スター歌手中心でプロが多数の聴衆の獲得を競い曲を提供するポップスの時代に続く、アマチュア中心にデジタル技術を駆使しネットで音楽の共有を行っていくヒュージックの時代である。望月氏の議論は非常に面白く参考になるが、ヒュージックのネーミングは、はずしている感じがする。

0:土着(Indigenous) 地域地域で継承されてきた歌
1:クラシック(Classic) 記譜法にもとづく作曲家の高度に複雑な作品 
2:ポップス(Pops) 録音とマスメディアが生むアイドル歌手の数分の人気曲
3:デジネッツ(Diginets) デジタル化とネットの共同によるパーソナルで多様な小曲

デジネッツ、あるいはデジネット音楽は、Mike RogersのMusic3.0、望月(2010)が言うヒュージックに相当する。Mike Rogersが指摘するように、クラッシック音楽における作家主義をベートーベン、ポップスにおけるアイドル歌手をプレスリーで代表させるとすれば、デジネッツは初音ミクということになるだろう。望月(2010)はヴォーカロイドが日本を越えて広がるか懐疑的だが、声と人格のつながりの重要性から言って、より一般性をもつという議論もなりたつ。この辺、技術が文化に与える影響や声とエージェントの問題、媒体としての偶像の役割など検討すべき面白い問題が多い。また機会をあらためて論ずることにしたい。
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Lilium

2011年01月27日 | 言葉・芸術・デザイン
Liliumはラテン語で百合である。Youtubeでたまたま見つけて聴いたのだが、深い悲しみと祈りを感じさせる曲である。エルフェン・リートというアニメのオープニング曲らしい。タイトル・ソングでラテン語の歌が使われているとは。アニメ恐るべし。

エルフェンリートのOP曲の「LILIUM」

Elfen Liedはドイツ語で妖精の歌である。アニメの冒頭には、ウィーンの画家クリムトの絵が使われている。歌詞は聖書からとったラテン語の詞である。作詞者のブログでの説明によると、アニメの監督の宗教曲のような感じという求めに応じて、ミッションスクール時代に歌ってなじんできた聖歌を元にしたということで、グレゴリオ聖歌などにも使われている聖句をアレンジしているみたいだ。長い時代を歌い継がれてきた祈りの言葉は独特の力を持っていて、音楽も峻厳な雰囲気と感傷とが絶妙にミックスされている感じがする。まだアニメや原作のマンガを見ていないのではっきりしたことは言えないが、作品への感想などを読むと歌詞はアニメのテーマにもうまく対応しているようだ。

MOKA☆竜宮への道

Elfen Lied - Lilium Choir Interpretation

Youtubeには上のスウェーデンの教会での合唱などを初めとして、色んな演奏があがっていて、この歌が世界中で親しまれ初めているらしいことがうかがえる。
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シューベルトのピアノ・室内楽曲と長調の悲しみ

2010年11月08日 | 言葉・芸術・デザイン
今年の夏あたりからシューベルトのピアノ曲や室内楽曲を繰り返し聴いている。物理学者で音楽愛好家でもあったハイゼンベルクは自伝で、シューベルトについてなぜあんなメロディーを思いつけたのだろうと書いている。音楽がよく分からない自分にもなんだか同意したいような気がする。

音楽の印象については、短調がなぜ悲しげで、長調がなぜ元気な感じがするのかといった基本的な問題がまだ分かっていない。クック博士は、音楽における長調、短調の印象が動物における音声コミュニケーションに基盤があるとの面白い説を唱えている。動物は、弱く宥和のサインを出すときには、犬であれば背中としっぽをまるめ体を小さく恭順の姿勢を示し、高いキャンキャンと言った声で鳴く。反対に威嚇するときには毛を逆立て体を大きくみせる姿勢をとり、グウーゥと低い声でうなる。高い音声は体の小さなあるいは緊張の弱い状態を示し、低い音声は体の大きなあるいは余裕の強い状態を示す。緊張か余裕かという解釈はハンディキャップ原理の解釈で、体の大きさとの関連での解釈はサイズシンボリズムの解釈である。いずれにせよ、高い音、あるいは基準音から上昇する音は、弱さと緊張状態を、低い音、あるいは基準音から下降する音は強さと余裕の状態を示す。これは、人間の言葉の調子でも、断定の下がるイントネーション、疑問の上がるイントネーション、宥和の高い音声、威嚇の低い音声など動物の音声コミュニケーションと同じ現象が見られる。クック博士の理論は音楽における短調、長調の印象が、動物の音声コミュニケーションに進化的基盤を持ち、言語コミュニケーションでも用いられているシンボリスムを音楽においてひきついたものだという考えである。クック博士は、核物理学・脳科学・心理学の専門家であり、その理論は音響学と和声理論をふまえた精密なモデルにもとづいて展開されている。なぜ長調は明るく、短調は暗いかという総説では理論を簡明に解説している。

一般的には、短調の曲が暗く悲しげで、長調が明るく元気な感じがする。しかし、シューベルトの場合、シューベルト自身、悲しくない曲なんてあるだろうかと言っているように長調の曲もしばしば悲しい感じがして、パセティックな激情をほとばしらせているような曲もある。イ長調のピアノソナタ(D.664)など、のんびりした感じで美しい調べが流れているかと思えば、いつの間にか調べには日がかげるような感じで痛切な悲しみの影がさしている。ここでの悲しみは、弱さの宥和や緊張といった対他的な側面はほとんどなく、もっと即自的な独り言におけるかなわない憧れや諦めの感情に近いのではないかという気がする。ショーペンハウアーがペトラルカのラウラを例に引いて言っているような悲しみである。すこし長くなるが引用する。「性格は穏やかになり、哀調を帯びて、高尚になり、諦念を示す。ついにこうなれば一定の対象について心を痛めるというのではもはやなく、人生の全体にわたって広く心を痛めるようになり、そうなれば心痛はいわば意志の内向化であり、意志の隠遁であり、意志の漸次的な消失なのであって、意志の可視化であるところの身体は、このような心痛によって静かに心の内奥に埋められてしまうだろう。そのときに人間は自分の絆が幾分かは切断されたと感じとるのである。すなわち身体と意志との同時的な解体として予告されるところの死のやさしい予感を感じる。いつの場合にも心痛には秘められた喜びが伴うにはこれがためである。このような喜びこそ、あらゆる国民の中でもっとも憂鬱な気質をもつ国民がthe joy of grief(悲しみのもつ喜び)と名づけたところのものであると私は思う。」(「意志と表象としての世界」中央公論、世界の名著、西尾訳、p.687.)

「意志と表象としての世界」は、ショーペンハウアーが30才の若さで完成した主著である。西尾氏は、解説でこの作品に若い天才の作品の特徴としての死と愛の哲学が基調にあることを指摘し、「若い人たちは老人たちよりも死に親熟し、死について多くのことを知っているからである。なぜなら、かれらは老人たちよりも愛について多くのことを知っているのだから。」という、トーマス・マンのショーペンハウアー論の言葉を引用している。ショーペンハウアーは経済観念もしっかりした人で、主著完成後、老人になるまでさらに40年生きた。一方、シューベルトはボヘミアンで31才の若さで世を去っている。ショーペンハウアーとシューベルトは全く違うタイプの人で、音楽は特定の主題をめぐっての哲学とは比較できないが、シューベルトの音楽には30才のショーペンハウアーがペトラルカを例に指摘したような、若い心だけが痛切に感じられる悲しみがこめられており、シューベルトの音楽的な早熟の天才がその表現を可能にしたと言えるかもしれない。ショーペンハウアーの死と愛の哲学は別にしても、相互の力関係をはかりながらの対他的な経験を豊富にもった大人とちがって、特定の相手に後先考えずに没入してしまうようなことは若い人の特権だろうし、子供の方が人生の一般的な境界条件にはよりピュアに反応しうる(例えば死んだらどうなるかなどとおののきとともに真剣に考えるなど)といったことは言えるかもしれない。

シューベルトの作品にもどると、ピアノ曲はケンプが弾いたのがCD7枚組のセットである。バランスのとれた良い演奏で、安心して聴けるが、名演ということで言えば、リストが歌曲をピアノ用に編曲した作品をキーシンが弾いたものが良い。とくに、「水の上で歌う」や「水車屋と小川」、「糸を紡ぐグレートヒェン」など、やや穏やかな調べに痛切な悲しみの影がさすような感じの曲は素晴らしい。描写的な音も、水や糸車の音に感情がそのまま宿るみたいな感じがする。ただ、より劇的な曲になるとやや物足りない。「さすらい人幻想曲」(D.760)などは、リヒテルの方がより力強く表現力のある演奏をしている。アファナシエフは「幻想ソナタ」(D.894)など、メロディーに感情がのるという感じではなく、異様に遅いテンポと強弱のコントラストの音のなかかから表現と感情が立ち上がってくるという感じで独自である。弦楽だと、アルバン・ベルク・カルテットは精密で良いが、弦楽五重奏などの劇的な曲になるとハイフェッツ・ピアティゴルスキーなどの方が迫力がある。以上は素人の主観的な感想である。キーシン、リヒテル、アファナシエフ、ハイフェッツ、みなロシア圏出身の演奏家である。素人の選択の個人的偏りなのだろうか、それとも何か理由があるのだろうか?
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バカマンガと低能マンガ

2007年10月04日 | 言葉・芸術・デザイン
マンガを好きで良く読む。マンガは基本的にはデフォルメ、誇張である。人物は特徴をカリカチュア化して描かれるし、感情や動作も誇張して表現される。登場人物も、規格を外れているのが多い。日本マンガを代表する二人の巨匠、手塚治虫の代表的登場人物はロボット、水木しげるは妖怪である。動物が主人公のマンガも多い。ふつうの人間が出てきても、超人、低人など、恐ろしく誇張したキャラクターである。要するにマンガの登場人物は、ある種の化身なのである。

文章で同じ事をやると荒唐無稽すぎて、感情移入できなくなってしまうが、絵だと、視覚的にそこにあるというリアリティーもあって、世界がなりたってしまう。また、化身には読者と共有出来るある種の価値や考えが投影されるし、マンガ家は、作画に時間がかかるので、相当の時間をその世界の表現に没頭してすごさなくてはならない。あれだけ荒唐無稽なのにもかかわらす、マンガ世界に没入が可能なのは、この辺の事情によるのだろう。

谷口ジローの私小説、あるいはドキュメンタリー映画のような作品、高野文子の実験映像のような作品も好きだが、マンガの王道はやはり荒唐無稽のリアリティーだと思う。最近読んだのでは、三宅乱丈の「大漁!まちこ船」、山口貴由の「シグルイ」、望月峯太郎の「万祝」などが面白かった。ある種のバカマンガということになるかもしれないが、没入できるバカマンガを書くには相当な才能が必要なようだ。島木和彦の「燃えよペン」などを読むと、バカマンガにあこがれながら、離陸できないもどかしさを感ずる。

一方、社会的に重要なテーマをかかげ、賢いことを言おうとするマンガもある。手塚のように頭の良い作家がやれば、「アドルフに告ぐ」やいくつかの医療ネタの作品のように、マンガとしての面白さを保ちながら、見事にこなす。プロットの組み立てなど小説家顔負けである。楳図かずおは、「私は真悟」など大テーマで複雑なストーリーを書くと、手塚ほど頭が良くないので、プロットが破綻をきたす。しかし作品には、圧倒的な表現力と思いこみの力がこもっており、マンガとしては無視できない怪作になる。

どうしようもないのが、複雑なプロットを上首尾に組み立てる頭もなく、バカマンガの表現力もない作品だ。最近の作品では、たとえば、「ホムンクルス」「イキガミ」などがその例だ。「ホムンクルス」は始まりのトレパネーションあたりは少し面白いかと思ったが、深層心理の画像化など、陳腐でつまらない。深層心理だの精神分析だのサイエンスでも何でもないのだから、ハチャメチャに遊んでくれれば、楽しめるのだが、深刻そうな雰囲気というか語り口が、頭が悪いというかうっとうしい。「イキガミ」も状況の設定が甘すぎる。絵空事を書くのだから、もうちょっと頭を使ってほしい。結局は、安っぽい感動のヒューマンドラマのオムニバスになってしまっている。佐藤という外交評論家が、この作品に感心したようなことを話していたが、この評論家も頭が悪いのかと思った。この種の作品は、バカマンガではない。低能マンガである。

私は、バカマンガは人がなんと非難しようと好きだが、低能マンガは別だ。
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芭蕉の形式感覚

2007年09月25日 | 言葉・芸術・デザイン
「奥の細道」の旅で芭蕉は、5月16日に江戸を出発して、東北から日本海をまわり、10月4日に大垣に着いている。一日平均20キロ弱歩いて、約140日間の行程である。この旅で芭蕉が残したのは、400字原稿用紙にして50ページにみたない紀行文にすぎない。しかし、そこには数々の名句が彫琢に彫琢を重ねた文とともに綴られている。キーン氏は、「百代の過客」という、日本人の日記に関する興味深い本で、「奥の細道を」次のように評している。

「『奥の細道』は、日本の紀行文学に具わる諸資質の偉大な集約であり、同時にその分野における新しい可能性を、大胆に探究した作品である。芭蕉はこの作に、紀行文につき物のさまざまな要素を取り込んでいる。例えば名所や歌枕に関する記述、詩と散文の組み合わせ、道中での見聞、孤独の際における私的省察の叙述などである。すべてこれら周知の要素も、ここでは新たな意味を獲得している。それは芭蕉が、日記を読むという昔ながらの喜びを無限に高めてくれる、あの形式の感覚を付与して、以前にはややもすればただの気紛れな印象記に終わりがちだったものを、一つの渾然たる全体としてまとめ上げているからにほかならない。」

キーン氏は「奥の細道」を日本の紀行文学の頂点というだけではなく、まばゆいばかりの名文や句と、やや平板な文の対比を、モーツァルトのオペラにおけるアリアとレシタティーボの対比になぞらえるなど、世界の芸術における傑作として扱っている。

「奥の細道」における形式の感覚とは、具体的にはどんなものだろうか?

「奥の細道」は、深川を出るときの旅の初めの句と、大垣に着いたときの旅の終わりの次の句の二つの句を枠としている。

5月16日 深川発
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

10月4日 大垣着
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ

初めの句は、友人による見送りの際に詠まれている。キーン氏はこの句を「それ自体傑作であるばかりか、あとに続く作品全体の主調を見事に決めている。詩と散文との、これほど完璧な結合は、世界の文学の中でもまれなのである。」と評している。この句は、作品全体の主調、つまり、旅、季節の移ろい、無常と生き物・人の悲しみ、詩聖へのオマージュ(陶淵明の「羈鳥(カゴの鳥)は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」をふまえているとされる。)、それにおそらく水、を設定している。そして、冒頭の「行く春や」は、最後の、蛤の句における「行く秋ぞ」とが対応して、作品の枠を作っている。

各句にも、対比や比喩が多重にもり込まれている。最初の句における、鳥と魚の対比、口と目の対比。そして鳥や魚と人の間の比喩は、単純な擬人化ではなく、悲しむ動物の鳴き声や涙に伴奏されながら、人もいくぶんか動物になぞらえられている。最後の句では、「蛤」の引きはがされる二枚の貝に、分かれていく人がたとえられている。「ふたみ」は、「蛤」の二枚の貝であると同時に、二人の身でもある。また二見ヶ浦という芭蕉の次の目的地の地名も暗示されている。

8月20日(旧暦の7月7日)
荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)

春に出発した「奥の細道」の旅も、盛夏をようやく過ぎようとしている頃の句である。言語学者の平賀氏が、最近の著書で興味深い分析をしているので、簡単に紹介する。

「荒海や」の句には、複数のレベルで、多重の意味が集約されている。

まず、「荒海」と「天河」の対比がある。空にかかる大河である天河と、地上の荒海は風景として対比されるだけではなく、詩の形の上でも対になっている。水平線上の「佐渡」は、風景においても、詩の形においても「荒海」と「天河」の間に来る。これらは詩の形と指示対象とIconicity(類像性)である。

音のレベルでは、母音ではa音が8個、o音が5個で多い。a音は開放の印象を、o音はやや奥まった印象をあたえる。子音は、m,n,r,yなどの共鳴音(sonorant)が多くs,tなどの阻害音(obstruent)は五七五の真ん中でしか生じていない。共鳴音は荒海や天河といった水の印象と対応している。阻害音は、「佐渡」の島、しかも流刑地で金山があるという、ごつごつざらついた印象と対応している。a音の開放の印象とo音のやや奥まった印象は、夜の海と空の風景にふさわしい。これらは、音の印象と描写対象の印象との類像性である。

「荒海や」の句の季語は、「天河」で夏である。旧暦の七月七日に詠まれており、当然に、天の川を渡って牽牛・織女の二星が七月七日の宵に逢会するという伝説をふまえている。この伝説は、日本でも古くから知られており、万葉集にも詠まれている。牽牛・織女を隔てる「天河」と、こちらと佐渡を隔てる「荒海」がある種意味的にも対応している。さらに「佐渡」は「渡」を「佐」(たすける)との意味も込められている。これらは複数の意味における類像性である。

言葉は、音から意味まで複数のレベルで連なり、無数のテキストや知識と複雑な参照関係をもっている。詩人は、こうした複雑な関係の結節点である言葉を、繊細な手つきで紡ぐ。紡がれた言葉は、読み手の心で解凍されると、多重の波紋を生み出す。言葉を紡ぐ詩人がすべての効果を意識しているわけではなく、多くは無意識で、偶然の結果もあるかもしれない。芭蕉の形式感覚とは、こうした多重の関係を圧縮してテキストを紡ぐ能力である。

富士一つ埋み残して若葉かな

この与謝蕪村の名句は、感覚的に明快である。芭蕉の俳句におけるように、対や比喩的な意味の連鎖などによる濃密な意味の圧縮が行われている作品とは、やや異なるように思える。もちろん本物の詩人の作品だから、響きは意味と見事に対応している。「富士」という柔らかい言葉を、「一つ」のやや堅い小さな感じの音で受け、この響きは、遠景の富士の印象と対応している。そして「埋め残して」というややもたもたした感じの響きが続き、以上を「若葉かな」のa音の五連音の開放的で明るい響きが包むという構造になっている。そして、句が指し示すイメージの鮮明さは圧倒的だ。芭蕉の句より魅力が分かりやすい。

俳句を全体として見れば、イメージの鮮明さや、視点の面白さ、言葉のリズムなど、特定の側面の魅力で読み手をとらえる作品の方が多く、芭蕉のような徹底的に彫琢され凝縮された句は、やや例外的のような気がする。俳聖芭蕉の圧縮された多重のテキストを紡ぐ形式感覚は、むしろラテン文学で鍛えられたヨーロッパの詩人の形式感覚に近いのかもしれない。おそらく芭蕉はこうした形式感覚の基本を、傾倒する中国の詩で学び、連歌の指導者としての経験のなかで独自に発展させていったのではないかと思う。
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糸瓜忌

2007年09月23日 | 言葉・芸術・デザイン
評伝などを読むと正岡子規は、なかなかに愉快な人物だったらしい。やたらと人を指導するのが好きで、漱石が英文を書いて子規に見せると、英語は弱いくせに、兄貴風はふかせたいで、Very Gooodと朱で書いたとか。松山に赴任していた漱石の家にいったとき、ちゃっかり、漱石のつけで、ウナギをとって平らげていたとか。まあ、それを面白そうに書く漱石も漱石だが。

子規は、俳句作者としてよりも、俳句運動の組織者としての貢献の方が大きい。俳句の分類作業など、情報の組織化については先見性と実行力を兼ね備えている。批評家としての眼識も確かだ。そして、リーダーとして才能のある人々を組織する能力がある。根岸の子規の病床が、俳句運動の中枢となりえたのは、こうした子規の才能と俳句革新にかける情熱によったのだろうと思う。

「墨汁一滴」「病床六尺」などの随筆は、病床で俳句運動を指導する子規の眼がとらえた日々の記録である。子規は、肺炎が脊椎に転移して、脊椎カリエスになっていた。しかし、脊椎カリエスのひどい苦痛にさいなまれながら書かれた子規の文章には、湿っぽさや、愚痴っぽいところはまったくない。寝床に金魚鉢を置いてもらい「痛いことは痛いが綺麗な事も綺麗じゃ」と書き、日々の食事を事細かに書いている。そこには、苦痛を苦痛としてとらえながらも、好奇心を失わない快活な子規がいる。

九月十九日は正岡子規の命日だった。病床の子規が庭を眺め、句のテーマとした糸瓜にちなんで糸瓜忌とよばれる。子規がなくなったのは、暑い夏が過ぎて、ようやく秋の気配が漂い始めた頃である。子規の最後の日記は、九月十四日の朝というタイトルで、不思議な清澄感のただよう文章である。以下に終わりの部分を引用する。

「虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひら/\と動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病氣を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。」
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漱石の夏やすみ

2007年09月22日 | 言葉・芸術・デザイン
暑かった夏もようやく終わりだろうか。今年の夏は、消閑に「漱石の夏やすみ」を読んだ。漱石の漢文の紀行文「木屑録」の翻訳解説と、日本の漢文についての論考、それに正岡子規との交友などについて、中国文学の専門家、高島俊男氏がつづったものである。「木屑録」は、漱石23才の夏の房総旅行の紀行文である。旅行そのものは、たいして面白いものではないが、漱石の漢文の力が高い水準であることはよく分かった。兄貴風を吹かせる子規の漢文がいまいちなのは愛嬌な感じがした。著者の中国文学の専門家ならではの視点からの日本語表記におけるひらがなへのこだわりも興味深かった。水墨画風というか、論考、翻訳、解説、随想と要所をおさえるかたちで、ぬいて描かれている。要所の水準は高いが、油絵風に展開して塗りつぶすというしつこさがない。こういうのを、文庫本で気軽に読めるのはありがたい。

漱石の「文学論」「文学評論」も読んだ。

「文学論」は苦しい作品である、途中までしか読めなかった。漱石が、文芸の基礎をもとめて当時のイギリス心理学なども勉強し、真剣に文芸の基礎付けをしようとしたことは分かるが、感覚論や感情論など表面的であまり面白くない。これを講義でやったのだから、教師も学生も苦しかっただろうなと思った。当時の心理学と自分の文芸論をじかに結びつけるのではなく、カタルシス論、ミメーシス論など、従来の文芸に関する理論を咀嚼整理した上で、心理学との関連づけを求めるべきだったろうと思う。また、ジャンル論も展開すべきである。この辺で、歴史記述と文学、詩の役割の違いなど、漱石の蘊蓄をかたむけての西欧文芸と中国文芸についての比較があったら面白かったのにという気がする。「文学論」は、十分な装備や地図なしにジャングル探検をした作品のような気がする。とりあえずまとめあげてしまった根性というか、力量はすごいとは思うし、こういう苦しい仕事が、漱石の学識の基礎を作ったのだとは思うが。

「文学評論」は、いよいよ漱石の本領発揮という感じである。18世紀イギリス文化の紹介は、よく調べてあるし、ときどき混じるべらんめい調も、江戸っ子によるロンドン案内みたいな良い味を出している。アディソンやポープ、デフォーなどの遠慮のない作品評や、人物評も面白い。漱石の読解力と率直さは信頼できる。ただ、西欧の文芸史の流れでの評価の押さえはやや弱いような気がしないでもない。白眉は、スウィフト論である。風刺論、人物論、作品論、どれも見事で、英文学者としての知識を背景に、同じく希有の資質をもった風刺作家として、論じている。名人の勝負を見ているような感じがした。

漱石は、「文学評論」のあと、「我が輩は猫である」、「坊っちゃん」と立て続けに名作を書き、作家としての道に進む。個人的には、漱石の作品では、晩年の煮詰まった感じの大作より、前半のいきの良い小説や、エッセイなどの方が好きである。
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新春歌謡放談

2007年01月03日 | 言葉・芸術・デザイン
道端「おめでとうございます。」
河端「やあ、おめでとう。ちょうど良いところに来てくれた。」
道端「どうしたんです。」
河端「家人が。話相手にならないというか、まるで小言爺あつかいだ。」
道端「まんまというか、あ、いえ、私は先輩のお話を楽しみにきましたんです、はい。」
河端「そうか、まあ一杯やってくれ。なんだ、あの紅白。家人につきあって、つい見てしまったが、安物のポテトチップスと古くなったお造りを同じ皿に載せてかき回した感じで胸が悪くなった。DJオズマだかなんだか、裸もどきで挑戦のつもりか。実にくだらん。」
道端「DJオズマの裸もどきはインターネットで見ました。茸で恥部隠しは下品です。すっきり裸の方がよっぽどましです。それに、恥部隠しをするならやっぱり葉っぱでしょう。紅白でも葉っぱ隊かアルゴリズム行進をやって欲しかったです。小林幸子だって、1トンですか、巨大化するだけではなく、ピタゴラス装置とフュージョンするとか、」
河端「道端君の趣味でいくと、視聴率は一桁だろうな。」
道端「いえ。視聴率もちゃんと考えています。安物のポテトチップスと古くなったお造りを同じ皿という比喩は、言い得て妙です。せっかくNHKは沢山チャンネルを押さえているのですから、前半は、なつかしの紅白歌合戦と、紅白ミュージックバトル、あかしろうたがっちぇんの3チャンネル構成にし、最後は、全部あわせて紅白歌のハルマゲドンとして、」
河端「なんだ、その、あかしろうたがっちぇんというのは。」
道端「コスプレ、声優総出演で、アニメソングを中心にやります。たまらんひとにはたまらんとおもいます。」
河端「どうも道端流は視聴率一桁から離れられんようだな。」
道端「大丈夫です。視聴率は三チャンネル合計でいきますから。」
河端「道端君は視聴率の心配などしなほうがいいよ。」
道端「そうですね。視聴率を気にしてないマイナーな番組だと思いますが、今日、NHKのラジオでニューイヤーオペラの前半を聴きました。ひさしぶりのフィガロの結婚でした。プッチーニなどの、すこし芝居の書き割りめいたところのある名曲と並べると、あらためてモーツァルトは金無垢だなと感じました。歌手はすべて日本人ですが、実に堂に入ってました。とくにバリトンなど見事でした。その後のデビュー50年のイタリア人メゾ・ソプラノ歌手の声が良く出るのにも感心しました。歌手は咽が命だなと、あらためて思いました。」
河端「そうだな。紅白でも、夏川りみの声は、聴いていて持ちが良かった。細川や布施も相変わらず響く声ではあった。しかし、全体とすると、肝心の咽という楽器がお粗末で、周りだけデコレートした感じが強かった。まあ、道端君のオペラ評にしろ、素人の感想なんだが。」
道端「そうですね。実は、暮れにつきあわされて、美空ひばりの特番を2時間近く見てしまいました。」
河端「パジャマ党の道端君が珍しいな。」
道端「最初はいやいやでしたが、聴いているうちに、微妙なところまで音程が正確で、やや低い地の声と裏声の高い声の使い分け、全身全霊での曲への感情移入、感銘をうけました。「車屋さん」など明るい発声のややコミカルな歌から、「柔」などの低い地の声を強調した歌、低い地の声と裏声の高い声が絶妙に組合わさった「悲しい酒」などの歌、等々、表現の範囲も広いです。特定のタイプの歌が得意な歌手はほかにもいますが、これだけ広い範囲で、見事な表現のできた歌手はあまりいないです。たしかに不世出の大歌手だったと思います。早い晩年での、病気を押してのステージでは、低い張りのある声が消えて、高い透き通った感じの歌で、聴いていてつらい感じがしました。」
河端「そうか、やっと、道端君にも美空ひばりの良さが分かるようになったのか。よし、よし。実は、私も「塩屋岬」を持ち歌にしようと、ひそかに練習をしていたのだ。ひとつ聴いてくれないか。何なら道端君も一曲どうだ。」
道端「いえ。今日は、新春放談ということで、この辺で。」
河端「そうか、せっかくの機会で残念だが、またにしよう。」
道端「はい。また、いずれ、あらためて、そのうち、もしかしたら、ということで。」
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日本語表記とキャッチワード

2006年05月27日 | 言葉・芸術・デザイン
  日本語の語彙は、大きく四つの層にわかれる。和語、漢語、外来語、オノマトペである。和語はひらがなと訓読みの漢字、漢語は音読みの漢字、外来語はカタカナ、オノマトペは主にカタカナ(時にひらがな)でそれぞれ表記される。漢語は西欧の言葉の翻訳語として日本で考案されたものも多数あるが、ほとんどは中国語からの借用である。外来語は、西欧の言葉を日本語風の発音にかえて借用したものである。和語とオノマトペは日本固有の語彙である。
  外国からの借用語が語彙の重要部分をしめるのは、英語を初めとしてどの言語でもあることで珍しくはない。しかし、こうした語彙の層の違いが文字種の違いと連動しているのは日本語だけである。日本語では、借用語が、単により詳細で新奇な指示機能をもつ単語の導入としてだけではなく、文字種の違いと連動して独自の含意を伝える機能ももつようになった。柳父は、社会科学などで用いられるはなし言葉とのつながりがよわい漢語の語彙が、文字崇拝的に非日常的なよきものという含意をもつ、カセット(宝石箱)効果を指摘している。婉曲語法の効果もある。
  文字種と語彙の層がむすびついた多層の語彙を持ち、カセット効果や婉曲効果などの含意を自在につかえることは、CMや印象操作として言葉を使うときには、非常に有用である。しかし、言葉で事実を的確に指示しつつ腑分けして議論を展開しようとするときには、ときに落とし穴として働く。キャッチワードによる思考の罠である。言葉には元々呪術的側面があるが、文字種と語彙の層がむすびついた多層の語彙を誇る日本語では、書き言葉のレベルでこうした呪術的思考、キャッチワードによる思考の罠の危険が大きい。以下、ごく一般的に問題点だけを簡単に述べる。

1.社会科学における漢語の語彙
 明治期の日本の知識人は、おおくの欧米の事物や学術にかんする膨大な語彙を漢語に訳した。これは、欧米の事物や学術を導入するために必要なことだった。しかし、人文社会科学でもらいられる漢語の語彙は、概念規定があまく、日常生活のはなし言葉とのつながりがよわく(きれる、むかつくなどのマイナスの意味をあらわす和語の身体性との対比)、構成する文字の字面の意味にひきずられたり、文字崇拝的に非日常的なよきものとしてもちいられることがおおい。和語も、「ゆとり」や「まなび」など、思い入れが前面にでた使われかたをすることもあるが、はなし言葉とのつながりが明確で、文字の呪術崇拝的側面はないので、利用はより限定的である。
 例えば、革命・解放・平等、多様性・個性・自由、単独性・非決定性などの漢語は、一定のグループのなかで独自の思い入れとともにつかわれ、プラスの含意だけが前面にでて、何を指示しているかがおろそかになる傾向があった。例えば、「関係性のなかにおける多様性の実現」というと何かぼわーっとして良いことみたいだが、「個々の関係のなかで、いろいろな生き方をすること」といえば、とくにありがたくもなく、どんな関係だ、どんな生き方だと具体的に何を指示しているかなどが問題としてすぐに思い浮かぶ。能記や所記など、何を指し示しているのか分からない、漢訳仏典のような、奇怪な漢語の語彙もある。また、国際化というと良いことという含意で、長谷川の「からごころ」によると自らが国際化しなくてはならないと、ほとんど自動詞として用いられるが、英語のInternationalizeは、他国を対象とした主に他動詞として使われる。語彙には、思考の枠を固定する働きがあるが、プラスの含意が前面にでて指示機能が不透明で、かつ日本語の語彙の基本部分を占めている漢語には、とくに思考の枠を固定する働きが強い。(外来語は、日本語の語彙の基本部分を占めるに至らず、借り物の言葉だという意識が残っているので、思考の枠を固定する働きはより弱い。)
 日本の学術は、自然科学・技術の分野、人文科学の分野では独創的な成果をのこしたが、社会科学の分野は欧米の学問の翻訳にとどまってきている。内田義彦などは、こうしたなさけない状況が、言葉を事物をさししめす道具としてきたえていこうとせず、外来のありがたいおまもりとしてつかうような態度にも原因があると指摘している。

2.カタカナ語について
 最近のはやりはカタカナ語である。カタカナ語には、技術分野などのようにあたらしい語彙がつぎつぎでてきて日本語化が間にあわないという事情、漢語に同音異義語がおおすぎるなどの事情もあるが、印象操作としてもちいられる場合がおおい。コマーシャルだけでなく、行政なども、舌足らずの外来語を率先してつかっている。外来語の発音は、CVCVの二拍を基本に日本語化されているが、構成要素の意味が把握されていないので漢語のような造語力はもちえず、日本語の語彙の混乱、言葉の呪術的使用の傾向に拍車をかけている。

3.声の文化と文字の文化
 欧米には言葉の本質は声にあり、文字はそれをうつしたものであるというかんがえが根強くあり、科学論文なども19世紀までは音読されていた。今日でも、選挙のさいには、かんがえを声として表明し、声と声を対決させるという文化がのこっている。これを2次的な声の文化という。西欧は、はやくに1次的な文字の文化を確立したが、文字が音素文字であることもあって、2次的な声の文化が公の文化としてつよくのこっている。
 日本文化には、かかれた文字を重視し、声を軽視する傾向がある。落語や露天商などの庶民の声の文化は、文字をしらない層の1次的な声の文化であり、書き言葉をふまえた公的な声の文化は日本ではきわめてよわい。日本でのおおやけのスピーチは、柳田が荘重体とよんだような、漢語ばかりの伝達力、喚起力にきわめてよわい、文字のうつしのような形式的・儀式的なものになってしまっている。日本には、公的なスピーチや議論の文化がきわめてとぼしい。

4.官僚と法律家、社会神学者たち
 漢語だらけの奇怪な日本語の典型例が、官僚や法律家による文である。官僚による文をイアン・アーシーは、整備文とよんだが、官僚たちは整備文をつかって読み手の頭脳を混乱させ、責任をあいまいにしながら、自らの頭も混濁していき、責任をのがれるために誤りから学ぶこともできなくなっている。判決文などの法律の文は、文のながさといい、つかわれる語彙の特殊さといい、奇怪さでは、官僚の文以上である。複雑怪奇な文章をあやつれるのだから頭がいいのだというひともいるが、心理学の知見からすると、まちがいである。かんがえは表現とコミュニケーションをつうじて形成されていくので、簡潔・明快な文章ではなく複雑・怪奇な文章でかんがえを表現していると、かんがえ自体も混乱し、頭脳はしだいに混濁していくのである。人間の知的能力は、表現手段もふくめてのものであり、奇怪な表現を常用していると、知的能力は確実にむしばまれていく。
 奇怪な言葉に思考をのっとられ、頭脳をむしばまれているのは、法学部出身者だけではない。おおくの社会科学者も、「1.社会科学における漢語の語彙」でのべたような、キャッチワードにとわらわれている。個性、自由、人権、国際化などの、現実感や身体感覚によるうらづけをかいて、概念規定もゆるい、社会的是認のおすみつきをえた言葉による思考は、現実的、科学的思考ではなく、神学的思考にちかいものになる。西部のいう大衆は、こういうキャッチワードに思考をのっとられた社会科学者を原型とする知識人のことである。日本のような高学歴の消費社会では、大衆も地に足のついた身体感覚にうらづけされたはなし言葉をつかっていない。日常の会話でも、個性とか自己実現とか、自由とか、うろんな言葉をつかい、それに思考をのっとられたミニ知識人と化している。
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個性浪費社会の応援歌:世界に一つだけの花

2006年05月20日 | 言葉・芸術・デザイン
河端「どうも気にいらんね。」
道端「河端先輩。まあ、また一体何がですか。」
河端「実は、カラオケにつき合わされてね、最後が「世界に一つだけの花」の合唱さ。」
道端「ああ、あのSMAPの大ヒット曲ですか。最近は卒業式などでもよく歌われるらしいですね。古い言い方ですが、今や国民歌謡でしょうか。」
河端「2003年度の日本レコード大賞の有力候補とされていたが、歌詞でNo1よりもOnly1を唄っている」ということから辞退したそうだ。どうもね。」
道端「そうですか?いい感じの歌のように思うんですが。」
河端「メロディーはおいておく。
歌詞が気にいらん。歌の終わりはこうだ。
<そうさ 僕らも
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one>」
道端「意気消沈しがちな我々を元気づけてくれる応援歌みたいな感じがしますが。」
河端「そう個性浪費社会の応援歌だ。Only oneという言い回しには、グローバルな競争が激化している今日、Only oneを目指せとか、ビジネスの世界の倍音が響いている。競争なんていいんだよ、などと言いながら、未練がましいというか、鬱陶しい。ここで言う個性は、小さい花だの、大きな花だの、人と花が同列にとらえられる、他と異なる属性の組み合わせとしてでしかない。人のかけがえのなさはこれとは全く別のものだ。」
道端「といいますと。」
河端「唐の有名な詩に、
<年々歳々、花相似たり。
歳々年々、人同じからず。>
というのがある。ここで、人同じからずは、異なる属性によるものではなく、関係の歴史によるものだ。家族や友人が特別なのは、家族や友人が他の人と異なる属性の組み合わせを保持しているからではない。歴史を共有してきた関係が特別なのだ。」
道端「ビジネスの論理が効率と利益の最適化をはかるものとすれば、ビジネスの論理では、関係の歴史などに拘泥しないで、可能な組み合わせを一律に評価する方が良いということになるでしょうね。」
河端「その通り。そして供給過剰の状態でのビジネスは、多品種少量生産、属性の組み合わせのユニークさという意味での個性を消費のターゲットとし開発を競い、それが人の評価にも波及している。「世界に一つだけの花」はそうした状況に棹さした口当たりの良い応援歌というところさ。」
道端「そういえば。DQN命名で取りあげた珍名もそうした個性浪費社会における、最近ではお嬢様大学も含んだ夜露死苦層の人たちの懸命のアピールかもしれませんね。」
河端「道端君も言いたいことが、わかってきたようだな。」
道端「道元は中国への仏教留学から帰国したとき、期待とともにどんな教えや経典を持ち帰ったかと問われ、「空手還郷、眼横鼻直」(「経典や仏像など持ち帰らず、手ぶらで祖国日本に帰ってきた。眼は横に鼻は縦についていることがわかった」)と答えました。さすが禅僧という答えです。道元の「正法眼蔵」は、措辞の見事さもふくめて、日本語で書かれた最も独創的で深い思想作品と言えると思います。しかし、道元自身は、「語言文章はいかにあれ、思うままの理をつぶつぶと書きたならば、後来も文章わろしと思うとも、理だにもきこえたならば、道のためには大切なり。」(言葉や文章はどうであれ、考えている道理をこまごまと書いたなら、後の人が読んで、文章はよくないと思っても、道理さえ通じていれば、仏道のためには大切なことである。)と言っています。個性とかそんな表面的なことには眼もくれず、ひたすら仏道の普遍的真理を定着しようとしただけです。道元の仏道への強い願いと権力への軽蔑は母親の思いをうけた部分が大きかったでしょう、また、禅の師との出会いがあります、そして、道元は自らがおかれた日本という環境で日本語を使って日々の思索を言葉に定着しました。自らがおかれた歴史と環境に根ざしつつ、普遍的価値を達成しようとした結果として、独創的で深い思想作品が生まれました。」
河端「パチパチ。道端君の道元論なかなかよかったよ。道端が道の端で、道元は道の元か、たしかに、道元は道の元を言いあてているな。普遍的価値の追求なく、歴史や環境に根ざさず、個性をねらっても、結局、紛いものしかできない。そしてなにより、個性そのものには価値はないということだ。個性的だろうがなかろうが、大切なのは価値の追求であり、自らがおかれた歴史と環境に根ざすことだ。」
道端「先輩からかわないで下さいよ。なかなか個性の問題は面白いですね。また議論する機会を持ちましょう。」
河端「うん。そうしよう。」
道端「で、河端先輩、カラオケでは「世界に一つだけの花」歌ったのですか。」
河端「しかたないから口パクだったよ。」
道端「だったらいつもと同じじゃあないですか。」
河端「・・・・・・」
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DQN命名

2006年05月13日 | 言葉・芸術・デザイン
河端「おーい。道端君。」
道端「河端先輩こんにちは。」
河端「しばらく更新がないので、様子をみにきたよ。元気にしてたか。」
道端「すみません。仕事に追われて、なかなかエントリーが書けませんでした。」
河端「道端君が興味を持ちそうな新聞記事があったよ。」
道端「ありがとうございます。面白い記事ですね。<妃(きさき)>だの<姫(ひめ)>だの、なかなかの言語カテゴリーの脱臼ぶりです。ボルヘスの中国の辞書を思わせます。ついでなら、<名前(ねいむ)>とかやれば良いのに。こういう中だと<姫梨(ひめり)>だの<沙蘭(さら)>だのの万葉仮名風の表記がオーソドックスに見えてきます。実は、最近の命名のとんがった部分はもっとすごいことになっているみたいです。子供の名付け(命名)DQN度ランキングを読んで(2ちゃんねるの育児版、「子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ」スレッドを元にしたものだそうで、ネタも混じっているかもしれませんが、それを割り引いたとしても)少々驚きました。」
河端「道端君が、3月7日の「日本語の人名表記と正書法」で書いてた、緑夢(ぐりむ)程度ではないのか。」
道端「はい。緑夢(ぐりむ)は、始まりにすぎなかったようです。漢字と読みの対応は、当て字、連想ゲームなんでもありのアナーキーな状態のようです。名前に使う漢字の制限しか考えず、苗字の異字体は放置し、名前における漢字と読みの対応になんのしばりもかけない、尻抜けの無定見な文字行政の上で、「夜露死苦」系統の人たちが独創性を競っているというところでしょうか。名前ですから、ある程度、歴史的な継承による不規則性を許容しなくてはないのは分かります。しかし新奇なDQNを競って、漢字と読みの対応を壊し放題というのはどうなんでしょう。上のサイトに命名の読みのテストがあるのでやってみました。
1. 歩星 ( ほせい )  ⇒ ほせ
2. 笑羅 ( しょうら )  ⇒ にこら
3. 彪也 ( ひょうや )
4. 聖玲菜 ( せりな )  ⇒ せれな
5. 羅亜羅 ( らあら )
6. 季凛音 ( りりね )  ⇒ きりん
7. 稀音 ( きおん )  ⇒ まれーね
8. 綺輝斗 ( ききと )  ⇒ あぎと
9. 達千 ( たっち )
10. 今日 ( きょう )  ⇒ ほいて
 私は、10問中正解は3問でした。」
河端「もしかして、3問しかできなかったから怒っているのか。」
道端「冗談じゃあ、ありません。むしろ、<たっち>が正解だったのが恥ずかしいです。自分が、笑羅(にこら)だの今日(ほいて)だの妙な名前をつけられたら、親を恨みます。こんな当て字や連想ゲーム、個性でもなんでもありません。」
河端「ダンス・ウィズ・ウルブスを見たら「拳を握る女」だとか「狼と踊る男」だとか妙な名前が出てきた。河田順造の「声」には、アフリカでの「ああ、もっと力があったらなあ」などの妙な名前がぞろぞろ紹介してあった。日本では、秀吉は自分の子供に「捨て」とか名前をつけている。妙な名前もいいのではないか。」
道端「はい。それぞれの経験から思いを込めて妙な名前が出てくるのはかまいません。命名には一種の呪術的側面があるのはたしかでしょうから。河端先輩に紹介していただいた新聞記事ですが「少子化で、子どもの名前に凝る人が増えているが、僕は大賛成」と加藤教授は言っているそうです。しかし、凝るつもりが、横滑りして、当て字と連想ゲームに堕しているなら無意味です。新聞の記事で紹介された調査結果自体が、プチDQNじみてます。」
河端「おいおい。プチDQNなんて珍妙な言葉で正名の主張かい。」
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日本語の人名表記と正書法

2006年03月07日 | 言葉・芸術・デザイン
  ずいぶん前に、緑夢で「ぐりむ」と読ませるという記事を読み、はやりの万葉仮名風の表記をも超えた大胆さというか放恣さに、驚いた記憶がある。トリノオリンピックで、その後の消息に出会う事が出来た。
  日本語の人名表記は、でたらめかつ、混乱のきわみの世界である。日本には、約14万の苗字がある。また、珍妙なよみの個人名も日々うまれている。日本語における文字コードの問題は、人名表記の問題である。
  よみと漢字の対応のでたらめは、苗字と個人名の両方で大規模にしょうじている。苗字には、なぜそうよむかわからないようなものがおおい。たとえば、五十嵐(いがらし)、乃位(のぞき)など。紫田(しばた)は、「紫」を「柴」とまちがえてつかったのを、そのままよみにしてしまったものである。また、いくとおりものよみががあるものもある。四方(ヨカタ、シホウ、シカタ)など。また、ひとつの音に対応する苗字の漢字はきわめておおい。たとえば、「ソガ」にたいしては、蘇我、曽我、十川、十河、宗丘、宗宜、宗岳、宗我、宗賀、崇賀、我何、曽加、曽宜、曽賀、曾宜、曾我、曾谷、素我、素賀、蘇何、蘇宜、蘇宗、蘇賀など、あとJIS第二水準では表記できない文字をつかった「ソガ」が二種類ある。一方、名前のほうは、名前につかう漢字の制限はあるが、漢字とよみの対応の制約はない。このため、緑夢(ぐりむ)などの外国語の音をあててもよいし、温大(はると)など、よみはどうふっても自由である。最近のはやりは、沙矢香(さやか)などの万葉仮名風の表記とよみである。以上の結果として、人名の名簿では、漢字とよみがなの両方を参照しないと個人を識別してよぶことができなくなる。
  苗字には、さらに異字体の問題がある。渡邊・渡辺、藤澤・藤沢、広瀬・廣瀬、程度ではない。手書きにおける字体のすこしの差異も、戸籍の電算化とともに、異字体として登録されてしまう。学校の名簿でも、梯子高などは、JIS第二水準までのパソコンでは、対応するフォントなしとして、ゲタ(〓)で表示されてしまう。「團」という作曲家は、「団」という宛名の郵便物はすべてうけとりを拒否したと自慢している。これは、文字フェティシズム、文字の呪術崇拝をほこっているようなものである。
  名前の出鱈目な読みの新感覚の世界を見て、以前、戸籍の電算化とかで、役所で初めてみる字体のフォントを示され、あなたの苗字は電算化するとこうなりますとか言われ、役人と言い合いになり、こんな文字フェチを飼うために税金を払っているのかと憤慨した事を思い出した。一方には、漢字の字体に拘泥し、判子で一杯の、そして奇怪なお役所言葉と整備文の形式主義の世界があり、もう一方には出鱈目な読みのフィーリング世界がある。簡潔明解な日本語など知ったことではないというのだろうか、両方で日本語をもてあそんでいる。
  日本を代表する人類学者の一人である梅棹忠夫氏は、日本語における複雑で煩瑣な文字表記に、大文明を担う文字表記システムとしては問題があると、早くから警鐘をならしてきた。日本語の文字表記の混乱を是正するためには、ひらがな表記による名前の音を一義としてもっと大切にし、漢字の字体とよみとの対応は標準的なものに制限する必要がある。オングが名著「声の文化と文字の文化」で説いているように、文字や記号システムが思考や文化のありかたに与える影響は思いのほか大きい。
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