道端鈴成

エッセイと書評など

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無邪気な心と信仰心があれば即見えるかも

2010年01月07日 | 心理学



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感謝の心(臓)

2007年09月18日 | 心理学
人間の心の働きの中枢が脳にあることは、科学的な常識である。しかし、心、とくに感情については、「胸をいためる」、「胸が一杯」、「胸がキュンとする」、「胸が躍る」、「胸暖まる」、「胸にしみる」、等々、心が胸にあるかの表現がきわめて多い。実際、一般の人にアンケートをとってみると、心が胸にあると答える人の方が、脳にあると答える人より多いらしい。

最近の研究で、我々の素朴な感覚が全くの見当違いでもないことが分かってきた。

心臓は、交感神経系と副交感神経系の支配下にある。しかし同時に、心臓からの感覚出力が脳にモニターされ、感情状態などの心理的な状態に影響を与えている。興奮すると交感神経系の影響で心拍が増え、そのドキドキを脳がモニターする。パニック発作などは、心拍や呼吸の増大などの身体的変化を、脳が異常事態だと解釈し、これがさらなる身体変化をひきおこしという悪循環により生ずる。

HeartMath研究所では、単純な心拍頻度ではなく、心拍のリズムを問題にして、集中的に研究を行っている。心拍のリズムとして、具体的には心拍頻度の変動周期を指標としている。通常は心拍頻度の変動は、10秒周期を中心に生ずる。これは脳から心臓への運動指令、心臓から脳への感覚情報のループによって生ずるものらしい。

HeartMath研究所では、心拍頻度の変動周期の分布が感情状態によってはっきり変わることを見いだした。例えば、図は怒り(Anger)、リラクゼーション(Relaxation)、感謝(Appreciation)の状態の時の、心拍を示したものである。図の左側は毎分の心拍数BPM(Beat Per Minuite)のグラフである。怒りでは交感神経系が優位になり心拍数が増える。リラクゼーションでは副交感神経系が優位になり心拍がゆっくりめになる。これは心拍頻度の変化である。

心拍頻度の変動を周波数分解し、各周波数ごとにPSD(Power Spectral Density)を示したのが、図の右側である。怒りでは低い周波数成分の密度が高く、心拍頻度のゆっくりしたドリフトが生じている事が分かる。この低い周波数での変動は交感神経系の活性化によるものである。興味深いのは、リラクゼーションと感謝の違いで、感謝では心拍頻度の変動周期が0.1Hzあたりに集中し心拍頻度の変動がサイン波に近い綺麗な周期を示すのに対し、リラクゼーションでは高周波の部分にもピークがあり、心拍頻度にはややギザギザの小さな周期での変動も加わっている。リラクゼーションにおける高周波の変動は副交感神経系の活性化によるものである。

感謝の場合は、副交感神経系と交感神経系のバランスがよりとれた、心臓-脳ループが生み出す周期がより整合的(Coherent)な状態である。HeartMath研究所では、Coherentな心拍状態が示す、脳と心臓の整合的なリズムが、心理的に、また健康上も利点があることを種々の研究で示している。

直感的に言えば、心臓と脳が形成している身体の周期が、感謝や愛情などの肯定的感情の時には整合的にきれいなリズムを刻み、怒りなどの否定的感情の時は昂進しリズムが乱れ、リラクゼーションでは低く落ち着くがリズムはそろわないということになる。

むやみに怒ったりすることが、心臓血管障害など、健康に害があることは以前から指摘されていた。感謝の心や愛情などの肯定的な感情を持つ事が、社会関係の改善などを介した効果とは別に、直接に身体的健康にも良いという事も言えるのかもしれない。
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ポジティブ心理学

2007年09月10日 | 心理学
道徳感情研究のパイオニアのひとりであるJonathan Haidtによって2005年の終わりに出されたThe Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdomは、いわゆるポジティブ心理学関連で一般の知的読者に向けて書かれた本としては、これまでのベストである。

ポジティブ心理学については、日本でも2006年に最初の解説書が出ているが、20世紀の終わりから21世紀にかけて成立した心理学の流れである。従来の心理学が、心の障害と否定的感情を中心に研究していたのに対し、人間のより積極的な特性、徳や強さ、肯定感情を研究しようとしている。

中心人物は、Learned Helplessness(学習性無気力)の研究で早くに有名になり、1998年からはアメリカ心理学会の会長をつとめたセリグマンである。一般向けに書かれたLearned Optimismは「オプティミストはなぜ成功するか」の題名で邦訳されている。Authentic Happinessも「世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生」という題名で邦訳されている。邦訳の題名からは、ひとむかし前にはやった脳内革命やポジティブ・シンキングなどの、アメリカの民俗心理学を科学の用語でごまかして提供する商売を連想するかもしれないが、セリグマンは実証的でタフな心理学者で視野も狭くない。Learned Optimismは、状況とは無関係にむやみにOptimismを勧めるような本ではない。人生時には悲観的にならざるをえない、またそれがふさわしい状況もあることを認めたうえで、Optimismを適用することも学ばなければならない(特に素質的に悲観的になりやすい人は)と、バランスのとれた考えを、エビデンスに基づいて示している。また、セリグマンらは、2004年には、ボーイスカウトなどのクラブのモットーから、各文化の聖典まで調査し、人格の強さと徳の分類と測定に関するハンドブックも出している。これは、DSMにおける心の障害の分類と診断基準のハンドブックに対応することをねらったものである。Authentic Happinessは、こうした研究もふまえて、書かれている。24リストアップされた人格の強さと徳について、簡単な質問紙により各人の人格・徳の長所がどこにあるかが調べられるようになっている。そして、足りない点を気にしたり、矯正しようとするのではなく、ポジティブ心理学にふさわしく、各人の人格・徳の長所の強みを個性としてどうのばしていったら良いのか解説されている。

ポジティブ心理学とやや似た運動にヒューマニスティック心理学がある。これは、心理臨床家で来談者中心療法を提唱したロジャースや動機付け研究で有名なマズローらが、行動主義のような機械主義ともフロイト的なペシミスティックな人間観の精神分析とも違う、より肯定的で機械論的でない人間観にもとづく第三の道の心理学として1960年代後半から主張したものである。マズローの至高体験の考えなど、ポジティブ心理学でよく言及されるチクセントミハイのフローに引き継がれており、ポジティブ心理学とヒューマニスティック心理学には共通部分はある。また使い方はヒューマニスティック心理学の方がだいぶゆるいとしても、尺度や調査を利用するという点では方法にも共通項はある。しかし、ポジティブ心理学には実験心理学指向があるのに対し、ヒューマニスティック心理学は精神分析や臨床経験に依拠しており、この点で両者は大きく異なる。

セリグマンが、ヒューマニスティック心理学を実証的な研究に乏しく、科学的でなく、ナルシスティックであると批判したのは、こうした背景と方向性の違いによるものだろう。ヒューマニスティック心理学がナルシスティックであるとの批判は、「夜と霧」で有名なロゴテラピーのフランクルなどもしている。ここからは、ウィルバーなどによるトランスパーソナルといった自己を越えようとする心理療法も主張されている。もともと精神分析には、心理的な不全感を抱えた人に理由と救済の物語を提供する宗教の代替物という側面があったが、ここまでくると完全に宗教である。

ポジティブ心理学が、実証的研究とエビデンスを重視している点は大いに評価できる。ただ扱う問題が、幸福感だったり、肯定感情だったり、複雑なので、かなり柔軟な調査や尺度などの記述的な手法も多用する。調査と尺度だけでは、仮説検証としては弱いが、肯定感情などの問題については、ポジティブ心理学にも実験心理的なアプローチを試みる研究者もいる。

まあ、そんなことで、ポジティブ心理学の主唱者であるセリグマンの本はエビデンスに基づきバランスがとれており、非常に具体的で実践的でもある。読んで損はない。ただ、扱うテーマが、幸福だったり、徳だったりするので、欲を言えば、哲学や宗教、社会学などの知識を背景にした議論や、科学的ということなら、最近進展の著しい、神経科学や進化論もふまえた議論もほしい。ちょっと物足りないなあという気が評者などはする。

こうした不満を解消してくれたのが、Jonathan HaidtのThe Happiness Hypothesisである。Haidtは、道徳感情の研究者にふさわしく哲学や宗教、社会学に造詣がふかく、脳研究や進化など最近の心の研究もしっかり押さえている。役立つというだけでなく知的にも十分楽しめる。

評者の考えでは、ポジティブ心理学の意義があるとしたら、それは、心の科学的な理解にむけて従来の偏りを是正した点にあり、独自の学派形成にはない。遺伝学から、脳研究、心理学実験、社会的な調査まで、心の科学的な理解が相互に関連をもちながらしだいに像を結びつつある現在において、独自の学派を固めようとしてもあまり意味はない。Haidtの本は、単なるポジティブ心理学の本というより、ポジティブ心理学の成果をふまえて現代心理学の知見を解説、吟味した本になっている。ポジティブ心理学のあるべき方向にそったものと言えると思う。
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スピリチュアルカウンセラー江原啓之氏のホットリーディング発覚

2007年02月05日 | 心理学
河端「スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏って知っている?」
道端「はい。よくテレビに出てますね。あなたの過去は、何とかでとか、ペラペラ喋っていて、それをタレントなどが傾聴しているのを見ました。見事な話術だなあと感心しました。本屋には江原啓之氏の著書群が一角を占有して平積みされていました。水からの伝言(物理学者による批判については学習院大学田崎氏の記事を参照)なども平積みでした。たしかに、読者の聞きたい事、信念にうまく訴えていて、巧みなのでしょう。その方向での才能はあって、営業努力もしているんでしょう。結局、科学の方法が根付いていないんだなとあらためて思いました。一方でオカルトやスピリチュアルの流行、もう一方でポストモダンとポリティカルコレクトですから、科学の方法や自由な批判的議論を主張するのは、時代遅れと見なされているのでしょう。科学の方法と自由な批判的議論の意義は、否定の否定による正しさへの接近を公共的に行える点にあります。人間の自然な肯定の心性にはしっくりいかないものです。おうおうにして、硬い心の科学主義だとか、時代遅れの客観主義だとか、政治的に正しくないなどと、嫌悪と忌避の対象になってしまいます。しかし、人間は誤りを犯す存在です。正しさに確かに近づくには、公共的な事実による検証と批判を通じた誤りの除去という、科学の方法と自由な批判的言論によるしかありません。科学の方法と自由な批判的言論を軽視して、信念の方法と言論統制に頼ることは、個人としてはともかく、集団としては、致命的に危険です。和辻哲郎が、「鎖国」の冒頭で苦い悔恨をこめて書いているように、科学の方法の軽視は、言論統制と並んで、太平洋戦争で日本が最も反省すべき点だったと思います。歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてという言葉があります。ヘーゲル流の歴史主義に棹さすつもりはないですが、戦前とは違う方向での科学の軽視と言論統制による、集団的誤りの危険もあるような気がします。精神論的・言霊的軍国主義と精神論的・言霊的平和主義、特高警察による言論統制と人権警察による言論統制、方向に違いがあるかもしれませんが、科学軽視、言論統制というメンタリティーは同じです。」
河端「なるほど、科学の方法と自由な批判的言論か。道端君の持論だな。ややこしい議論になりそうだな。この辺の話はまたの機会にしよう。」
道端「はい、わかりました。人間の誤りやすさの認識と科学の方法の説明ですが、参考になりそうなサイトがあったので、とりあえず紹介しておきます。心理学の講義資料のようですが、ここの「トピック:人間の誤りやすさ」「科学の方法」に、人間がいかに誤りやすく騙されやすいのか、信念の方法と科学の方法の対比、科学の方法がどんなものなのか、等、オカルトや誤った説明になぜ納得してしまうかも含めて、基本的な点が解説されています。可謬主義の認識論、自由な批判的言論の意義や議論法、虚偽論と言霊信仰、クリティカルシンキング、社会的構成主義の批判的検討、サイエンスワーズなど、また機会を見て書いてみたいと思います。」
河端「ああ、そうしてくれ。楽しみにしているよ。気がむいたら読むから。それで、江原啓之氏なんだが、ライブドアニュース2月1日の記事にこんなのが出ていた。」

カリスマ霊能師 江原啓之にも『あるある』疑惑
  Aさんは当時番組内で霊能師の江原啓之氏(42)が担当していた「スピリチュアル開運術!」のコーナーに夫婦で出演。夫の失業、子どもの病気やケガ、Aさん自身の精神的疲労など、度重なる不幸から脱出する処方箋を求めて番組に出演を決めたという。「『こたえて――』の別のコーナーに手紙を出したら“江原さんのコーナーに出演しませんか?”というオファーが日本テレワークからありました。江原さんの著作も持っていて大ファンだったので出演しました」 ところが、Aさんはいざ番組に出演して愕然とする。江原氏が即興で霊視してくれるとばかり思っていたら、「事前に詳しいプロフィルの提出も求められ、自宅には日本テレワークの方から30分以上も電話リサーチがありました」。 その上、「控室にスタッフから“ご主人か奥さまかどちらかで結構なんですが、昔、頭を打ったことありませんか?”なんて電話も。夫が“5歳くらいの時に階段から転げた”というエピソードを披露したら、江原さんは本番で、さも今、霊視で見えたかのように“ご主人、頭を打ったことありませんか?”って真顔で言うんです。呆れました」。 Aさん夫妻は生放送中では時間が足りずおはらいができなかったため、後日、東京・原宿にある江原氏の診療所を訪れることになる。この模様は2カ月半後にオンエアされた。「江原さんは主人に“亡くなった兄弟がいるはず。その方はまだ生きたいという願望が強くてあなたに憑依(ひょうい)している。母親も心配で憑(つ)いている”と言うのです。でも、兄弟を亡くした話は事前に話していたこと。一気にシラケてしまいました。今は江原さんに夢中になっていた時間を返してほしいです。」

道端「典型的なホットリーディングですね。」
河端「なんだい。そのホットリーディングというのは。」
道端「マジェイアのカフェというマジックに関する面白い紹介のあるサイトに分かりやすい紹介があります。」

コールド・リーディングとホット・リーディング
  よく当たると評判のよい占い師は、例外なく、「黙って座ればぴたりと当たる」と客に感じさせるのがうまい。「コールド・リーディング(cold reading)」がうまい。「コールド・リーディング」というのは、相手に具体的な質問することなく、雑談や、その人の顔や服装といった外観を見るだけで、その人の個人的な情報を引き出すテクニックである。それを拡張して、その人の恋愛や仕事上の悩みなども当ててしまう。実際は「超能力」でも何でもない。タネを明かされたら、あっけないほど簡単なことなのだが、原理を知らないと驚く。
  コールドリーティングに関しては、海外では体系化されたテクニックがあり、専門書も色々と出ている。しかし、いくら体系化されたテクニックとはいえ、さりげない会話の中から微妙な情報を引き出すのは、ある種の才能は必要である。評判のよい占い師は、例外なく、このコールド・リーディングの達人である。ただし、日本ではこの言葉自体ほとんど知られていないし、日本で営業している占い師も、これを体系的に勉強した人はほとんどいないだろう。勉強したことはなくても、経験でほぼ同じようなことをマスターしている。インドの「アガステアの葉」なども、実際に行ってみると数百におよぶ質問をされるそうだ。これだけ質問すれば、個人のどんな情報でも引き出せる。「黙って座ればぴたりと当たる」と思わせるテクニック、実際にはいくつか質問しているのだが、それを感じさせない人がうまい占い師なのだ。「○○の母」と呼ばれている女性占い師がいる。東京の某所で店を出しており、何度も雑誌やテレビなどで取り上げられているようで、そのスジではよく知られている人のようだ。この人が、実際に仕事をしている場面をテレビで見たことがある。客として来ていた女性の手相を見ながら、さりげなく雑談をしている。顔の角度は手のひらのほうを向いているのだが、視線は上目づかいで、何度も客の顔に行っている。ちょっとした質問をしながら、客の顔がどう変化するか、微妙な変化を見逃さない。表情のちょっとした変化から情報を引っぱり出してくる。2,3分も喋れば、相当なことがわかる。
  コールドリーディングに対して、「ホット・リーディング」というのもある。これは占い師より、海外の職業霊媒師などが行っている。コールド・リーディングが何の準備もないのに対して、こちらは周到に準備をする。たとえば、あなたがある霊媒師のところへ行ったとしよう。その霊媒師とはまったくの初対面である。霊媒師にとっては、前日にでも予約があれば都合よいのだが、予約なしで、いきなり行ったとしよう。そこで、あなたのおじいさんの名前を言ったら、その霊媒師はおじいさんの霊を呼び出す儀式を行い、おじいさんの亡くなった正確な日付をあなたに告げたらどうだろう。「おじいさんは、1985年11月27日に亡くなったのですね」と言われ、それがズバリ当たっていたら、イヤでもその霊媒師の力を信じてしまうだろう。このようなものをホットリーディングという。 必ずしも、客の全部に対してこのようなことをするわけではない。実際には数人に一人の割でも、この種の話は口コミですぐに広がる。あの霊媒師はスゴイということになる。タネを明かせば、これも簡単なことなのだ。この霊媒師は、普段から自分の住んでいる町や、近隣の町の墓をまわり、墓石に刻まれている氏名と亡くなった日をメモしたデーターベースを作っている。訪問客が来たとき、雑談の中で、その人が昔からこの町に住んでいることがわかったら、その人の家族で、すでに亡くなっている人の墓がある可能性が高い。隣の部屋にあるデーターベースから、それを探し、見つかればこっそりメモをしてきて、それを告げる。

河端「江原啓之氏について報告されているのは、まさにホット・リーディングだな。」
道端「はい。テレビ局もホット・リーディングのしこみに一役かっています。記事のAさんのように信じ込んでいる人も多いでしょうから悪質です。オウム真理教の麻原教祖も弟子の電話の盗聴などしてネタを仕込んでおいて、弟子との面談で、お前は最近こんなことをなどと言ったそうです。言われた側の驚愕はたいていではなかったそうです。もともと尊師には、超能力があるなどと吹き込んでいたわけですから。そこで尊師の超越的な力を信じ込んで言われるままになってしまったらしいです。」
河端「なるほどな。」
道端「実は、私にもそんな経験があります。」
河端「もしかしてオウムだったのか。」
道端「いえ違います。」
河端「どんな経験なんだ。」
道端「長くなってしまいましたから、またその話はあらためてということにしましょう。」
河端「ああ、そうだな。楽しみにしているよ。」
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いじめと文明社会のルール

2006年11月07日 | 心理学
河端「おーい、道端君。」
道端「あ、河端先輩。お久しぶりです。」
河端「しばらく更新がなかったね。仕事が忙しかったのかい。」
道端「はあ。そんなところです。」
河端「ここのところ色々あったな。」
道端「はい。そうですね。」
河端「たしか、道端君は、前に生き甲斐自殺について書いていたな。自殺(Suicide)について、他者ではなく自己を対象としているが、生きたがっている無意識や身体の命を断つのは、やはり殺人(Hominicide)というようなことを書いてたね。最近問題になっているいじめによる自殺についても同じ意見かい。」
道端「ケースによっては、いじめグループによる間接的な殺人の側面もあると思います。生きている価値がないように扱ったり、死んでしまえというようなことを言った場合もあるそうですから。それでも、最後に手を下すのは自分なわけですから。つらいと思いますが、なんとか踏みとどまって欲しいです。」
河端「マスコミの報道が、苦しさからの、自殺による解放、それにより無理解な教師が土下座をし、いじめっ子も反省する状況になるかもしれない、そんなイメージを教唆をしている可能性はないのかな。」
道端「はい。その可能性はあると思います。いじめの被害者は、イメージに騙されないようにしないといけません。キャスターやコメンテーター達は、憤慨し、眉をひそめ、同情の気持ちを示すかもしれません。しかし数時間、あるいは、数日すれば、ケロッと忘れてしまうでしょう。加害者にしても、罪悪感に苦しめられうるのは、自分たちが罰せられる可能性がある場合だけです。結局、長い間にわたって、場合によっては生涯、心のトゲとして残るのは、自殺してしまった人を大切に思っていた人についてだけです。自殺が後の残すのはそういう理不尽で残酷な結果だけです。そして、時間がたち、状況が変われば開けただろう可能性も、すべてもぎとられてしまいます。くれぐれもイメージに騙されない事です。教師や教育委員などが、土下座をしているシーンがよく報道されますが、周辺でカメラを構えて群がっているマスコミの方々も含めて報道して欲しいものです。」
河端「マスコミの無責任はわかった。しかしどうすれば良いのだ。もしかして、道端君は、いじめの被害者に強くなれとでも言いいたいかい。」
道端「はい。ある程度まではそうです。人間は善良なだけの存在ではありません。人間集団からいっさいの敵対がなくなることはないでしょう。ある程度の敵対に対処できる強さを持つことは必要です。みんな仲良し、良い人幻想は有害なだけです。」
河端「うーん。道端君が、ジャングル哲学の信奉者とは意外だな。」
道端「いえ。反対です。山形浩生さんによる、ピンカー『人間の本性を考える』の書評にこうあります。「いわゆる人間は本来は平和的だという説がある。暴力や戦争は文明の病であり、幼児体験や暴力的なメディアのせいで広まる、と。でも先住民族は実はどれもえらく暴力的だし、メディアと暴力もほとんど無関係だ。テレビやマンガなんか規制したって何にもならない。人は暴力的なのが自然で、文明社会はむしろその傾向を抑えて発達してきたんだから。」教育は、人間性にある暴力的な自然を押さえて、文明社会のルールを教える営みです。戦後教育は、人間が本来は平和的だと勘違いしてきました。親や地域社会が伝統的な常識を維持していた間は良かったのですが、最近はそれも崩れてきました。人間観の誤りを根底から見直し、文明社会のルールを教える営みとしての教育を再建しなくてはなりません。心のケアだの、心理臨床家などは、敗血症の患者にバンドエイドをあてがうようなもので、応急措置、気休めにしかなりません。問題解決には、欠乏している栄養素の補給が必要です。」
河端「ピンカーか。道端君の持論だな。しかし、それで、いじめにどう対処するのだ。」
道端「まず、いじめという曖昧な言葉で事態を誤魔化さないことです。暴行や恐喝、これは身体や財産に対する侵害であり犯罪です。学校内であってもこうした犯罪を取り締まらないでは、文明社会は成り立ちません。摘発し罰を与えなくてはいけません。教育は、暴行や恐喝は決して許さない、摘発し罰を与えてでも排除するという文明社会のルールを明確に教えなくてはなりません。そして、ちくりだとか、やくざまがいの言葉を使うのが恥ずかしいことだと、子供にもわからせるべきです。全共闘でしょうか、かつての犯罪を懐かしむようなメンタリティーの持ち主の影響が大きいような状況では、難しいかもしれません。これは現在の日本の教育の惨状の原因の一つだと思います。」
河端「まあ。そうだな。しかし、いじめにはもっと陰湿な側面があるのではないか。」
道端「はい。いじめには集団の力学の側面があります。仲間はずれやいじめに自分も荷担しないといつの間にか自分がターゲットになる排除の連帯の恐怖です。同調者がある閾値をこえ、残りに黙認者が多いと、排除の連帯の力学はとめられなくなります。シマウマなどは、補食者がくると一斉になだれをうって逃げ出しますが、これと同じです。反対の声をあげても自分が排除の対象になってしまいます。逆に、勇気を持って反対の声をあげる存在が一定数いれば、排除を行おうとする人たちを少数にとどめることも可能です。意地の悪い人間、徒党をくんで悪さをたくらむ人間は、かならずいます。これが集団力学として波及しないようにするには、弱いものいじめをしない、おかしな事には勇気を持って異をとなえる、こうした人が一定数存在する必要があります。これがいじめの集団力学を阻止する集団のリソースになります。こうした徳は、犯罪の摘発・処罰とならんで、暴力を抑制する文明社会の基本となるものです。」
河端「いじめをする側の事を道端君はどう考えるんだい。」
道端「はい。自らの内の悪を制御できなかったかわいそうな人だと思います。犯罪を犯してしまったのなら罰することにより、すこしでも悪の是正になり、その人のためになります。犯罪を見逃されたままだと、自らの内の悪を放置したことになり、再度行う危険も大きいです。弱いものいじめをしたり、犯罪にいたらない程度の悪さの場合は、教師や仲間が叱ってやらなければなりません。」
河端「暴行や恐喝の摘発と勇気か。犯罪を防ぐのはすぐにできそうだしやらなければならないが、弱いものいじめをしない、異をとなえる勇気の教育は、大切だろうが、迂遠な気もするな。」
道端「はい。基本となる論点の指摘だけです。具体的な対策は、もっと色々、必要だと思います。その上で言いますと、犯罪や集団的排除の害をおさえられれば、意地悪や仲違い、敵対などは人間社会につきものなので、それにどう対処するかを身につけることも大切だと思います。」
河端「そうだな、具体的な対策や対処には色々な検討が必要だろうな。しかし道端君が持論に基づいて言いたいことの方向性はおおよそ分かったよ。」
道端「はい。たしかに固定観念によるおおまかな方向性程度の話しでした。もうすこし具体論を考えてみます。」
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オヤジギャグときみまろに笑うオバサン

2006年09月11日 | 心理学
  あまりに蒸し暑いので、深夜に散歩しながらラジオの周波数を弄っていたら、NHKのAMでこんなジョークをやっていた。
「サラリーマンが名刺を渡そうとしたが見つからない。別の人の名刺を出して、あいにく自分のは切らしております。今日のところはこちらを。」
  ラジオでは、このジョークについて、名刺をきちっとわたすというサラリーマン社会のストレスを、もっといい加減でいいんだよと緩和してくれるので可笑しいとか、解説していた。すこしずれてるんじゃと、つっこみをいれたくなった。
  ここでの笑いのポイントは、自己情報を相手に提示するという行為Aと、四角い厚紙を渡すという行為Bの、コントラストである。行為Aは社会的に重要視されている行為に属する。これに対し、行為Bは、行為Aと外形は似ているが、無意味のより子供じみた行動に属する。行為Aから行為Bへ価値の下落が生じている。このコントラストが可笑しみを生む。落語でも、青菜、鮑のし、子ほめなど、このタイプのネタは多い。青菜では行為Aが隠居のしゃれたもてなし、行為Bがそのもてなしに感心した植木屋さんのとんちんかんなマネ、鮑のし、子ほめでは行為Aが誕生祝いの正式な口上、行為Bが教えられた口上の珍妙で子供じみたまねである。このタイプの演目では、まず行為Aをやってから、その予期の上で行為Bとのコントラストを楽しむというので、聴く方も分かりやすい。ここでの笑いのポイントは、単に行為Bでもいいんだよ、もっといい加減でいいんだよという緩和のメッセージではない。社会的に重要視されている行為Aと無意味で子供じみた行為Bの価値の落差である。
  深夜の散歩が川辺にさしかかった頃、ラジオは、サラリーマンネタから、おばさんねたに移っていた。解説は、笑う哲学者の土屋さんだった。おじさんに対し、おばさんのユーモア感度は高い。おばさんは自分を笑える。これは、おばさんにおける、きみまろ人気が示していると指摘していた。
  きみまろは中高年のオバサンを主なネタにする毒舌漫談家だ。「きれいな方ばっかりです、口紅が!!」「ブスは交通事故に遭うのでしょうか?奥さん、安心して下さい。遭わないのです。運転手がよけます。」という調子。たしかに、おじさん相手に同じような毒舌漫談をやってもほとんど客は入らないだろう。おばさんのユーモア感度は高いといえるのかもしれない。しかし、この男女差は何を意味しているのだろう。
  Provineによる通常の会話の調査によると、誰の発話をきっかけにどちらが笑うかを集計すると、男の発話をきっかけに女が笑う頻度が高い。女同士の会話では両方が笑う場合も多い。笑わせる男、笑う女という、かなり強い偏りが見られる。Provineは、欧米の恋人募集広告を調べて、男のアピールにはユーモアがあります、女の要望にはユーモアのある人というのが多い事を報告している。日本でのちゃんとした調査はないが、笑わせる男、笑う女という偏りはやはり見られるようだ。伝統的にも女は愛嬌、箸が転げても可笑しいとか、笑う女を肯定的にとらえている。売笑婦などという言葉もある。苦み走ったいい男とはいっても、苦み走ったいい女とは言わない。笑わせる男については、日本でも最近では、恋人への女の要望に面白い人などが出てきたが、恋人への男の要望に面白い人というのはまずない。
  嘲笑などは別として、基本的には微笑みや笑いは対人的な宥和のサインである。笑う女が肯定的にとらえられるのは、女性における対人的な宥和のサインが、より肯定的に評価され、社会的に強化されるからだろう。鏡で微笑みの訓練をする女性はいるが、男性ではまずいない。笑いは笑いを誘導するので、自分がまず笑って、相手の笑いを誘うのは、まず自らが緊張を解き、相手の緊張の緩和による宥和をもたらすことになる。これに対し、自分が笑わずに相手を笑わせるのは、自分の緊張はそのまままに、相手の緊張を解き、宥和を誘導することになる。この種の笑いが男性に偏っているのは、男性が緊張関係のなかで、主導的に相手の宥和の誘導をねらうような集団間の関係に、より関わっていることによるのかも知れない。あるいは、くすぐりが笑いの起源だとするダーウィン・ヘッケル仮説にしたがえば、笑わせる男、笑う女という偏りは、くすぐる男、くすぐられる女という、身体的な相互行為における能動、受動の別を反映しているとも考えられる。
  いわゆるオヤジギャグというのは、笑わせる男の行動パターンが実効性を失って、からまわりしている状態である。オヤジギャグでも、おなさけで笑ってもらえれば良いが、そのうち、しだいにオヤジギャグも言わなくなる。オヤジギャグは、笑わせる男の終点駅である。
  笑う女も、若いうちは、ちょっとした微笑みや愛想笑いが絶大な効果を発揮する。女性の微笑みや笑いも、年齢を重ねるとその対人的な効用もしだいに弱くなる。微笑みや笑いを実効的に発揮する場面が減る。実効性が低下した笑う男のオヤジギャグの女性版として、実効性が低下した笑う女の笑いを、とりあえずオバワライとよぶことにする。オヤジギャグは、はたらきかけなのでからまわりのままでは、存続できない。飲み屋やキャバレーなど、実効性を失ったオヤジギャグにたいして、女性が反応としての微笑みや笑いをサービスとして売る場という側面もあるような気がする。これに対して、オバワライの方は、反応なので、笑いに対する社会的報酬が弱まっても、あるいは顰蹙をかっても、よりタフに持続可能である。対人関係で笑わせてくれる人がいなくても、笑いのネタはあるし、笑わせるための芸人もいる。笑う方が、笑わせるよりも、よりチャンスは多く持続しやすい。
  で、なぜオバサンは、オバサンを主なネタにする毒舌が中心なのに、きみまろにオバワライするのか。
  一つの可能性は、これを聴いて笑っているオバサンは、自分のことではなく、まわりのオバサンを対象にしたものだとそれぞれに誤認しているということである。このためには、自己モニター能力のかなりの程度の抑制、ないしは、低下を必要とする。オバワライそのものが、笑いに対する社会的報酬が弱まって持続する笑いなので、ある程度の自己モニター能力の低下は想定されるが、これできみまろの毒舌へのオバワライの全てが説明できるとは思えない。
  もうひとつの可能性は、きみまろの毒舌の内容である。聴いてみると、ありきたりで、定型化された毒舌である。きみまろはかなりの芸歴をもっており、毒舌の内容が意図的にありきたりで、定型化されたものになっていることが考えられる。すべてが想定内で、えぐるような批判や真の攻撃性をもった毒舌は、注意深く排除されている。当のオバサンによって、きみまろの毒舌が拒絶されない理由だろう。
  三つ目の可能性は、聴衆ときみまろの関係である。きみまろは風貌はパットしないカツラの熟年の芸人だが、公家をきどり自己卑下はけっしてしない。オバサンを毒舌のネタにしているが、本心でオバサンを嫌悪しているわけでは決してない。二枚目の芸人がオバサンへの毒舌を吐いたらオバサンは受け入れないだろう。また、きみまろが自己卑下したり、正面からオバサンに媚びたら、やはりここまでの人気はでないだろう。このへんの立ち位置が絶妙である。聴き手とのある種の共犯関係を確立している。共犯関係というのは、実はあまりさえないが表面偉そうに、実は共感しているのに毒舌を、といった虚実の関係の共有である。表面偉そうに毒舌をはくが、実はあまりさえず気を使い追従しているというのは、通を対象とした高度な太鼓持ちの芸といえなくもない。
  二つ目と三つ目の可能性をあわせて言えば、きみまろの毒舌は、表層における擬似的な自己への攻撃と深層におけるその解消、あるいは無効化という、緊張と緩和の一形式ということになる。これは、高いユーモア感度を示すものと言えるだろう。一方、自己モニター能力の低下は単なる鈍感化である。表層における擬似的な自己への攻撃と深層におけるその解消・無効化が主となる要因で、自己モニター能力の低下が従となるのではと予想するが、はっきりは分からない。高いユーモア感度と自己モニター能力の低下が一人の人間に共存することは十分にありえる。
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Never in Anger

2006年08月31日 | 心理学
  怒りは、悲しみや嫌悪などと同様、否定的感情に分類されるが、より複雑なところがあるようである。アリストテレスは弁論術で、怒りの発散は力の感覚をともない快であると述べている。Davidsonは脳の前頭前野の左側の活性化が接近行動の関連した肯定的感情に、右側の活性化が待避行動の関連した否定的感情に関連している事を多くの実験で示しているが、怒りの場合は前頭前野の左側の活性化が示されたという報告もある。若い世代の日本人の場合、怒りの必要性についてきいてみた経験では、怒りは冷静さを失った敵対的対応なので、できたらないほうが良いという意見と、間違いや不正に対処するための時には怒りが必要だとする意見に、およそ半々くらいに分かれる。
  目標追求への妨害に対する不快反応と妨害源への攻撃といった怒りの基本反応は幼児にもみられ、人類に普遍的なものである。大人になると各文化が水路づけた方向性が強く影響してくるようになる。一方には、ある状況における特定のタイプの怒りを固定化し文化に組み込む場合がある。例えば、フィリピンのイロンゴットにおけるリゲット(通常「怒り」と訳されるが、首狩りにおける力の感覚の獲得も含んだより複雑なものである。)、インドネシアのブギスにおけるシリッ(通常「恥/名誉」と訳される。恥を与えられたならば報復して名誉は回復されねばならない。この報復をも導く感情がシリッである。)、韓国における火病(ファビョン)(韓国の民俗的症候群で、英語では“anger syndrome”(憤怒症候群)」と訳されている。DSM‐IV‐TR精神疾患の診断・統計マニュアル(2002年 医学書院刊) p836参照)など、文化特有のラベルのつけられたものもある。もう一方には、怒りを極力抑制する文化もある。こうした文化では怒りは子供っぽい不適切な感情と見られる。エスキモーなどがその典型例である。
  BriggsはNever in Anger: Portrait of an Eskimo family.で、カナダのハドソン湾の北に居住するUtkuのエスキモーの家族と1年5ヶ月過ごした経験をまとめ、エスキモーの社会では怒りを表情にさえ示さないことが分別ある大人としての美徳と考えられ、実際にもそう行動していることを報告している。彼女は、Utkuのエスキモーの言葉を解したので、夏に来る白人の釣り人との通訳も勤めた。白人の釣り人達は、エスキモーに対し、傍若無人に無礼に振る舞った。Briggsにとっては、同じ白人であっても釣り人達の行動は不愉快なものだった。しかし、エスキモー達は辛抱強く決して怒りを見せず従順に釣り人達に接しつづけた。事件は、たった二槽しかないカヌーを白人の釣り人達が借りようとした時に起きた。
 「私は、Inuttiaq(エスキモーの長)に白人たちにカヌーを貸したくないと言ってもそれに気を悪くすることはないだろうということと、もしあなたが望むなら私が彼らに話してもよい、酔っ払ってカヌーを壊されるかもしれないし、と言った。すると、Inuttiaqは、「私はカヌーを貸したくはない。カヌーで魚を獲りたいし、彼らが貸してほしいといってもだめだ。」と強く答えた。私はそれを文字通りに解釈した。
 予定通り、また釣り人は来て、Utkuは一番いいInuttiaqのカヌーを貸さなかった。Palaのカヌーは貸したが、少し水漏れした。それでも私は彼らの従順さにイラついた。
 次の朝早く、船の音で目が覚め白人の声が聞こえてきた。エスキモーと白人がビーチの端で群がり、私が行くと白人がもうひとつのカヌーを借りようとしているところだった。Utkuたちが見たときには2人の男が既にInuttiaqのカヌーに手をつけていた。
 私は、激怒した。白人のリーダーに2つ目のカヌーを貸せば、魚釣りのボートはなくなり、これが壊れたら、我々は困る。前のガイドは約束の修理の材料を忘れたし、我々は氷が張るまでに材料を買ってくるのは不可能だということを話した。Inuttiaqの言っていたことを心におき、2つ目のカヌーのオーナーは貸すことを望んでないとガイドに伝えた。
 ガイドは、もしオーナーが貸すのが嫌ならよい、彼の自由だといったので、私は少し落ち着いてInuttiaqに私にカヌーを貸したくないと言ってほしいかと尋ね、ガイドはあなたが嫌なら借りないと言っていると伝えた。
 すると、Inuttiaqは、「彼のしたいようにすればいい。」と強く答えた。私は狼狽し、その時の声が穏やかであったことを祈るが、「あなたがいいなら。」と答えた。私は、白人にもInuttiaqにもくだらない仲介役を引き受けた自分自身にも激しい怒りを抱え、ガイドに「彼は貸すと言っているわ。」と答え、ぶっきらぼうに振り返り、テントまで戻ってベットに突っ伏して静かに泣いた。」(Briggs1970,pp283-285.)
  Briggsは白人の釣り人達の行動がエスキモーの正当な権利を不作法に侵害するものとして怒りを抑えられなかった。これに対し、エスキモーの長は、Briggsの怒りの表出を子供っぽい不適切な行動であると見なし、不快感を示し、エスキモーの大人の仲間には不適切だとしてostracize(村八分)扱いにした。全体としてBriggsはゲストとして大切に扱われたが、Briggsによると、彼女とUtkuとの関係は3つの時期に分かれる。初めは、見知らぬ、物珍しい者。それから、反抗的な子どもになり、最後は頑固でイライラさせる存在であった。カヌー事件における怒りの表出のような、エスキモーの正当な権利を主張する行動も、Briggsを頑固でイライラする存在とした。
  Briggsを読んで、昔読んだ極限の民族を思い出した。 本多勝一が朝日新聞の名物記者になってしまう前の、京都大学山岳部での今西学派の影響下のもとにあった頃のエスキモーとニューギニア高地人、ベドウィンの滞在記である。失敗しても決して謝らない砂漠の暴力に歴代さらされてきたベドウィンのえぐさとエスキモーやニューギニア高地人などの狩猟採集民の人なつっこさが印象深かった。(この頃は梅棹の文明の生態史観などもまだ本多の論の視野には入っていたのだろう。)極限の民族には、ライフルで自殺する前にお茶で一服したエスキモーのエピソードなども紹介されていた。日本の切腹における感情の抑制の文化と似ているなと思った。
  日本は、エスキモーと比べると、文字の文化の長い伝統をもつ、より複雑で多層的な社会だが、異民族異文化からの攻撃の脅威に晒されることなく、内部の共同性の原理が優先し、外からの来訪者を何かをもたらす存在として遇するという点では似ているように思う。BriggsのNever in Angerが報告している怒りの抑制の文化も、せまい同族社会のなかでの共同性を優先するなら有効だったのだろう。怒りを示したものへのostracize(村八分)も、怒りの抑制の文化を維持するには必要なのだろう。(怒りの表出を子供っぽい不適切な行動であると不快感を示し、ostracizeするのも怒りの一形態ではあり、立派な攻撃性の発露ではあるのだが。)エスキモーの怒りの抑制の文化は、せまい共同体内部だけなら首尾良く機能する。しかし、Briggsが報告するカヌーのエピソードのように、同じ感情文化を持たない相手に対しては無惨な結果になる。
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笑いについて

2006年07月13日 | 心理学
河端「おーい道端君。生きてるか。もう夏だぞ。」
道端「はあ。なんとか。仕事がたてこんで、なかなかエントリーをあげる余裕がありませんでした。そういえば先日はフォローありがとうございました。」
河端「いやいや。姪御さんは、君とはずいぶん違って機械類や音楽にも強そうだな。感心したよ。」
道端「はい。これからが楽しみです。」
河端「ところで、道端君は、最近、落語や笑いに興味を持っているようだな。」
道端「ええ。調べてみるとなかなか面白いです。」
河端「そうか。アーハッハッハ。」
道端「面白いといったからといって、急に笑わないで下さい。」
河端「面白いのと笑うのではどう違うんだい。」
道端「そうですね、まず笑いは、表情と声で、泣くのと同じく表出行動です。表情は眼尻が下がり口角が上がります。こんな感じです。」
河端「パー?」
道端「あ。すみません。これは顔じゃんけんの絵です。口を尖らすとチョキで、酸っぱいものを食べた時のように眼、口を顔の真ん中によせるとグーです。なかなか面白いですよ。「大阪発笑いのススメ ~意外と知らない笑いの効用~」で紹介されてます。やってみますか。」
河端「お役所が笑いのすすめか。さすがは大阪だな。まあジャンケンはまたあとにしよう。笑いの説明を続けてくれ。」
道端「はい。この笑い顔は、大頬骨筋の収縮によるもので、愛想笑いのように意図的にもできます。もう一つ笑いの表情には、いわゆる眼が笑うという笑いがあります、これは眼を取り囲む眼輪筋の収縮によるものです。眼輪筋の収縮は普通は意図的にはできません。眼輪筋の笑いはより深い脳の部位がコントロールしています。」
河端「なるほど。顔は笑っていても、眼が笑ってないというのは、そういうことだったのか。」
道端「はい、そうです。ただ、作り笑いであっても楽しい気分と関係ないということではありません。河端先輩、エンピツをこうやって唇で挟んでみて下さい。」
河端「うん?こぅか....」
道端「はい。そうです。しばらくそのまま唇で挟んでいて下さい。」
河端「............」
道端「えー。気分はどうですか。」
河端「なんだか。あんまり気分よくないな。」
道端「では次にエンピツをこうやって歯で挟んでみて下さい。」
河端「何をやらせたいんだ。」
道端「まあやってみてください。」
河端「............」
道端「こんどは。気分はどうですか。」
河端「なんだか前よりすこしいいな。どういうわけだろう。」
道端「はい。これは、エンピツを歯で挟むと笑い顔の表情になり、唇で挟むとむっとした時の表情になるからです。表情は確かに気分に影響します。」
河端「なるほど。笑いの表情は分かった。笑い声はどうなんだ。」
道端「笑い声は1秒間に5回程度繰り返される呼気が、声帯を振動させて生じます。笑い声を押さえたり、意図的に呼気をコントロールすることもある程度は可能ですが、基本的には不随意的な横隔膜の振動によります。サルも笑いに近い声をだすこともありますが、呼気と吸気の交替によっていて、あえぐような感じです。笑い声は発声と同じく人間に特有のものです。四つ足動物の呼吸は、歩行と同期しているために、人間のような運動から切り離された呼吸は不可能です。」
河端「ワ-ハッハッハの説明が、なんだかややこしいな。」
道端「ええ、笑い声は表情に比べて研究が遅れていて、まだあまり分かっていないみたいですので。ただ、こんな考えもあります。ほ乳類の感情コミュニケーションでは、一般に低い音声は威嚇の、高い音声は宥和のサインとなります。低い音声が威嚇のサインとなるのは一般に体の大きな動物は低い音声を出すからです。逆に、宥和のサインを出すときには、体を丸めて小さくみせ、音声も体の小さな動物の出す高い音を出します。こうした音声による低い音の威嚇、高い音の宥和というシグナルはほ乳類全体に見られます。」
河端「たしかに人間でも脅すときには、よほど興奮していれば別だが、低い声を出すし、仲良くしたかったら声は高くなるな。うちの嫁など、相手によって2オクターブも声が変わる気がする。」
道端「先輩、口角をひいて低い声を出してみてください。」
河端「うう-う、う-って。俺は犬か。なかなか難しいな、声帯に無理な力を入れないと、どうしても声は高くなるな。」
道端「はい。それは口角をひくと、口腔における音声が共鳴できる長さが短くなり、声が高い方に変化するからです。高い声を出そうとすると、口角をひいた、つまり笑った顔になります。Ohalaという言語学者は、人間の笑い顔は、音声による感情伝達にともなう顔の変化が儀式化されたもので、進化的には音声による感情伝達からの派生だと主張しました。」
河端「たしかに面白い考えではあるな。」
道端「はい。顔だけの笑いと声を出した時の笑いによる気分変化を調べた研究がありますが、声を出した時の方が気分変化は大きかったそうです。また大頬骨筋による笑顔自体は、満足や誇りなど、笑い以外にもいろんな感情で生じます。笑いの基本となる表出は笑い声だとかんがえてもよさそうです。」
河端「音声による感情伝達や笑い声は分からないことは多いが、進化的には重要でまたより基本的かもしれないということか。ところで、最初の話しにもどるけど、笑いと面白さはどうちがうんだい。」
道端「はい。笑いは表出行動で、面白さは出来事の評価にもとづく気分です。典型的なケースでは、出来事を面白いと評価する-->(笑う<--->)楽しい気分、となります。(笑う<--->)をかっこに入れたのは、笑うという行動なしに、面白いと評価する-->楽しい気分という事もあるからです。笑うと楽しい気分の間に両方向の矢印があるのは、楽しい気分だから笑うという因果関係と笑うから楽しい気分という因果関係の両方があるからです。」
河端「ジョークでニヤリにしろ、クスリにしろ、出来事を面白いと評価して、楽しい気分になる時には、かすかにせよ笑うという表出行動は生じているという可能性はないのか?」
道端「はい。可能性としてはあります。表情にせよ笑い声にせよ、かなり精密に測らないと結論は出せないでしょうが。」
河端「それから、楽しい気分だから、出来事を面白いと評価するということはないのか。」
道端「はい。それもあるでしょう。気分一致効果といわれている現象です。」
河端「なんだかたよりないな。」
道端「そうですね因果関係が複雑な割に実証的研究がすくないですから。で、笑うという表出行動の原因は、出来事を面白いと評価するだけではないです。笑うという表出行動、特に笑い声は感染しやすいです。また人はくすぐりでも笑います。笑い茸など、薬物の効果もあります。」
河端「それが、面白さと笑いが別という理由かな。」
道端「はいそうです。特に笑いの感染は注目すべき現象です。笑い番組にはLaugh Trackがつきものです。録音された笑いでもついつられて笑ってしまいます。Provineの"Laughter: A Scientific Investigation"には、こんなエピソードが紹介されています。タンザニアでの出来事だそうです。1962年1月30日に3人の少女が笑いだしました。笑いは159人の学校の生徒のうち95人にまで感染し、授業続行が不可能となり、3月18日には学校が臨時閉鎖されたそうです。他の要因もあったのかもしれませんが、橋が転げても可笑しいという年頃の少女にはありがちなことかもしれません。」
河端「おいおい箸だろう。橋が転げたら大変だよ。」
道端「あ、すみません。わざと間違えました。ここに<笑いレコードと泣きレコード>があります。聴いてみて下さい。」
河端「カルメンの闘牛士のアリアはなかなか面白いね。調子外れの男性のアリアを聴いていた女の人が笑いだし、しまいにはその男性も一緒に笑ってしまう。ついつられて笑ってしまったよ。こんなレコードがあるとは、知らなかった。まあしかし、ヨーロッパの連中も酔狂だな。」
道端「日本にも笑い袋というのがありますよ。泣きレコードを聴いていると、悲しい感じになりますが。こちらは普通の感情の感染のレベルです。笑いの感染にはかないません。笑いが感染しやすい点に着目し、ラマチャンドランという神経心理学者は「脳のなかの幽霊」というすてきに面白い本のなかで、笑いの警戒警報ガセだった説を唱えました。」
河端「なんだい。その警戒警報ガセだった説というのは。」
道端「動物の群で危険があると警戒警報の音声シグナルを出すと言うことは、鳥でもほ乳類でも、よくあります。笑いの起源は、こうした警戒警報が誤りだった、安心しても良いということを知らせる信号だという説です。笑いのネタには、一旦、緊張感をたかめて実はなんでもなかったんだと落とす、こういう手法はよくありますし、笑いが特別に感染しやすい理由の説明にもなります。まあ、すべての笑いの説明にはならないでしょうし、くすぐりによる笑いはこれとは明らかに別です。」
河端「こんどは、コチョコチョか。」
道端「くすぐりを重視するProvineなどは、笑いの起源が幼い動物のじゃれ合いに起源があると考えています。進化論のダーウィンやヘッケルも動物のじゃれ合い、くすぐりを笑いの起源と主張しているので、笑いのダーウィン・ヘッケル仮説と言われています。」
河端「ダーウィン御大にヘッケル閣下もお出ましか。」
道端「はいそうです。言葉の笑いでもくすぐりと言われますしね。くすぐりで興味深いのは、自分でくすぐったらなんともないのに、こうして人からくすぐられると、、、、、」
河端「おい道端君。わかったからやめてくれ。」
道端「これは、自分でくすぐると自分の運動が予測できてしまうからだろうと言われています。くすぐりには、予測できない他者性が必要なわけです。これは、自分で自分をくすぐる場合にも生じます。例えば、右手の指先で右眼の眉をそっとくすぐってみてください。次に右手の指先で左眼の眉をそっとくすぐってみてください。どちらの方が、よりこそばゆい感じがしますか。微妙ですが、違うはずです。」
河端「本当だ。左眼の眉をくすぐったほうが、よりこそばゆい感じがする。どういうわけだ。」
道端「右手の指先の運動は脳の左半球から指令がでています。左眼の眉の感覚情報は脳の右半球に入ります。指令と感覚が半球の逆側なので、脳梁を介さなければならず、指令による感覚の予測がよりできにくくなるためです。体の左右は同じ側よりもより他者的といえるかもしれません。実際、脳梁を切断した患者さんは、体の左右で別人のようにふるまうそうです。」
河端「なるほど。」
道端「さらに統合失調症で幻聴のある患者さんでは、自分自身をくすぐっても、くすぐったく感ずるそうです。幻聴は、自分が内言として発した言葉の指令情報が適切にモニターできずに、他者の声として処理されてしまうために生じます。同じことが自分をくすぐった場合にも生ずると考えられます。」
河端「なるほど。コチョコチョもなかなか奥は深いな。」
道端「で次に、出来事を面白いと評価するのはなぜかですが、これには落語や漫才、喜劇などが関係してきます。薔薇の名前というエーコの小説では、ボルヘスがモデルとなった、ホルヘ神父が死をもってまもった秘密が、まぼろしの著作、アリストテレスの詩学第二部の喜劇論の写本だという設定になっています。可笑しさの秘密がそんな大層なものか知りませんが、人が何を面白いと思って笑うのか、プラトンの優越攻撃理論から、カントの無化された予期説、等々、古くから多くの哲学者思想家達の頭を悩ましてきたことはたしかです。アリストテレスの詩学第二部がどんな内容か知りませんが、最近になってこの2500年来の難問も、ようやく解決の方向が見えてきたように思います。まず理論の流れを大まかにわけますと、」
河端「いやあ、ありがとう。今日は道端君の笑い論、実演まじりで十分に堪能させてもらったよ。2500年来の難問の解決はまたの機会にうかがうとしよう。」
道端「いえ方向程度ですが、いずれまたお願いします。河端先輩の政治・文化論もぜひ拝聴させて下さい。」
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価値の場と生き甲斐

2006年03月12日 | 心理学
  ボードレールの「パリの憂鬱」に“酔い給え”と言う散文詩がある。「常に酔っていなければならない。それこそ唯一の問題である。汝の両肩を圧し砕き、汝を地面の方へ圧し屈める。怖るべき時間の重荷を感じまいとするならば、汝を酔わしめてあれ。さらば何によってか? 酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むままに。ただに、汝を酔わしめよ。」
  人間も輪を廻して走るネズミ、ニンジンを追いかける馬と変わらないのだろうか。動物は、その時々の動因の状態に依存してきまる物理的環境世界に張り付いたアメ(正の価値)とムチ(負の価値)からなる、正負の価値の環境場のなかで、正へ惹かれ、負から逃げるように行動する。ダンゴ虫が日向で移動を活発化し、湿った影へ移動して落ち着き、蟻が蜜に集まるのは、正負に張られた価値の環境場での勾配に従った移動である。蟻などでは他の蟻の残したフェロモンの勾配に従って移動することにより、餌を求めての集合的な移動が生じている。こうした、正負に張られた価値の環境場での勾配における集合行動はStarLogoという環境場における多エージェント行動をシミュレートする教育用のソフトで見ると非常にわかりやすい。プログラムはStarLogoのサイトで無料でダウンロードできる。ProjectのAntでは蟻の集合摂餌行動、Slimeでは粘菌の群体形成、Termiteではシロアリの材木あつめといった、一見集団としての意図を持って遂行されるかに見える環境場における集合行動が、個々のエージェントの簡単な行動ルールによって自己組織的に生成されうることが確認できる。正負の価値の環境場における動物の行動では、このように単純で分散的なルールにより、一見集団としての意図を持ったかに見える集合行動は起こり得る。しかしこれは、環境の場を介して他の動物との行動のTuningが行われたり、あるいは直接に他の動物と相互に刺激を与えあって行動のTuningが行われているだけであり、人間の価値追求行動におけるように、他の個体の意図を理解しての社会性とはレベルが異なる。(この辺は、最近研究が大いに進んできた領域で「心とことばの起源を探る」などはおすすめである。機会を改めて紹介したい。)アメ(正の価値)とムチ(負の価値)を無条件刺激とすると条件付けにより条件刺激へ価値が転移する事は動物でも、人間と同様に生ずる。
  人間も動物と同じく、その時々の動因の状態に依存してきまる物理的環境世界に張り付いたアメ(正の価値)とムチ(負の価値)のなかで生きている。空腹で食べ物を欲し、腐った匂いを嫌悪し、炎熱を避け、緑陰に逃れる、等々。しかし、人間の場合、社会的な指し示しと言葉によって形成された象徴的な価値の場が、物理的環境世界を覆いつくしている。人間社会はその物理的環境を集団的に制御しており、人間は単独では物理的環境で生きる事はできないので、社会的象徴的な価値の場の影響は非常に大きい。日焼けがかっこいいと自らが属するグループが評価すると、炎熱に身をさらし好んで皮膚に炎症を形成しそれを誇る。人間は互いに行動を評価しており、自らや自らの行動を評価する場合も自らが属する集団の眼を内面化しそれを通じて評価を行っている。そして集団の評価はある種の秩序と階梯を備え、変更されつつ伝えられていく。この秩序と階梯は、正の価値の極(集団における聖なるもの、最高の境地など)と負の価値の極(集団における悪の極み、汚辱など)を両極として、ある種の梁のようにして象徴的な価値の場をはる。閉鎖された宗教的社会など正負の価値の極が明確で、人々は同じ梁のなかで移動することになり、人々自体も共有の正負の価値の極の間の階梯のなかにおかれる。アノミーの状態では、人々に共有される正負の価値の極がばらけてしまい、正負の価値の勾配の方向性が定まらず、人々は混乱のなかにおかれる。社会全体がアノミー化すると、局所的に形成されるカルト宗教などの正負の価値の極が明確な梁のなかに飛び込む人も出てくる。
  ボードレールの“酔い給え”にもどると、これは、キリスト教における正負の価値の極が明確な梁に安住できなくなったボヘミアン詩人が、アノミーと退屈に苦しみ、自分の正の価値の極、神を持てとすすめている詩であると解釈できる。ただし、これは一人の思いつきで頑張っても、なかなか難しいだろう。人間における象徴的な価値の場は、社会的な指し示しと共同体的な言葉によって形成されたものだからである。以前、家族からは邪魔にされつつ、またほとんど理解されることもなく、たぶん先輩や先達もなく、苦労してリヤカーで世界一周した人が紹介された番組を見た。次はリヤカーでの北極圏横断を目指して日々トレーニングと練習に励んでいた。この人は、ほぼ一人で、正の価値の極からなる価値の場を作って、そのなかで充実して生きている、すごいと感激した覚えがある。普通の人はこうはいかない。象徴的な価値の場を共有する集団、評価してくれる人、歴史へつながることによって、始めて、実効的な象徴的な価値の場が形成される。
  一般的に言うと、生き甲斐、幸福感は、価値の場で負から正へ向かう勾配のなかを移動するときに経験される現象である。
  たとえば、戦争で生命の危険にさらされてきた人には、心配なく夜眠れるだけで幸せである。飢餓に苦しんだ人にはお腹一杯たべられれば幸せである。この意味で現在、衣食が満ち足りて、欠乏の経験がなく、将来不安だというのは、過去から現在、未来をつなぐ、価値の場における正の勾配が得られにくいので好ましいことではない。かつての戸塚ヨットスクールのように生命の危機に直面させるところまで行かずとも、なんらかの欠乏、危機を経験しておくことは、正の勾配を得るための参照点を提供する上で、ゆたかになった社会には必要な知恵だろう。イスラエルの過越しの祭りや、イスラムの断食月、イギリスのパブリックスクールなどにおけるエリート教育の厳しさなどは、そうした状況に対応する文化装置の側面もあるのかもしれない。
  また、人間における価値の場は、基本的に社会的に織りなされているので、集団から認められている、必要とされているという社会的な是認の感覚も、生き甲斐、幸福感には、不可欠である。この点で、仏教には興味深い側面がある。仏陀は、仏教修行のゴールを良い仲間を持つことだといった。また、禅仏教では、師匠から弟子への伝授のつながりが強調される。キリスト教にような聖典と神義論にもとづく、象徴的な価値の場形成とは異なった、集団と歴史的継承に重点を置いた象徴的な価値の場の形成がここではなされているように思える。文化的に意味のある達成は、かならずなんらかの歴史的継承を基盤になされている。歴史的継承を無視すれば、新規な価値のあることが達成されるなどと考えるのは、近代の浅はかな人間観社会観にもとづく、思い違いにすぎない。
  戦後のゆたかな社会における我々の、特に若い世代の不幸は、正の勾配を得るための参照点を提供するような文化装置を考えるような知恵の欠如だけでなく、歴史的継承の重要性をないがしろにしてきた近代の浅はかな人間観社会観を無思慮に受け入れ、それが骨がらみになってしまった点にもある。
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エリオットの教訓

2005年03月31日 | 心理学
 不安や恐怖、抑鬱などの感情は苦しいものです。また怒りや憎しみによる行動は危険な時があります。このような否定的感情はなくなったほうが良いと思うかもしれません。痛みの感覚もなくなったらどんなにいいでしょうか。しかし、痛みの感覚や、否定的感情は、環境に適応していく進化のなかで形成されたもので、生きていくための大切な役割があります。痛みの感覚を持たない無痛症の人がいますが、常に体中傷だらけだそうです。脳の障害により恐怖や不安、怒りなどの感情が生じなかった人も知られています。(ダマジオ「生存する脳 : 心と脳と身体の神秘」講談社)に紹介されているエリオットの症例。神秘など邦題にはありますが、原題は Descartes' error : emotion, reason, and the human brain. です。)。エリオットは、知能がきわめて高かったにも関わらず、仕事で信用のできない人間に騙され、同じ失敗をくりかえし、生活が破綻してしまったそうです。(破綻しても、淡々と人ごとのように受け取っていたそうですが。)ギャンブル中毒になる人には、恐怖の中枢の働きが弱いという研究もあります。恐怖や不安、怒りなどの否定的感情は、危険を避け、障害を除去するためになくてはならないものです。
 西欧の思想では伝統的に、感情を理性による合理的判断と対比させ、感情を合理的思考による問題解決をする上での障害と見なすのが通例でした。一般でも「感情的」というのは、非合理的と同義につかわれることが多いようです。しかし、最近の認知科学では、感情的反応における合理性を見直しつつあります。今日の認知科学における感情研究の主流である感情の認知的評価理論では、人間の種々の感情を、出来事の一連の評価にもとづき行動を導き、他者に伝達するしくみとして、とらえています。先にあげたダマジオは、感情における身体的反応のモニターが、日常生活における問題解決で重要な役割をしていることを、ソマティックマーカー仮説により一般化してとらえ、しめしました。Jesse J. Prinz(2004) による、「Gut Reactions: A Perceptual Theory of Emotion 」 Oxford Univ Press.は、若手の哲学者による、ソマティックマーカー仮説と認知的評価理論の統合の試みで、最新の研究の進展をおさえつつ多面的な感情の全体像をとらえる手腕には感心しました。Prinzは現在、「The Emotional Basis of Morals」という本を準備中だそうです。前に、PinkerのThe Blank Slateでの、標準的社会科学における人間観批判にすこし言及しましたが、心の科学(こちらはまっとうな科学になりつつあります)による今日の主流派の社会科学批判につながるものとして、Prinzの仕事も興味津々です。
 もちろん、合理的な問題の吟味にもとづく、感情との対話、感情の適正化は必用です。しかし、感情とくに否定的感情がないふりをしたり、無視したり、他人にそれを要求するのは、有益ではないと思います。もともと感情的反応が欠けていたエリオットになにが起こったのか、エリオットの教訓を知るべきです。感情がないふりをしたり、無視したりすれば、エリオットならぬ常人では変態化した感情が潜行するだけです。これは、個人だけではなく、社会や国でも言えることだと思います。わかりにくい抽象論の前置きが長くなってしまいました。具体的な話しは、また、おいおい書いていきたいと思います。
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