すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子 (下)」

2006-03-12 08:50:52 | 書評
本当になれるのでしょうか?


「上弦の月を喰べる獅子」の下巻を読み終えました。(上巻の感想は、こちらを、どうぞ)

「もし……」
 男の声だった。
 どこかで聴いたことのあるような声でもあり、そうでもないような気もする。
 ただ、ひどく、なつかしかった。
 賢治は振り向いた。
 人のざわめきの中で、誰が、声をかけてきたのかわからない。
「いい祭りですね」
 声か言った。
「いい祭りですね」
 賢治は答えた。
「本当に楽しそうで」
「花巻の村の、今年の秋の実りがすばらしいものだったのです」
 賢治は言った。
 そのひとは、賢治が手に持っているものに気づいたようだった。
「それは、稲の穂ですね」
「ええ」
「みごとな稲ですね」
 ひどく優しい声が言った。
「この稲の実が室だ地に下ちて、次の実りを生んでゆくのです」
「そうですね」
「わたくしもまた、たとえ地に下ちても、次の実りを生むための実となりたいのです」
 賢治は言った。
「いいな……」
 声が言った。
 しばらく、沈黙があった。
「その実を、少しわけていただけますか」
 声が言った。
「はい」
 賢治は、稲の穂から実を取って掌へ載せて差し出した。
 柔らかな、哀しい温かい力が、賢治の手からその実を持ち去った。
 神輿の喧噪が、ゆっくりと向こうへ遠ざかってゆく。
 それが、自分の内部に遠くなってゆくかのように、賢治は耳を澄ませていた。
「ひとつ、訊いてもかまいませんか?」
 声が言った。
「はい」
 賢治は、顔をあげた。
 おずおずと、迷い、口ごもり、そして、ようやく、その声は言った。
「人は……」
「人は?」
「人は、幸福せになれるのですか?」
 賢治は、その問の意味が、ふいにわかった。
 長い旅を、共にしたはずのその人の声であった。
 賢治の眼からふいに、涙がこぼれた。
「ああ、あなたもまた、長い修羅の道を歩いて来られたかたなのですね」
 その声の主は、うなずいたようであった。
「人は、幸福せになれるのですか?」
 また、声が訊いた。
 答は賢治にはわかっていた。
 はっきりと、わかっていた。
「なれますとも」
 賢治は答えた。
「わたしのような者でも?」
 そのひとは、口ごもり、もう一度、問うた。
 わかっている。
 わかっているその答を、そのひとにはっきりと伝えなければならない。
 これ以上はないほど優しい視線で、賢治はそのひとの存在をさぐった。
 ああ――
 こんなにはっきりとわかっているその答を、そのひとの魂に伝えるのだ。
「なれますとも!」
 賢治は、そのひとに届くように、はっきりと、声を大きくして答えていた。
夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子 (下)」377~380頁 ハヤカワ文庫

まずまず面白かったです。

が、ちょい小難しい。

でも、ちょい小難しくても、まずまず面白く読ませる手管には、感心。


で、ストーリーなんですが、……………正直なところ、まず簡約は不可能。

心に傷を負った螺旋収集家と宮沢賢治の二つの魂の宿った人間(?)が異世界で辿る、魂の遍歴を描いた作品、という感じでしょうか?

この文章で、
「あぁあんな感じだな!」
と想像ができた人は、まず病気です。お医者様に会いに行きましょう!


ともかく、なかなか他では味わえない作品であることは確かです。

毛色の変わった小説を読みたい方には、ちょうどよろしいのでは?


上弦の月を喰べる獅子〈下〉

早川書房

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