小2でした。
私は東京生まれですが、1945年4月に疎開するまでは東京にいました。
学校にも通ってはいましたが、警戒警報が出ると、すぐに下校となり、急いで家に向かいますが、途中で空襲警報になったりすると、路脇の側溝の中に入って、目と耳をふさいでうつ伏せになり解除になるのを待ちました。こんな状態で暫くすると、学校ごと集団疎開で、一緒に行かない者は、学校に行けなくなりました。ですからこの間私は勉強は全くしていない事になります。
3月16日の空襲の時は蒲田にいましたが、あの日は警戒警報のサイレンが鳴って、防空壕に入ってすぐに、空襲警報のポオポオと短く鳴るサイレンの音がしました。
同時に物凄いザーザーと言う焼夷弾の音がし、随分近くに落ちているなあと思いました。幼かった私でも、なんでこんな風に防空壕に入らなければいけないのか、何でこんな事をしているのかと不思議で、早く終わってほしいと思ったのを覚えています。 警戒警報が解除になって、防空壕から出ると、東北(?)の方角が昼間のように真っ赤になっていました。今思うとこれが東京下町の大空襲だったのでしょうか。私の学生時代の友人は当時浅草にいて、この空襲でお母様が行方不明になって、それ以来死体もわかっていないと言っておられました。でも私は死者を見ませんでした。これは幸いでした。4月の末に母方の実家に、次に父方の実家に、私と兄だけ疎開しました。一家が長野県で一緒に暮らすようになったのはもう6月になっていたと思います。新しい学校は何と平和だった事か!
空襲もなく、皆のんびりと生活していました。ただ親達が、広島に新型爆弾が落ちて沢山の死者が出た事。白い服を着ていると被害が少ない等と話していました。
当時はまだ農家の蚕室を借りて一家で暮らしていたのですが、8月15日は、その前の日に確か大事な放送があるから、皆聞くようにとのおふれがあって、皆で何だろうと話合っていました。誰一人戦争に負けたなど考えてもいませんでしたから。当時ラジオがある家は田舎ではあまりなかったのです。私の家にあったので、それを縁側に置いて、近所の人が大勢やってきて中庭の地面に正座して天皇のお言葉を聞きました。何だか聞きなれない物言いで、聞いていた誰一人として、意味がわからず、何だろうと言い合っていると、当時女学校に行っていた姉二人が泣きながら帰って来て、日本が無条件降伏をした。戦争に負けたのだと言うのです。そこにいた皆が泣き始めました。この平和な土地でも息子や夫を戦地で亡くし人達がいたのでした。私はもう防空壕に入る必要も、防空頭巾を被る必要もないのだと思って、ほっとし、嬉しくなった事を覚えています。泣きませんでした。
でもそれからが大変でした。食糧難です。
母は自分の着物や帯を物々交換所に持って行き、大豆、じゃがいも、ささげ等に換えました。毎日の食事は、粟、こーりゃん、豆、大根の葉入りの雑炊でした。白米で沢庵を食べる夢を何度見た事か。サツマイモなど大ご馳走でした。
子沢山の我が家では母がまだ幼い弟を背負って、あちこちの農家に食料を買いに出かけました。私も裸足になって近所の農家の田植えや、稲刈りを手伝いました。
おやつに頂く「あられ」がお目当てでした。
配給もありました。粉味噌。おやつに嘗めました。笹の葉の粉で作ったパンはいくらお腹が空いていてもまずくて食べられませんでした。
稲の実がたわわになる頃はイナゴを採って、蓋つきのフライパンで炒めて、お醤油をつけておやつにしました。これはかなり美味しくて大好きでした。でも今は佃煮にしたのも食べられません。贅沢になったものです。
春はせり、よもぎ、のびる等採って食べ、
秋はきのこ採り。桑の実を口を真っ赤にしながら近所の子達と食べたのも忘れられません。
母がやっとの事で手に入れたメリケン粉で、グリンピースにサッカリンで甘みをつけた餡のお饅頭を作ってくれました。本当に美味しかった!この美味しさは未だに忘れられません。懐かしいです。
また私は一人で山に薪やごかき(枯れ葉集め)に度々出かけました。何の恐怖感もなかったのが不思議です。皆生きるのに精一杯だったのですね。
如何に戦争が無意味なものであるか! 平和であることがどんなにか素晴らしい事か! 戦争中を思い出す度に考えます。
そして今だに戦争が続いている国々が、この地球上に沢山あるこの状況は、本当に悲しい事です。
どんなにか多くの罪のない人々が、一握りの権力者達のために、死んだり、国を負われ、食べるものもなく、悲しい思いをしている事でしょう。
平和な世界はまだまだ望めないのでしょうか?
私は東京生まれですが、1945年4月に疎開するまでは東京にいました。
学校にも通ってはいましたが、警戒警報が出ると、すぐに下校となり、急いで家に向かいますが、途中で空襲警報になったりすると、路脇の側溝の中に入って、目と耳をふさいでうつ伏せになり解除になるのを待ちました。こんな状態で暫くすると、学校ごと集団疎開で、一緒に行かない者は、学校に行けなくなりました。ですからこの間私は勉強は全くしていない事になります。
3月16日の空襲の時は蒲田にいましたが、あの日は警戒警報のサイレンが鳴って、防空壕に入ってすぐに、空襲警報のポオポオと短く鳴るサイレンの音がしました。
同時に物凄いザーザーと言う焼夷弾の音がし、随分近くに落ちているなあと思いました。幼かった私でも、なんでこんな風に防空壕に入らなければいけないのか、何でこんな事をしているのかと不思議で、早く終わってほしいと思ったのを覚えています。 警戒警報が解除になって、防空壕から出ると、東北(?)の方角が昼間のように真っ赤になっていました。今思うとこれが東京下町の大空襲だったのでしょうか。私の学生時代の友人は当時浅草にいて、この空襲でお母様が行方不明になって、それ以来死体もわかっていないと言っておられました。でも私は死者を見ませんでした。これは幸いでした。4月の末に母方の実家に、次に父方の実家に、私と兄だけ疎開しました。一家が長野県で一緒に暮らすようになったのはもう6月になっていたと思います。新しい学校は何と平和だった事か!
空襲もなく、皆のんびりと生活していました。ただ親達が、広島に新型爆弾が落ちて沢山の死者が出た事。白い服を着ていると被害が少ない等と話していました。
当時はまだ農家の蚕室を借りて一家で暮らしていたのですが、8月15日は、その前の日に確か大事な放送があるから、皆聞くようにとのおふれがあって、皆で何だろうと話合っていました。誰一人戦争に負けたなど考えてもいませんでしたから。当時ラジオがある家は田舎ではあまりなかったのです。私の家にあったので、それを縁側に置いて、近所の人が大勢やってきて中庭の地面に正座して天皇のお言葉を聞きました。何だか聞きなれない物言いで、聞いていた誰一人として、意味がわからず、何だろうと言い合っていると、当時女学校に行っていた姉二人が泣きながら帰って来て、日本が無条件降伏をした。戦争に負けたのだと言うのです。そこにいた皆が泣き始めました。この平和な土地でも息子や夫を戦地で亡くし人達がいたのでした。私はもう防空壕に入る必要も、防空頭巾を被る必要もないのだと思って、ほっとし、嬉しくなった事を覚えています。泣きませんでした。
でもそれからが大変でした。食糧難です。
母は自分の着物や帯を物々交換所に持って行き、大豆、じゃがいも、ささげ等に換えました。毎日の食事は、粟、こーりゃん、豆、大根の葉入りの雑炊でした。白米で沢庵を食べる夢を何度見た事か。サツマイモなど大ご馳走でした。
子沢山の我が家では母がまだ幼い弟を背負って、あちこちの農家に食料を買いに出かけました。私も裸足になって近所の農家の田植えや、稲刈りを手伝いました。
おやつに頂く「あられ」がお目当てでした。
配給もありました。粉味噌。おやつに嘗めました。笹の葉の粉で作ったパンはいくらお腹が空いていてもまずくて食べられませんでした。
稲の実がたわわになる頃はイナゴを採って、蓋つきのフライパンで炒めて、お醤油をつけておやつにしました。これはかなり美味しくて大好きでした。でも今は佃煮にしたのも食べられません。贅沢になったものです。
春はせり、よもぎ、のびる等採って食べ、
秋はきのこ採り。桑の実を口を真っ赤にしながら近所の子達と食べたのも忘れられません。
母がやっとの事で手に入れたメリケン粉で、グリンピースにサッカリンで甘みをつけた餡のお饅頭を作ってくれました。本当に美味しかった!この美味しさは未だに忘れられません。懐かしいです。
また私は一人で山に薪やごかき(枯れ葉集め)に度々出かけました。何の恐怖感もなかったのが不思議です。皆生きるのに精一杯だったのですね。
如何に戦争が無意味なものであるか! 平和であることがどんなにか素晴らしい事か! 戦争中を思い出す度に考えます。
そして今だに戦争が続いている国々が、この地球上に沢山あるこの状況は、本当に悲しい事です。
どんなにか多くの罪のない人々が、一握りの権力者達のために、死んだり、国を負われ、食べるものもなく、悲しい思いをしている事でしょう。
平和な世界はまだまだ望めないのでしょうか?