白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

岡田啓介主相、福田耕、迫水秘書官

2005年05月25日 09時03分45秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真はお昭和10年の岡田内閣時代のもので、岡田啓介氏を右にその左は、二人の秘書官で真ん中の人物は福田耕氏で後に日本タイプライターの社長となり、通信技術に詳しく、当時の日華通信株式会社の社長でもあった。 同氏は戦後の日本タイプライターの労働争議の時に社長を辞任、昭和29年頃、日本電話公社か別れた国際電電株式会社の社長になった人である。日本タイプライターは前にも述べた様に、タイプと通信が一体となる装置を開発し、日本軍の情報収集に活躍していたことは以前に述べたとうりである。 このような関係で福田氏は日本タイプライターの社長になったのであろう。しかしこれには裏があって父と岡田啓介氏は、東条内閣打倒のため一緒に戦ったのである。この写真の一番左は、迫水秘書官で、同氏も東条打倒に活躍した事は有名であるが、父の事は表に現れていない。 麻布の桜井邸で東条内閣から次の内閣に引継ぎが行われたが、これを知る人な少ない。父は何事も表に現れることがなかった。 日本タイプライターに於いても同様で、父の努力がなければここまで和文タイプの発展はなかった事は確実である。 ところがキャノンに買収された日本タイプの歴史の中に、父の偉大さの一言の言及もない。莫大な日本タイプの資産を濡れ手で粟をつかむ様にして取得しているにも拘わらずである。 話は元に戻るが、岡田啓介氏の長女が迫水秘書官の妻になったひとで、「私の生母」のプログの写真の中の左から二人目、私の母の隣の人である。 岡田啓介氏の長女迫水万亀夫人は母が嫁ついでいた三條西家の香道再興にも一役かったとゆうことである。三條西家は室町時代より荘園を能登に持ち、天皇より香道家としての役割を担っていたのであるが、戦国時代より以降香道家としての家元が途絶えていたのである。私の母が三條西家に嫁ついだころの昭和22年12月に三條西公正氏が香道の家元として再興されたのである

 


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