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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(32)再建整備計画(16)渡辺忠雄氏

2005年09月23日 12時59分48秒 | 渡辺忠雄

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(9)
之まで述べた様に日本タイプの取締役は会社の発展と考えるどころか、如何にして名義株を私物化することに専念してた。彼等の関心事はこれ以外には無かったのである。
昭和51年に三和銀行の所有株の名義が急にプラス事務機に変更したのである。三和銀行がプラスの株と交換して、プラスの株主となり、プラスが日本タイプの株主となっている。
しかしこの記事が発表されると東証証券記録より三和銀行即ちUFG銀行の株式名義が消え、プラスはホ-デングカンパニーとなり、中曽根氏の親戚の株名義が姿を消すのである。
三木政権時代の幹事長は中曽根氏であり、延命順作の息の掛かった坂本三十次氏が三木氏の強力な資金源である。その後ろに延命順作がいたからである。
プラスは文房具やオフィス器具の製造をしており、日本レミントンとは競合関係になる。従って日本タイプは日本レミントンを三井物産に売り渡した後、プラスと提携した。しかしそれ以前に日本レミントンが日本ユニパックになるときに、その私名義「私の父名義」の株式を三井物産に売却したのである。この時三井高陽氏が影で相当動いたのである。
何故三和銀行が日本タイプの親会社である日本観光株式会社の倒産に深く関わっていたかは、昭和51年の日本タイプ株がプラスに変わったなに三和が関与してからである
なぜなら三和は父の資産の管理銀行であったからである。
この頃弁谷貞造ら日本観光の取締役等は、私に真相を知られないためにあらゆる卑劣な手段を弄している。私の家族を路頭に迷わせる事を平気で行なっている。
この頃である私が三和銀行を渡辺忠雄氏に手紙を出して、日本タイプの再建整備について問い合わせをしたのである。それから半世紀以上も渡辺氏が健在であったが何ら返事が無かったのである。日本タイプの再建整備に一番深く関わっていた三和銀行であるから、父の戦前からの旧債権の処理について深く関わっていたのである。この写真のブログはかって日本タイプや日本観光の前身北陽産業の本社のあったところで、父が所有していたが父の死後以降は延命順作がパチンコ店と経営しその後UFG銀行がはいっているビルとなっている。
プラス株式会社が日本タイプの株主となった昭和51年の政権が何らかの形で関与
している。
この年は日本観光の桜井能唯が父の戸籍上の妻子に対して東京地裁に訴訟を起し
すべてを取り上げている。このことは別のブログで取り上げている。

三木派閥の中に地元の有力議員が上記の様にいたのである。延命順作の息の掛かった地元の有力議員である。
この議員のお陰で日本観光の重役たちは、刑事事件に問われなかった。
つまり日本観光の同名の別会社を作り、ゴルフ場の認可のこの地元有力議員のお陰で認可が下りたからである。
私は当時の政権の三木武雄氏な会ったことがある
三木氏は安西家の縁戚にあたり、父の戸籍上の長男が日本冶金に入っていたのであるが、日本冶金が一時経営不振となり、日本観光に入って来ていたのである。
最初は日本タイプに入って来たのであるが、仕事らしいものはなにも与えられず
本人は悶々としていたようである。
結局日本観光の取締役となったが、名ばかりの飼い殺しで、当時の桜井清次と
喧嘩ばかりしていて警察沙汰になったこともある
そんな関係で父の戸籍上の妻桜井善子と会社との訴訟が次々を起し、最後
は日本観光の取締役を下ろされ、日本観光及び康楽寺(法人)から訴訟を起され
全てを失うこととなったのである。
日本観光はその長男と総会屋の巣窟となり、会社の経営陣に会社売却の口実を
与える。
その道筋は以下の如くになるのである。
その後戦後父の死後裁判認知をされた吉田宏明が表に出てくる。
この男が桜井能唯の言われるままに、会社の土地を抵当にして高利貸しより
60億の金を借り、その金で桜井能唯より株を買ったが、桜井能唯は北陸一の高額所得者となるが会社は倒産する。
本来なら会社を危なくし、倒産させた罪に問われるところ、穴水町にゴルフ場
を造る名目で、日本観光株式会社の同名の会社を創り、自分は新しい日本観光
株式会社に移籍して、名門の日本観光倒産の罪を逃れたのである。
この後ろで辨谷貞造が居た事は云うまでも無い。
当時穴水町では中曽根系のゴルフ場がオープンしており、この様な田舎にゴルフ
場が二箇所も出来るわけが無い。
案の定新会社は開店しないまに休業している。
この地は延命順作が能登観光開発株式会社を創り、渡辺忠雄氏も名を連ねていた。
この様な過疎地で観光事業が成り立つわけはない。
結局新しい日本観光は熊谷組が30億の保証をしたが、熊谷組事態が倒産したので
三井住友が日本観光の熊谷組の30億の保証を肩代わりしたのではなく、その分を別の会社が肩代わりしたのである。


白雲楼、起雲閣、「日本タイプライター」(18)再建整備計画(2)渡辺忠雄

2005年08月24日 13時09分22秒 | 渡辺忠雄

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本タイプライターの第64回営業報告書によれば、在外財産、賠償指定、戦時補償特別税等により7千万円の特別損失を生じたるも、資本金9割、旧債権4割切り捨てにより補填し、残存債務は志村工場他全国に散在した8工場を処分、資本金270万円を4千万円に増資により完済を内容とする企業再建整備計画は昭和23年11月30日付け主務大臣より認可を受け、減資は昭和24年1月15日をもって完了、増資は同年6月30日をもって完了、新旧勘定の合併を終えたとしている。 日本タイプライターは戦前に於いては、安田銀行が主力であったが、同行は財閥会社に指定されたので、融資はストップし変わりに三和銀行が主力銀行となり、終戦直後三和銀行から莫大な借り入れ(2億円)再建準備に取り掛かっている。その関係で債権者として三和銀行代表者渡辺忠雄氏が京都工作機械の延命順作と同時にこの二人が債権者として昭和21年9月に登記されている。この様な関係で延命順作が渡辺氏と親しくなったのである。日鉄の稲山社長とは、父が安宅産業と色々事業をしていた関係で鉄鋼に強かった安宅産業の関係から親しくなったものである。藤田観光の小川社長とは、父の会社が満州や朝鮮に鉱山を開発しており、国策会社帝国鉱業開発と関係が深く、戦後藤田鉱業の帝国鉱業開発清算の過程で藤田観光が創立され、小川社長は元安田信託時代、豊島園を経営しておりそれを西武鉄道に移管した際から父の秘書をしていた延命は親しかったのである。名鉄の土川社長とは、父が北陸鉄道と関係があり、金沢から湯涌までの道路を開鑿、舗装して湯涌乗り合いバス会社を経営していたが、これが北陸鉄道に合併され、また白雲楼自体が北陸鉄道の経営下にあった時代もあり、戦後名鉄が金澤に乗り込み、父の金澤駅前の土地を買収するさいに親しくなったものであろう。北陸鉄道の社長が経営する百貨店が名鉄系列になったように、北陸鉄道は名鉄系列になったのである。このブログは日本タイプ登記簿謄本の債権者三和銀行 代表渡辺忠雄氏の登記を示したものである。