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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

上戸の長者竹端仁作(5)私の替わりに財産放棄を弁谷昌造が裁判所で陳述した。

2007年02月05日 15時04分08秒 | 延命順作
私が高校に入学した年私の父桜井兵五郎は日本タイプライターの五階の自室で亡くなった。
私の父は日本タイプの取締役の一人一人に私の事を依頼したのである・
自分の死後私を日本タイプの社長にする事を日本タイプの重役の一人一人にそれぞれ名義株を渡し頼むと言っていた。
父が亡くなる前年の秋、父は白雲楼に来ていた。
父はこの頃から床に着く事がおおかったようである。
私はその頃上戸中学校3年生で、砲丸投げの選手として秋の県大会に金沢に来ていたのである。
戸籍上の両親も金沢にきており、白雲楼に居のである。
県大会が終わって金沢から能登に帰る時、学校の先生が私に白雲楼に行かないか誘ったのである。
私は父桜井兵五郎が白雲楼にきていることを知らなかったので、行く事を躊躇ったのである。
先生が白雲楼に来る事を招待されていたのか知れないが、私は戸籍上の両親のいる白雲楼に行く気になれずそのまま帰ったのであった。
その後金沢から帰った弁谷ハシより、何故白雲楼に来なかったとキツク追求された。
私は何故こうもキツク咎められたのかりかいが出来なかった。
ところがその夜戸籍上の両親が夜皆が寝静まった夜話をしていたのを私がフト目を覚ました時、二人の話を聞いたのである。
弁谷ハシ曰く、伯父さんは何故あんなに怒ったのであろうか?と弁谷栄に話し掛けていたが返事がなく無言のままであった。
伯父さんとは私の父桜井兵五郎のことでる。
私が白雲楼に行かなかったので、私の父より大変怒られたのである。
もし先生の誘いで白雲楼に行ければ、父に最後にあえたのである。
それならば戸籍上の両親が白雲楼に来るようにと私に話しておくべきであった。伯父さんが来ているからと何故私に言わなかったのか。
ここで竹端仁作の話に戻る。
竹端新作は私に財産の放棄をシツコク求めたが、私は何のことか判らず、返事をしなかったのである。
竹端仁作は私が父桜井兵五郎より、父の財産の件で話を聞いて知っていると思ったのである。
私の父の死後私は未成年であったから、竹端仁作が私の後見人になることになったいた。
私の戸籍上の両親は、私が父の財産の承継人である私の後見人になることは出来ない。
何故なら弁谷栄は戸籍を訂正して、私を桜井兵五郎の子としての届出を拒否していたからである。
そこで竹端仁作は財産を放棄しろとシツコク迫る事となったのである。
私が財産の放棄を承諾しないもおのだあるから、私の変わりに
弁谷昌造が裁判所で財産を放棄すると陳述したのである。
裁判所で私が一方的に放棄するといっても認められないので、竹端仁作が管理人となることを裁判所が認めたのであろう。ここから私の悲劇が始まるのである。
それは此れまで述べてきた。
金沢国立病院における頭蓋骨破壊


白雲楼、起雲閣「日本タイプ」(35)再建整備計画(19)取締役の議決権

2005年09月27日 10時30分24秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(12)日本タイプの事業計画書によれば、アメリカ最大の事務用機械製作会社レミントンランド株式会社と提携し、両者合弁による英文タイプライターその他最新事務用機械の製造会社を新設し、その製品は、同社の販売網を活用して普及する計画である・・・となっている。しかし私が日本タイプに居た頃は、一部の部門で取り扱っていたのみであり、全社的に取り扱っていなかった。
営業マンは殆どが毎日喫茶店で屯しており、安い給料で働く意欲を失くしていた。
レミントン製品を一般の営業マンが取り扱うのが禁止されていた。一部の部門のみが取り扱っていたものであるから、売上は高が知れている。このことで日本がわの最高責任者である柳田専務は絶えずアメリカ側と衝突していたようである。
日本側は馬鹿息子に渡すくらいなら潰した方がましと考えていたようである
会社と云う概念が全然彼等の頭のなかに存在しなかった
経営者と云う資格が完全に欠落していたのである。
ただあるのは嫉妬のみの見下げた根性は人一倍あった。
日本タイプの取締役全員が会社は自分の物だと考えていたようである。
当時の経団連の会長が会社は従業員の物だといって、労働組合を納めてきたから、日本国中会社は従業員のためにあると言う考えが充満していた。
しかし会社の取締役全員が毎日会社で遊んでいたらどうなるのか。
当時の日本タイプの雰囲気はそんな感じであった。
日本タイプは資産特に、不動産の含み資産で、資産が圧縮されており再評価積立金が多大で、キャノンに売ったときの資本金が6億数千万円であるが、その三分の一が再評価積立金で賄い、残りの三分の二は株式の配当金(額面に対して1割)父の麻布の本邸の日本国えの売却金から充てていた。その株式が取締役の懐に入った訳である。濡れてで粟とはこの事である。
キャノンだけではない、お互いに父の資産を食い物にしただけで、会社に何の利益も与えなかったのである

当時の取締役全員は会社に対する背任横領罪を犯している。
しかも前に述べた様に、日本観光は子会社である日本タイプにたいして14万株の増資を割り当てており(全株式50万株の28%)、日本タイプの取締役即ち日本観光の取締役であるから、互いに相手の会社に対して
取締役として議決権を喪失しており、期中に取締役会でキャノンとの販売提携、
資本提携の決議をしたとしても無効である。
日本観光の株式は50万株のところ14万株を子会社日本タイプが取得していたからである。
しかもこの14万株をキャノンが桜井能唯に売却しているから、キャノンも日本タイプの
取締役の決議は無効である事を知っていたのである。
日本観光の代表取締役桜井能唯はこの違法で無効な取引で、日本観光の過半数の
株式を取得、株式をシュガーアイランド株式会社に、会社の土地に抵当権を付けて、
次の会社の後継者桜井宏明が貸付、その金を桜井能唯にが取得し結局は会社を倒産させたのである。
桜井能唯が会社を退任した翌日に上記のことを行なっている。
当時の取締役は弁谷貞造と坂上勝が会社の土地に抵当を付けることに賛同している。
シュガーアイランド自体もその時は倒産に瀕していたのである。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(31)再建整備計画(15)レミントン

2005年09月22日 10時18分27秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(8)私は先に日本タイプの取締役は日本レミントンの製品について全関心が無かったと言ったが。実は日本タイプの取締役は日本タイプの父の名義株を預かっていたが、いつかは自分の物とする事が出来ると計算していたが、日本レミントン・ランド株式会社の株式は彼等と全然関係が無くその相続が私に行く事になっていたのである。ここで柳田専務の馬鹿息子云々の発言があったのである。父ならば自分の息子に会社を継がせたいのは人の人情である。しかし日本タイプの取締役は自分名義の株式を自分の物とするため、あらゆる手段を弄したのである。自分の物とならないレミントンランド株式会社は知ったことかとそっぽを向いて知らん顔をしていたのである。アメリカのレミントンは1873年即明治5年に創業され、アメリカでの最初の英文タイプライターを製造していた。その後ライフルの銃身を製造し、スポーツ用のライフルも製造した。武器としての銃を製造しアメリカの陸海軍に供給する様になった。それ以前に農業機械の製造や、ミシンの製造にも進出していた。一方スペリーランドはジャイロスコープを製造していたが、第一次戦争では航空機部品の製造に進出し、第二次世界大戦時代には航空機や戦闘機の精密機械に進出、戦後はエレクロニクスやデジタルコンピューターに進出していた。昭和30年にはレミントンランドと合併、当時はレミントンはUNIVACではIBM押さえ世界をリードしていたが、IBMとはクロスライセンスを多く行なっている。RCAのコンピュター部門を買収し、IBM360と同等の機械を製造している。その後Burrogthと合併、ユニシスとなった。 レミントンランドは世界での最初のコンピュターを製造し、アメリカ本土では次々に官省庁や大会社に納入、日本において証券取引所や野村證券,官省庁、大会社に納入されれ行った。しかし日本タイプの取締役は前述のように,そっぽを向いていた。自分の物にならないものらな捨て於いて知らん顔をするのである。先のプログで述べた様に、七尾造機の財団の子供名義の預金でさえ、知らん顔をしていたのである。この仕事は吉沢審三郎氏であり、同氏が日本レミントンランドに取締役として来ても放り出す位冷酷無残な人間で溢れていたのである。このブログはユニシスのシステムである。


白雲楼、機運閣「日本タイプライター」(29)再建整備計画(13)三国工場の売却

2005年09月14日 10時13分30秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(6)昭和60年8月14日日本タイプ桜井繁雄社長は大阪三国工場の売却益で3億円の利益を上げたこと。同年7月19日取締役会でキャノン販売と提携、取締役桜井繁雄、監査役太田秀雄兄弟及び桜井清次桜井能唯の他二名の退職を発表、日本観光の全株式を同年7月22日売却したと株主総会の通知をだしている。期昭和59年6月1日から昭和60年5月31日の第126期は大阪駅前の中島機械株式会社の元工場後で7、689平方メートルの売却益38億円をいれても、実際上は赤字決算であった。それは第127期での決算で明らかである。投資証券売却益10億円を入れても当期損失は21億円に上がっている。毎期100億円以上売上していたものが、その半分以下になったから当然であるが、キャノンと提携といっても実際は売却であり、親会社である日本観光の取締役が全員退任、日本タイプの所有する日本観光株14万株を手放し、親会社の日本タイプの株式をキャノンに売却している。子会社が親会社の株式を28%所有することは、親会社である日本観光の日本タイプに対する議決権は失効することは商法の規定するところである。つまり昭和60年7月19日の日本タイプの取締役の決議は無効とゆうことになる。しかも同年7月22日の日本タイプの所持する日本観光の株式14万株を、日本観光名義となっいる日本タイプの株式と交換する形で桜井能唯の所有する百万石文化園の名義に変更することは、日本観光名義の日本タイプの株式をキャノンに売却することが出来ない事は上記日本タイプのキャノン販売提携の取締役決議の無効と同じく、無効になる。従って桜井能唯が日本観光の株式を過半数の25万5千株取得しえないことになる。従って、シュガーアイランドに売却は不可能である。日本観光が辨谷貞造を含め、取締役会でシュガーアイランドに売却の決議も無効である。父が昭和20年6月中島機械株式会社を合併し、日本レミントン・ランド株式会社を設立しコンピューターと日本の文字文化の融合を目指していたものを、会社を私物化し資産を横領する事は許されない。ブログの写真は桜井繁雄が日本タイプが崩壊寸前まで、会社の発展を放置し売上が下落しているにも関わらず、日本タイプビルを建てかえたビルである。1階はスーパーマーケットになっている。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(28)再建整備計画(12)日本レミントン

2005年09月13日 13時18分02秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(5)ノンホイマン式コンピュター第一号機が開発されたのは、1949年であり実用計算機もレミントンによって発売されている。日本の最初ノミントンのユーザーは東京証券取引所であり、ついで野村證券であり、本来なら日本タイプがその導入をする立場にあった。これは昭和28年頃であり、父もその将来性を考えて、証券などの印刷との融合を考えていた。しかし日本タイプの取締役は、父の子供に会社を渡してなるものかと、レミントンのコンピュターの導入に反対した。しかしコンピューターはその後どんどん日本の国鉄や諸官庁に導入され出したのである。ここで三井物産に戦前からレミントンのパンチカードシステムを扱っていた吉沢審三郎氏が日本レミントンに取締役とした入ってくるのである。しかし日本タイプの取締役達は皆反対し、同士を追い出してしまうのである。延命順作の発言である会社をぶっ潰すの言葉どうりいかにして会社を私物かし、会社を倒産させる事のみを考えて取締役達は仕事をしていた。従って日本文化の元である漢字のデジタル化については考えようとしなかたのである。日本タイプは戦前から漢字の電信化に成功しており、父はコンプーターとオフセット印刷の融合化を考えであたのである。これが証券業界のコンピュタ化につながるのである。しかし日本タイプの取締役は自分の会社に対する業務を怠り、資産の売り食いのみ考え会社を発展させる義務を放棄していたのである。このブログの写真はユニシスの日本語処理機である。