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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプの」(39)再建整備計画(23)日本レミントン

2005年10月18日 09時48分54秒 | 日本レミントンランド

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(16) ビル・ゲーツは当初インターネットがこんなに流行るとは夢にも考えなったらしい。事務機器と通信の融合は此処10年の間に急速に発展した。前のプログで述べた様に日本タイプは昭和11年に「印字電信装置」及び東洋文電送タイプライターの発信、受信装置のの特許を取得しており、今日のあるのをを予測していたのである。紙テープに鑽孔して、電送するシステムである。戦争に入ってからは戦前においてはタイプは小型化され、バッグの中に入れて運ばれた。戦後はテープ式自動モノタイプが日本タイプから出され,朝日新聞や大手印刷会社にに採用された。これによって文選の工程が機械化されたのである。この装置が電信に送られれば、新聞社での文選の作業を全社をとうして相当合理化されたのである。情報交換用の文字コードの体系は、昭和37年アメリカ規格協会で定められた。128文字のローマ字、数字、記号,制御コードで構成されている。日本ではカナ文字を収録したコード体系が「JIS X  0201」として規格化されている。漢字がコンピュターで扱えるようになったのは、昭和45年である。父がアメリカのレミントンランドとの合弁をかんがえたのは当初、オフセット印刷機であり、漢字とコンピュターの融合であった。パソコンとの融合はICの発達によりここ10年ぐらいの間で可能となり、インターネットの発達は目覚しいものがある。父はこの様な時代を想定して、日本レミントンランド株式会社を創立したわけである。プログの写真は戦場での和文タイプ


白雲楼、起雲閣「日本タイプの」38)再建整備計画(22)日本レミントン

2005年10月17日 15時42分20秒 | 日本レミントンランド

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本レミントンランド再考(15) 日本語のワープロ元年は昭和57年を言われる。その時日本タイプは何をしていたかと言えば、父が合併した大阪新幹線駅前の土地を丸紅に売りその金で本社ビルを建て替えていたのである。しかも売却益を入れても決算は赤字だった。この時期から急激に売上がダウンしたのである。アメリカでのワープロの概念は昭和40年頃からと云われる。英文は20数文字であり日本語は4万7千文字は最低必要とされる。東芝は昭和53年に630万で売りだした。昭和58には50万円になった。その後ICが開発されて、小型化が加速され、ウインドウズが開発されたが、此処10年くらいの間である。日本タイプの取締役等な何の努力もなしに、昭和60年にキャノンに会社を売却している、日本タイプは日本レミントンと言う会社があったのだから、お互いに協力しして日本語処理システムを考えていれば会社を売る必要はなかったのである。会社が父の子供のものになるからと結う考えでいたから、取締役で会社の資産を自分等で分け合う事に専念していたのである。私が仕事にアブレテ居た時、桜井繁雄の所に行き、仕事を頼んだが断られた経緯がある。その時かれは日本タイプの社長であった。岸信介氏のところに頼みに行ったころである。この頃は父の戸籍上の子供を相手に桜井能唯が訴訟を起していたときである。勿論この様な訴訟を起していることは私には知る由もない。貞造に相談したが桜井繁雄と同じく冷たくことわられてる。とにかくこの頃は彼等は即ち日本タイプや日本観光の取締役達は如何にして父の資産を自分の物とするかに全精力を挙げていたのである。このプログの写真は会社が赤字の時に建てかえた日本タイプビル