白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

磯野長蔵氏と父(2)

2006年12月03日 14時17分05秒 | 私の父

磯野長蔵氏と父(2)この写真は昭和14年6月3日の北陸毎日新聞の夕刊に乗った写真である。東京の十七日会のメンバーを金沢駅に父が迎えたときの写真である。十七日会のメンバーとは、大隈信常候、牧野良三氏、増田義一氏、松村昇氏、磯野長蔵氏、浜野茂氏三島良蔵氏の面々で、白雲楼に一泊の予定で來沢された時の写真である。 北陸毎日新聞は父の経営になる新聞で、昭和15年に北国新聞と対等合併したが、当時は未だ父が社主であった。この時期は丁度父が麻布広尾の土地を購入したばかりで、明治屋も父の隣地を購入明治屋の支店であったと思われる。 ただ子息の磯野計蔵氏がここに住まわれていたようである。磯野長蔵氏の自宅も割合近くにあった。  私が昭和33年日本タイプに居た頃、日本観光の副社長である加藤正男氏が5階の日本観光の事務所から2階の私の居る事務室に降りてこられ、私と良く話しをたものである。 加藤正男氏は大毎東日の外国通信部に以前は在籍されていた。ロンドン大学を卒業し、英国議会制度や国際事情に詳しく、大毎王国のお家騒動で会長や専務他多数の幹部が会社をかく首された事件があり昭和9年に日本タイプの社長秘書件調査部長として来られたのである。 一緒にこられた大毎の社会部長であった深江彦一氏は北陸毎日新聞の社長となられた。父が日本タイプ社内で、東亜政治経済調査会を立ち上げ、加藤氏を部長として迎えたのである。 終戦内閣に於いて国務大臣となった父の政務秘書官となったが、戦後は日本観光の副社長となられた。  加藤正男氏が私に話したことの中に、戦前や戦時中の食料の不足していたなかで、加藤氏が英国大使館やフランス大使館等に肉等を持参して大変喜ばれた話をされた。父や磯野良蔵氏の住まいであった広尾の周りは、大使館が軒並み並んでいた。 これで明治屋が父の隣に土地を買った理由が判る。外国大使館の職員に食料を供給する役割を、外国生活が長かった加藤正男氏を介して明治屋が行ったものである。

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磯野長蔵氏と父

2006年12月02日 12時33分02秒 | 私の父
磯野長蔵氏と父
昭和14年5月17日父は平沼亮三氏の友人中村房次郎氏等の斡旋により、港区麻布広尾町35番地の
5千坪の土地を取得、ここに本邸とした。
 それと期を同じくして、明治屋株式会社が父の土地の隣に広い土地を取得している。
明治屋の発祥地は横浜であり、磯野計氏により食料の輸入販売業として誕生した。
 横浜山手にビール醸造に適した水の出る場所があり、ここが麒麟麦酒発祥の地となったのであるが、
当初はジャパン・ブリュワリ株式会社で明治屋と一手販売契約をし、ビール、清涼飲料水も販売するようになり、麒麟麦酒の発展の基礎を築いた。
 横浜は日本開国の地であり、世界各国えの貿易の発祥の地となるとともに、大隈候改進党の発祥の
地ともなったのである。
 明治屋は父の同郷であった谷七太郎氏の生産していた北海道産葡萄酒の一手販売も行っていた。

明治屋の本社は日本タイプライターの近くの京橋にあり、目と鼻の先の近さであった。
当時北陽産業(白雲楼)本社はは、現在のブリジストンの隣であった。
当時の世界は戦雲の雲行きが近ずいており、何事も国家統制の時代になりつつあった。
 勿論食品業界も同様であり、日本の食糧事情は逼迫の状態に向っていたのである。

平沼亮三氏と父(2)

2006年11月28日 14時49分06秒 | 私の父
平沼亮三氏と父(2)
平沼亮三氏が日本タイプライターの社長をされていた時は玉川電気鉄道会社の社長を兼任されていた。
玉電としてよく知られており、渋谷から玉川まで開通していた軌道電鉄である。
二子玉川園を開設運営していた。
私の生母の家がこの近くにあり、一緒に遊びに来た事を覚えている。

昭和13年に東京横浜電鉄に合併されるのであるが、平沼亮三氏は」昭和6年より昭和13年まで社長をされていた。
 合併については玉電首脳部は反対して強固に抵抗していた。
しかし五島慶太による乗っ取りの意気込みが強く、玉電首脳部は平沼亮三氏や父に頼ってきたもので
流石の五島慶太氏も根を上げたらしい。

 父は服部金太郎氏とは親しくしていた様で、金太郎氏の母が父と同郷の能登町の出身であったことも
関係していたであろう。
 父の創立した白雲楼は昭和6年頃より、服部金太郎氏の白銀の別邸を譲り受けて開業したものである。
服部邸は高橋貞太郎氏の設計によるもので、金太郎氏は建て替えを考えていたが、古い建物が好きな
父は解体されるのを惜しみ、金太郎氏から譲りうけたものである。
 その建物を湯涌に移築して本館として営業を開始した。

服部金太郎氏と言えば東急の生みの親の会社である田園都市株式会社の、出資者であり従って
東京横浜電鉄の大株主であった。
 こうゆう関係で双方が納得ゆく条件で合併が合意されたものであろう。

 

平沼亮三氏と父

2006年11月17日 11時27分20秒 | 私の父
平沼亮三氏は父が昭和26年2月11日亡くなると、日本タイプで行われた会社社葬の
葬儀委員長をされた。
同氏は日本タイプライター株式会社の取締役会長、社長、相談役として父と生涯
の友人であった。
年齢も平沼氏が父より1年上であたが、昭和34年79歳までご健在であり、横浜市長
の現役のまま逝去されたのである。
 大仏次郎氏の評「人柄もスマートで、フエアーなひとでした。政治も運動の精神から
学んだものでしょうか,公正で非のうちどころのない人でした。いまになってみれば私は
野球を通じて平沼さんを知りその立派な人柄に敬意を表しています。」
父もこういった平沼氏と生涯交際が深かったのであろう。
 父が亡くなってからも奥のとの弁や家には、毎年年賀状が届いていた。
何故か毎度年1月の10日前後に届くので、私がその年賀を見る事が出来たものである。
毎年何百枚と年賀が着ていたが私には隠されていた。
しかし私は平沼亮三氏からの年賀だけは見る機会をえたものである。
 小泉信三氏評「平沼亮三氏はどんな年の人でも対等に友人付き合いをした人だ。
まじめな反面軽妙,洒脱な座談の名手であった。」
 私が日本タイプに居た昭和33年頃、平沼亮三氏が私の働いているところに来られ
私が席を離れた時、私に丁寧に挨拶をされ、何か聞かれた事があった。
私が席に戻ってもジーとその場所を離れず、私の方を見ていられたのである。
平沼亮三氏は喉を患っていられて余り声が出なかったので、カスレタ声で話された事を
覚えている。
その内本間社長が上から降りてきて、平沼氏を連れ去ろうとしたが、同氏が動かないので
声を大きくして、同氏を連れ去ったのである。
 後で私の直属の上司であった後の逸見監査役が、私に向ってなんで清瀬衆議院議長が
来たのだろうと私に問いかけたものである。
 私の反応を試すため幹部から言われたのであろう。
平沼亮三氏の生い立ち記で「大体横浜といううところは早稲田の土地で改進党から進歩党にはいり
市会の副議長をしていた父なども、島田党「島田三郎」の旗頭で、昔大隈公の処に度々
行ったものである」と書いておられる。
 大隈公の立憲民生党の発祥地は横浜で、横浜から関東一円に大隈民権が広がった
と言うことで、父は横浜財界、政界との繋がりが深かったのである。
この写真は平沼亮三氏が昭和34年2月13日なくなられる3年前の第10回国民体育大会
開会式の聖火の最終ランナーの時の映像である。

加賀正太郎氏と父

2006年11月02日 14時27分30秒 | 私の父
この写真は加賀正太郎氏が大正6年に白雲楼と名付けた山荘で、京都の大崎山に建築した一階ロビーから階段を写したものである。
この建物は熱海起雲閣の別館に非常によく似ている。
玄関から入ったロビーの二階えの階段の形が非常に似ている。
今はその存在を知る人が、少なくなったかって存在した熱海起雲閣別館の
階段の幅はもう少し広くて、もう少し長く且つ少し急な階段であた。
しかし建物の気品がそっくり熱海起雲閣の別館ににている。
加賀正太郎氏と父の接点は、日本タイプの重役であった星野行則氏である。
同氏は大阪クラブの常任理事であり、広岡商店の重役であった。
広岡久衛門氏は加賀正太郎氏と茨城カンツリークラブを創立、星野氏は広岡商店
の銀行、信託、生命保険の総支配人であった。
広岡系の銀行、信託は野村系に合併され、加賀正太郎氏は証券業を営み、戦後
三菱証券に吸収されている。
この様な関係で父とも親しく、且つ日本タイプの株主でもあった。
戦後札幌から東京に工場が来た際、父が買収していた現在の六本木ヒルズの跡地
にニッカウイスキーの工場が出来たのである。