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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

母の8周忌(2)

2008年03月15日 18時33分23秒 | 私の母

私が何故東芝の子会社の東京電気において、こうも虐待を受ける原因は私の父の会社日本タイプライターの特許にあったのである。東京電気と日本タイプライターが共同して郵政省向けATMを開発したことは以前のブログでも書いた。これは通信と日本語処理の問題で、日本タイプは特許を持っていたのである。日本タイプライターは戦時中、日本軍の宣戦拡大につれてその情報通信のノウハウがあり、国と一丸になって情報収集をおこなっていたのである。それに伴う機器の開発を東芝等大企業と行っていたからである。私から父のすべてを奪うため、私の預けられた家の一族が裏で工作をしていたからである。 私が神戸に飛ばされてから2年後の昭和55年には東京電気を辞めざるを得なくされたのであるが、其の前の昭和52年に、そのころ終戦内閣の鈴木貫太郎首相の子息である鈴木一氏に、当時東京穀物取引所の理事長であった同氏を訪ねたのである。私は母の写真を示し、迫水万亀女史に紹介してもらいたいと話に行ったのである。私は写真を示しこれが私の母であるから、迫水女史ならよくご存じだと思うと話をしたのである。同氏は私の話を聞いて、こんな証拠があるなら行って会ったら良いと話されたのだある。私は父が岡田啓介氏らと軍服を着て五~六人で写真に写っているのを見たことがある。この写真の年老いた軍服を着た人々の中に、若き日の藤山愛一郎氏(日本NCRの創立者)の姿が映されていた。この写真は東条内閣打倒の会合の時の写真である。父も軍服をきて、皆真黒な顔をしていた。岡田啓介氏の長女が迫水万亀氏であり、鈴木貫太郎一家とは親戚関係であったのである。父は終戦内閣の閣僚であり、岡田啓介内閣の時は拓務次官であった。岡田啓介総理の秘書官福田耕氏が日本タイプの社長をしていたというう関係もあったのである。


私の母の8周忌 私の祖母と康楽寺

2008年03月10日 12時15分24秒 | 私の母

私の母が亡くなってからもう8年になる。 毎年12月20日になると三条西家のお墓に参りに行くが、墓石には母の死亡の銘が彫ってない。つまり墓に入れさせてもらえないのであろう.これが華族の仕来りなのであろう。母の魂は何処かにさ迷っているのではと思う。 三条西公正氏と母が海外に日本の香道を広めるため、昭和38年4月27日外務省文化局から香道紹介のため欧米各国で実演を行うため派遣されて、米国、ヨーロッパを回ったことがあり、外務省にその記事や写真等を公開することを申請したことがあった。平成18年3月7日のことである。窓口の担当官は何故か入れ替わり立代わり数人の人が私の前に現れた色々質問をした。 最後に現れた者がシツコク胡散臭げに質問をしてきた。 その記録なら残っているでしょうという人も居れば、最後に現れた者は言うには、どこで其の事をしったのかとか、何か目つきの悪い担当官が私の手帳の覗き込んで、内容を確認者した。随分失礼な奴と思ったが手帳の記録を見せると、覗き込み確認していた。何故このように外務省の公開受付の担当者が入れ替わり立ち代り現れ、しつこく質問する権利が彼らにあるのであろうか。 なんだか気持ちの悪い感じがした。つまり私の母に関する記事を公表しないのではないかという気がした。 1月後やはり外務省からは文章が無いとの通知が来た。しかも外務大臣に異議申し立てが出来ると文末に書いてあった。無いのもはいくら異議申し立てしても無駄であろう。しかし異議申し立てが出来るとあるのは、やはり記録があり、外務大臣が不許可としたのであろうか?当時の外務大臣は麻生氏であった。麻生氏といえば、母とも遠い縁戚かんけいがあり、父の会社の日本レミントン会社の取締役が加納久朗氏であり、同氏の仲人で麻生太郎氏の父と吉田茂氏の長女が結婚して麻生太郎氏が生まれたのである。私はそれ以前外務省に父がビルマから仏舎利を寄贈を受け、康楽寺を建設する公文書を開示請求したことがあったが、梨のつぶてで何の返事も無かった。父の麻布の土地についても現在ドイツ大使館になっているが、父は康楽寺に寄付したのである。吉田茂氏が当時外務大臣兼任であり、アデナウアー首相より、駐日大使館の敷地の取得の要請をうけていた。当時は連合軍が適性財産であるドイツ大使館の敷地を没収しており、その敷地として国会図書館とすることに国会で決まったのである。私はこのことに関連して関係省庁に公文書を請求していた。 私の名前が外務省では要注意人物の為った居たのかもしれない。 戦時中私の父の提案で外務から

、大東亜省が新たに設置され、外務省から分割されようとしていたが外務省の反対で、結局名前だけの省となったのである。しかしこの大東亜省の御かげでビルマやインドなどが独立国家となった。 母はこの頃は宮中で女官として皇后さまの身の回りの世話をしていたのである。三条西氏は皇后様の妹君が妻であった。母は四条姓であり、父と母は別れたのである。母と三条西しが結婚したのは、戦後のことであり、同氏の妻がなくなったあとである。  私の祖母は私の母のことを、父の妻に遠慮して表に、出てこなといって嘆いていた。それで私を残してよく我慢しているとも言ったものである。そのころの写真で私と母のなんともいえない悲しい顔をした二人の写真があった。私はハンチング帽子を被り得意げな顔をしており、母は私の横で悲しみに打ちひしがれて様子であった。父と別れ私と別れる最後のショットであったのである。 大分以前のNHKのドラマで終戦時の皇居内で、戦争を終結しょうとする天皇の詔勅のレコードを奪回しようとする反乱軍が、皇居内に押し寄せ、当時女官であった母のもとにも押し寄せてきたのである。母の名前は四条の宮であり、夫は海軍少将であった。もう一人の女官も夫は陸軍中将であったようである。之は物語の中での設定であったが、かなり史実に照らして作成されていた。私はこのテレビを見ながら母の役割を知ったのである。 この女官等によって天皇の詔勅のレコードが反乱軍に奪われずに済み、天皇陛下の終戦の詔勅の放送が行われた。


私の流転したサラリーマン時代(6)慶応大学工学部

2006年03月17日 11時22分30秒 | 私の母
私が昭和35年3月に私の父の創立した日本タイプを辞めて、当時日本タイプの重役として名を連ねていた比留間安治氏に手紙を書いて、父桜井兵五郎の事を知りたいので伺いたいと手紙をだした。当時は私は金沢市郊外の白雲楼ホテルの上に在る「康楽寺」に帰ってきていた。当時は未だ康楽寺の前は空き地になっており、後年江戸村が出来てくるにはまだまだ10年後のことである。当時は弁やハシや貞造がここを住まいとしていた。私は金沢市内に良く出かけ、図書館で父の事を調べたり、北国新聞社に出かけ、父の資料を探しにいった。北国新聞は父がかって経営していた北陸毎日新聞と昭和15年対等合併したもので、父の資本が半数入っていた。しかし新聞社の人は父の写真一枚のみ見せただけであった。私は当時は無職であり就職の世話を頼むつもりで比留間氏のところにいったのである。東中野駅前の広大な屋敷であった。私は比留間氏とは初対面であった。私が比留間邸を尋ねたとき、玄関に入る手前の応接間の窓が開けられていて、白髪の老人が此方を見ていた。この人は来客である。比留間氏によるとその人は王子製紙の社長であると私に後で話した。私が玄関で案内を請うと別室に案内され暫く待たされた。比留間氏に会うと父の事を聞きたいと話したが、その時若い青年が入ってきて、彼も父の事を尋ねて来たと言うのである。彼の父はこの大戦で戦死したのでそのことを聞きに来たらしい。結局邪魔者が入ってきた為、私は父の話や職の話も出来ずに終わってしまった。当時は日本タイプを辞めた後であったが、日本タイプの重役の一人であった桜井清次のガレージを改造したシモタヤに住んでいた。私が比留間氏宅から帰ってくると、彼が失業保険を貰えるからその手続をしろと言ううのである。私は失業保険なんて存在することを始めて知ったのである。桜井清次は私の戸籍上の母の弟であり、倒産した日本観光の社長、会長でもあった。慶応大学の近くの職業安定所で失業保険の手続きを終わると、慶応大学の事務員としての求人があり、それに応募したところ、当時は小金井市あった慶応大学工学部の事務員として採用されたのである。それと同時に桜井清次宅より退去を求められた。そこで弁や貞造の嫁の柏家が天理教の熱烈な信者で、神宮前の大きな教会に紹介されそこに下宿する事となった。その教会は柏木庫治といって参議院議員をしたこともある人物で、その息子は中曽根元総理の同級生であった。この柏木氏の紹介で弁や貞造は柏智子なる嫁を紹介され結婚したのである。この教会から小金井市の慶応大学工学部の事務員としての生活が始まった。しかし一年半ほどで辞めてしまったのである。その理由はいろいろあるが、当時のことで忘れられない出来事があった。入って一年程してからの事であるが、事務員が集まって誰かの噂さ話をしていた。私は昼時間であったので外に出て日光浴をしていた。皆が台所の様なところで話をしていたので、その話が自然と耳にはってきたが、の内容は次の如くであった。その話の主役をしていた後に慶応大学塾長の秘書課長となった人であるが、彼の話の内容は「だから皇太子とはいとこ同士になり三井高陽氏ともそうであり、母親の父も大臣であった」という様な内容であった。私がそこに行くと皆一斉に顔を見合わせビックリした様子で、押し黙ったものであった。私は誰の話をしているのかを聞くと、誰も口を閉ざして一言も発しなかった。私は奇異な雰囲気の中皆の顔を見ていると、その部屋から皆居なくなってしまったのである。これは私の母三条西治子のことを話しているのを知ったのはズット後年になって、母を事を少しづつ思い出し手からのことである

私の祖母 桜井トキ

2006年02月16日 09時31分01秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

桜井トキは私の祖母である。嘉永6年生まれで、明治4年9月桜井源次と結婚する。昭和15年父の戸籍から分家届けをする。
何故分家したかは父の死後を考えてからである。
先ず弁谷ハシの弟橋本清次を桜井トキの養子とする。この桜井清次が父をあとを継ぎ、日本観光株式会社の社長になる。
次いで二条知子が昭和15年に桜井トキの養女となる。二条公爵家の分家で、母方は金澤の加賀百万石の家老だあった、横山章氏である。同氏は金澤の財界を支配していたが、昭和初年の日本経済の破綻で財を殆ど失った。氏の主たる現存する会社は旧三和銀行の子会社石川銀行である。この銀行は平成のバブル崩壊で、債務が過大となり破綻、日本観光の起雲閣に十数億貸付、日本観光を、親会社の三和銀行が破産申し立てをし、日本観光を破産手続きに追い込み、起雲閣を12億で熱海市に売り、抵当順位を石川銀行に三和が譲り、石川銀行が12億円の返済を受けたが、上記の様に破綻し国有となった。その三和銀行側の代理人が、今度弁谷ハシの遺産審判の金澤家裁の弁谷貞造の代理人である。私の父が昭和初年横山章氏の会社破綻の際、その肩代わりをし、横山家の財産を取得したのである。
三和銀行が父の財産の管理会社であるので、三和銀行が石川銀行の親会社となったのである。三和銀行が起雲閣の一番抵当権を石川銀行に譲渡したのには、このような事情があったのである。 桜井トキの三番目の養女は、日本タイプライターの社長の妻である和子が昭和18年に入籍し、太田繁雄が入夫となった。四番目の桜井トキの養女は、弁谷ハシの妹の貞子であり、この人の入夫となったのは、日本観光を倒産に追い込んだ桜井能唯である。もう一人幸子がいるが、父の会社とは関係していない。
私の祖母桜井トキは昭和19年弁谷ハシの弟桜井清次に家督を譲り、父の戸籍に戻っている。このようにして父は自分の死後を考えて、私の親子確認の裁判をお越し、私を相続人にすると、戦後3人の他人の子供を認知している。私の戸籍は父がかって、松平家の養子の戸籍があったので、そこに入籍したのである。弁谷栄が戸籍が汚れるからと反対に、戸籍訂正に応じなかったので、父は除籍簿の中に入れたのである。 私は祖母が父の子がいないことを嘆いて、父に懇願して私が生まれたといつも私が祖母に会うたび私に言い聞かせていた。祖母は自分が弁谷ハシに育ててもらうようしたとも、話していた。またその時貞造は元気にしているかと祖母はハシに聞いたものである。祖母が言うには祖母と私がこの様に会えるのは、貞造のお陰だとハシに言い含めていた。というのは弁谷家ではハシの子が3人も生まれては直ぐ死んでいたので、弁谷栄が外で女を作り、貞造が生まれた事を言を言っているのである
祖母は昔の儒教の教育を受けた人であるので、私と祖母がいつも会って幸せにしている事を気にしていたのである。ハシはあの子も母と時々会っていると祖母に話していた。弁谷ハシは生まれる子が全部死んでしまうので、離縁の話がでていた。そこでハシは父を頼り、白雲楼の支配人にしてもらっていたのである。そこで弁谷昌造が生まれ、弁谷家では離縁するなら昌造を弁谷家の返す話しとなっていたらしい。そこ頃私が父と四条治子の間に生まれ、弁谷ハシが私を育てる事になっていた。ところが弁谷ハシは自分の最初の子である弁谷昌造を手放せなくて、弁谷家に私を連れて帰ることになったのである。勿論私は預かった子ととして入籍することは、弁や家との了解がついていた。当時は弁谷栄が戸主ではなく、その父親である弁谷謙蔵が戸主であったので、謙蔵の了解をえていた。勿論栄も了承していたと思われる。
従って今度の金澤家裁の弁谷はしの遺産相続権は私も貞造も無いのである。しかし私が父を相続するようになっていたので、弁谷家にはそれを証する書類があったので、それを弁谷ハシと貞造が共謀私から白紙委任状と実印を騙し取って自分のものとしたのである。 この写真は昭和19年仏舎利法要の式典に祖母が柳田村から
金澤の康楽寺に出てきた時のもので、祖母は90歳であったと思う。
一番手前の人である。私の母三条西治子の思い出http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-12


三条西治子 私の母 私の学生時代(3)

2006年02月15日 09時41分45秒 | 私の母

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私の大学時代学校の図書館で、私の母である三條西治子と出会った不思議な出来事を話した。次に山階芳麿氏との出会いを話した。これは私の母が私との親子の名乗りをあげたいという願いに対して、弁谷ハシがとった方法である。私の反応を知るため誰か観察人をおいて私と母の出会いを計画したのである。こうゆう事があることを予期して、鼻の手術を受けさせ脳を破壊したのである。であるから弁谷ハシは私が記憶喪失にあることをしっており、私が母を思い出すことがないことに自信があったのである。また私が小さいときから弁谷栄に頭を叩かれ続けられ、学校では精神薄弱児と先生より思われていた。弁谷栄が私の頭を色々な物で殴る時はお前が悪いのではない、お前の頭が悪いのだと言っていた。しかし中学3年頃より頭は回復傾向にあり、高校に入ってから頭が陥没してきたのである。頭に溜まっていた血が流失したので起こったのであろう。頭を叩かれ脊髄湾曲症になったこともあったのは既に述べた。しかし高校2年の鼻の手術の際の頭蓋骨の強打は酷い衝撃を与え、私の精神構造を完璧に破壊したのである。 私が大学の図書館であった3人は、三條西夫妻と久邇氏であった。久邇氏は皇后陛下の甥であり、私の母は皇后陛下の妹の後添えである。つまり三條西信子様の跡を継いでいたのである。久邇氏はまだ若く、堂々とした体格と威厳があった。私は大学卒業後は大阪の貿易商社に行きたかったが、弁谷ハシは学校に話して就職の世話をしてもらえなかった。学校側は就職先があるなら学校の就職を遠慮するように言われた。 私はハシの弟が取締役をしている日本タイプに入れといううのである。当時は就職難で結局日本タイプに入ることになった。私は過去を忘れていうから、父の会社といううことは全く頭になかった。ハシの弟の桜井清次の会社というう概念であった。私が父のことを思い出すのは、日本タイプに入って2年目ぐらいであったろう。そこでハシに、父の遺言状が必ずある筈であるから、それを見せて欲しいと言うと桜井清次と相談してくるから、としたが相談後遺言書にはお前の名前は出てこない。皆他人のことばかりで会社が倒産したらどうしろ、こうしろと書いてあだけである、といううことだった。その後日本タイプを辞め、桜井清次のガレージを改造した部屋から追放される。 それまでに色々なことがあったが、久邇氏の家が近くにあり、時々桜井清次の処に来ていたようである。つまり私と母のことである。私が母のことを忘れているので、会わせて欲しいと頼みにきたようである。清次の妻が話していた内容からその様な事であったと思う。清次の妻が久邇さんが度々見えたと話すと、清次はあの人には何回も駄目だと言ってあるのに、と怒った口調で妻に話していた。何故私の前で話したかと言えば、久邇氏が私と会っていないか確かめたかったからであろう。 その後清次の後見人である堤康次郎氏が久邇カントリークラブを作り、久邇さんのご機嫌をとったのであろう。

私と母の別れの言葉http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-03-13