財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
日本レミントンランド再考(7)之までも述べたように、日本レミントンは契約上は20年の期間があり、英文タイプライターその他の事務機器の製造、販売であり、会計機や計算機、書類のファイル用機器を日本国内の製造、販売の独占権を有していた訳である。事務機器の将来について日本タイプの取締役連中は、なんの見通しも持っていなかった。私が日本タイプに入社した当時は、日本では会計簿記の機械や計算機を製造販売しているところは一社も無かったのである。日本タイプはこれ等の製品に一顧だにせず、日本レミントンをタイプビルより追い出したのである。その間に三井物産と東芝がレミントン・ユニパックと日本ユニパック株式会社を設立したが、昭和45年まで日本タイプとの契約があるため、正式なものでは無かった。そのうち東芝がアメリカのGEとの関係で、レミントンとGEは競合関係なのでレミントン・ユニパックから脱落したのである。IBMが猛烈にレミントンを追撃し日本市場においても、先頭に立っていた。事務機としての日本市場に於ける日本タイプの力には、三井物産は到底及ばなかった。しかし肝心の日本タイプの取締役は、今の地位に連綿として進歩性が無かったのである。しかし日本タイプは先進的技術を有しており、茨城に大工場を建て日本ビクターに工場をレンタルしていたのである。日本タイプは戦前より光の先進的技術を研究しており、その技術を応用したものである。キャノンが日本タイプを濡れ手で粟で入手したのも、この茨城工場の魅力である。現に日本タイプがなくなり、キャノン・セミコンダクターとなったのも日本タイプの技術があってからのためである。技術が実用化されるまでには延々たる年数が必要であるが、基本となる技術の特許が最後にものを言うのである。この技術が日本タイプにあったのである。単なるタイプライター屋では無かったのである。この小型和文タイプは柳田良作氏の発案により政策、販売されたが、時代は変わりつつあった。