財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
昭和51年東京地裁(ワ)第6758号「所有権移転登記請求権で」父の戸籍上の妻子に対する父名義の金澤市湯涌町の土地に対する、原告側の証言として昭和54年10月24日弁谷貞造が証言を行なっている。前回は太田秀雄が父の個人の寺の父名義等の土地について証言をおこなっているが、今回は弁谷貞造が実際の担当者として証言を行なっている。彼の証言によれば昭和29年に前任者村上武雄から引き継いだとしている。弁谷貞造によれば昭和29年7月に日本観光に入社し、村上武雄は同年1月に日本観光を退社したとある。しかし実際は弁谷貞造は昭和23,4年頃より父が亡くなったあとも鎌倉の父の別邸に居住していて日本観光の桜井清次社長の秘書をしていたのである。昭和29年1月12日弁谷栄が死亡すると急遽上戸村に帰り、弁谷栄の相続に一生懸命だった。私には何の一言の相談もなく、弁谷ハシ,昌造の3人で秘密裏に事を進め相続の手続きをした。私はこの時は金澤の病院で脳天を強打され、記憶喪失に彼らの姦計に陥っていたから、私は埒外に置かれていた。弁谷貞造は弁谷栄の飯田郵便局長を引き継ぎ、特定局制が廃止される手続きが終わるまで相続の手付が完了した昭和29年にまた日本観光に戻ったのである。これには弁谷栄が書いた康楽寺の本殿の計画がなかったとした弁谷栄が書いた本証言の偽造文書書が、弁谷貞造に引き継がれる必要があったのである。父の名義の土地についての後処理が弁谷栄より残されていたからである。というのは康楽寺の土地問題だけでなく、白雲楼が戦後アメリカの第 8軍の保養所となっていたのであるが、米軍の施設のため接取された土地の保証問題が残っていたのである。農地補償の問題は昭和30年頃法律となり施工されたが、米軍に接収された付近の農民に父の交換の土地が彼等に与えられていたが農民の補償の問題があり、その問題がのこっていたのである。弁谷貞造は証言ではこの問題に触れず、父の相続人である裁判認知された吉田某が反対したため今日まで未登記になっていたとしている。この近隣の百姓の土地の問題と一緒に提起したことは、素人でなかなか考えつかないととである。これは土地の専門家か土地問題の裏の裏まで熟知している者が密かに指導してきたからであろう。私は小さい頃より白雲楼で生活していたが、父が大勢の人々と康楽寺の土地のことで集まって康楽寺の山にいくのを知っている。この中には土地の関係者や不動産業者や法律専門家等が数十人の人達がいた。その中に弁谷栄がいたので、いつも何かと言えば私の頭を殴りつけていたので、私は彼の顔を見るといつもの様な恐怖感が顔面をひきつらせていた。その時父が私の見て多数の人前も憚らず、立ち止まって私を見つめたまま数分動かなかったのである。勿論他の大勢の人も一緒に立ち止まったまま動く事が出来なかったのであった。数十人の人の中に堤康次郎氏も居たと思われる。このような工作を考えることは弁谷栄の頭では不可能である。前のブログでわたくしの父が堤義明の義をとって、義貞、義昌、義拓と云う名前を付けた改名文章を送ってきた事があった事を話した。弁谷貞造が堤義明と連絡をし土地の処理をしてきたのである。このような広大な土地は日本観光の取締役の力の及ぶところではない。このブログの写真は日本観光の株主総会のおりのもので、日本観光の株主総会は日本タイプライターの一室で行なわれていた。日本観光の株主は太田秀雄によって、父の名義株の所有者から名義を買い取られていたのである。株主総会の株主は日本タイプの社員が殆どで、太田秀雄の弟の日本タイプの社長桜井繁雄が指名して株主として日本観光の株主として出席させていた。勿論日本タイプライターの社長桜井繁雄も株主として出席していた。その他は父の戸籍上の妻子とそれが連れてきた総会屋ばかりである。日本タイプの親会社がこの有様であるから、日本タイプの社員に与える影響は計りしれず、日本観光の役員つまり日本タイプの経営者のモラルの破壊はかなり進んでいた。昭和48年日本観光は子会社日本タイプライターに対して14万株の第三者割り当てを行なっていた。
日本観光の発行株式の28%に当たるもので、商法では禁止されている事である。
それを平気で行なっている。この写真はその時の日本観光の株主総会の日本観光の役員のもので、左から桜井能唯、桜井清次弁谷貞造の面々で、貞造は常務取締役総務部長である。総会の元締めである。弁谷貞造は総会屋に百万単位の金を支払っていた。