goo blog サービス終了のお知らせ 

白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(20)再建整備計画(4)三菱銀行

2005年08月29日 10時45分30秒 | 三菱

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

日本タイプの崩壊(20)日本タイプライター株式会社の再建整備計画(4) 父が戦犯容疑の解消、日本タイプの労働争議、及び日本タイプの再建整備計画完了までに、父の各関係会社の再建整備計画が山ほどあった。安宅産業と組んで立ち上げた東邦亜鉛株式会社、オリンパス株式会社、藤田観光株式会社等多数の関連会社があった昭和25年4月には父の念願であった康楽寺の本殿建設に取り掛かることと成った。しかし私が未だ中学3年であったので、金澤の高校に入ってから着工する計画であった。こらが決まったのが昭和25年10月ごろであった。当時白雲楼は日本国の管理から日本観光に経営が戻されることとなったのである。アメリカ第7軍の保養施設から管理が日本観光にもどったのである。父は日本タイプライター株式会社の代表取締役社長であった。昭和20年に中島機械株式会社を合併、200万の増資をして大阪の駅前の大工場等3工場を取得した。資本金が2700万円となたが、戦争での海外資産の喪失等特損9000万を補填するため、資本金9割削減、旧債権4割切り捨て、その保証をするため資本金を4千万円に増資したのである。新株主は父が10万株、北陽土地産業5万株、七尾造機、日本観光が各3万株、北振化学工業2万株、三和銀行、富士銀行が併せて5万7千株、あと重役4人名義で8万株であった。其の他前社長名義で5万3千株があり、他の名義株を併せると父の支配する株式は過半数を超えていた。取引銀行は三和銀行である。それにこの年の暮れに外資第一号と言われたアメリカとの合弁会社レミントン・ランド株式会社が立ち上がっていた。日本観光株式会社は父一人の会社であったが、康楽寺を将来建設する為その信者として百数十名に名義株を与えていた。実質の所有者は父一人であった。この様な株式構成であるから、日本タイプライター株式会社は日本観光株式会社の子会社であった。日本タイプライターの株主として七尾造機株式会社がある。昭和20年4月三菱重工業の七尾造船所として七尾造機株式会社がなるのである。この時は日本の敗戦がまじかであり、日本の復興に造船は必要であったが、石川県の地方として将来性は見えていた。そこで父は戦後を考えて、鉄道の枕木の鋼製の製品化を考え研究させていたのである。父の会社七尾造機株式会社を工場財団として、三菱重工業に賃貸した。案の定戦後は船舶の受注は無くなり、七尾造機株式会社の施設でピーエスコンクリートの研究が始められ、セメントの中にピアノ線を入れたピーエス・コンクリートが完成したのである。このピーエス・コンクリートは父の生涯の祈願であった康楽寺本殿の施工にも大変有用な資材であった。 康楽寺は白雲楼の上の小高い山を開き、谷を埋めビルマ式パゴダを建設、その周りには池を掘り、康楽寺正門から橋を渡って本堂に行けるように設計されている。その建築にはどうしてもピーエス・コンクリートが必要であった。従来の単に鋼製では出来ない細かなしかも頑丈な建物、橋梁、水道の橋等に利用できた。しかも戦後不足していた鉄鋼を補いあまりあるものであった。この工業権を含めた工場施設を提供していたが父の会社七尾造機株式会社である。これにより全国にピーエス・コンクリートの会社が出来たのである。その第一号が株式会社ピーエス三菱である。プログの写真は七尾造機株式会社のピーエス・コンクリートの工場施設である。


白雲楼、起雲閣「日本タイプライター」(10)宮本画伯の「日本の四季」

2005年07月21日 10時38分10秒 | 三菱

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

先のブログで弁谷貞造の妻は川崎財閥の川崎八郎右衛門の秘書をしていたことを話した。弁谷貞造とは昭和30年に白雲楼で結婚式を挙げた。私は何も白雲楼で結婚式を挙げることもあるまいと思った。まるで白雲楼の所有者の様な態度であった。弁谷貞造を含めハシ、昌造がそんな顔をしていた。この時から弁谷貞造の白雲楼の乗っ取りが始まっていたのだ。後年私が上京して桜井清次のガレージを改造したジメジメしたところに日本タイプに通勤するため下宿していた。この家は父の麻布本邸を売却して買ったもので、いわば父の家である。西武の堤康次郎の斡旋でドイツ大使館に売却したもので、弁谷昌造はここに住所を移し私に成りすましていたのである。私は17歳の時金澤国立第一病院で頭脳を破壊された為、記憶を喪失しており、ただ生きている植物人間のようであった。弁谷貞造の妻の実家が割合近くにあり、ジメジメした部屋に居るより川崎八郎右衛門の秘書をしており、川崎財閥の一部門の東京倉庫の社長をしていた柏正巳氏をよく訪ねた。氏は中風で寝た儘であったが、私が行くとよく話をしたものである。氏は私の父である桜井兵五郎の事を話した折、今回の結婚のことで三井家(三井南家)や徳川宗家及び住友家より挨拶に見えたと大変恐縮していた。私にとってこんなことは初めてだと驚き半分、喜び半分の状態であった。弁谷貞造のところに川崎閥の番頭が嫁にいったのに大げさな話と当時は思った。しかし弁谷貞造が私に成りすまして結婚すれば当然ありえたことである。川崎財閥は金融資本が主体で三菱に合併されたが、東京倉庫、足利銀行、東陽銀行等川崎定徳会の系列は残っていた。今回日本観光の社長として乗り込み日本観光の土地に抵当権をつけて、その金で日本観光の株式を買い取ったシュガーアイランドの社長佐藤充男は北関東リースを主たる資金源にしており北関東リースは足利銀行の子会社である。ここで川崎財閥の番頭を嫁に貰った弁谷貞造のシュガーアイランドとの提携の魂胆がみえてくる。足利銀行は債務超過で一時国有化され、足利銀行と北関東リース会社はホールデイング会社足銀ホールヂング会社となった。シュガーアイランドは日本観光の不動産に60億の抵当権を設定、桜井能唯の株式を買ったが60億の返済能力もなく、日本観光を倒産に追い込み、尚シュガーランドはときの中曽根内閣のリゾート法に乗ってあちこちにゴルフ場やリゾートをつくり500億の負債で平成7年に倒産した。これには弁谷貞造の胸算用がああった。それは私の父が川崎八郎右衛門と組んだ仕事の康楽寺の建設費用の三菱信託等にある父の康楽寺建設基金を充当することで解決出切ると考えていたからである。彼は私に成りすまし、私から白紙委任状を弁谷ハシがとっており、彼の親戚はいまを時めく小泉首相の派閥の親分であるからである。金融庁が税金を足利銀行に注入したが、私の父の康楽寺建設基金が担保となり、弁谷貞造は大金持ちになれるのである。この行為は詐欺行為であり、横領行為である。また日本観光や日本タイプの資産に損害を加える場合、之まで述べ通り不正の請託を受けた場合に相当し、会社が解散しなくてはならない原因が取締役の業務上の横領、特別背任、詐欺にあたることは本ブログで述べてきた通りである。。日本タイプと日本観光は一体となって、業務発展を図り康楽寺の本殿の建築の義務(業務)を遂行しなければならばならない義務があるからであるこの写真は宮本三郎画伯の日本の四季のうち鵜飼である。