財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
日本タイプの崩壊(20)日本タイプライター株式会社の再建整備計画(4) 父が戦犯容疑の解消、日本タイプの労働争議、及び日本タイプの再建整備計画完了までに、父の各関係会社の再建整備計画が山ほどあった。安宅産業と組んで立ち上げた東邦亜鉛株式会社、オリンパス株式会社、藤田観光株式会社等多数の関連会社があった。昭和25年4月には父の念願であった康楽寺の本殿建設に取り掛かることと成った。しかし私が未だ中学3年であったので、金澤の高校に入ってから着工する計画であった。こらが決まったのが昭和25年10月ごろであった。当時白雲楼は日本国の管理から日本観光に経営が戻されることとなったのである。アメリカ第7軍の保養施設から管理が日本観光にもどったのである。父は日本タイプライター株式会社の代表取締役社長であった。昭和20年に中島機械株式会社を合併、200万の増資をして大阪の駅前の大工場等3工場を取得した。資本金が2700万円となたが、戦争での海外資産の喪失等特損9000万を補填するため、資本金9割削減、旧債権4割切り捨て、その保証をするため資本金を4千万円に増資したのである。新株主は父が10万株、北陽土地産業5万株、七尾造機、日本観光が各3万株、北振化学工業2万株、三和銀行、富士銀行が併せて5万7千株、あと重役4人名義で8万株であった。其の他前社長名義で5万3千株があり、他の名義株を併せると父の支配する株式は過半数を超えていた。取引銀行は三和銀行である。それにこの年の暮れに外資第一号と言われたアメリカとの合弁会社レミントン・ランド株式会社が立ち上がっていた。日本観光株式会社は父一人の会社であったが、康楽寺を将来建設する為その信者として百数十名に名義株を与えていた。実質の所有者は父一人であった。この様な株式構成であるから、日本タイプライター株式会社は日本観光株式会社の子会社であった。日本タイプライターの株主として七尾造機株式会社がある。昭和20年4月三菱重工業の七尾造船所として七尾造機株式会社がなるのである。この時は日本の敗戦がまじかであり、日本の復興に造船は必要であったが、石川県の地方として将来性は見えていた。そこで父は戦後を考えて、鉄道の枕木の鋼製の製品化を考え研究させていたのである。父の会社七尾造機株式会社を工場財団として、三菱重工業に賃貸した。案の定戦後は船舶の受注は無くなり、七尾造機株式会社の施設でピーエスコンクリートの研究が始められ、セメントの中にピアノ線を入れたピーエス・コンクリートが完成したのである。このピーエス・コンクリートは父の生涯の祈願であった康楽寺本殿の施工にも大変有用な資材であった。 康楽寺は白雲楼の上の小高い山を開き、谷を埋めビルマ式パゴダを建設、その周りには池を掘り、康楽寺正門から橋を渡って本堂に行けるように設計されている。その建築にはどうしてもピーエス・コンクリートが必要であった。従来の単に鋼製では出来ない細かなしかも頑丈な建物、橋梁、水道の橋等に利用できた。しかも戦後不足していた鉄鋼を補いあまりあるものであった。この工業権を含めた工場施設を提供していたが父の会社七尾造機株式会社である。これにより全国にピーエス・コンクリートの会社が出来たのである。その第一号が株式会社ピーエス三菱である。プログの写真は七尾造機株式会社のピーエス・コンクリートの工場施設である。