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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

康楽寺本殿敷地が江戸村(百万石文化園)に横領された経緯(3)

2005年06月23日 08時31分36秒 | 金澤市

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

平成6年ワ第184号(金澤地裁)原告株式会社百万石文化園,被告康楽寺(金澤市湯涌町へ19番地) となているが、被告宗教法人をすべきところでるが、法人となると、原告の百万石文化園の 代表取締役が桜井能唯で,宗教法人の代表取締役が同じく桜井能唯であるので、当然この訴訟は 成立しないものとなるので、宗教法人をはずして、いかにも一戸の寺のように見せかけてある。 原告の準備書面の中で、父が終戦後A級戦犯に指定され、・・・その建物土地を康楽寺に寄付し 康楽寺の仮殿として仏舎利を安置したものである。として康楽寺が戦後移築されたかの印象を あたえている。また建物の所在地は金澤市湯涌町へ32番1及び33番3となているが、 登記簿上では金澤市湯涌町へ19番地ト27番地となっているとして本ブログの図面を提出 したのである。 さきのブログで説明した様に公図を勝手に偽造して、土地と土地の繋がりが全く判らなくなっている。 従って昭和51年の東京地裁で父の戸籍上の妻子を相手とした訴状の証拠書類として提出された 康楽寺の本殿計画の変更の書面の、康楽寺の所在及び付近の地番の繋がりがの図面と全く違っているのが明見て見て取れる。 本月の16日のブログ参照 また康楽寺の建物の形も5月11日のブログの写真からも判るように、今日のブログの写真の赤い 建物とは全く違っている。 もし桜井能唯の言う様に康楽寺の仮の建物が登記してあれば、昭和51年の父の戸籍上の妻子を 相手どった名義書換訴訟で康楽寺の仮殿も宗教法人の建物に登記したであろう。 平成6年の金澤地裁のこの裁判は当然必要ではなかったのである。 桜井能唯が江戸村を金澤市に売却するため、康楽寺の建物が邪魔になったのである。 ところが康楽寺の仮殿は登記がなされてなかった。 ところが桜井能唯は康楽寺の建物の登記図面があるとしてその所在地は湯涌町ト27、及びへ19番地にあるとして建物図面を提出している。 その建物登記月日は昭和22年3月19日となっており、父がA級戦犯容疑で鎌倉の別邸に 軟禁されていたころである。 これは原告である桜井能唯が父が康楽寺を戦後移築したことを称するたために提出した。 が実際には本ブログの5月16日のブログの写真で判るように、康楽寺の仮殿の法要には私のみ が出席しており、この時は既に仮殿の建物が出来ていたのである。 このことは父の経営していた北国毎日新聞でも明らかである。 従って桜井能唯が康楽寺の建物や敷地の図面を偽造したものである。 康楽寺の建物は登記しなくても良い他の法律的理由があったのである。 この訴訟は弁谷貞造と桜井能唯が示し合わせた、組織的犯罪にあたる。 このことは私が金澤国立第一病院で偽医師から,鼻のの手術の際、頭の脳天を頭の内側より強打 せられた時より始まっている。 桜井能唯は私が頭の脳天を叩かれるとき、金澤国立病院の院長で私の鼻の手術をするはずの 種村医師を白雲楼で接待しており、その偽医師が一人で私の手術を行い私の脳天を強打して 頭を破壊したのである。 この様に各人が各立場で、父の遺言に背いて事を行なってきたのである。 本ブログ写真の赤く囲った建物の左側に建物が二つあるが、この建物がさきのブログで説明した松下家、山川家の建物であり、昭和41年の登記当初は金澤市湯涌町へ19番地となっていたが、昭和63年になって湯涌町32番地2とその所在の登記を変更した経緯を説明してある。


石川県が市民に開放している医王山スポーツセンター,ギゴスキー場は、・・・

2005年06月15日 09時39分24秒 | 金澤市

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

石川県が市民に開放している医王山スポーツセンター、ギゴ山スキー場は父が大東亜寺建立の為買収したものである。 父が昭和17年4月ビルマに派遣され、ビルマの高僧ツレトア大僧正から仏舎利を寄贈されたおり 日本に残した老母のため、一寺を建立することにした。 当初は医王山一体を大東亜寺の聖地として開発、同地に当初仏舎利を安置する予定で、大菱池から 付近一帯を買収した。 現在金澤市民に開放されている医王スポーツセンターや、ギゴ山スキー場を含む広大なものであったが、その後大東亜寺が白雲楼を含む高尾山50万坪に変更となったのである。 もともと父は白雲楼の上に遊園地やスキー場を作る事にしていたが、この遊園地やスキー場は 医王山一帯の買収したところに建設の計画を変えたのである。 父の諸会社の役員達は父の遺産を横領する事のみを考え、康楽寺の本殿の建設はおろかその敷地 さえ金澤市に違法にも無効な売買契約して金を自分達の懐に入れ、そ知らぬ顔をしている。 一方医王山一帯は彼等は県に管理を委託、我関せずの態度をとり続けている。 こういった膨大な土地を買収管理するには、彼らには出来なかったといううより、父がこういった土地を残したことを知られたくなかったのである。 特に父が自分の後継人に指定していた私に対しては、何事を知らせず分からせないように仕向けていた。 それどころか私の頭を鼻の手術を利用して破壊、父から依頼されていた事を何一つ実行する事 なく、会社を倒産させる事に専念してきたのである。 またこれだけの膨大な不動産を管理する能力もないので、父は西武不動産やコクド、西武鉄道に その管理を委託していたのである。 堤康次郎氏は私の頭の破壊に関与していたかどうかは判らないが、少なくとも父との約束にはソッポを向いていたことは事実である。 今弁谷貞造や桜井能唯は父の残したこれらの土地を白雲楼の借財と帳消しにしようと、政治的に暗躍している。 この地図の写真は医王山の大菱池を中心とする医王山スポーツセンター、ギゴ山スキー場一帯を 示してる。


康楽寺の土地(江戸村)を金沢市に売却したのは無効である。

2005年06月13日 14時09分38秒 | 金澤市

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

康楽寺の土地は私の父の名義となっており、白雲楼を含めた50万坪の土地に康楽寺の本殿を建てるため、麻布の土地等自分の持ち株(日本観光及び日本タイプ)を寄付した。桜井能唯等が鶴見総持寺等とくんで、父の個人の寺を宗教法人として昭和28年登記をした。私が昭和27年金澤の第一国立病院で鼻の手術を受けた際、脳天を強打した飯田高校の国語の先生であった偽医師に頭を破壊されたときと時を同じくしている。その前に弁谷ハシが私に睡眠薬をしこたま飲ませて、毎夜性的虐待を繰り返した事は述べた。この時吉田某が裁判認知を受けこれで準備が整ったのである・弁谷栄とハシが康楽寺本殿計画が無かったこととして文章を偽造して、宗教法人となることに申請した。昭和41年佐藤内閣の時、文化庁が出来初代長官が今日出海氏だったのを幸い、父の康楽寺の本殿計画がなかったこととし、江戸村の建設が始まるのである。康楽寺の住所は金沢市湯涌町へ19番地である。しかしこの場所は本殿が建ち本尊である仏舎利が入る場所である。この場所は写真の石塔があるところで、仮殿の入り口であることを示すものである。康楽寺の本殿が建つ場所を示している。現在の康楽寺の仮殿のあるところは湯涌町へ32番地から33番地にかけて建てられている。宗教法人康楽寺の所在地は湯涌町へ19番地であって、湯涌町へ32番地ではない。ここに宗教法人康楽寺の登記上の間違いがり、宗教法人康楽寺は法的に存在しないのである。日本観光と宗教法人康楽寺との契約で江戸村が出来、それを金沢市に売却してもこの契約は無効である。なぜなら宗教法人康楽寺は法的に存在しないからである。この写真の石塔がそれを証明している。この石塔の場所が湯涌町へ19番地である。即ちここまでが康楽寺の敷地である事を示す標識である。この標識は白雲楼から康楽寺に行く道通りと康楽寺の敷地の境に立っている。この石塔は日本観光が倒産したご私が現地で撮ったものであるが、現在では撤去されている。日本観光が倒産して桜井能唯は父が康楽寺の本殿の敷地としていた土地を、全て金沢市に売却した。日本観光の資金を流用して江戸村を建て、父の一人会社の株式が多数の名義株になっていることを幸いとして倍額無償増資をし、日本タイプに第三者割り当てを行い、日本タイプがキャノンに身売りする際にその株式を自分のものとし、父の康楽寺の本殿の敷地を江戸村を経営する百万石分化園と称する自分の会社名義に変更して金沢市に売却したのである。康楽寺の仮殿は父個人のものであり登記がないので、父名義の康楽寺の敷地は戸籍上の妻子を相手に昭和51年に名義書換の訴訟を東京地裁に起し、宗教法人名義にし自分の会社名義にしたが康楽寺の建物まで名義変更が出来ず平成6年の康楽寺仮殿の建物収去土地明け渡しの訴訟を金澤地裁に提起した。しかし康楽寺の建物の権利書や図面がなく、土地は自分の物にしたが、建物まではどうねもならずこの訴訟に及んだものである。この図式は白雲楼や起雲閣が登記が出来ないのに、登記違反をして抵当権を設定、倒産させなければならなくして、司法の目を潜りぬけようとしているのと同じである。またこの大東亜寺仮殿入り口を示す写真の標識である石塔は、大東亜寺即ち康楽寺本殿の敷地の境界線えお示すののであり、この標識を取り外した者が金沢市であるとしたら、桜井能唯と金沢市が組んで悪事を働いたも同然である。